亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

故郷七十年

01.12.2016 · Posted in 和歌

大塚英志『キャラクター小説の作り方』の続きなのだが、 この中に「柳田国男による古典文学批判」として出てくるのは、 「頓阿の草庵集」というごく短い文であり、 『定本 柳田国男集 別巻3』に載っている。 この『別巻3』は『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』からなっていて、 柳田国男が神戸新聞の求めに応じて、口承で残した自伝であるという。 序に昭和三十四年とあるから、1959年、柳田国男84歳、死去する3年前に出版されたことになる。

明治20年というから、柳田国男が12歳の時に、 彼は故郷の播州を、兄・井上通泰とともに離れる。

私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初学」といふのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になつてゐた

などとあり、香川景樹の

しきたへの 枕の下に 太刀はあれど 鋭(と)き心なし いもと寝たれば

が引用されている。 12歳にして景樹のこの歌を暗唱していたとは確かに早熟である。 鈴木重胤は江戸時代の国学者というか、平田篤胤系の神道家のようである。

故郷七十年 はコメントを受け付けていません。

雲居に紛ふ沖つ白波

12.31.2015 · Posted in 和歌

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、 検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。 「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。 「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、 「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、 在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。 この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。 ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、 保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。 帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、 まあ時期的にあり得んだろそれは。 崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。 頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。 左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。 藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。 順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。 そうやって、 なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。 室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。 まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇) であるという説。 これもどうでも良い話。 ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

雲居に紛ふ沖つ白波 はコメントを受け付けていません。

新続古今集

12.30.2015 · Posted in 和歌

21代勅撰集の最後、『新続古今集』の仮名序に

しかるに前中納言定家卿はじめてたらちねのあとをつぎて、新勅撰集をしるしたてまつり、前大納言為家卿また三代につたへて続後撰をえらびつこうまつりしよりこのかた、あしがきのまぢかき世にいたるまで、ふぢ河のひとつながれにあひうけて家の風こゑ絶えず、

とあり、これは『虚構の歌人』でも指摘したのだが、 勅撰選者が三代世襲したのは承久の乱という非常事態があったためで、 定家はもっとも幕府寄りの歌人であったから、俊成を継いで独撰したのである。 また為家ももっとも幕府寄りの歌人であったから、定家を継いで独撰した。 このことが歌道を硬直させたのは極めてなげかわしい事態であったが、 むしろこのことによって、 歌道の家の世襲というものが初めておこり、 それこそが定家の最大の功績なのである。 定家の偶像は「血統」「家」というものを何よりも重視する中世人に必要とされたものだったのだ。 それは「天皇家」「摂関家」「将軍家」に続いて日本人が発明した「歌道の家」というものなのだった。 為家は歌はうまいが何か独創的な歌人というわけではなかった。それもまた世襲ということに都合がよかった。

これに反発した(というより分岐しようとした)のが為家の息子の京極為兼だったが、 彼は後継者を残すことに失敗した。そして血筋を残すことに成功した二条為世から二条派が残ったのだ。

今日の私たちから見れば馬鹿げてみえるが、 しかし現代人ですら定家崇拝者はたくさんいて、彼らは無意識のうちに血統というものをありがたがっている。

そもそも参議雅経卿は新古今五人のえらびにくははれるうへ、この道にたづさひてもすでに七代にすぎ、その心をさとれる事もまた一筋ならざるにより、ことさらに御みことのりするむねは、まことに時いたりことわりかなへる事なるべし

これは新続古今集選者の飛鳥井雅世が雅経から七代目だと言いたいのだ。 飛鳥井家は為家と縁組みして二条家を創始した。 すなわち新勅撰集から新続古今集までは、二条家が勅撰ということを独占していたのであり、 そうでない場合にも為兼などの為家の子孫が選者となったのである。

応仁の乱によって勅撰が途絶したのはまさにこの二条家、二条派の責任だ。 彼らの歌道が完全に行き詰まってしまったからだ。 足利氏も疲弊しきっていた。 足利将軍家は和歌が大好きだったがこの頃にはもうお金が続かなくなっていた。 しかし足利氏がパトロンとなることもなく、二条家がいなくとも、 日本には元気な武家が生まれつつあった。 武士も良い歌を詠むということは『虚構の歌人』で泰時などの例を見てもらった通りだ。 しかし細川幽斎など(彼も足利氏だが)歌の才能があるにも関わらず、 いつまでも二条派に追随して古今伝授などにこだわったのはおろかとしか言いようがない。 太田道灌は良い歌人だった。 明智光秀や織田信長などは連歌をやっていたのだから、勅撰集くらい作っておかしくない。 後水尾天皇の時代になっても勅撰集が復活しなかった理由は、今もよくわからない。

ところで「ふぢ河」というのは関ヶ原を流れる川のことらしいのだが、なんで「ふぢ河」なのだろう。

美濃国 関のふち河 絶えずして 君につかへむ 万世までに

『古今集』あそび歌。まあ、単なる歌枕だわな。

行く水の あはれと思へ つかへこし 一つ流れの 関のふぢ河

『続後拾遺集』1125 入道前太政大臣。誰だよ(西園寺公経か?)。 意味は、歌道の家を一筋に守って仕えてきました、と言いたいわけだ。

新続古今集 はコメントを受け付けていません。

秀能

06.15.2015 · Posted in 和歌

後鳥羽院口伝に

又、寂蓮・定家・家隆・雅經・秀能等なり。寂蓮はなほざりならず歌よみしものなり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞかへりていたくたかくはなかりしかども、いざたけ有歌よまむとて、たつたのおくにかゝる白雲、と三體の歌によみたりし、おそろしかりき。おりにつけて、きと歌よみ、連歌しの至狂歌までも、にはかの事も、ゆへ有樣にありしかたは眞實堪能とみえき。家隆は、若かりしおりはいときこえざりしかど、建久のころほひよりことに名譽も出きたりき。歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌どもよみあつめたるおほき、誰にもまさりたり。たけもあり心もめずらしく見ゆ。雅經はことに案じ、かへりて歌よみしものなり。いたくたけ有歌などは、むねとおほくはみえざりしかども、てだりとみえき。秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。女房歌よみには、丹波やさしき歌あまたよめり。

とある。

しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。

を、普通は、

秀能は、「無下の歌の由」(まったくひどい歌である)と定家が最近言っていた、

と解釈するらしい。 私には、

さまざまな歌詠みがいるなかで、最近は定家が疑問の余地なく良い歌詠みであると評判である、

というような意味に思えるのである。 この箇所はいろんな当時の歌人らが列挙されているところである。 唐突に定家の秀能に対する反論が出てくるのは変ではないか。

秀能 はコメントを受け付けていません。

藤原定家

06.09.2015 · Posted in 和歌

藤原定家の本がまもなく出るので、 自分のブログを読み返しているところだが、すでに2010年に

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ

について藤原定家

定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、 実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。

ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、 まったくの架空の絵空事でしたという結論。 定家はやはりよくわからん。 一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。

こんなものが本歌取りなら取らぬ方がまし

とか 達磨歌

言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。 上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。

和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。

その言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。禅ってなんかかっこいい、みたいな。

そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。俳句とは要するに「達磨歌」の末裔なのだ。

とか

定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。 幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。

などと言っている。 確かに定家が一番影響を与えたのは武家社会と禅と俳句なのであり、 定家が偉大なのは宮廷や和歌からそれらの文化を派生させたからなのだ。 密教的平安時代から禅的鎌倉時代に移行する。 定家は和歌に禅詩的な要素を導入した。

鉢木 に書いているように、

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

などが直接の本歌となったと思われるが、「駒駐めて」を初句に持ってきたのは父俊成の

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

の影響だろう。 「駒駐めて」には独特の旅情がある。 普通ならば、

駒駐めて袖振り払ふ

とくれば

駒駐めて袖振り払ふ旅人の家路はるけき雪の夕暮れ

などとするだろう。 むろんこれではただの平凡な歌であって、 後世に残るようなものではない。 定家はそういうふうな展開を予想させておいていきなり「かげもなし」と否定した。 だから私はそこではぐらかされたような、馬鹿にされたような気分になったのである。 そしてそれゆえに、それこそがこの歌の斬新なところなのに、 室町時代の人は鉢木のように、誰にでもすんなり解釈できるように解釈し直してしまった。 虚無的な歌をなんだか普通の牧歌的な歌にしてしまった。 こういうことはよくあることだ。 キリスト教でパンをキリストの肉として食べ、ワインをキリストの血として飲むというのも、 最初はおそらく(伝統的なユダヤ教に対する)黒ミサ的なものだったのだが、 後世はそれを万人に受け入れられる聖餐として解釈しなおしたのだ。

今では私は、

駒とめて袖うちはらふかげもなし

の駒を駐めて袖を打ち払ったのは定家自身だろうと解釈している。 賀茂の河原だか井手の玉川だかはしらないが、 真冬の雪景色の中を定家一人が騎馬していた。 そして駒を駐めて袖を打ち払いながら、自分より他の人影もないなあ、と思ったというのであれば写生の歌であるとも言える。 しかし続く「佐野の渡り」という歌枕によって定家は自らこれが写生の歌であることを否定してしまう。 実際この歌は源氏物語に表れる古歌をコラージュしたものなので、 最初から完全に絵空事に詠んだ歌の可能性もあるのである。 せめて

駒駐めて袖打ち払ふかげもなし賀茂の河原の雪の夕暮れ

くらいにしておいてくれると好感が持てたのだが。

藤原定家 はコメントを受け付けていません。

和歌と詩

04.23.2015 · Posted in 和歌

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。 或いは押韻がある。 そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。 中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。 この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。 最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。 しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。 強弱はあるが、しかし和歌では無視される。 則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。 他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。 短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。 その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。 名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。 そして完全な修辞を駆使できる。 暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。 言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。 和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。 さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。 俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。 少なくとも普遍的概念としての詩ではない。 俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。 俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。 逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

和歌と詩 はコメントを受け付けていません。

歌学概論

03.12.2015 · Posted in 和歌

源俊頼とか六条清輔とか藤原定家とか後鳥羽院とか本居宣長とか香川景樹とか萩原朔太郎とか正岡子規とか丸谷才一とかいろんな人の歌論を読んでいるのだが、 こんな風に中世から現代までの和歌を論じたもの、 和歌概論とでもいうか、 そういうものを書いたり研究したりした人はいるのだろうか。 もちろん戦前にはいた。 佐佐木信綱とか。 萩原朔太郎も優れた「研究者」だった。 正岡子規はたぶんあまり和歌のことはわかってない。

現代でも、たとえば京極派の研究では岩佐美代子が傑出している。 藤原公任や源俊頼、六条清輔あたりを重点的に研究している人はいる。 テーマを絞れば優れた研究はいくらでもあるが、通史というか概論というのがどうもない。 いや、あると言えばある。万葉集があり、古今集があり、新古今があって、応仁の乱で勅撰集は断絶したとか。 百人一首があって、近代短歌や現代短歌がある、というような概論ならある。 私が言いたいのはそういうことではない。 わかりやすい対立軸で言えば香川景樹の歌論に対して正岡子規はどのように反駁し、 その両者の意見のどちらがどんな風に優れているかどうか、などという議論。 賀茂真淵や田安宗武の歌論に対して丸谷才一がいろいろ批判しているが、それはどうなのかとか。 本居宣長と上田秋成の論争は有名なので良く研究されているようだ。 そういうわかりやすいものもあるが、歌論の比較というのはそういう明確に論争になったものばかりではない。 たとえば本居宣長の歌論について小林秀雄はどうしたこうしたとか。

おそらく今の世の中そんな議論はまったくなされていない。 丸谷才一は孤独だっただろうと思う。 論争する相手が過去にしかいなかったから。

じゃあ自分が書けば良いのだろうか、たとえば「歌学概論」というような本を(笑) 理系の人が間違って買ってしまいそうだな。

歌学概論 はコメントを受け付けていません。

古きを慕う

03.04.2015 · Posted in 和歌

和歌は外来語や漢語に対して排他的であるというが、 実は大和言葉自体に対しても同様だ。 はるさめ、とは言うが、あきさめ、こさめ、きりさめ、などは和歌には使われない。 これらの語が俳句や都々逸に使われるのはまったく問題ないことだ。 なつさめ、ふゆさめなどはそもそもそういう言葉がない。 そのかわり、さみだれ、しぐれなどという言葉がある。 なぜそうなっているかと言っても理由はないのだ。

法律が判例の積み重ねでできているように、 和歌は誰かが急に新しい言葉を作ってもしっくりこない。 和歌が古きを慕うというのは法律の判例主義と同じで、 何百年もかけて少しずつ変わっていくのは良いが、 急激に変えてはいけないといっているのである。 古いものを墨守していても死んでしまう。 その加減が難しい。

明治の人たちはしかし新語や造語をやたらと作った。 和歌にもそれを強要した。破壊的、革命的な変化が許されると信じた。 信じなければ明治維新なんてやってられなかっただろう。 根拠として万葉時代の歌が持ち出された。 万葉の歌は前例主義から自由だったと言いたいのだ。

さみだれをなつさめとかゆふだちと言い換え、しぐれをふゆさめと言い換えることに抵抗がない人はそうすれば良い。 俳句や現代短歌がどうなろうと私は知ったことではない。 私は千年前と互換性のある歌が詠みたい。 いや、違うな、ある時代にしか通用しないような価値観にはしばられたくない、というべきか。 だから私は自分では和歌しか詠まないし、 自分の歌は和歌としか言わない。

古きを慕う はコメントを受け付けていません。

後鳥羽院初学の歌

03.01.2015 · Posted in 和歌

この頃は 花ももみぢも 枝になし しばしな消えそ 松の白雪

後鳥羽院御製。正治後度百首(1200年末)。新古今。 後鳥羽院の 1200年より前の歌というものは残っていない。 当時満20歳。 和歌の習い立てに定家の

見渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

駒とめて 袖打ち払ふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ

の影響をもろに受けたものであるのは間違いない。 後鳥羽院に定家が出詠したのも 1200年であり、それ以前に二人に交渉はない。

後鳥羽院の歌に定家の露骨な影響を見るのはしかしこれくらいであり、 後鳥羽院はおそらくまもなく定家の影響を受けることを拒み、 俊成や西行、或いは式子を志向するようになったと思う。 というのは定家の歌はあまりに癖が強いので真似るとすぐにばれるからである。 それでも上の二つの定家の歌の模倣者は多かった。 そういう意味では後鳥羽院はわりとまともな精神の持ち主だったと思う。

後鳥羽院初学の歌 はコメントを受け付けていません。

高倉院御製

03.01.2015 · Posted in 和歌

新古今に見える高倉院御製四首。

275 瞿麦露滋といふことを

白露の 玉もて結へる ませのうちに 光さへ添ふ 常夏の花

「瞿麦」はエゾカワラナデシコ。 「ませ」は「まがき」のこと。

524 紅葉透霧といふことを

薄霧の たちまふ山の もみぢ葉は さやかならねど それと見えける

668 上のをのこども暁望山雪といへる心をつかうまつりけるに

音羽山 さやかにみする 白雪を 明けぬとつぐる 鳥のこゑかな

1146 題知らず

つれもなき 人の心は うつせみの むなしきこひに 身をやかへてむ

1163 題知らず

今朝よりは いとどおもひを たきまして なげきこりつむ 逢ふ坂の山

まあ、普通だ罠。

高倉院御製 はコメントを受け付けていません。