亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘漢詩’ Category

漢詩

03.04.2012 · Posted in 漢詩

毛沢東の七言律詩 人民解放軍占領南京。 少し面白い。

七言律詩は一二四六八で押韻し、初句は押韻してもしなくても良いらしい。 二句目だけ「江」で、残りは「陽」。 「江」と「陽」はいわゆる通韻ではない。 「江」と通韻できるのは「東」「冬」だけ。 「陽」には通韻がない。 しかし現代中国の普通語では「江」は第一声の -ang、「陽」は第二声の -ang、 平仄としてはどちらも平声なので、だいたい同じ、ということなのではなかろうか。 などと考えてたら、上のリンク先にはさらに詳しい解説があった。 「詞韻」としては許容されているのか。 なるほど。

「慷慨」を「慨而慷」としたのはまず音を三つにしなくちゃならなかったのと、 「慷」で押韻したかったのと、あとは平仄を合わせるためだろう。 なんかかなり苦心しているのがわかってほほえましい。

律詩では三四句と五六句が対句になっていなくてはならないらしい。 なんか八股文(というより四股文)みたいだな。 頭があって、尾があって、真ん中に四つ足があり、それぞれ対になっている。

「虎踞龍盤」とはつまり「竜虎盤踞」、「天翻地覆」とは「天地翻覆」と言いたいのだろう。 入れ替えたのはたぶん平仄を合わせるため。これはまあ、対句と言えば対句かもしれない。 しかし、「宜將剩勇追窮寇」と「不可沽名學覇王」が対句になっているだろうか、はて。

なんかわかってくるとなかなか楽しい。

森鴎外は漢詩がうまかったのではないかと思い、いろいろ探してみているが、 数はあるようだが、なかなか感心するものがない。

開釁当年事悠々
滄桑之変喜還愁
誰図莽草荒煙地
附與英人泊萬船

たとえばこれは香港をテーマにしたものだそうだが、「滄桑」と「莽草荒煙地」とはつまり同じことを言っているわけで、 くどい。 どうもうまい詩ではない。 ルートヴィッヒ二世やガリバルディを詠んだ詩もあるが、あまりぱっとしない。 なんでこんな詩をわざわざ作ったのか、 それよか、夏目漱石の漢詩の方がまだ漢詩らしくて良い。 あと、大正天皇の一番有名な漢詩「遠州洋上作」だが、

夜駕艨艟過遠州
満天明月思悠悠
何時能遂平生志
一躍雄飛五大洲

悪くないが、「一躍雄飛五大洲」は西郷隆盛の「豪氣將呑五大洲」の焼き直しに過ぎないし、何より「州」と「洲」で押韻するのは少し苦しい気がする。 明らかに西郷隆盛の方がずっと詩のできが良い。 大正天皇が21才で皇太子の時に作ったものを伊藤博文が新聞に掲載したというのだが。

でまあ、思うのだが、明治時代の人たちはばんばん漢詩を作ったのだが、 それは今我々が漠然と想像するように、 明治の文人(あるいは武人)たちが今より遙かに漢学の素養があった、からではあるまい。 彼らは彼らなりに努力したのだ。 しかも、今は学問も整備発達しているから、江戸時代や明治時代くらい漢文や漢詩を作れるようになるのは、 それこそ英語や中国語などの語学を習得するよりはずっと簡単なはずだ。 明治時代と今では教養のレベルが違うんですよ、とわかったようなことを言われて、 はあそうですか、と何もしないうちから諦めてしまっている。 江戸時代ってずいぶんヒマがあったんですね、漢詩なんていう役に立たないものをもてあそんでられるなんて、我々はそんな悠長なことはやっておれない、と。

暗記力や詩才で官僚を登用したから中国は衰退したのだとか、科挙のせいにされるのも、 同じような理屈だ。 『儒林外史』を読むとわかるが、単なる文人墨客は科挙には通らない。 定型文、今で言うところの公式文書やビジネスレターのようなものがきちんと書けるかどうかが見られたのだ。 事務官が持つべき能力としてはしごく当然なものだ。

今の人が漢詩を作れなくなったのは単に戦後民主主義教育のせいだと思う。 あとはやはり時代が動いているから面白い詩ができやすい。 動乱の渦中にいるから内容が奇抜だ。 頼山陽を教えず、乃木希典や西郷隆盛などの、血糊の付いた日本刀を振り回しているような詩を教えない。 ただ唐詩選の有名な詩ばかりみていては、永久に詩は作れるようにならない。 江戸・明治の文人たちの詩の方がずっと親近感があり、自分たちも作ってみようかとか、自分にも作れるのではないかという気になる。

それに今は便利なあんちょこ本がなくなってしまった。 詩韻の分類表とか。 漢和辞典はまったく漢詩を作るのに向いてない。 和歌に類題集があったように、漢詩にもそういう作詩のとき参考にするための解法集があったのである。 たぶん、毛沢東も使ったのに違いない。

定型詩や文語というものが、ぞんざいに扱われ、まるで現代語の自由詩の方があらゆる点で勝っているとするのが今の風潮だ。 そんなことはない。人間、四十年五十年も生きているとだんだんコツがわかってくる。 高校生にいきなり作らせるのは無理かもしれんが、ある程度知識が蓄積された中年以降のオヤジにとって、老後の楽しみくらいにはなる。

まったく同じことは和歌にも言えるのであって、万葉集、古今集、新古今集の和歌、小倉百人一首の和歌ばかりみていても、 けっして和歌は詠めるようにならない。 明治・江戸時代にいくらでも良いサンプルがあるのに、惜しいことだ。

漢詩を学べば中国語習得の参考にもなる。 実用性だってないわけではない。

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病中偶成

03.01.2012 · Posted in 漢詩

漢詩は推敲し始めると止まらない、ということがよくわかった。 漢詩の作り方の本など熟読。 日本人は直感的に漢詩の良し悪しを判断できない。感覚的に作れないから、どうしても規則にこだわってしまう。 こだわらざるを得ない、ということもわかってきた。 みんな律儀に平仄を守っている。

怏怏無聊病者憂
坊中起臥似俘囚
迎秋不覚秋風冷
窓外只看雲片流

題もつけてみた。「病中偶成」とはしゃれである。さんざん推敲したのだから。

だいぶ完成形に近づいた気がする。 夏目漱石が病気中の詩をいくつか作っていて参考になる。 先達はあらまほしきかな。

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十年磨一劍

02.28.2012 · Posted in 漢詩

劍客 賈島

十年磨一劍
霜刃未曾試
今日把似君
誰爲不平事

「十年磨一劍」は頼山陽のオリジナルではなかったということか。

ただ、「遺恨十年、磨一劍」とアレンジしたところはうまい。

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未だに推敲してるのだが

02.28.2012 · Posted in 漢詩

病度両月兪益憂
起臥無聊似俘囚
迎秋不覚秋風冷
窓外只眺片雲流

ふと、終わりの行が李白の詩に酷似しているのに気づいてしまった。

故人西辭黄鶴樓
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空盡
惟見長江天際流

無意識のうちに真似てしまったのだなあ。

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入院一ヶ月経過して作った詩

10.29.2011 · Posted in 漢詩

臥病一月過無聊  臥病一月無聊に過ぐ

安穏起居似幽囚  安穏として起居す、幽囚に似たり

迎秋不覚秋風冷  秋を迎えて秋風の冷たきを覚えず

窓外只眺片雲流  窓外、只、片雲の流るるを眺む

「囚」はqiu/ であり、「流」は liu/ であって、現代の普通話でも韻を踏んでいるし、 また平水韻表ではどちらも平声の「尤」だから、間違いなく韻は踏んでいる。 ただ、平仄はでたらめだ、というか確かめてない。 平仄の規則は極めて難しく、普通話ではもはや崩れてしまっているし、現代の日本人がわざわざそこまで考えて漢詩を作るのは無理というか無意味なのではないか。 ちうわけで、二句と四句を押韻するくらいで許してもらえないか。

しかし、今時、漢詩をガチで自作している人はどのくらいいて、そのうちどのくらいがものになってるのか。

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押韻に絶望する

09.21.2011 · Posted in 漢詩

十載夢飛巴里城
城中今日試閑行
画楼涵影淪綺水
士女如花簇晩晴

これは、成島柳北がパリを訪れたときに作った漢詩だが、行と晴が、一見押韻してないように見えるが、 いずれも韻字は庚であり、`ing と発音する。 まったく見当もつかない。 しかし、調べてみると柳北の漢詩で押韻がいい加減なものは、滅多にないようだ。

韻はしかも、現代中国語の発音とは違っていることもあるようだ。 従って、機械的に、ともかく一字一字韻を暗記しなくてはならないということになる。

日本語と日本文化 成島柳北。 少し詳しい。

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09.04.2011 · Posted in 漢詩

「濹」という字を林述斎や鳥居耀蔵らが勝手に作って「濫用」していたのはちょうど天保の改革の頃、 大塩平八郎の乱の頃だった。彼ら父子が勝手に使っていただけで、鳥居耀蔵が配流になってからは、 誰も使っていなかったのを、幕末維新の頃になって成島柳北が詩文などに使うようになり、 明治初期にやや流行った、つまり他の人(おそらくは柳北が興した出版関係の人たち)も使うことがあったが、 柳北が死んだ明治17年以後は忘れられてしまった。 それを永井荷風が、昭和の226事件の頃にわざわざ復活させた。

漢詩や漢文では「隅田川」などとは書かない。「墨水」「墨江」などと書く。 荻生徂徠は「澄江」と書いたなどと『濹東綺譚』にはある。 墨にさんずいをつけて「濹」とすれば一字で隅田川を表せて詩文的には非常に便利だ。 たとえば「濹上」は隅田川のほとり、「濹東」は隅田川の東岸の地、となる。

こういうことは漢詩にはよくある。淀川を「澱水」と書いたり、大阪城を浪華の城として「華城」と書いたり、 江戸城を「江城」、江戸を「江都」と書いたり、箱根を「函嶺」と書くようなもの。 こういう趣味は現代にはほとんど伝わってない。 江戸時代の漢詩など高校漢文では扱わないしな。

こういう文芸趣味は特に旗本の儒者に流行ったのだろう。 それを永井荷風がむりやり小説のタイトルとして復活させた。

寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋の東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、濹上となすには少し遠すぎるような気がした。依ってわたくしはこれを濹東と呼ぶことにしたのである。濹東綺譚はその初め稿を脱した時、直ちに地名を取って「玉の井雙紙」と題したのであるが、後に聊か思うところがあって、今の世には縁遠い濹字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。

という説明もあるので、ただ、「濹」という字をタイトルに使ってみたかっただけではなさそうだけど。

武総相接墨水流 武総 相い接して 墨水流れ
江都西方仰富嶽 江都 西の方(かた) 富嶽を仰ぐ
曾駐徳川八万騎 曾て駐す 徳川(とくせん)八万騎
今唯看是作夷郷 今唯看る 是れ夷郷と作(な)れるを

相変わらず、まったく押韻してない、めちゃくちゃな漢詩。そのうちこそっと直そう。

さらに思うのだが、永井荷風はたくさん小説を書いているはずなのだが、なぜこの『濹東綺譚』だけが、 後世にももてはやされ映画化もされたのだろう。 ふーむ。なんとなくだが、戦後の大衆映画に、ちょうどふさわしい内容だったからだろうかなあ。 戦前の深川とか向島とか、玉ノ井とか、そういう焼けてしまった風俗の世界への郷愁というか。 ついでに昔書いた『濹東綺譚』感想文(笑)。

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鳥居耀蔵

09.04.2011 · Posted in 漢詩

永井荷風は、『濹東綺譚』の後に「作後贅言」として、長い長い後書きを書いている。そのほぼ冒頭

濹の字は林述斎が墨田川を言い現すために濫りに作ったもので、その詩集には濹上漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。 幕府瓦解の際、成島柳北が下谷和泉橋通の賜邸を引払い、向島須崎村の別荘を家となしてから其詩文には多く濹の字が用い出された。それから濹字が再び汎く文人墨客の間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。

林述斎というのは大学頭・林羅山から八代目の林家当主。その著書を調べてみると、 嫡男で林家を継いだ林檉宇(ていう)と、三男の鳥居耀蔵と共著となっているものが多い。上述『濹上漁謡』がそうで、他に『家園漫吟』がある。 著者名に「溝東老圃」とあるのはそのうち誰だかわからんが、この三名のうちの誰かだろう。

で、鳥居耀蔵という人が Wikipedia では大人気であって、「蝮の耀蔵」だの「讒言」だの「妖怪」だの、さんざんな言われようである。 Wikipedia でここまで一方的に悪人として記述してあるのは珍しい。 数多くの小説にも取り上げられていて、一番著名なのは、童門冬二『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』というものらしい。

この鳥居耀蔵というのは、実父は林述斎だが、鳥居家に養子に行って、ここが2500石の旗本、というからかなり立派な家柄だ。 南町奉行になっている。確かに、2500石ももらっていれば町奉行くらいにはなる。

ときに天保の改革で老中は水野忠邦。 鳥居耀蔵は、この江戸末期の商品経済が高度に発達した江戸の町というのが大嫌いで、徳川家康の時代の武家の都に戻したいと考えていたという。 言いたいことはわかる。大塩平八郎の乱も、旗本がぐずぐずに腐敗していたので、それをただそうとしたのだ。 事実、幕府は、鳥居耀蔵やら大塩平八郎などの改革者の努力むなしく瓦解してしまう。 大塩平八郎だってその第一に言っていることは、家康公の遺訓を旗本らが守っておらずけしからん、もっとしゃんとしろということだ。 ほんとうは、洋学を取り入れ、商品経済を積極的に容認し、経済も政治ももっと自由化していかなきゃ、という方向にもっていくべきだったのだろうが、 そんなことを思いつくやつが、天保年間にどれくらい居ただろうか。 結果論だよな。 江戸後期の貨幣経済と商業都市の発達は、アジアの中では日本だけで起こった、驚くべき奇跡的現象である。これなくして維新も西洋化も成功しなかった。 しかし、その価値をきちんと理解し理論化できる人は当時ほとんど居なかっただろう。

ときに北町奉行はあの遠山金四郎。遠山という奉行は実際には大したことはやってないはず。ただ講談などでやたらと庶民の味方の良いやつに仕立て上げられているだけだろう。 天保の改革で水野忠邦のもと厳しく庶民を取り調べた鳥居が悪役にさせられ、大したことはやらなかった遠山が正義の味方になった、ということではないか。 Wikipedia でこんだけ人気なのは明治に入ってからも、よっぽど講談などで遠山金四郎の敵役として有名だったのに違いない。

また、大塩平八郎の乱では、大塩をおとしめるために、鳥居が有りもせぬ罪状をでっちあげたのだそうだ。 しかしそれも幕府の役人であれば仕方のない仕事ではないか。

他にも高島秋帆をいじめたとか、蛮社の獄の中心人物で蘭学者を弾圧したとか。 失脚して丸亀藩に明治維新で恩赦に逢うまで二十年間も預けられっぱなしになった。 その間、耀蔵は医学の心得もあって何千人もの庶民を治療したそうだ。

交市通商競イテ狂ウガ如ク
誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ
後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ
神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン

Wikipedia にある彼の漢詩を見るに、 「狂」「望」「郷」が押韻しているようだ。 彼が洋学を弾圧したかどうかはともかくとして、攘夷論者、国粋主義者であったことは間違いないようだ。 ここに書いてあることは事実だ。江戸が東京となって五十年も経つとまったく異国のようになってしまったのだから。

幕府が倒れて旗本はみな駿府藩に転封になったのは事実であって、それを予期できたのなら、当然、 旗本八万騎の中からなにかしらの改革が、それもかなり痛みをともなう改革が行われねばならなかった。 多くの旗本たちは知ってて自堕落な暮らしをしていたのだろう。 危機感を共有できてなかったのだ。

Wikipedia に

明治元年(1868年)10月に幽閉を解かれた。しかし鳥居は、「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせた。

などと書かれているが、まともな幕臣というのはそうしたものである。ちっともおかしくない。 永井荷風も幕臣の末裔だから、同じようなことを言うだろう。 小野田少尉だって似たようなことを言っていたではないか。

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感を書す二首

08.22.2011 · Posted in 漢詩

『勝海舟全集20 海舟語録』を読んでいる。これには和歌集と漢詩集もついている。 勝海舟の全ての和歌と漢詩が収録されているとはとても思えないが、多少役には立つ。

勝海舟は、文久3(1864)年11月10日に軍艦奉行を罷免されてから、慶応4(1868)年1月17日、戊辰戦争の直前に海軍奉行並に戻される間、 閑職にあって、その時に和歌や漢詩を学んだという。 慶応2(1866)年には、徳川慶喜の命で第二次長州征伐の停戦交渉に赴いたりしているが、慶喜が勝手に停戦してしまったので、 怒って江戸に帰ったりしている。 わずか三年ほどの間であり、そんな短い間に和歌や漢詩ができるようになるはずもないから、前から多少の素養はあり、 明治になってからもいろいろ勉強したのに違いない。

安政6(1859)年、丙寅(1866)、丁卯(1867)、戊辰(1868)などが初期の漢詩ということになる。 こないだ、なんでも鑑定団で勝海舟の書というのが200万円で出ていたのだが、 それは戊辰戦争の頃、江戸城の全権を任された時に作った詩だというので、 それらしいのが掲載されていた。

誰教大鼎弄群児 誰か大鼎をして群児に弄ばしむる
只見蒼生苦荊岐 ただ見る蒼生の荊岐に苦しむを
嗚呼吾主高義家 嗚呼、吾が主は高義の家
如何憤怨及我私 如何ぞ、憤怨の我私に及ぶを
古往今来已如此 古往今来、已にかくのごとし
上下千年任天知 上下千年、天知に任す

※大鼎 天下の大権 ※荊岐 悪臣

壮士決戦不顧死 壮士戦を決すれば死を顧みず
此際豈亦容毀誓 この際、豈に亦毀誓(きし)を容れんや
錦旗飜風函嶺巓 錦旗風に飜(ひるがへ)る、函嶺の巓(いただき)
湯城殺気紊綱紀 湯城の殺気、綱紀を紊(みだ)す
丈夫報恩他有需 丈夫、恩に報ゆるに、他に需(もと)むる有り
救此蒼生答天子 此の蒼生を救ひて天子に答へん

※毀誓 悪口 ※函嶺 箱根の山

湯城というのは、ちと意味がわかりにくいが、ここでは天子の討伐の対象となっている江戸城のことであろうか。 血気にはやって官軍と一戦交えるのでなく、江戸の街と人民の秩序と安全を保つのが天皇への報恩だと歌っていると解釈されるのだが。

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寂室元光

08.22.2011 · Posted in 漢詩

寂室元光という人の漢詩がけっこうしびれる。 もっと他にはないのだろうか。

不求名利不憂貧 名利を求めず、貧を憂へず
隠処山深遠俗塵 隠処は山深く、俗塵に遠し
歳晩天寒誰是友 歳晩天寒く、誰か是れ友なる
梅花帯月一枝新 梅花月を帯び、一枝新たなり

風撹飛泉送冷声 風は飛泉を撹(みだ)し、冷声を送る
前峰月上竹窓明 前峰に月上(のぼ)り、竹窓明かなり
老来殊覚山中好 老い来たりて殊に覚ゆ、山中の好(よ)きを
死在巌根骨也清 死、巌根に在りて、骨也(また)清し

借此間房恰一年 この間房を借りて恰も一年
嶺雲渓月伴枯禅 嶺雲渓月、枯禅に伴ふ
明朝欲下巌前路 明朝巌前の路を下らんと欲す
又向何山石上眠 又何れの山に向ひて、石上に眠らん

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