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Archive for the ‘和歌’ Category

源頼光

05.15.2016 · Posted in 和歌

『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、 心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。 なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。 「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。 「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。 であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。 その女性は平惟仲の娘であるという。 頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか? それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも) 「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。 よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。 「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。 つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。 この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。 まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、 愛人に自分の子を産ませたり。 いろいろあったわけだな。 源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。 但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の歌として知られているのはこの三首だけらしい。 ばりばりの武士ながら、なかなかの歌の使い手ではないか? しかも武士の中でも最初期の歌人だ。

初期の武士の歌人はこの頼光。頼光の子の頼家。 頼光の孫(頼国の子)の頼綱、頼実、師光。 頼綱の子の仲政。 仲政の子の頼政。 だから、頼光から頼政までは歌人の家系だということになる。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

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後三条院御製

05.15.2016 · Posted in 和歌

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
後三条院御製
まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。 まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。 賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。 いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。 だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。 馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。 それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。 その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。 菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
後三条院御製
すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、 その帰りに船上で詠んだ歌であるという。 譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、 その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。 「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、 神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
後三条院御製
あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。 七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、 藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、 秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、 とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、 それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

後三条天皇

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うけらが花

05.07.2016 · Posted in 和歌

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

  • 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
  • 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、 なぜ「うけら」? 虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ

あるいは

我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを

または

安齊可潟潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

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ますかがみ

04.18.2016 · Posted in 和歌

増鏡を頭から読み始めたのだが、

見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 ゆふべは秋と なにおもひけむ

これだが、 水無瀬離宮を建てた記念に、その障子絵にふさわしい歌を、何ヶ月も推敲してこしらえたもの、 典型的な屏風歌であって、当座の実景を詠んだのでないのは間違いあるまい。 すべて屏風歌というものは、実景ではない。 当座に詠んだ歌をのちに屏風歌に採用した、という例は私の知る限り無い。 つまり、屏風歌、障子歌というのは、新築祝いにあらかじめ発注される歌であって、 建てた後に詠んだり、すでにできた歌を採用するということは、 原則なかったということだと思う。ただし小倉色紙に関しては少し事情が違う。 これには古歌が含まれていた。 もしかすると古歌を色紙に書いて障子に貼るというのは小倉色紙以来なのかもしれない。

この離宮は、久我通親が養女で土御門天皇の実母である在子の御所として寄進したもののように思われるが、 通親は1202年に死んでおり、 代わりに九条良経(というより後鳥羽院自身)が1205年に水無瀬離宮で歌合を主催して、 上の歌が成ったものである。 しかしその良経も翌年には死んでしまう。

さて、嵯峨中院には定家染筆の小倉色紙形が障子に貼られていた。 それは後嵯峨院の時代に亀山殿の一部となったはずだ。 亀山殿は西園寺実氏が後嵯峨院に寄進したもので間違いない(それ以外あり得ない)。 定家は増鏡の時代にはすでに非常に高名であり、増鏡の中でも何度も引用されているのにもかかわらず、 かつ後嵯峨院が何度も亀山殿で歌合を行っているのにもかかわらず、 増鏡にもとはずがたりにも嵯峨中院、小倉色紙の話は一切でてこない。 おそらく、小倉色紙は、嵯峨中院が亀山殿に建てかえられたときにすでに失われたのだろう。

増鏡が書かれたのは建武の新政当時のことと思われる。 が頓阿の時代にすでに知られていた小倉色紙とか、すでに存在していた小倉百人一首、百人秀歌などというものも、 増鏡には出てこない。 これまた推測だが、頓阿は、小倉色紙に関するなんらかの写本を入手し、 それをもとに彼が小倉色紙を再構成したのではないだろうか。 だからこの時代頓阿以外の歌人は小倉色紙を知らなかった。

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04.10.2016 · Posted in 和歌

昔の(公家の)女性はいきなり(高貴な)殿方から恋歌を詠みかけられたときのために、 即興で気の利いた歌を詠み返すために日々修業しなくてはならなかったと柳田国男が書いていたのだが、 いかにも桂園派の歌人の生き残りの彼が言いそうなことだが、 「とはずがたり」を読んでると実際そんな需要はあったんだろうなあと思えてくる。

普段の歌会で、題詠でつまらない、心のこもってない、そらぞらしい恋歌を量産するのは、 いざというときのためのウォーミングアップに過ぎない。 多くの女性はふつう真剣な恋愛やどろどろの不倫など無縁の一生を送る。 仮にどろどろな男女の恋歌のやりとりがあったとしても、 そういうものは他人には見せなかっただろうし、 また江戸中期以降はそういうこともかなり下火になっていたように思う。 細川幽斎や松永貞徳の頃の恋歌にはまだリアリティが残っていた。

毎日ジョギングしたり水泳したりするようなことが昔の人の(日常の)詠歌であり、 そういう訓練を日々欠かさず行う人のことを歌人と言った。 決して今の「ポエマー」のことを「歌人」と言ったのではない。 昔の女性は、ある意味、昼メロを見るだけでなく、恋歌を実作することによって、昼メロを仮想体験していたのかもしれない。

「とはずがたり」の頃の宮中というのは、後嵯峨院がいて、新院(後深草院)がいて、 天皇(亀山天皇、後深草院の実母弟)と皇太子(亀山天皇の皇子世仁、後の後宇多天皇)がいた。 本来なら後深草院の皇子熈仁(後の伏見天皇)が即位するか、皇太子になるべきであったが、 熈仁は洞院氏の子、世仁は西園寺氏の子。 洞院は西園寺の分家に当たるので、 世仁が皇位を継承するべきである、熈仁には皇位は継がせないという判断が当初はあったと思われる。 「とはずがたり」の女主人公は後深草院の女房になる(後深草院二条と呼ばれる)のだが、 後嵯峨院が崩御し、続いて父が死去すると、 後深草院と亀山院と西園寺の間でふらふらと翻弄される存在になる。

後深草院の女房になったのに西園寺実兼から求愛されて

知られじな 思ひ乱れて ゆふけぶり なびきもやらぬ 下の心は

などと歌を返し「こはなにごとぞと我ながら覚え侍りき」などと言ってみたり、 実兼から関係を迫られて

帰るさの たもとは知らず おもかげは 袖の涙に ありあけのそら

などと返歌を詠んで送ったりしている。 これらの歌だが、決して秀でた歌ではないものの(あなたのおもかげは私の袖の涙にあります、と有明の空をかけただじゃれ)、きちんと整っているし、 皇室を巻き込んだ、実際の不倫の際に詠まれた歌として見るとき、すごみがある (仮に、実兼の子が後深草の実子として即位してたらシャレにならなかった)。

これらの歌から見ても、 後深草院二条の意中の人は後深草院ではなくて実兼であることがわかるのである。 必然的に「とはずがたり」は鎌倉・室町期に宮中にご奉公にあがる娘たちが身の処し方、歌の詠み方の事例研究をするために必ず読まされる書となったし、 21代集の恋歌はその果てしない再生産だった。 そしてその雰囲気がずっと後の江戸期まで、 深窓の淑女達にも恋歌の訓練をさせることになったのだろう。

嵯峨中院は西園寺から後嵯峨院に寄進されて、 さらに亀山院に相続され、亀山殿と呼ばれるようになる (のちに尊氏が大覚寺統の菩提寺天龍寺とする)。 亀山殿はもともとは大宮院(西園寺姞子。後深草、亀山両院の生母)の御所であった。 亀山院と後深草院は別々の御所に住んでいて、時折り互いに行幸があり、宴があり、 勝負事があった、ということが、 「とはずがたり」には書かれていてこれまた面白い。

ところでウィキペディアには

後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。

とか

後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。

などと書かれているのだが、本気でこんなことを信じているのだろうか。 日本史というのはなんでこんなにいつまでたってもアホなのだろうか。 後嵯峨院の遺志、というか、西園寺の意志は、世仁親王を皇太子としたことで明白ではないか。 大宮院にとって後深草も亀山も我が子であるからどちらも同じに可愛いのに違いない。 どちらかを憎んでいたとか、どちらかが嫌われていたというようなことは(少なくとも「とはずがたり」の中では)感じられない。 同母兄弟どうし、両方即位させたのは、皇統を西園寺で固めるためだったのだが、後深草に西園寺の皇子が生まれず、 亀山に生まれたのだから、その皇子を即位させようとした。 この時代は関東申次西園寺絶対なのだからその線で判断すればよい。 「治天の君ガー」とかバカの一つ覚えで言うまでもない。 ウィキペディアは「治天厨」に汚染されていていらいらする。 たぶん吉川英治辺りが悪い。

それで後嵯峨院が崩御すると今度は後深草院が一院、本院となる。 本院は一応皇族の代表者なので、本院が自分の皇子を即位させたいと言えばなかなか反対は出来ない。 少なくとも西園寺は反論できないし、弟の新院(亀山院)もダメとは言えない。 戦時ならばともかく平時に北条氏も口出しはできない。 となると後嵯峨院が一応決めておいた、亀山・後宇多のラインはいったん棚上げになって、 後深草皇子の伏見が即位してしまう。 両統迭立の責任は誰かという問題では、西園寺が悪いとも、後深草が悪いともいえるが、 どちらもやむをえない理由はあった。 弟に譲位する例は今までなんどもあって、それがただちに悪いとも言えない。

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歌経標式

03.09.2016 · Posted in 和歌

歌経標式序考

臣濱成言。原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰天人弓懸心者也。 韻者所以異於風俗之言語、長於遊樂之精神者也。

【臣・藤原濱成が申し上げる。 そもそも歌は、鬼神の幽情を感じ、天人の恋心を慰めるものである。 韻は、風俗の言語と異なり、遊学の精神に長じたものである。】

「毛詩正義序」「動天地、感鬼神、莫近於詩」

故有龍女帰海天孫贈恋婦歌、味耜昇天會拙作称威之詠。 並尽雅妙之音韻之始也。

【それゆえに、豊玉毘売命が海に帰る際に、火遠理命は女を恋する歌を送った。】

赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり

沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに

短歌形式に整いすぎているので、おそらく古歌ではあるまい。

【阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神が天に昇るときの宴では、 その威を称える歌を詠んだ。】

あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる あな玉はや み谷ふたわたらす あぢしき高ひこねの神ぞ

【いずれも、雅妙の音韻を尽くした初めである。】

近代歌人雖長歌句、未知音韻。 含他悦懌猶無知病。 准之上古既無春花之儀、傳之來葉不見秋實之味。 無六體何能感慰天人之際者乎。 故建新例則抄韻曲、合為一巻名曰歌式。 蓋亦詠之者無罪、聞之者足以戒矣。

【最近の歌人は歌句に長じてはいるが、未だに音韻を知らない。 他のことばかり喜んで、歌の「病」を知らない。 これを上古の風になぞらえているが、すでに春の花はなく、 これを後世に伝えようとしながら、秋実の味が無い。 六体が無くて、天人を慰めるということがどういうことか、何を感じることができようか。 そのために新例を建てて、韻曲を】

伏惟、聖朝端歴六天、奉樂無窮。 榮比四輪御賞難極。 臣含恩遇奉侍聖明、 欲以撮壌導滑之情而有加於賞樂焉。 若蒙収採、幸傳當代者、可久可大之功、並天地之眞観、日用日新之明、將金鏡之高懸。 臣濱成誠惇誠恐、頓首謹言。

寳亀三年五月七日参議兼刑部省卿守從四位上勲四等藤原朝臣濱成上

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主有る詞(ぬしあることば)

02.25.2016 · Posted in 和歌

特定の個人が創始した秀句で、歌に詠み込むのを禁じられた句。

幽斎『聞書全集』

主有る詞とは

かすみかねたる(藤原家隆)

今日見れば 雲も桜に うづもれて かすみかねたる みよしのの山

うつるもくもる(源具親)

なにはがた かすまぬ浪も かすむなり うつるもくもる おぼろ月夜に

はなのやどかせ(藤原家隆)

思ふどち そことも知らず 行きくれぬ 花の宿貸せ 野辺のうぐひす

月にあまぎる(二条院讃岐)

山高み 峰のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空

あらしぞかすむ(後鳥羽院宮内卿)

逢坂や こずゑの花を 吹くからに あらしぞかすむ 関の杉むら

かすみにおつる(寂蓮)

暮れて行く 春のみなとは 知らねども かすみに落つる 宇治の芝舟

むなしき枝に(九条良経)

よしの山 花のふるさと あと絶えて むなしき枝に 春風ぞ吹く

はなのつゆそふ(藤原俊成)

駒留めて なほ水かはむ 山吹の 花のつゆ添ふ 井出の玉川

はなの雪ちる(藤原俊成)

またや見む 交野の御野の 桜がり 花の雪散る 春のあけぼの

みだれてなびく(藤原元真)

あさみどり 乱れてなびく 青柳の 色にぞ春の 風も見えける

そらさへにほふ(藤原師通・後二条関白内大臣)

花盛り 春の山辺を 見渡せば 空さへにほふ 心ちこそすれ

なみにはなるる(藤原家隆)

かすみたつ 末の松山 ほのぼのと 浪に離るる 横雲の空

あやめぞかをる(九条良経)

うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

すずしくくもる(西行)

よられつる のもせの草の かげろひて 涼しくくもる 夕立の空

雨のゆふぐれ(九条良経)

うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

きのふはうすき(藤原定家)

小倉山 しぐるる頃の 朝なあさな きのふはうすき 四方のもみぢば

ぬるともをらむ(藤原家隆)

つゆしぐれ もる山かげの したもみぢ 濡るとも折らむ 秋のかたみに

ぬれてやひとり(藤原家隆)

したもみぢ かつ散る山の ゆふしぐれ 濡れてやひとり 鹿の鳴くらむ

かれなでしかの(六条知家)

あさぢ山 色変はり行く 秋風に 枯れなで鹿の 妻をこふらむ

をばななみよる(源俊頼)

うづら鳴く まのの入り江の 浜風に 尾花なみよる 秋の夕暮れ

露のそこなる(式子内親王)

あともなき 庭の浅茅に むすぼほれ 露の底なる 松虫の声

月やをじまの(藤原家隆)

秋の夜の 月やをじまの 天の原 明け方近き 沖の釣り舟

色なるなみに(源俊頼)

明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる浪に 月宿りけり

霧たちのぼる(寂蓮)

むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

わたればにごる(二条院讃岐)

散りかかる もみぢの色は 深けれど 渡ればにごる 山河の水

月にうつろふ(藤原家隆)

さえわたる 光を霜に まがへてや 月にうつろふ 白菊の花

わたらぬみづも(後鳥羽院宮内卿)

竜田山 嵐や峰に 弱るらむ 渡らぬ水も 錦絶えたり

こほりていづる

あらしにくもる

やよしぐれ

雪のゆふぐれ

月のかつらに

木がらしのかぜ

くもゐるみねの

われてもすゑに

みをこがらしの

袖さへなみの

ぬるとも袖の

われのみしりて

むすばぬ水に

ただあらましの

われのみたけぬ

きのふのくもの

すゑのしらくも

月もたびねの

なみにあらすな

右何れも主有る詞なれば、詠ずべからずと云々。

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日本歌学大系 別巻

02.24.2016 · Posted in 和歌

久曾神 昇 編纂

1

  • 『難後拾遺抄』源 経信/著
  • 『綺語抄』藤原仲実/著
  • 『和歌童蒙抄』『五代集歌枕』藤原範兼/著

2

  • 『袖中抄』顕昭/著
  • 『色葉和難集』
  • 『歌語索引』

3

  • 『万物部類倭歌抄』藤原 定家/著
  • 『八雲御抄』順徳天皇/著
  • 『和歌手習口伝』

4

  • 『万葉集時代難事』
  • 『柿本朝臣人麿勘文』
  • 『勅撰和歌作者目録』
  • 『古今集序注』
  • 『古今集注』
  • 『拾遺抄注』
  • 『後拾遺抄注』
  • 『詞華集注』
  • 『五代勅撰』
  • 『散木集注』顕昭/著

5

  • 『顕秘抄・六百番陳状』顕昭/著
  • 『顕注密勘抄』顕昭/著 定家/著
  • 『僻案抄』定家/著
  • 『後撰集正義』
  • 『堀河院百首聞書』

6

  • 『古六歌仙』
  • 『新撰和歌集』
  • 『金玉集』
  • 『深窓秘抄』
  • 『十五番歌合』
  • 『三十人撰』
  • 『三十六人撰・甲』
  • 『公任卿撰歌仙・乙』
  • 『佐竹本三十六歌仙・丙』
  • 『古三十六人歌合・丁』
  • 『古三十六人歌合・戊』
  • 『古三十六人歌合・己』
  • 『古三十六歌僊秘談・庚』
  • 『玄々集』
  • 『中古三十六人歌合』
  • 『後六々撰』
  • 『続歌仙三十六人撰』
  • 『中古歌仙』
  • 『新六家撰・甲』
  • 『新六歌仙・乙』
  • 『新六歌仙・丙』
  • 『新六歌仙・丁』
  • 『勅撰六歌仙・戊』
  • 『新六歌仙・別』
  • 『新続六歌仙・別』

7

  • 『和漢朗詠集』藤原 公任/編
  • 『新撰朗詠集』藤原 基俊/編
  • 『両朗詠集索引』
  • 『和歌一字抄』藤原 清輔/編
  • 『和歌題林抄』一条 兼良/編
  • 『歌林良材集』一条 兼良/編
  • 『続歌林良材集』下河辺 長流/編

8

  • 『拾花集』
  • 『私玉抄』
  • 『六花集』
  • 『和歌部類』
  • 『松緑集』尭慶/著
  • 『特殊技巧歌』日導/著

9

  • 『長歌言葉珠衣』小国 重年/著
  • 『長歌撰格』『短歌撰格』『文章撰格』橘 守部/著
  • 『古風三体考』田中 芳樹/著
  • 『歌体緊要考』大江 東平/著
  • 『長歌規則』源 知至/著

10

総合索引

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日本歌学大系

02.24.2016 · Posted in 和歌

佐佐木 信綱 編纂

1

  • 歌経標式真本』藤原 浜成/著
  • 『歌経標式抄本』藤原 浜成/著
  • 倭歌作式』喜撰/著
  • 『和歌式(孫姫式)』孫姫/著
  • 『石見女式』
  • 『新撰万葉集序』菅原 道真/著 源 当時/著
  • 『古今和歌集序』紀 貫之/著 紀 淑望/著
  • 『新撰和歌序』紀 貫之/著
  • 『和歌体十種』壬生 忠岑/著
  • 『和歌十体』源 道済/著
  • 『類聚証』藤原 実頼/著
  • 『新撰和歌髄脳』
  • 『新撰髄脳』『九品和歌』藤原 公任/著
  • 『能因歌枕略本』『能因歌枕広本』能因/著
  • 『隆源口伝』隆源/著
  • 『俊頼髄脳』源 俊頼/著
  • 『奥義抄』藤原 清輔/著
  • 『和歌童蒙抄巻第10』藤原 範兼/著

2

  • 『袋草紙2巻』『和歌初学抄』藤原 清輔/著
  • 『歌仙落書』
  • 『続歌仙落書』
  • 『贈定家卿文』西行/著
  • 『西行上人談抄』蓮阿/著
  • 『千載和歌集序』藤原 俊成/著
  • 『慈鎮和尚自歌合』
  • 『十禅師跋』『古来風体抄 ― 初撰本』『古来風体抄 ― 再撰本』藤原 俊成/著

3

  • 『後鳥羽天皇御口伝』後鳥羽天皇/著
  • 『八雲御抄巻1・2・6』順徳天皇/著
  • 『和歌色葉』上覚/著
  • 『三体和歌』
  • 『新古今和歌集序』藤原 良経/著 藤原 親経/著
  • 『無名抄』『瑩玉集』鴨 長明/著
  • 『近代秀歌』『詠歌大概『毎月抄』『秀歌大体』『百人秀歌』『小倉百人一首』『和歌秘抄』藤原 定家/著
  • 『先達物語』藤原 定家/ほか著
  • 『越部禅尼消息』俊成女/著
  • 『八雲口伝』藤原 為家/著
  • 『追加 ― 慶融法眼抄』慶融/著
  • 『夜の鶴』阿仏尼/著
  • 『竹園抄』藤原 為顕/著
  • 『水無瀬の玉藻』

4

  • 『和歌口伝』源承/著
  • 『秋風抄序』真観/著
  • 『簸河上』真観/著
  • 『野守鏡』源 有房/著
  • 『歌苑連署事書』
  • 『為兼卿和歌抄』京極 為兼/著
  • 『和歌庭訓』『和歌用意条々』『延慶両卿訴陳状』二条 為世/著
  • 『和歌大綱』
  • 『悦目抄』『和歌無底抄』藤原 基俊/著
  • 『和歌肝要』藤原 俊成/著
  • 『定家物語』『桐火桶』『愚秘抄』『三五記』『愚見抄』『定家十体』『未来記』『雨中吟』『和歌口伝抄』藤原 定家/著
  • 『玉伝集和歌最頂』
  • 『深秘九章』
  • 『阿古根浦口伝』

5

  • 『代集』
  • 『井蛙抄』頓阿/著
  • 『愚問賢注』二条 良基/著 頓阿/著
  • 『近来風林』二条 良基/著
  • 『耕雲口伝』耕雲/著
  • 『和歌所へ不審条々』『了俊 ― 子伝 ― 弁要抄』『落書露顕』『師説自見集』今川 了俊/著
  • 『徹書記物語(正徹物語)』正徹/著
  • 『清巌茶話』蜷川 新右衛門/著
  • 『冷泉家和歌秘々伝』
  • 『心敬私語』心敬/著
  • 『東野州聞書』東 常縁/著
  • 『兼載雑談』猪苗代 兼純/著
  • 『筆のまよひ』飛鳥井 雅親/著
  • 『かりねのすさみ』素純/著

6

  • 『初学一葉』三条西 実枝/著
  • 『聞書全集』細川 幽斎/著
  • 『和歌講談』冷泉 為満/著
  • 『耳底記』烏丸 光広/著
  • 『戴恩記』松永 貞徳/著
  • 『資慶卿口伝』『資慶卿消息』『資慶卿口授』烏丸 資慶/著
  • 『光雄卿口授』烏丸 光雄/著
  • 『渓雲問答』中院 通茂/著
  • 『初学考鑑』武者小路 実陰/著
  • 『詞林拾葉』似雲/著
  • 『和歌教訓十五個条』『内裏進上の一巻』『聴玉集』烏丸 光栄/著

7

  • 『林葉累塵集序』下河辺 長流/著
  • 『万葉代匠記〈初稿本〉惣釈〈抄〉』『万葉集代匠記〈精撰本〉惣釈〈抄〉』『河社〈抄〉』契冲/著
  • 『寛文五年文詞』『梨本集』戸田 茂睡/著
  • 『国家八論』荷田 在満/著
  • 『国歌八論余言』田安 宗武/著
  • 『国歌八論再論』荷田 在満/著
  • 『国家八論余言拾遺』『国歌論臆説』賀茂 真淵/著
  • 『臆説剰言』田安 宗武/著
  • 『再奉答金吾君書』賀茂 真淵/著
  • 『歌論』田安 宗武/著
  • 『国歌八論斥非』大菅 公圭/著
  • 『国歌八論斥非再評』藤原 維斉/著
  • 『国歌八論評』伴 蒿蹊/著
  • 『歌意考〈草稿本〉』『歌意考〈精撰本〉』『にひまなび』『古風小言』『県居歌道教訓』賀茂 真淵/著
  • 『あしわけ小船』『石上私淑言』本居 宣長/著
  • 『歌と詩のけぢめを言へる書』横井 千秋/著
  • 『百千鳥』丘岬 俊平/著

8

  • 『五級三差』富士谷 成章/著
  • 『五級三差弁』『【タ】南弁乃異則』『歌道非唯抄』『真言弁』『北辺髄脳』富士谷 御杖/著
  • 『真幸千蔭歌問答』『答小野勝義書』加藤 千蔭/著
  • 『贈稲掛大平書』村田 春海/著
  • 『答村田春海書』稲掛 大平/著
  • 『再贈稲掛大平書』『歌がたり』村田 春海/著
  • 『ふるの中道』『ふりわけ髪』小沢 蘆庵/著
  • 『新学異見』『古今和歌集正義総論』『桂園遺文』香川 景樹/著
  • 『大ぬさ』中川 自休/著
  • 『大ぬさ弁』丹羽 氏曄/著
  • 『歌学提要』内山 真弓/著
  • 『歌のしるべ』藤井 高尚/著
  • 『歌の大意』長野 義言/著
  • 『こそのちり』『ひとりごち』大隈 言道/著

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  • 『歌道大意』平田 篤胤/著
  • 『歌林一枝』中神 守節/著
  • 『言葉の直路』松田 直兄/著
  • 『八雲のしをり』間宮 永好/著
  • 『新学異見弁』業合 大枝/著
  • 『調の説』『調の直路』八田 知紀/著
  • 『古今集正義序注追考』『古今集正義総論補注』熊谷 直好/著
  • 『古今集正義総論補注論・同弁』八田 知紀/著 熊谷 直好/著
  • 『稲木抄』『垣内七草』『歌道大意』『園の池水』伴林 光平/著
  • 『翠園応答録』鈴木 重嶺/著

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総索引

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京極派の末裔2

02.09.2016 · Posted in 和歌

話を整理してみると、

鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。 ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。 宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。 正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。 異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。 ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、 二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、 つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、 二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。 二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、 冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。 その傾向は、 常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。 つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、 思いついたままを歌にしてみる。 ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、 その両方を楽しんでいた。 後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。 ある意味そうかもしれない。 宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。

そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。 松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。 人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。 松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。 このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。 正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。 京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。 たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。 そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、 正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、 堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。 彼は逃れようとした。 しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、 彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、 江戸より昔ではなく、 江戸初期に起きたことなのである。 江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、 そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。 頓阿の歌論は宗祇に負けず劣らずひどい。 そして彼らがよってたかって小倉色紙なるものを偽造したのだ。

幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。

ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、 後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、 宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。 この見立てはよい。

後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。 しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、 金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。 逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。 私にはそうは思えない。 なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。 しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、 彼らから京極為兼が生まれてきたのである。 また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。 九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。 そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。 為家は確かに生まれながらの「正風」である。 題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。 しかし定家はかならずしもそうではない。 為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。 定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、 やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。 たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。 こういうものを宣長は完全に無視している。

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