亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

ふりかえると。

02.25.2015 · Posted in 和歌

昔の日記など読むに、 和歌を詠んでいたのは学部生だった頃、つまり1986から1989年くらいなのである。 そのあとずっとブランクがあって2009年に再び詠み始めた。 つまりは田中久三という名前にしてからだ。44歳。 式子内親王の

忘れめや あふひを草に ひき結び かりねの野辺の 露のあけぼの

忘れめや 賀茂の社の 御薗橋 渡り初めにし 春雨の頃

と返してから、だんだんに詠み始めた。 2010年にはかなり盛んに詠んでいた。 2011年から小説を書き始めて、その歴史小説の中に和歌を使うようになっていた。 この頃から完全に古典文法に則った歌を詠むことにする。 それまでは割といい加減なやつもまじっていた。 昔の人の歌と並べて違和感のないようなのを詠むようになった。

今回定家の話を書いたのだが、 ずいぶん和歌に対する見方が変わった。 「民葉和歌集」にかき集めた歌の多くがつまらなく感じるようになったので、 選び直さなくてはならぬかもしれぬ。

歌が詠めるようになるには時間がかかる。 2009年頃のツイッターを見ると私は俳句(のようなもの)を詠んでいた。 しばらく和歌を詠んでなくて俳句みたいなものしか詠めなくなっていたのだ。 そういうものに体(というか脳)がなっていて、それは詠めても歌が詠めない。 適当な文法で歌を詠んでいるとそういう歌しか詠めないし、 そういうときに詠んだ歌の文法を直そうとしてもなおらない。 つまりそういうふうに微妙に文法が間違っているのが味になってしまっていて、文法を直すと味まで失ってしまうからだ。

気に入らないときは直すのではなくてまったく新しい歌を一から詠むしかない。 もう最初から古典文法に則った歌しか詠まないと決めて、体をならしていくと、 自然と正しい歌が詠める。それ以外の歌は最初から思いつかないのだ。 これはもう普通の武芸とかの芸能と同じだろうと思う。 体を馴らしていって自然に詞とか動作が出てくるようなものしかものにならないのである。 別の形に体を馴らせばそのようなものしかでてこない。 毎日毎日詠んでいればそのうち良い歌が出てくるようになる。 もう漢語は使わないとかカタカナ語も使わないとかへんな文法とか字余りは使わないと決めてしまって、 体がなじんでしまえば、案外からだのほうがその環境に適応して、 そういうものが自然に詠めるようになる。 これはもう人間の脳がそのような仕組みになっているからとしか言いようがない。

もちろん新しい概念は新しい詞を使わなくては直接的には表現できない。 しかし心の動きというものは昔から変わらないのであり、 人間(ホモ・サピエンス)というものも何万年も同じ種なのだから、 古い詞を使った新しい表現をみつければよい。 それは最初は比喩のようなものかもしれないが、一般化すれば慣用句になるのである。 時間はかかるがそうして古典語を新しい時代に適合させていかなくてはならない。 造語で一足飛びに概念を輸入しようとしてもいずれは反動がくる。

昔の人の歌を眺めていると突然自分からも歌が出てくることがあるのは、 その人の歌の詞や表現、そのもととなった心を借りることで今まで詠めなかったことが詠めるようになるからだ。 歌が詠めない理由の多くは古典語の制約というよりは、表現を知らないだけのことが多い。 昔にも似たような表現があり、代替可能であることにふと気がつくのである。 外国語を日本語に訳するのも似たようなものだろう。

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墨汁一滴

02.25.2015 · Posted in 和歌

正岡子規『墨汁一滴』とは、墨汁一滴分の短い日記という意味だろう。 そういう条件で引き受けた随筆という意味かもしれん。実際かなり短い日もある。 万葉調の優れた歌人として、 源実朝、賀茂真淵、田安宗武、橘曙覧、平賀元義らが挙げられているのだが、 実朝は万葉調と言えなくもないが他の四人とは比べようもない。 実朝の歌はあまりにも特殊なのでとりあえず別格にしたほうがよい。

賀茂真淵には確かに良い歌もある。 あると言えばあるが、せいぜい

藤沢や 野沢にごりて 水上の あふりの山に 雲かかるなり

程度である。

田安宗武は良い歌もあるがひどく悪い歌もある。 歌論もあまりぱっとしない。 全体的に大した歌人ではない。吉宗の息子なので過大評価されている。 宗武の歌は後世に非常に悪い影響を与えた。 彼の模倣者は例外なくダメだ。

橘曙覧、悪くはないが、彼も子規によって過大評価されている。

平賀元義は橘曙覧とだいたい同じ。 彼の歌を見ても大したことはない。 つまりは万葉調の叙景歌というだけである。

うしかひの 子らにくはせと 天地の 神の盛りおける 麦飯の山

悪くはない。しかしすごく良いかというとどうか。 室町・安土桃山の幽玄とか枯淡とかわびさびというものが西洋の自然主義と結びついてできた、 近代特有の和洋折衷な価値観が万葉調と呼ばれているだけに見えるのだ。

実朝の

大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて さけて散るかも

とか、斎藤茂吉の

最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも

などのようなものを秀歌とする感覚であって、 ハリウッド映画のようなばかばかしさしか感じない。 いや、実朝のはばかばかしすぎて面白いが、茂吉のはただまじめくさってきどっているだけであり、 しかも〆の「なりにけるかも」が陳腐すぎる。 一方実朝の「さけて散るかも」は「かも」で終わる意外性がある。 なんだまた万葉調だったのかと。

平安・鎌倉の武士の歌はもっと情趣があった。 叙景と叙情をうまく結び付けたものだ。 遠景から近景へ、そこから内面描写へ転換するのが見事である。 例えば実朝

かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋

実朝は叙景歌も叙情歌も、その合わせ技も自在に詠める。 江戸時代の人間は抒情歌が詠めなくなった。 とくに俳句に引っ張られて恋歌というものがまったく詠めなくなった。 だから叙景と叙情を合わせることもできない。

「叙景から叙情への転換」あるいは、 「叙景から叙情への誘導」といってもよいが、 これは和歌の最も得意とする表現だと最近思い始めた。 というかそれが和歌の奥義だと思う。 同じような概念が日本以外の詩にもあるはずだ (例えば李白「牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷」)。 不思議なもんで、叙情から叙景へはなかなか行きにくい。

和歌というものは、心を種として芽が出て葉となり花が咲くものだとすれば、 外界と心がつながっていなくてはならない。 外から内に入ってきたものがふたたび外へと逆流していくのが歌なのである。 古くは

安積山 かげさへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

この古歌もやはり遠景から近景へ、そこから心理描写へと転換している。

花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり

西園寺公経。叙景がイントロとなってふいに自分自身のことを述べている。 それが、唐突ではあるがうまく連結しているのだ。 公経は見ればみるほど優れた歌人である。 業平の

世の中に 絶えてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

紀友則の

ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ

などもある意味では同様である。 そこには叙景だけがあるのではない。

子規の

藤波の 花をし見れば 奈良のみかど 京のみかどの 昔かなしも

など見るとほんとにがっかりする。 こんなものが秀歌なのか。

いたつきの 癒ゆる日知らに さ庭べに 秋草花の 種を蒔かしむ

万葉調が鼻につくのがいけない。 「知らに」は「知らず」と同じだが、扱いが難しく使わないのにこしたことはない。 おそらく「知らざるに」という意味に使いたいのだろうが、文法的に少し違う。 「さ庭べ」もこなれない。 「さには」はただの「狭い庭」ではない。 「しむ」も漢文調で歌には似合わないのだが。 万葉調のよろしくないのは古今調以後と比べて文法的に不完全になる危険性が極めて高いところだ。 古今に学べば大けがすることはない。 退屈だが、初心者はまず「春の花」「秋のもみぢ」で練習しなくてはならない。 子規もそうしたはずだが挫折して道を踏み外した。

またこれは「叙情から叙景へ」向かう悪い例だ。 この順番で何がいけないかと言われてうまく答えられないがダメな気がする。 たとえば大伴黒主

咲く花に 思ひつくみの あぢきなさ 身にいたつきの 入るも知らずて

子規の歌でも

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす

こちらは「叙景から叙情へ」向かっている。 セオリー通りの歌ばかり詠むのは味気ないが、 セオリーを外した歌を詠むのはそれなりに理屈がなければならない。

雑誌『日本人』に「春」を論じて「我国は旧もと太陰暦を用ゐ正月を以て春の初めと為ししが」云々とあり。語簡かんに過ぎて解しかぬる点もあれど昔は歳の初はじめ即正月元旦を以て春の初となしたりとの意ならん。陰暦時代には便宜上一、二、三の三箇月を以て春とし四、五、六の三箇月を以て夏となし乃至ないし秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまでもなし。されど陰暦にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事も多ければその場合には四季の内いづれか四箇月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初といたく気候の相異を来すに至るを以て陰暦時代にても厳格にいへば歳の初を春の初とはなさず、立春(冬至後約四十五日)を以て春の初と定めたるなり。その証は古くより年内立春などいふ歌の題あり、『古今集』開巻第一に

年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ

とあるもこの事なり。この歌の意は歳の初と春の初とは異なり、さればいづれを計算の初となすべきかと疑へる者なればこれを裏面より見ればこの頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべし。

これはつまり「再び歌よみに与ふる書」に

先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年こぞとやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。

とあることの焼き直しなのだが、「しゃれにもならぬつまらぬ」話と言いながら、 再びうだうだと考察し直しているのが笑える。 やはり年初と立春の違いが気になるのではないか。 気になるからこそ「古今集」では「年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」 を巻頭に掲げているのだ。 子規も若い頃に「歌よみに与ふる書」を書いたせいで、その重要性に気づいたのだろう。 だが「歌よみに与ふる書」しか見ない人は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」 としか考えないのだ。

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俊頼髄脳、etc

11.16.2014 · Posted in 和歌

歌論集 : 俊頼髄脳, 古来風躰抄, 近代秀歌, 詠歌大概, 毎月抄, 国歌八論, 歌意考, 新学異見 新編日本古典文学全集 (87)

非常に良くできた本だ。 密度が濃い。 原文と、解説と、ほぼ完全な現代語訳がついている。 原文にかぶせた註が茶色に着色されているのもすばらしい。 全集の中に埋もれているのが惜しい。 この「新編日本古典文学全集」は比較的後発のためか、あまり図書館には納められていないのだ。 新しいがゆえに完成度も高いのだろう。

『俊頼髄脳』が読めるのは事実上この本だけではなかろうか。 源俊頼によるこの歌論書は、 古今集仮名序や後拾遺集序などを下敷きにしつつ、 先行する公任による新撰和歌髄脳をさらに長大精緻にしたものと言って良い。 公任や俊頼の時代の歌論は、後世の古今伝授のようないかがわしさがある。

をののはき みしあきににす なりそます へしたにあやな しるしけしきは

これは句の頭の一字ずつ集めると「をみなへし」となり、句の終わりの一字ずつを逆に読むと「はなすすき」 となる。

むらくさにくさのなはもしそなはらはなそしもはなのさくにさくらむ

これは回文。こういうトリッキーな例がいろいろ蒐集してある。 歌論としての深みはあまりない。 変なことを言っているところもある。 たとえば「安積山」は「あざかやま」と濁って読むべきだとか。 安積山は万葉仮名で「阿佐可夜麻」と書くことが出土した木簡などからも確認されていて、 「あさかやま」と濁らず読むのが正しいと思うのだが。 「あさかやま」と「あさきこころ」と浅いが繰り返されているのが歌の病だ、 歌の親が病んでいるのだから後代の歌は影響を受けないのだろうか、などと言っているのもおかしい。

『毎月抄』はやはり偽書であろう。 いろんな人の説があるようだ。 関連する『定家十体』も偽書だろう。 頓阿の『井蛙抄』あたりと関係あるか。やはり頓阿はあやしい。 ここらの偽書の話も今書いている本に盛り込もうかと思っていたが、 も少しちゃんと調べてから、きちんと書いた方がよさそうだ。

『俊頼髄脳』を読んでみると、 俊成がなぜ『古来風体抄』のようながちがちの天台教学的歌論を書いたかわかる気がする。 私はずっと『古来風体抄』は偽書ではなかろうかと疑っていたのだが、 法華経かぶれの俊成が年寄りの繰り言のようなこんな文章を、俊頼に対抗して書く可能性はあるなと思った。 俊成は俊成なりに、俊頼のようなぐにゃぐにゃした歌論を、 仏教思想に基づいてきちんと整理しなきゃいけないと考えていた。

定家は仏教と和歌を混ぜるようなうかつなことはしなかったが、 京極為兼が『古来風体抄』の影響をもろにうけて『為兼卿和歌抄』のような歌論を残したのは残念である。

『近代秀歌』『詠歌大概』は定家の歌論で間違いない。 『近代秀歌』の秀歌例に異同があるなと思っていたら、 前掲の本の解題にちゃんと解説があった。 歌論についてはあまり深入りせず今書いてるやつからは極力除こうと思うが 『近代秀歌』だけはちゃんと調べなきゃいけないなと思った。

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定家の禅

11.13.2014 · Posted in 和歌

藤原定家について書いている。 タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。

さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、 最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、 確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。 全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、 全体のテーマ自体が変わっていく。

先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、 定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。 だれが読むのだろうか。 いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。 こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。 基本的には、定家の時代の歌論書である。

定家は以前は嫌いだった。 今は割と好きになった。 定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。 今はある意味天才だと思っている。 少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。 癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。 オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。 のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。

編集の人と相談して意外だったのは、 私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。 ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。 編集の考えることはよくわからん。

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新古今集 後鳥羽院と定家の時代

10.25.2014 · Posted in 和歌

これから読もうと思っているのだが、「天才帝王と空気の読めない秀才貴族」 という解釈は間違いだと思う。 後鳥羽院の宮廷で「空気を読む」ということはつまり自我を捨てて幇間になるということだ。 皇帝の前の宦官になれというのか? だから北条氏と戦争して負けるんでしょう? むしろ後鳥羽院が暴走して破滅するのを定家は予測してたんじゃないの。

どちらかというと 「空気が読めない裸の王様と、それなりに現実的でニヒリストな秀才貴族」というところか。 どちらも天才ではない。 後鳥羽院は天才というよりは狂人というべき。

いや、狂人というのも当たらないかも。 菊池寛に『忠直卿行状記』 というのがあるが、この松平忠直に近い。 御曹司にありがちな錯覚と狂乱(ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない、か。なるほどね)。

八番目の勅撰集『新古今和歌集』が編まれた時代は、和歌の黄金期である。新たな歌風が一気に生み出され、優れた宮廷歌人が輩出した。

これも大きな間違いだ。 黄金期というよりは一種の狂乱期。 すでにこの時期には宮廷以外のところに優れた歌人が現れ始めた。

未曾有の規模の千五百番歌合、上皇自ら行う勅撰集の撰歌、と前例のない熱気をみせながら、宮廷の政治と文化は後鳥羽院の磁力のもと、再編成されていく。

いや、それが狂気。 後鳥羽院の狂気。

後鳥羽院と藤原定家という二つの強烈な個性がぶつかりあい、日本文化の金字塔が打ち立てられていく時代の熱い息吹に迫る。

金字塔(笑)

この時代ほんとうの天才歌人は西行だけだ。 なぜみんなそんな簡単なことがわからんのか。 菊池寛ならわかるだろうに。

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九条良経と田安宗武

10.17.2014 · Posted in 和歌

九条良経と田安宗武。 一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、 この二人はある意味でよく似ている。 和歌をダメにした二大元凶といえる。

九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。 田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。 一方は惰弱、他方は空元気。

九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。 田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。 それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。 題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。 これらによって、 和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。

明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。 かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、 今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、 九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。

万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。 それが和歌の本質だ。

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新三十六歌仙

10.17.2014 · Posted in 和歌

九条良経は土御門天皇の摂政太政大臣(実質的には後鳥羽院政のトップ)。1206年死去、38歳というからまだ若い。 新古今の寄人で仮名序(どうという見所もない文章)の著者。歌もたくさん採られている。

天皇や皇族で歌のうまいのは当たり前だが、摂政関白太政大臣で歌がうまいというのはかなり疑ってかからねばならない。 後鳥羽院も一応良経をほめているようだが、かなり割り引いて考えねばなるまい。 全然ダメとは言わないがかなり陳腐。 それは慈円にも言える。

良経の娘立子は順徳院の中宮。

良経の長男道家の三男頼経は鎌倉将軍(実質的には承久の乱より前から)。 その次の将軍が宗尊親王(1252-)。

面白いのは、頼朝の実母妹坊門姫は一条能保の室となって二人の娘を産み、 その一人(名前不詳)は良経の室となって道家と立子を産み、 もう一人(一条全子)は西園寺公経に嫁いで倫子を産み、 道家と倫子の子頼経が実朝の死後鎌倉将軍になっている、ということである。 つまり、道家と倫子はいとこどうしであり、共通の祖母・坊門妹を持つ。 道家と倫子の子・頼経は坊門姫の二重の曾孫であることになる。 従って実朝が死んでいきなり藤原氏が鎌倉将軍というよりは、かなり源氏の血筋というものが意識されていることがわかる。

実朝の妻が坊門信子なのだが、坊門姫という名と何か関係があるのだろうか。

新三十六歌仙 面白い顔ぶれだよなあ。 政治的にかなりきな臭い連中が集まっている。 歌仙といっても良い人もいるがそうでない人もいる。 これらの人々が実質的には百人一首の成立に関与していて、かつ、 宗尊親王の係累であったのだ。

藤原定家、藤原家隆。家隆は定家の友人。

俊成卿女。俊成の実の孫娘。ようするに定家の身内。

藤原為家。為家は定家の息子。

源実朝。飛鳥井雅経。雅経は定家の門弟で実朝の友人。

式子内親王は定家の門弟。というかかなり親しい妹のような存在であった。

鴨長明。新古今編者の一番下っ端。

後鳥羽院、土御門院、順徳院。いわずと知れた承久の乱の三院。 雅成親王、道助親王は後鳥羽院の皇子。雅成は実朝亡き後鎌倉将軍候補となったが、後鳥羽院が拒否。

九条良経、西園寺公経。後鳥羽院時代の権力者。 慈円は良経の叔父。つまりは九条家。 九条道家、九条基家は良経の子。 西園寺実氏は公経の子。

後嵯峨院、宗尊親王。宗尊親王は後嵯峨院の皇子。後嵯峨院は土御門院の皇子。

久我通光。後嵯峨院政の太政大臣。久我家は土御門天皇の外戚。

衣笠家良。後鳥羽院、後嵯峨院の近習か。

行意。誰?

源通具。新古今寄人。

八条院高倉。後鳥羽院歌壇。

後鳥羽院宮内卿。

藻壁門院少将。後堀河女官。

藤原知家

藤原有家。新古今寄人。

葉室光俊。宗尊親王の歌の指南役らしい。

藤原信実

源具親

藤原隆祐。隠岐配流後の後鳥羽院に親近。ふむ。

源家長

藤原秀能。藤原秀郷の子孫で武士らしい。

うーん。 定家、家隆、為家、実朝、宗尊親王あたりまでは歌仙と言ってもよい。 式子内親王を入れるのもよい。 後鳥羽院、順徳院、土御門院を入れるのもよい。 あとはどうなんだろう。 精査してみないとわからん。

ていうか新三十六歌仙とかいうのを作る感覚が、小倉百人一首みたいな切りの良い数合わせをするのに似ているんだよなあ。 両方とも同じようなやつが企んだのではないか。 日本三大なんちゃらとかいうのと同じで、頭数あわせで権威付けしようとする。

そういや宇都宮頼綱も、京都鎌倉宇都宮で日本三大歌壇とかぬかしてたらしいが、 恥ずかしいからやめろよ宇都宮。

ていうか、すべてに宗尊親王が直接絡んでいるような気がしてきたよ。 その取り巻き連中は九条道家、立子、基家の三兄弟。 プラス、西園寺実氏と倫子の兄弟。 すごくやばいにおいがするなあ。 特に基家とか。年齢的にもやばい。1203-1280。 続後撰集が出たときには40代後半。 父に似て(笑)歌は下手の横好きで、なかなか定家や為家には認めてもらえなかった。 後鳥羽院遠流歌合には歌を献じている。 続後撰集にはやっと歌を採ってもらったが為家には反発している。 なんかもうこいつ悪役の要素をすべて兼ね備えてるなあ。 馬鹿がわらわらとわいてきている感じ。

宗尊親王かあ。 けっこう大物がかかってきた感じだわな、小倉百人一首。 あとは為家と九条基家。 定家・為家はともかくとして、後鳥羽院に近すぎる九条家や西園寺家は、北条氏はいやがるわな。 で、土御門院系の後嵯峨院の皇子の宗尊親王というのは比較的ニュートラルで、 北条氏にはよかった。 つまり、やはりというか、後鳥羽院と順徳院の名誉回復は、土御門院系から鎌倉幕府に、 やんわりと要請があったということだろう。

たいへんどろどろとしてまいりました。 ある意味、百人一首成立の真相とかいうよりもこういう政治の話だけでおなかいっぱいになりそうだわー。 和歌の人たちってこういうのあまり掘らないよな。 ていうか、小倉山荘で定家がどの歌を選んだかなんてことはやはり、 わりとどうでも良いことなんだよ。 定家の権威を借りて承久の乱の名誉回復をしようとしたのが百人一首なんじゃないか。

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小倉百人一首の成立

10.16.2014 · Posted in 和歌

小倉百人一首がほぼ現在の形になったのは、続後撰集が出た後だろう。 1251年続後撰集に、承久の乱の後の後鳥羽院や順徳院の御製が採られたことによって、 おおやけに、院らの名誉回復が行われた。 小倉百人一首が院らの鎮魂という形で完成した。 時の鎌倉幕府執権は北条時頼。 天皇家では後嵯峨院が院政を敷いていた。 為家を選者としたのも後嵯峨院。

後鳥羽院や順徳院の名誉回復を強く願ったのは順徳院の中宮・九条立子だったはずだ。 彼女は1247年に死んでいる。 生きているうちには名誉回復がなされなかったのだから、無念だっただろう。 だれかがその遺志を継いだのだ。

定家が明月記に宇都宮頼綱の依頼で襖絵に歌を書き記した、いわゆる小倉色紙というものが成立したのは、1235年。 承久の乱はそれに先立つ 1221年。 頼綱は鎌倉幕府の御家人だから、後鳥羽・順徳の歌など、たとえ好きだったとしても立場上、 襖絵に飾ることはできなかったし、 定家だってわざわざそんな政治的冒険をするはずもないのである。

では1235年にできたのが「百人秀歌」であったろうか。 「百人秀歌」に名誉回復された後鳥羽院らの歌を載せて「小倉百人一首」ができたのか。 おそらく宇都宮頼綱は小倉山に新築の別荘を建てた。 頼綱の娘が定家の息子為家の室になっている。 これも同じ頃のことだろう。 為家はすでに37歳。 頼綱が定家・為家父子のパトロンになったということだ。

どうだろう、いくらなんでもふすまが100もある部屋など作るだろうか。 可動式の屏風であったかもしれないが、100もいきなり画賛を書くだろうか、定家という人が。 小倉色紙は最初はもっと少ない、たとえば20枚くらいだったのではないか。

「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだとみなすのも危険だ。 後世、後鳥羽院や順徳院の歌が入った「小倉百人一首」を定家が選んだはずがない、 その矛盾を解消するために贋作されたのが「百人秀歌」かもしれない。

それでまあ、私としては、定家が選んだ20枚程度の小倉色紙というものがまずあって、 そこへ九条立子の遺言で定家自身の歌や後鳥羽院、順徳院、 立子の父の九条良経の歌

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ

や、定家の義理の弟・西園寺公経の歌

花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

などが付加されて、あといろんな歌を見繕ってちょうど100首にした。 それを見繕ったのは定家の息子で続後撰集の選者である為家その人というよりは、九条家や西園寺家の、 必ずしも歌はよくわからない、有象無象の定家の崇拝者たちだっただろう。

良経の歌が人麻呂の歌の本歌取りになっているのだが、あまりにも陳腐で笑ってしまう。 見た目は立派だが、 古今集の詠み人知らず

さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫

とか藤原忠房

蟋蟀いたくななきそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる

などを適当にパッチワークにしただけなのだ。 この人はたぶん大してセンスのある人ではなかった。 たくさん歌を詠んだからには歌が大好きだったようだが、どれもきれいなだけで、 真心がない。

公経の歌はあきらかに後鳥羽院や順徳院の歌に唱和している。 良経よりはまだ少しみどころがある。

続後撰集と小倉百人一首がほぼ同時期に成立したとして、この時点で小倉百人一首が定家の撰だと言いたい人は誰もいなかったはずだ。 そんなことはあり得ないのだから。 しかし為家が死んだあとになると、やはり定家が選んだってことにしたい連中がわいてきて、 そのつじつま合わせのために「百人秀歌」がでてきたのではなかろうか。 それで、歌は全部で100だとして、どの歌を採るかなんてことは、 鎌倉末期まではかなり流動的で、いろんな人の「改竄」を経た可能性がある。 いわば小倉百人一首もまた、一種の二次創作なのだ。

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百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

10.16.2014 · Posted in 和歌

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、 私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。 奈良時代を入れても全然足りない。 素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。

江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。 わざわざ取り上げる必要があるのかという。 当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、 まあ、 歴史の勉強にはなるかもしれない。 和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。 だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。 西行に飽きたら俊成とか。 西行と俊成の比較とか。 人に好き嫌いがあるのは自然だ。 それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。 歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。 要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。 まったく面白くもなんともない結論だ。 ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。 頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。 どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

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百人一首は凡歌を好む。

10.16.2014 · Posted in 和歌

いよいよ百人一首を書こうと思って、また調べ始めたのだが、古今集のときと違って気が重い。 古今集の気持ちのよさが百人一首にはない。 どんどん憂鬱になっていく。

百人一首は凡歌を好む。 凡人の好みをかなり忠実に反映していると言っても良い。 プロの歌人がいればそのパトロンがいる。 パトロンとは要するに摂関家である。 百人一首の時代で言えば、九条家と西園寺家。 パトロンは必ずしも歌がわかるわけではない。 というより俗物でなければパトロンなどにならんだろう。 パトロンたちは天智天皇の歌や陽成院の歌が好きなのである。 そして宇多天皇や醍醐天皇の歌のよさがわからない。 持統天皇とか光孝天皇の歌は、プロにもパトロンにも好まれるという意味で幸せな歌である。当然載せるべきである。 私ならば天智天皇と陽成院の歌をよけてでも、宇多天皇と醍醐天皇の歌を入れたい。 しかし、悲しいことに、玄人受けはしても、一般受けはしない。

一般人はリアリティよりはファンタジーを好む。 真実よりは雰囲気を好む。 実景や真情を写生した素朴な歌よりも、虚構で飾った派手な歌を好む。 これは私が小説を書いていても実感することだ。

醍醐天皇の歌をみよ。これぞまさしく古今調の神髄である。

むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる

うつつにぞとふべかりける夢とのみ迷ひしほどや遥けかりけむ

あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ

醍醐天皇の歌は優美だが肉声である。 目の前で醍醐天皇自身が語りかけてくるようなそんな迫力がある。 醍醐天皇は歌という形をとって心を訴えている。 しかし、多くの人は、訴えるべき心もないのに歌を詠もうとする。

正岡子規は二十代の頃、その形をまねようとした。

物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

非常にまずい歌だ。こんな歌を詠むくらいなら、口語で都々逸でも詠んだほうがましだ。 いかにも、江戸か明治の人が詠みそうな、いくじのない女々しい恋の和歌になってしまっている。 陳腐な歌謡曲に過ぎぬ。 子規は自分の才能に絶望しただろう。だから、

くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽のはりやはらかに春雨の降る

のような、俳句を伸ばしたような和歌を詠むしかなかったのだ。 まあ子規には珍しい、唯一の秀歌と言ってよいのだが、これなんかも、

春雨に二尺のびたる薔薇の枝

でも十分よさそうなもので、やはり子規は俳句の人なのである。

古今集仮名序に、「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と言うが、醍醐天皇の歌はまさにこの順序でできている。 定家の詠歌大概に「情以新為先詞以旧可用」も同じ意味である。 古い言葉を用いて新しい心を言い表す。 西行も為家もだいたい同じことを言っている。 俳句には実は心は不要だ。 少なくとも和歌で言う心と、俳句で言う心は違う。 俳句は目の前の情景を言葉で写し取る。 あるいは情景から興る感動を言葉で表す。 和歌はそうではない。 心の中にわき起こってきた形のないもやもやとした感情を、 客観的に自己観察して、 それを言葉に表す。 このとき「紫の色」などのような譬えを用いることはあるが、 もともとは何の色も形もないもの。それが和歌で言う心である。

百人一首を調べていると絶望しそうになる。 良い歌も混ざっているが俗な歌も多い。 ただの俗な歌に御製という箔付けをしたりするからよけいたちが悪い。 御製という箔付けがなくとも良い歌はよい。 悪い歌は悪いのだ。 歌とはそういう真剣勝負なのではないのか。 しかし百人一首はあきらかにそうではない。

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