亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

京極派の末裔

02.08.2016 · Posted in 和歌

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。 北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。 歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。 松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。 そうではなかったのだ。 為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。 それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。 為兼によって京極家は途絶えたが、 しばらく分家の冷泉家に伝わった。 例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。 為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。 了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。 正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。 心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。 この頃から連歌が流行しだす。 源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。 金葉集の頃だ。 しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、 長いものを作るようになった。 東常縁の弟子が宗祇。 宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。 そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。 保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、 反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。 たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。 宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、 二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、 京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。 しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。 小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。 我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。 宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。 これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。 幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。 今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。 そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。 しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。 理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。 しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、 のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、 或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。 勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。 そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、 国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。 保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。 そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、 その分岐点は明らかに定家だったのである。

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柿園

02.07.2016 · Posted in 和歌

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、 私にはいかにもあざとく見える。

心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。 こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、 景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。 江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。 歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。 加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、 やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。 つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、 宣長や大平とはまるで歌風が違う。

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詠歌と歌学

02.02.2016 · Posted in 和歌

歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり

歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顕昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ

宣長は、「うひやまふみ」で、詠歌と歌学と二つがあって、 歌学がよい人はだいたい歌を詠むのが下手で、歌学のない人のほうが歌はうまい。 しかし歌学の良い人は必ず歌が下手だというわけではない。 詠歌と歌学という二つのものそれぞれの性質(こころばへ)を心得ていれば、歌学が詠歌の妨げとなるはずはない。 良い歌が詠めないのはそのわきまえがないからだ。 しかし、歌学のほうはだいたいでよく、歌を詠むほうをこそ大切にするべきだ。 などと言っている。

これは宣長自身が戒めとして言っていることに違いない。 あるいは契沖や頓阿のことを言っているのだろう。 宣長は国学者であり、歌学者であった。古学を解き明らめることを得意とする人であった。 しかしなによりも歌人たることに憧れていたし、歌人であることに至上の価値を見出していた人だった、と言えないだろうか。

少なくとも詠歌よりも歌学のほうが、歌学よりも古学のほうが重要で、(古事記などの)古学に励みなさい、などというはずがない。

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宣長の初めての歌

02.01.2016 · Posted in 和歌

新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。 ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。 普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。

「来にけりな」であれば後鳥羽院

昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。 いずれも「秋来にけりな」の形。 いずれにしてもあまり事例は多くない。 「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。 「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。 初出は西行の

うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。 宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。 もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。 これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。 そうだなあ。私なら、もとを活かして

あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。 いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

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竜田川と神奈備の杜

01.20.2016 · Posted in 和歌

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。 古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。 その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、 柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す

竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ

題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる

読人不知 此歌右注人丸歌、他本同

たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。

業平の歌

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる

ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、

ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、 ぴったりくるのである。

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる

深養父

神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。 しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。 京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。 それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。 山崎はずばり地峡という意味である。 巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、 おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。 そして神奈備山はその川の上流であったろうし、 神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる

貫之

年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。 『土佐日記』

九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。 (中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

十日、さはることありてのぼらず。

十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

十二日、山崎にとまれり。

十三日、なほ山崎に。

十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。 八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。 相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。 男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。 清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。 平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、 竜田川の歌も詠まれ始めた。 ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、 初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。 それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、 また山崎港などと呼ばれた港があり、 渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、 貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

御春有助(みはるのありすけ)

あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ

藤原元方

竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。 ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、 単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて

柿本人麿

竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。 かなり附会が進んだ形だと言える。

源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める

しろめ

いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし

山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める

源さね

人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ

今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける

藤原兼茂

したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、 京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。 嵯峨天皇第六皇子・源明(あきら) – 長男・源舒(のぼる)– 三男・源実。 宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、 おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。

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立田川と水無瀬川

01.19.2016 · Posted in 和歌

本居宣長は玉勝間(巻一、巻二)で、立田川というのは今の水無瀬川であると言っている。

竜田川というのは大和国竜田山を流れる川であるというのが定説で、 業平の伊勢物語第百六段に「昔、をとこ、みこたちのせうえうし給ふ所にまうでて、たつた河のほとりにて」

ちはやぶる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

もまたそのように考えられているのだが、 これは文徳天皇の時代に「渚の院」と呼ばれ、皇子の惟喬親王に相続され、 のちに廃れて(土佐日記に「渚の院」「これ、昔、名高く聞こえたる所也」と出る)、 後鳥羽院の時代に(おそらく業平にちなんで)再建され「水無瀬離宮」と呼ばれ、 宗祇・肖柏・宗長らが水無瀬三吟百韻を奉納し、 現在「水無瀬神宮」が建っている場所で詠まれたと考えるのが自然だ。 というのは、業平は惟喬親王のお供でしばしばこの渚の院を訪れ、たくさんの歌を残しているが、 わざわざ大和の立田山に行ったという話は出てこないからである。 また、同じく宣長が指摘しているように、万葉集には「立田山」という地名は何度も出るが「立田川」という地名は一度も出ないのである(いずれもいずれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず)。 また立田川は筑紫へ下る途中に通る場所として歌に詠まれている。「源重行集」

白浪の 立田の川を 出でしより のちくやしきは 船路なりけり

従って大和には立田川などいうものはなかったと言わざるを得ない。 つまり、古今集「なぎさの院にてさくらを見てよめる」業平

世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

また後鳥羽院によって

見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ

が詠まれたのと同じ場所だということになる。 立田川は別名、山崎川とも呼ばれ、後に水成川(みなしがは)と呼ばれ、水無瀬川となったが、 もともと水無瀬川とは涸川、もしくは水無川のことであったという。

京都から見ると大阪平野に出るまえに巨椋池というものがあって、そこが地峡になっていた。 この地峡の西側が山崎。 東側は男山石清水八幡宮である。

宣長がとっくの昔に発見しているのに小倉百人一首の解説にはみな、「竜田川」を「奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田山のほとりを流れる川」 としているのがおかしいではないか。 誰も玉勝間を読んでないのだろうか?

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千載集

01.14.2016 · Posted in 和歌

千載集―勅撰和歌集はどう編まれたか セミナー「原典を読む」

千載集がなぜあのような慌ただしい時期に編纂されたのかということについて考察している本なのだが、 結論は結局後白河院が、保元の乱から平家滅亡までの鎮魂のために作ったのだということらしい。 それ以上のことは書かれていないように思われる。 他には古写本の異同とか校合のことなどが書かれている。

たとえて言えば、本能寺の変とか応仁の乱の真っ最中に勅撰集を選ぶようなもので、 どう考えても正気じゃない。なんか理由があるんだろう。 歴代の勅撰集の謎の中でも割と大きなほうだ。 『虚構の歌人』の中でも少し書いておいたのだが。

千載集は、続詞花集の改訂版の形で出された。 続詞花集は二条天皇の勅撰であり、選者は六条清輔。 後白河院はそれほど和歌には熱心ではなく梁塵秘抄にみられるように今様が好きだった。 後白河院は鎮魂や追悼供養のために梁塵秘抄をまとめたのだろうか。 違うはずだ。 単に今様が好きだから蒐集したのである。

続詞花集を補完した形でちゃんとした勅撰集を出そうという計画は、 六条家にあったはずなのだが、 六条家がおそらく頼りにしていた二条天皇と高倉院は相次いで急死し、 六条家が働きかけて勅撰に関わっていたと思われる平家は都落ちしてしまった。 さらに六条家は清輔以降あまり勢いがふるわなかった。

そこでまあ、ほかが自滅して取り残された形で権力に返り咲いた後白河院をだしにして、 後白河院に比較的近かった俊成が、 源平合戦のさなかのドタバタに、えいやっとつくったのが千載集というものだろう。 当時、後白河院や俊成は頼朝に支援されてかなりお金持ちだった。

頼朝が歌がうまかったかどうかは今では私は懐疑的だ。 上洛して慈円とやりとりした歌くらいしか残ってない。 ふだんどういう歌を詠んでいたかわからないのである。 ということは九条家の慈円と交渉する都合上歌を詠み交わす必要があって、 だれか歌のうまい人に代詠してもらったか、あるいは添削してもらった可能性が高いのである。 そして慈円と頼朝がやりとりした歌を見比べてみると、 あの凡庸な慈円のほうがまだ頼朝よりもましにみえてくるのである。 慈円はやはりこういう即興の切り返しの技がうまかった。 だてにふだんからあれだけたくさんの歌を詠んだのではなかった。

もちろん実朝に関しては、彼がある種独特な個性的な歌人であったことは疑いようがない。 頼家も歌が残ってないだけで詠んでいたかもしれんが、記録に残ってないのでまったくわからない。

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雲居に紛ふ沖つ白波2

01.13.2016 · Posted in 和歌

雲居に紛ふ沖つ白波再説

高橋睦郎「百人一首」p.152

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。

詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」

保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。 新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。 ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。

忠通は藤原忠実の長男。 忠実の次男が頼長。 この三人と、 本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。 はてそうだろうか。

1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。 なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。 崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。 しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、 頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。

でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、 鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?) 1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。 泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。 まあこういう例は珍しくない。 皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。

また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、 この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。

つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、 忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、 ほとんど何の意味もない。

のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、 それは1156年、21年後のことなのである。 その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、 後代の人にありがちなこじつけというしかない。

同著の中で、

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、 これもひどいこじつけだ。 また

待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、

式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。

そのほかあげればきりがない。 また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、 ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。 またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。 確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、 定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、 実際そのように後世考えられるようになった。 後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。 しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。

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文覚の歌

01.13.2016 · Posted in 和歌

白洲正子「花にもの思う春」p.173

世の中の なりはつるこそ かなしけれ ひとのするのは わがするぞかし

文覚というのは無学文盲の無茶くちゃな修行僧だと思っていたら歌を詠んでいてしかもそれが「明月記」に載っていて、 定家が

この歌心こもりて殊勝なり、誠に心無きにあらざる歌なり、不思議なり

などとほめていて、私もびっくりした。ほんとに不思議だ。 定家とたぶん同じ感想なのだと思う。

白洲正子は「形をなしていない」「意味もわからない」「下手」などと言っている。 確かにそうだが、文覚が歌を詠んだということじたいが驚きだし、 ふだん歌を詠まない文覚がいかにも詠みそうな歌である。

人のなせるは 我がなせるなり

とでもすれば少し歌らしくもなるが、それでは文覚らしさが出ない。

文覚は伊豆で頼朝と仲良しでよく天下のことを語り合ったようだから「ひとのする」とは頼朝のことだったかもしれないし、定家はその辺の事情をもすこし知っていたかもしれない。 というか文覚は頼朝の密使であった可能性もある。

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父の歌など

01.12.2016 · Posted in 和歌

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。 彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、 秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、 人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。 柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。 落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。 柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

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