亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

和歌の道は花鳥風月から入るべし

12.23.2016 · Posted in 和歌, 詠歌

根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。

春の朝うぐひすの声は聞かねども根岸の里はのどかなりけり

人の歌を添削するというのは難しいものだ。 私なら、

うぐひすのはつねはいまだ聞かねども根岸の里に春はきにけり

とでも詠むだろうか。 特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。

「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、 逆に扱いに困るのだが、 実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。

上野山鳥はなけどもうぐひすの声はいまだにとどかざりけり

わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、 「鳴く」は「すだく」として、

ももちどりうへのの山にすだけども いまだまじらぬうぐひすのこゑ

とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。

花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。 今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。 いきなり時事問題を扱ったり。 恋人と逢った別れたと。 あれは私は好きではない。 俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。 でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。

でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。 使い古された単語ではなく、言い回しではなく、 写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。 目の前の光景をそのまま切り取って。

それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。 まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。

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10.23.2016 · Posted in 和歌

湯原王贈娘子歌二首 志貴皇子之子也

04-0631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者

うはへなき ものかもひとは かくばかり とほきいへぢを かへさくもへば

あるいは、

うはべ無き ものかも妹は かくばかり 遠き家路を 還さく思へば

あいそのない人だな、君は。私にこんなに遠い家路を帰らせようと思うなんて。

04-0632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責

めにはみて てにはとらえぬ つきのうちの かつらのごとき いもをいかにせむ

伊勢物語73

昔、そこにはありと聞けど消息をだにいふべくもあらぬ女にあたりを思ひける、

目には見て 手にはとられぬ 月のうちの 桂のごとき 君にぞありける

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在原元方

10.20.2016 · Posted in 和歌

だんだん見えてきた。

古今和歌集編纂の主役は、業平・棟梁・元方の在原氏三代と紀貫之。

伊勢物語は業平・紀有常コンビが中心になってできあがったもの。 古今集は元方・貫之。 棟梁は中継ぎのようなもの。 棟梁と貫之は寛平御時后宮歌合(宇多天皇の母班子女王主催の歌合)で知り合った。

有常と貫之は同じ紀氏だが、家柄は若干遠い(紀有常の祖父・勝長は、貫之の祖父のさらに祖父。 勝長-名虎-有常、勝長-興道-本道-望行-貫之。なお、本道-有友-友則)。 血筋が一本通っているのが在原氏。 貫之が元方に接近していろいろ昔のことを聞き出して伊勢物語の祖型を作った。 元方はほわっとした歌を詠む人だよな。

それで、伊勢物語自体は非常にもやっとしたもので、 わけがわかってない。 紀貫之が素稿を書いたのは間違いないと思うが、 それを後撰集や拾遺集時代のもやっとした連中がかなりリライトしている、というあたりが真相だろう。

在原元方は生没年不明だが、おそらく貫之とだいたい同じなのだろう。 藤原国経の養子になっているのは、元方の父棟梁がそもそも金が無いのと、国経が棟梁の娘を妻としたからだ。

国経は基経や高子の異母兄妹にあたるわけである。 国経や基経は高子のもとに忍んでくる業平の番人になっていたことになっている。 国経は当事者だし、棟梁や元方も事情を知らなかったはずがない。 だがどう考えても高子の話は変だ。

古今集に出て来る当代歌人の中で当時一番偉かったのは宇多上皇だけど、彼はなぜか古今集には一首も載せてない。 いくつか可能性があって、宇多上皇の歌は載っているのだが読み人知らずになっている、という説(自説)。 宇多上皇は元方と貫之をたてて自分は表にでなかったという説(これも自説)。

国経にしても時平にしても、摂家ではあるが、宇多上皇の時代にはそれほど権勢はなかった。 少なくとも国経と時平は歌人と言えるような人物ではなかった。 そうすると一番偉いのは元方だろう。 だから彼の歌が巻頭に出て来る。

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伊勢物語の真相2

10.15.2016 · Posted in 和歌

66、67、68 謎

69、70、71、72 例の伊勢斎宮の話。

ちはやぶる 神のいがきも 越えぬべし 大宮人の見まくほしさに

恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

これはもともと万葉集11-2663

千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無

ちはやぶる かみのいがきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

73、74 謎

75 これは有常が妻を任地の伊勢に連れて行こうとした話だろう。 「見る」と「逢ふ」が区別されているのだが、「見る」とは「文を見る」の意味だろう。

76 これの謎解きは『古今和歌集の真相』に書いた通り。

77、78 文徳天皇、女御・多賀幾子、藤原常行、在原業平の話。

79 貞数親王の話。 父は清和天皇、母は在原行平の娘・文子。

80

むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。

在原氏と藤原氏のたとえだというのだが、それはどうだろうか。

81 源融の話

82、83 惟喬親王、在原業平、紀有常の話

84 長岡

85 出家後の惟喬親王

86 有常と妻の話か?

87

津の国莵原の郡芦屋の里

阿保親王の領地であるという。

88

95 藤原高子に仕える男女の話。

97 藤原基経

98 藤原良房

99 業平

101 行平

102 尼となった斎宮の宮とは誰だろうか。晏子か恬子だろうか。

103 仁明天皇に仕えた男。850年までの話になる。

106 竜田川。渚の院、業平。

107 藤原敏行

114 光孝天皇。伊勢物語の中では比較的新しい。

115、116 陸奥の話

125

むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

後付けな感じがするが『古今集』に採られているので古い歌なのだろう。 業平かどうかは疑わしい。

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伊勢物語の真相

10.15.2016 · Posted in 和歌

『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。

『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。

それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。 紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。 この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、 のちに一つに合体してしまい、 さらに似たようなエピソードも追加されて、 主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。

奈良や大和の話が多いのも気になる。 平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。 京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。

1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。 高子入内866年より前。 1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。

7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。

8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。

9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。 12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。

14、15段。

陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。

下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。

16段。これはまさしく有常とその妻の話である。 時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。

17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。 26段は高子の話か。 断片的なエピソードが集められた感じだ。

田舎わたらひ

むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、

子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。 ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。 業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。 奈良ではなく長岡京かもしれない。

38段。これも明白に有常の話。

39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。

40段。謎。

41段。

武蔵野の心なるべし

とあるから、有常の話か。

42 謎。

43 賀陽親王の話。 賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、 有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。

44 有常の馬の餞の話か。

45 謎。

46 地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。

47 謎。

48 これも有常の馬の餞の話か。

49 謎だが、有常の話であるとすれば、 妹とは、仁明天皇更衣の種子、 文徳天皇更衣の静子かもしれない。 妹に

聞こえけり

とあるのが暗示している。

50、・・・、59 謎。

60、61。 有常が肥後権守となったときの話か。

62 謎。

63 在五中将、つまり業平の話。

64 謎。

65 非常に興味深い話だ。 ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。 清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。 高子入内後の話としてもよいが、それだと

おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり

皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。 だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。 そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、 業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。 棟梁は有常の娘の子である。

清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。

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十一日の月

10.14.2016 · Posted in 和歌

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。 目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。 十六日の月は「いざよひ」、 十七日の月は「たちまち」、 十八日の月は「ゐまち」、 十九日の月は「ねまち」、 二十日の月は「ふけまち」、 つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。 月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。 『伊勢物語』82段「渚の院」

・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。

飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ

親王にかはり奉りて、紀有常、

おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、 夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、 もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

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『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

10.14.2016 · Posted in 和歌

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。 紀貫之である可能性もある。 貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、 彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。 藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。 文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。 これゆえに『伊勢物語』というのではないか。 権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。 69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。 「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、 負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。 この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。 この年の伊勢斎宮は晏子内親王。 文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。 惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、 なんか違う気がする。 業平との年の差は20歳くらいある。 有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。 恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると 「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、 その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。 普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。 だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。 そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、 相模の国府は寒川辺りだ。 武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。 また彼が愛妻家であったことも確かだろう。 彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。 藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。 文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。 高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。 業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。 恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。 ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、 代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、 有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。 文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。 紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。 文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。 惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、 おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。 幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

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宣長が養子縁組みして離縁した件

10.08.2016 · Posted in 和歌, 宗教, 歴史

神社は氏子、寺は檀家という。 しかし伊勢神宮では檀家という。 この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。 神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。

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新撰和歌2

05.20.2016 · Posted in 新撰和歌

「新撰和歌」みてるとけっこうわけのわからない歌とか、あまり面白くない歌も含まれている。 わけのわからない歌を「古今集」などで確かめてみると、 貫之本人のせいか途中で写した人のせいかは知らないが、間違っているものも多い。

「古今集」に比べれば「新撰和歌」のほうが雑な印象だが、 そりゃまあ、「古今集」はいろんな人がきちんと校正した結果が今日に残っているわけだから、 それにくらべて貫之の私撰集のほうにあらがあるのは仕方がないのかもしれない。

で、「本朝文粋」が藤原明衡によって後冷泉天皇の時代に成立していたのは間違いないことだし、 その中に紀淑望による「古今和歌序」が当初から収められていたのもうたがいようがない。 でおそらくこれはもともと「序」として書かれたのではなくて、後で「本朝文粋」の「序」の章にまとめられたのであろうということがうかがえる。 そして「序」は「詩序」と「和歌序」に分かれており、 「詩序」には一から四がある。 和歌序は

  • 古今
  • 新撰
  • 奉賀村上天皇四十御筭
  • 中宮御產百日
  • 女一宮御著袴翌日宴
  • 左丞相花亭遊宴
  • 賀玄宗法師八十之齡
  • 讚法華經廿八品
  • 春日野遊
  • 泛大井河各言所懷
  • 泛大井河詠紅葉芦花

となっており、みな漢文である。 歌合の序はもともと仮名で書かれたものもあって、仮名序というものがもともとなかったわけではない。

古今仮名序の初出は「元永本古今和歌集」であり、白河院の頃に源俊頼が作ったと考えてよい。 そしてこの仮名序も、おそらくは俊頼が真名序を適当に和訳したものだ。 俊頼は確かに和歌は優れているが「俊頼髄脳」などみると歌論はさんざんであって、「古今仮名序」の支離滅裂な文章と良く似ている。

それにくらべて古今の真名序は内容はともかくとして、簡潔で理路整然としている。 おかしなことをくどくど書いたり、脱線したりしてない。 貫之の新撰和歌序にしても、まあ内容や簡潔さというものはともかくとして、まっとうな文章であって、俊頼髄脳や古今仮名序のような悪文ではない。 そもそも貫之は「土佐日記」のような見事な名文を書けるひとなわけだから、 それほどの人が「古今仮名序」のような頭のおかしい文章を書くはずがない。

それで私としてはますます古今集仮名序は源俊頼がでっちあげたものであろうという確信を深めた。 古今集仮名序を、貫之が書いた、仮名文の歌論の先駆などとして持ち上げるのは大問題だ。

私としてはさらにすすめて、「竹取物語」や「伊勢物語」も貫之が書いたことを立証したいが、こちらはまだ手つかずだ。 だが文体を「土佐日記」と比較すれば良いだけだから、 貫之著かどうかを突き止めること自体は(要する手間ひまはともかくとして)それほど難しくはないだろう。

それでまあ、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、

内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
素性
かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

内侍のかみ、つまり内侍の長官の尚侍は、ここでは藤原満子のこと、その兄の藤原定国が右大将でその四十の賀、という意味。 つまり、新春に若菜を摘んで献上するというのは主君の長寿を祈念する祝賀行事であった。 ここでは素性が藤原定国を祝っている。 単に春の七草を食べれば寿命が延びると信じられていただけではない。 ということは、

仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた
君がため 春の野に出でて わかなつむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは、光孝天皇が即位する前、時康親王であったときに、父の仁明天皇か兄の文徳天皇に奉った歌ではなかったか。 年下の清和天皇、陽成天皇にささげた歌である可能性は低いだろう。

また、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、『後撰集』読み人知らず

ふる雪は 消えてもしばし とまらなむ 花ももみぢも 枝になきころ

定家はこれを本歌取りして

みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

を詠んだのは間違いなかろう。 もちろん「秋の夕暮れ」は清少納言「枕草子」の影響だし、 『源氏物語』第十三帖「明石」

いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

の影響も受けているのである。 ただ単に禅的ダダイズムの歌ではなくて、どちらかといえば平安王朝の雰囲気をコラージュした作品であったと言うことができよう。

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新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (2/2)

05.18.2016 · Posted in 新撰和歌

281 おもふどち まとゐせるよの からにしき たたまくをしき ものにざりける

282 人はいさ 我はなき名の をしければ むかしもいまも しらずとをいはむ

283 わが身から うき名のかはと ながれつつ 人のためさへ かなしかるらむ

284 あまぐもの よそにも人の なりゆくか さすがにめには 見ゆるものから

異本歌、いづくにか世をばいとはむ世中に老をいとはぬ人しなければ

285 いづくにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも まどふべらなれ

286 月夜には こぬ人またる かきくもり あめもふらなむ わびつつもねむ

287 おそくいづる 月にもあるかな 足引の 山のあなたも をしむべらなり

288 露だにも なからましかば 秋の夜を たれとおきゐて 人をまたまし

289 ながれても なほ世の中を みよしのの 滝の白玉 いかでひろはむ

290 いまはとて かれなむ人を いかがせむ あかずちりぬる 花とこそ見め

291 ひかりなき たにには春も よそなれば さきてとくちる もの思ひもなし

292 色見えで うつろふ物は 世のなかの 人の心の 花にぞ有りける

293 あまのすむ さとのしるべに あらなくに うら見むとのみ 人のいふらむ

294 いろもなき 心を人に そめしかば うつろはむとは おもはざりしを

295 ふる里は みしごともあらず をののえの くちしところぞ こひしかりける

296 ありそ海の はまのまさごと たのめしは わするることの かずにぞ有りける

297 すみよしの きしのひめ松 ひとならば いく代かへしと とはましものを

298 ゆきかへり ちどりなくなり はまゆふの 心へだてて おもふものかは

299 すみよしと あまはいふとも ながゐすな 人わすれぐさ おふといふなり

300 おもひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを

301 もののふの やそうぢ川の あじろぎに ただよふなみの ゆくへしらずも

302 わすらるる 身を宇治ばしの 中たえて こなたかなたに 人もかよはず

303 いまぞしる くるしきものと 人またむ さとをばかれず とふべかりけり

304 わすれ草 なにをかたねと おもひしを つれなき人の 心なりけり

305 おほあらきの もりのしたくさ おいぬれば こまもすさめず かる人もなし

306 あきの田の いねといふとも かけなくに ををしとなどか 人のいふらむ

307 うつせみの よにしもすまじ 霞たつ みやまのかげに 夜はつくしてむ

308 いそのかみ ふる野の道も こひしきを しみづくみには まづもかへらむ

309 神無月 しぐれふりおける ならのはの なにおふみやの ふることぞこれ

310 またばなほ よりつかねども 玉のをの たえてたえては くるしかりけり

311 ながれくる たきのしら玉 よわからし ぬけどみだれて おつる白玉

312 世の中に たえていつはり なかりせば たのみぬべくも 見ゆるたまづさ

313 たがために ひきてさらせる いとなれば 夜をへてみれど しる人もなき

314 いまさらに とふべき人も おもほえず やへむぐらして かどさせりいはむ

315 わくらばに とふ人あらば すまのうらに もしほたれつつ わぶとこたへよ

316 我が宿は みわのやまもと 恋しくは とぶらひきませ すぎたてるかど

317 うれしきを なににつつまむ から衣 たもとゆたかに たたましものを

318 秋くれば 野にも山にも ひとくだつ たつとぬるとや 人の恋しき

319 わがせこめ きませりけりな うくやどの 草もなびけり 露もおちたり

320 おくしもに ねさへかれにし 玉かづら いつくらむとか われはたのまむ

321 山のはに いさよふ月を とどめおきて いくよみばかは あく時のあらむ

322 我がやどの 一むらすすき かりかはむ きみがてなれの こまもこぬかな

323 あさなけに 世のうきことを しのぶとて ながめしままに としをへにける

324 あはれてふ ことにしるしは なけれども いはではえこそ あらぬものなれ

325 世の中は うけくにあきの おく山の この葉にふれる 雪やけなまし

326 あさぢふの をののしのはら しのぶとも 人しるらめや いふひとなしに

327 やまびこの おとづれじとぞ 今は思ふ われかひとかと たどらるる世に

328 わびはつる ときさへものの かなしきは いづれをしのぶ 心なるらむ

329 みはすてつ こころをだにも はふらさじ つひにはいかが なるとしるべく

330 伊勢のうみの あまのたくなは うちはへて くるしとのみや おもひわたらむ

331 かくしつつ よをやつくさむ 高砂の をのへにたてる まつならなくに

332 おもふとも こふともあはむ ものなれや ゆふてもたゆく とくるしたひも

333 あはれてふ ことのはごとに おく露は むかしをこふる なみだなりけり

334 思ひやる こころやゆきて 人しれず きみがしたひも ときわたるらむ

335 ありはてぬ いのちまつまの ほどばかり うきことしげく おもはずもがな

336 あひ見ぬも うきもわが身の から衣 思ひしらずも とくるひもかな

337 われしなば なげけまつ虫 うつ蝉の 世にへしときの ともとしのばむ

338 おもひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしきものを

339 わすられむ ときしのべとぞ 浜ち鳥 ゆくへもしらぬ あとをとどむる

340 みちしらば つみにもゆかむ すみの江の きしにおふといふ 恋わすれ草

341 ほのぼのと あかしのうらの 朝ぎりに 島がくれゆく 船をしぞ思ふ

342 いはのうへに たてる小松の 名ををしみ ことにはいはず こひこそわたれ

343 あふさかの あらしのかぜの さむければ ゆくへもしらず わびつつぞゆく

344 あはれてふ ことこそうけれ 世の中に おもひはなれぬ ほだしなりけり

345 足引の 山のあなたに いへもがな 世のうきときの かくれがにせむ

346 こひこひて まくらさだめむ かたもなし いかにねし夜か 夢にみえけむ

347 みやこ人 いかがととはば やまたかみ はれぬ思ひに わぶとこたへよ

348 つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬ目の なみだなりけり

349 ぬしやたれ とへどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれとおもはむ

350 こひしきも こころよりある ことなれば われよりほかに つらき人なし

351 あまのかる もにすむ虫の われからと ねをこそなかめ よをばうらみじ

352 ちはやぶる かものやしろの ゆふだすき ととひもきみを かけぬひぞなき

353 いまこそあれ われもむかしは をとこ山 さかゆくときも ありこしものを

354 ひさしくも なりにけるかな 住の江の 松はちとせの ものにぞ有りける

355 かぜのうへに ありかさだめぬ ちりのみは ゆくへもしらず なりぬべらなり

356 こひせじと みたらし川に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

357 若菜つむ かすがの野べは なになれや 吉のの山に まだゆきのふる

358 みわの山 いかにまちみむ としふとも たづぬる人も あらじと思へば

359 いく代へし いそべの松ぞ むかしより 立ちよるなみや かずをしるらむ

360 しら玉か なにぞと人の とひしより 露とこたへて きえなましものを

361 ながれては いもせのやまの なかにおつる よし野の滝の よしや世の中

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