亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘和歌’ Category

10.15.2014 · Posted in 和歌

万葉集では「将宿」を「寝む」と訓む。 人麻呂の「ひとりかもねむ」の「ねむ」が「将宿」と表記されている。

足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 永長夜乎 一鴨将宿

なんでやねんと思う。 しかし万葉集の他の用例を見ると、 「将宿」は「宿らむ」とも訓まれ、 「将去」は「ゆかむ」、 「将隠」は「隠さむ」、 「将泊」は「泊てむ」、 「将示」は「示さむ」、 「将有」は「あらむ」、 「将見」は「見む」、 「将超」は「こえむ」、 「将吉」は「よけむ」、などと訓まれているのである。

つまり、意志の助動詞「む」を意訳して「将」とした。 まさに~しよう、という意味があるからだ。

「ひとりかもねむ」は 「獨可毛将宿」と書かれたり、 「獨鴨念」と書かれたり、 「一香聞将宿」「一鴨将寐」「孤可母寐」「一鴨将宿」「獨鴨寐」などと書かれたりもするが、 「比登里可母祢牟」と書かれたものもあり、これは「ひとりかもねむ」と訓まざるを得ない。 万葉時代には良く使われた言い回しだったのだろう。

「ながながしよを」は「永長夜乎」と書かれているが、 これでは「ながながよるを」と訓んでもよい。 「ながながきよを」「ながきながよを」かもしれない。 なぜ「ながながしよ」となったのか。

私なら

あしひきの 山どりの尾の しだり尾の 長き長夜を ひとりかも寝む

と訓みたい。

平安時代すでに「ながながし」はシク活用なので「ながながしき夜」となって余計変だ。

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こひぢ

10.15.2014 · Posted in 和歌

こひぢは恋路とも泥とも書く。 恋路は濡れる、涙、蓮、あやめ草、五月などとかけて使われる。

更級日記に、今の隅田川当たりの情景を

浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて

などと言っているのが割と有名ではなかろうか。 単に「ひぢ」とも言う。 「ひち」は濡れるという意味。 音が近いがもともとは別の単語であろうか。 いずれにせよ泥で濡れるというイメージ。

後撰集

をとこのはじめて女のもとにまかりてあしたに、雨のふるにかへりてつかはしける 読人不知

今ぞしるあかぬ別れの暁は君をこひぢにぬるる物とは

返し 読人不知

よそにふる雨とこそきけおぼつかな何をか人のこひぢといふらむ

はちすのはひをとりて 読人不知

はちすばのはひにぞ人は思ふらむ世にはこひぢの中におひつつ

金葉集

小一条院

知らざりつ袖のみぬれてあやめ草かかる恋路におひんものとは

千載集

百首歌よみ侍りける時、恋の心をよみ侍りける 実定 右大臣

さきにたつ涙とならば人しれず恋ぢにまどふ道しるべせよ

例を挙げるのはもうこのくらいでよいと思うが、 要するに、恋路、涙、濡れるというイメージが便利なので、頻繁に使われた。 後撰集に見える陽成院の歌

つりどのの皇女につかはしける

つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける

みなは蜷という貝であるという。 タニシのことだろう。 タニシだから泥に住む。 みなの川、こひ、淵というイメージがつながる。 淵に泥がたまってそこにタニシが住んでいる。 その川の水は筑波山から流れ落ちてきたのであると。

そこまで説明されてやっとこの歌の意味がわかる。 誰もこれを秀歌だとは思っていない。 しかし絵に描いたようなイメージを伴った便利な歌である。 そして比較的古い。 広く知れた歌だったのだろう。 だから本歌取りが多い。 良い歌だから本歌取りされやすいとは言えない。 平凡で、使い回しやすいから本歌取りされるとも言える。 陽成院が自分で詠んだ歌ではあり得ない。 おそらくは宇多天皇時代の無名の職業歌人が代わりに詠んだ歌だろう。

みなの川は男女ノ川と書くという。 筑波山の男体山と女体山を表すという。 なぜミナが男女なのか。根拠ははっきりしない。 京都の貴族らは誰も筑波山を見たこともないし、男女ノ川を見たこともない。 男女ノ川の淵の泥の中に住んでいるタニシなどみたことない。 ファンタジーの歌だ。 しかしファンタジーは往々にして、人を楽しくもさせる。

ある意味、百人一首にはもっともふさわしい歌かもしれない。 口調がなめらかで、平安朝的で、しかも天皇の御製であるからだ。

釣殿の皇女とは光孝天皇の皇女である。 つまり、陽成天皇が光孝天皇に譲位したあと、 光孝天皇の皇女に陽成上皇が恋歌を贈ったということにしたいのである。 もし事実だとしても代詠であっただろう。 この微妙な人間関係もまた、この歌を有名にするのを助けたかもしれない。 ああ、誰が詠んだか知らないが、うまく無難に詠んだものだなと。

陽成天皇は実体がよく見えないぼやっとした人である。 積極的に何かをしたというものがまるでないが非常に長寿だった。 歌のぼんやりしたイメージとも合ってると言える。

ミナはカワニナの古名であるともいう。 ニナ貝は普通は磯で捕れる貝である。 カワニナは川蜷であって、 まあ要するに小型のタニシである。

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東撰和歌六帖

09.21.2014 · Posted in 和歌

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり

世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして

山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。 でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。

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新類題和歌集2

09.21.2014 · Posted in 和歌

角川の新編国歌大観の新類題和歌集をだらだらと読んでいたのだが、 後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父) などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、 通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、 勅撰集には当たらないとされているのだが、 私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。 21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。 後水尾院の歌は確かに良い。

梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。 しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。 皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。 武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、 幸仁親王がただ幸仁、 太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。 普通勅撰集には官職名を添えるものだ。 藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、 藤原定家が権中納言定家となるようなもので、 中には官職しか書かれない場合もある。 実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。 親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。 霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。 そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。 和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、 どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、 近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。 windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。 なんとかしてもらわないと困るのだが。

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岩佐美代子

09.06.2014 · Posted in 和歌

※もう少しリライトする必要があるとは思いますが、 趣旨はだいたいこんなかんじです。

後醍醐天皇が統幕に失敗して隠岐の島に流されると、 光厳天皇が即位した(1331)。 このときはまだ鎌倉幕府が存続していて、三種の神器もあり、皇太子にも立てられていたので、 光厳天皇の即位には特に問題がない。 光厳天皇を正統な歴代天皇の一人に数えないほうがおかしいと思う。

ところが幕府が倒れて北条氏が亡び(完全に血脈が絶えたわけではない)、建武の新政が始まる(1333)と、 北条氏の後ろ盾を失った光厳天皇は廃位され、後醍醐が復位する。 光厳天皇は即位していなかったことにされてしまい、後醍醐も重祚したのでなくて、 ずっと天皇だったことになってしまうが、これもかなりまずい解釈だと思う(しかし小一条院の前例がある)。

建武の新政が失敗して後醍醐が吉野に移り尊氏が京都に入ると、 光厳院は弟を立てて光明天皇とする。 このとき京都に三種の神器があったかなかったかよくわからないのだが、 後鳥羽天皇の即位にも三種の神器はなく、 上皇の院宣だけで即位したわけで、特に問題とは言えない。 このとき後醍醐天皇と光明天皇の二人の天皇がいたわけで、南朝と北朝ができたのは光明天皇からなんだが、 どちらにも正統性がある。 同じことは後鳥羽天皇と安徳天皇のときにも言える。どちらにも正統性があるとしか言いようがない。 その次の崇光天皇にも正統性に問題はない。

しかし後光厳天皇の即位は上皇の院宣もなく三種の神器もなく、 継体天皇の前例に倣うというまったく根拠のない理由で尊氏が即位させたものであり、 その次の後円融天皇とともに、正統性がない、というのが私の解釈である。 しかしさらにその次の後小松天皇は義満によって南北朝が合一したのちの在位期間には正統性がある。

南朝の後醍醐、後村上、長慶、後亀山天皇には正統性がある。

とまあ私の解釈ではこんな具合なのだが、 岩佐美代子の専門は玉葉和歌集と風雅和歌集であって、 このうち特に風雅集は光厳院が親撰した(1346)のだが、 このとき北朝は光明天皇、南朝は後村上天皇。 なので彼女は南北朝というややこしい時代に巻き込まれてしまう。

明治に「南朝だけが正統」とされて、光厳天皇が北朝とされ、 光明、崇光天皇の正統性まで否定されてしまったのは不幸なことであった。 だからと言って北朝のほうが正統だという主張はおかしいと思う。 というかそこで議論するのは不毛だと思う。 どっちの主張も同じくらいにおかしいから議論自体ナンセンスだ。

風雅集が無視されてきたのは、北朝の歌集だったからではない。 足利氏にとっては北朝の方が正統なわけだし、 足利幕府を継承する形の徳川幕府もまた北朝を正統だと思っていただろう。 少なくとも江戸時代初期までは、風雅集が北朝だからという理由で排除されたはずがない。 しかし江戸初期までに京極派は完全に廃れてしまっていた。 だから玉葉集も風雅集も、ほとんど無視されたのである。

南朝にも京極派以上に京極派的な歌人はいた。 後醍醐天皇や後村上天皇がまさにそういう歌人だった。 後鳥羽院はよくよく見れば単なる秀才であり、後醍醐天皇には及ばない。 後村上天皇は明らかに天才である。 岩佐美代子が後村上天皇の歌に一切言及していないのは惜しい。

前衛的・実験的・革新的な和歌というものは、いわゆる二条派とくくられる歌人の中にもいたわけである。 どちらかと言えば京極派のほうがより前衛的だったというにすぎない。 二条派と言われる正徹や細川幽斎もどちらかと言えば革新的で、京極派に近い。 京極派にも二条派にもマンネリズムに抵抗した歌人はいたのだ。

京極派からも、二条派からも、前衛は失われ、保守化していったのは、 やはり足利幕府の責任である。 足利将軍は和歌が大好きなので、 将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという勅撰集の量産体制が整った。 そしてこの三位一体の勅撰集量産体制こそが、和歌の独創性や創造性を殺してしまったのである。 足利将軍家は和歌音痴でもあった。 藤原氏も天皇家も足利に取り込まれてどんどん凡庸になっていく。 そして、応仁の乱によって足利将軍の権威が失われ勅撰集も編まれなくなると、 正徹のような個性的な歌人が生まれてくるのである。 尊氏から義政まではもっとも勅撰集が量産されたが、和歌の暗黒時代だった。

足利幕府は北朝側ではないか。 南北朝が合一した後もずっと京極派の歌集を作ればよかったではないか。 でもそうしなかった。 足利氏は歌が大好きだったが歌を詠む才能がなかった。 才能がないものに京極派の歌は詠めぬ。 天才でなくては京極派の歌は詠めぬ。 為氏・為世、頓阿あたりの、つまらぬ歌を量産した。 たまたま為氏・為世が二条家の血筋だったので二条派と呼ばれたのだが、 ようするに凡夫の歌が二条派ということになってしまった。 ただそれだけなのだ。 香川景樹などはかなり京極派に近い。

わかりやすい例をあげると、俵万智の歌は、結局は俵万智にしか詠めなかった。 俵万智をまねした凡百の歌人たちの歌はただ現代語で歌を詠んだというだけ。 ただそれだけでは優れた歌にはならない。 京極為兼もまた俵万智と同じ。 凡人は形式を踏んだ方が良い歌が詠める。

玉葉・風雅集が北朝なので無視されたというのはまったくの被害妄想だ。少なくとも江戸時代までは。 明治・大正・昭和期には、たまたまそうであったかもしれない。 宣長が京極派を嫌っていた理由はもしかすると京極派が北朝だったからかもしれない。

古今、新古今と来て、和歌から次第に即興性や写実性が失われ、形式的な堂上和歌となっていく過程で、 玉葉・風雅は異質すぎた。 凡人にはまねできないのだ。 凡人は参考書を読まなければ歌は詠めないのだ。 尊氏は北朝だから、京極派の歌を詠まねばならなかったはずだ。 しかし尊氏には二条派的なつまらぬ小心翼々とした歌しか詠めなかった。 歌を自分で詠んでみたらわかる。 京極為兼みたいな歌を詠むにはそうとうな自信と才能が必要だ。 才能というより霊感。 理屈ではない。 ほんとうに良い歌は理屈で説明できないところから生まれる。 尊氏はおそらく理屈でしか歌を詠めない人だった。 おそらく歌の才能はまったくないが歌が好きで好きで仕方なかった尊氏には為兼のまねは不可能だった。 尊氏の子孫たちも彼にならっただろう。

岩佐美代子の理論では、 後醍醐天皇や後村上天皇が京極派的であり、尊氏以下の足利氏が二条派的なのはなぜかということを説明できまい。

いずれにせよ北朝だけが正統だ、という主張も、南朝だけが正統だ、という主張と同じくらいに間違っていると思う。

岩佐美代子という人も自分では和歌を詠まぬ人だったらしい。 彼女の父などは良く歌を詠んでいたようだが。

彼女は永福門院の歌が好きらしい。 例として挙げてある歌はたしかにすべてすばらしい。 岩佐美代子が「木々の心花の心」で主張していることはまことにもっともである。 定家だって貫之だって俊頼だって京極派的な歌は確かに詠んでいるのである。 どんな二条派的な歌人だってひとつや二つは京極派的な歌は詠んでいるはずだ。 俊成や西行や実朝や為家を京極派的ということもできる。 尊氏は全然京極派的ではない。 それを見分ける能力は岩佐美代子にはあると思う。 ただ私は永福門院よりかは京極為兼の歌にひかれる。 やはり岩佐美代子は女であり、私は男だからだろうと思う。

玉葉集は為兼が、風雅集は光厳院が選んだのだが、 玉葉集はプロの歌人が選んだので風雅集よりもずっとできがよい、 などと言っているのは面白い。 伏見院もそんなほめてない。そりゃそうだろう。 まあ、まともなのは為兼と永福門院くらいであとの京極派の歌人にそんな影響力のある人はいない。 だから自然と衰退してしまったのは仕方ないだろう?

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文学全集を立ち上げる

08.31.2014 · Posted in 和歌

以前に京極派 で、丸谷才一は京極派というものがまるでわかってないんじゃないかと疑いを持ったのだが、 この「文学全集を立ち上げる」という本を読んでますます疑念は深まった。

日本文学全集に古今集と新古今集と風雅集と玉葉集を入れるという。 なぜよりによって21代勅撰集からこの4つを選ぶのか。

p124

三浦 「玉葉」「風雅」は「新日本古典文学大系」にも入っていないでしょう?

丸谷 あの二つはいまだに虐待されているだよ。なぜ虐待されるかというのは、二つ理由が考えられる。一つは、折口信夫が絶賛したから(笑)。

三浦 本当の話ですか(笑)。

丸谷 それと、あの二つは北朝の文学なんです。「風雅」は明らかに北朝、「玉葉」も北朝の色が濃厚ですね。国文学者たちは北朝には触れたがらないんだよ。

鹿島 いまだにそんなことがあるんですか。

丸谷 少なくとも僕は、そうなんじゃないかなと思うんだ。岩佐美代子さんのように、「北朝が正統なんだということを政府ははっきりせよ」と言う学者もいる。でも、男の国文学者でそんなこと言う人は誰もいないんだよ。国文学者はつまり官僚なんだもの。仕方ないさ。

つまり丸谷才一は「玉葉」「風雅」は北朝の勅撰集で虐待されている。 北朝が正統だと言っているのは岩佐美代子くらいで男にはいない。 だから男の自分がやってやる、そう言っているだけにしか読めないのである。

一応丸谷才一は京極派を研究している岩佐美代子という人を知っているらしい。 しかしほんとに理解しているのだろうか。 岩佐美代子が北朝が正統だなどとほんとに主張しているのか。 そう言いたいのは丸谷才一だけなんじゃないのか。 南朝とか後醍醐天皇とか楠木正成とか太平記が嫌いで抹殺したいだけじゃないのか。 当時の二条派とか京極派とかいうコンテクストを無視して単に政治的理由で北朝を応援したいだけなんじゃないの?まさに邪道。

丸谷才一という人はやっぱり和歌なんて何もわかってないんじゃなかろうか?

「玉葉」「風雅」が異端視されたのは、京極派だからだ。 伝統を破壊する、前衛だったからだ。 主流は保守的な二条派に収束していった。 なぜ二条派が主流になったか。 北朝が正統でなく、南朝が正統だからなのか? そんなこと考えてた江戸時代までの国学者は一人もいないと思う。 宣長はそんなこと一言も言ってない。

ついでに皇統の正統性 というのも読んでみてほしい。

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対句と対聯

08.31.2014 · Posted in 和歌

聯という字が我々にほとんどなじみがないように対聯という概念も日本人には希薄だと思う。 対聯は五言排律のような比較的長い漢詩にのみ使われる用語であり、 律詩や絶句くらいしか親しみがない日本人にはよくわからん世界である。

対聯は二句だけでも成立し、中国では今も門の左右に掲げたりする。

八股文の股というのも聯であり、 すなわち八股文とは四つの対聯を胴体とする文章というのに他ならない。 対聯が三つの六股文というのもあり得る。

八股文には頭と尾がついている。五言排律とまったく同型である。 このことについては「帝都春暦」に詳しく書いておいた。 八股文と五言排律のアナロジーに気づいたのが私が初めてだとはとても思えない。 中国の文学会ではすでに定説なのかもしれぬ。

対句というのは二字でも時には一字でも成り立つものだが、 対聯はたいてい五字、さもなければ七字とか八字などである。

このように対聯というものは中国文芸には非常にポピュラーなものだが、 日本文芸ではほとんど発達してないと言って良いと思う。 古今集仮名序の 「人の心を種「よろづの言の葉」とか、 「花に鳴くうぐひす」「水に住むかはづ」とか、 「力をも入れずして天地を動かし」「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とか、 「男女のなかをもやはらげ」「猛きもののふの心をもなぐさむ」 は典型的な対句だが、 これはおそらくは真名序の 「託其根於心地」「発其華於詞林」とか 「動天地」「感鬼神」「化人倫」和夫婦」が原型であろうと思われるのである。 当時の人々には文芸を論ずる言葉がなく、漢文を参考にするしかなかったと思う。

しかるに後世になると、 連歌というものが流行りだして、一つの歌が上の句(発句)と下の句(付句)に分かれた。 これはある意味非対称な対聯と呼び得るものであるかもしれない。 さらに発句は三つの句でできているから、 音楽に二拍子と三拍子があるように、 俳句はある種対句を発展させたワルツ形式の句構成であるかもしれない。 そう考えると俳句の意義というものがわかった気がするのである。

日本人は、干支や陰陽五行説のようなものを、外来思想として受け入れつつも、 そういう完全なシンメトリーというものを忌避する傾向があると思う。 七五調のような非対称なものが逆に安定すると考えている。 阿吽の形相なんかも対称の中にも非対称をもたせている。 右近の桜、左近の橘なんかもそうかもしれん。 夫婦岩も非対称だ。

日本人の場合はそれをさらに発展させて、 生け花でいうところの天地人とか真留体などの非対称な三角関係を安定していると考える。 同じことは庭石の配置にも言えるし、俳句の句の配置にも言える。 これは決して完全に等辺な正三角形のようなものを言うのではない。 キリスト教における三位一体説とはよく似ているがまったく別種の発想から来るものだ。 日本人はシンメトリーとかトリニティーというものを意図的に排除する傾向がある。

和歌というものは、近世の日本人好みの非対称三角関係というものにはおさまらぬ。 形も無くぐにゃっとしたものだ。 正岡子規は最後までそれが理解できなかった。

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和歌の詠み方

08.09.2014 · Posted in 和歌

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。

私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。 奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、 つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。 しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、 それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。 そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。 新しい言葉を造ることは凡人には無理である。 なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。 正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

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安積

07.26.2014 · Posted in 和歌

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。 安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。 「反る」は「せる」。 安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美み知ち乃の久く能の 安あ太だ多た良ら末ま由ゆ美み 波は自じ伎き於お伎き弖て 西せ良ら思し 馬め伎き那な婆ば 都つ良ら波は可か馬め可か毛も

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。

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山家心中集

07.24.2014 · Posted in 和歌

岩波書店の全集あるいは岩波文庫などでは、 勅撰集は定家の新勅撰集まででそれ以後の歌集がほとんどない。 8代集以降の21代集やら数々の私家集は、確かにおおむね退屈だが読まなくて済むものではない。 特に私は最近、正徹に注目しているのだが、詳しいことはほとんどわからない。 禅宗とも関連がある。 こういう人がいるからうかつに何も大したことのなかった時代では済まされない。

鎌倉後期京極派の玉葉集、風雅集に関しては岩佐美代子氏による精細な研究書があるが、 他はほとんどうち捨てられ、 鎌倉時代や室町時代の和歌などどうでもよいというような状態である。 唯一、角川国歌大観があるのみと言ってよい。

時代がずっと下って江戸後期や幕末の歌人、 たとえば香川景樹や小澤廬庵などは全集に採られているものの、 やはり江戸時代、特に、後水尾天皇や細川幽斎の時代の厚みが無い。

それはそうと「山家心中集」を見てみると、「山家集」とくらべて歌の配置がずいぶん変わっていて、 詞書きも略されている。 「山家集」から誰かが抜き書きし配列し直したものだといってよい。 特に注目すべきは、あの有名な「ねがはくは」の歌がずっと巻頭のほうに移動していて、 「花」が「さくら」特に「やまざくら」としか解釈しないような配置になっているということだ。 これがまあ後世の西行の見方なのだが、 すでに鎌倉期成立の「心中集」においてすでにそのような形になっていた、 もし「山家集」が失われて「心中集」だけが伝わったら、 西行という人はよりわからなくなっていただろう。

西行は多作な人で当時から人気も高く、また自ら人に自詠を披露するのも好きな人だったようだ。 だから歌が残るのは当たり前だが、 「山家集」が自著かというのはあやしい。 かなり不親切な、雑多な寄せ集めのようにも思える。

「明治天皇百首」というようなごく短いものを書こうと思うのだが、 なかなか書けない。難しい。 私は明治天皇御製から和歌を学んだので、 明治天皇を師として私淑したわけで、 その批評をするというのは非常におこがましい気がする。 しかし、私以外の誰が明治天皇の歌の真価を広く知らしめられようかと思うと、 いずれ書かぬわけにはいかないとも思う。 明治天皇の歌を評価するということは、 ありのままの明治天皇と一人の人間として向き合うということだ。 明治大正の歌人たちにはそれが恐れ多くてできなかった。 しかたのないことだ。 天皇の歌を知るということは人としての天皇を知ることだ。 誰かがやらねばならない仕事だとは思わないか。

人気記事の順位で言えば明治39年が一番アクセスされている。 日露戦争が終結した年だ。 なるほどみんなそこが好きなんだなあと思う。

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