亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

新古今和歌集・岩波文庫復刻版

12.24.2009 · Posted in 和歌

これまた戦前の版。 後鳥羽上皇の意志によって編纂された勅撰和歌集。 後鳥羽上皇は本文中にただ「太上天皇」としか書かれてない。 注記もない。佐佐木信綱による解題を読めば後鳥羽上皇存命中にできたことはわかるので、 太上天皇が上皇を意味することを知っていれば、 後鳥羽上皇を差すのであろうということはわからんでもないが、 いかにもわかりにくい。 「上皇」とは「太上天皇」を略したものか。 当時としては上皇とは言わず、正式名称は太上天皇で、通称は院だったかと。 法皇という言い方も、してなかったようだ。

新井白石の読史余論には院政のことを「政出上皇」と書いているから、 少なくとも新井白石の時代には「上皇」という言い方はあった。 しかも、漢文用語だろう。

なるほど、上皇が何人もいるときは、一番最初になった人を「一院」または「一の院」「本院」、 一番後を「新院」、その間の人を「中院」または「中の院」と言っていたわけだな。 まあ、四人以上上皇がいることはなかったようだ。

新古今というのは、幽玄とか唯美とか公家階級のなぐさみものみたいなイメージで、 好きではなかったが、 後鳥羽上皇の激動の人生を知るにつけて、なんかもっと違うふうに読めてくるから不思議なもんだ。 なんか、こう非常に屈折した心理を感じるよね、後鳥羽上皇の歌を読んでいると。 式子内親王もそう。 抵抗なくすっと入ってきて、なんか心のどこかにひっかかってとれない感じよな。

高校教育というか、大学受験というか、この辺のところがまったく伝わって来なかったよな。 ていうか日本史を学ばないと結局新古今はわからんよな。 万葉集や古今集はその点、そのままさくっとわかる部分もあるかと。

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新葉和歌集・岩波文庫復刻版

12.24.2009 · Posted in 和歌

岩波文庫の新葉和歌集も買ってくる。 だいたい源氏物語とか平家物語などはいつでも買えるが、 こういうやつは復刻されて数年で絶版となるので、 今のうちに買っておかないと先々苦労することになる。 値段も七百円程度と特に懐も痛まない。

もちろん地方自治体の図書館など、いくところにいけば、日本文学全集とかそんなものの中に新葉和歌集も収録されているだろう。 しかし重い。携帯に不便。 日頃持ち歩いて愛読するにはやはり紙媒体の文庫本は重宝する。

岩佐正氏、解題に曰く、神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である、と。 まさにその通りだ。 新葉和歌集は戦前にはそれなりの評価がされていたのだろうが、戦後例によって軍国主義的だとして、無視されたのだろうと思う。 そもそも軍国主義的な(準)勅撰和歌集というのが、ちとすごすぎる。

ところが、カバーに書かれた解説が言うには「二条家の流れをくむ歌人、宗良親王撰の準勅撰和歌集」とか「四季や恋など伝統に従った技巧的な詠歌が多い」 とか、まったくピント外れなことを言っている。 大丈夫か岩波書店。 いったいどういうつもりで、この戦前の本を2008年になって復刻したのか、理解に苦しむ。

いったいに、皇族や貴族らが宮廷でのんべんだらりと詠んだ歌はたいていつまらないが、 配流されたり骨肉が誅殺されたり、逆境にあるときにはなかなかすばらしい歌を詠む。 すてきすぎます。

たとえば、式子内親王にしても、ただの宮廷歌人で藤原定家の弟子だというだけなら大したことはなかったろうが、 あの以仁王の同母の姉弟の関係にある。 その境遇があのようなすさまじい歌を詠ませたのであろう。 いやあ、すごすぎます。

昭和天皇の歌は、わかりやすすぎて困る。 それも、昭和五十年以降は特にくずれすぎ、軽すぎ。もはや五七調でも七五調でもなく、現代語をそのまま使っている。 外そうかと思ったが、わかりやすいのは和歌の初心者には入りやすいだろうし、 悠久の御製の歴史の流れを知るには、あっても良いかと思った。

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新葉和歌集

12.23.2009 · Posted in 和歌

南朝で編纂された新葉和歌集 がかなりおもしろい。 特に後村上天皇の歌が力が入っててすごくおもしろい。

高御座とばりかかげて橿原の宮の昔もしるき春かな

あはれ早や浪収まりて和歌の浦に磨ける玉を拾ふ世もがな

四つの海波も収まる徴しとて三つの宝を身にぞ伝ふる

南朝は、宮廷の貴族なども少なくて、 明治になってから正統とされたからそれまでにきちんと記録に残らなかったことも多いのだろう。 後醍醐天皇の皇子らの名前の読みが曖昧なのも、 親王でよくわらかない人が居るのもそのためなのかもしれん。

幕末や維新までくだってきたならともかく、天皇が、「橿原の宮」や「三種の神器」を和歌に詠むというのはかなり異色だ。 三つめの歌などは、明治天皇御製

四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ

を思わせる。 おそらく関連はあるのだろう。

今なら岩波文庫版 が新品で買えるようだ。 確保しておくか。

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六無斎

09.09.2009 · Posted in 和歌

林子平

親も無し妻無し子無し版木無し金も無けれど死にたくも無し

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04.19.2009 · Posted in 呑み, 和歌

いやあ。良い陽気だなあ。

もう何十回も繰り返してるはずだが、春ってのはなかなか良いもんだな。

一句思いついた。

酒飲めば千々にモノこそかなしけれ我が身ひとつの春にはあらねど

全然俳句じゃないですけど。

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あさか山

05.25.2008 · Posted in 和歌

あさか山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに

安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです

小学館の「日本古典文学全集」など

いや、なんか違うんじゃないかなこの現代語訳は。 井戸をのぞきこんだとき自分の姿が映って見えるほどに浅い井戸、 水鏡の代わりになるほどに浅い井戸、 そんなあさか山の井戸のように浅い心で私は思っているわけではないのだが、

と言っているのだと思うのだが。 そもそも井戸の水が澄んでいるのは当たり前だと思うが。 「澄んだ井戸の水のように浅い心」では意味がわからんだろ。

なんだかなあ。どうしてこう精神論的な解釈をしたがるのか。 もっと感覚的・映像的に考えれば良いだけだと思うが、 国文学者というのはそういう言語による視覚的表現にうといのではないかとしか思えない罠。 万葉時代の歌を新古今的幽玄な解釈をして失敗している典型の一つか。

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