亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘雑感’ Category

02.21.2018 · Posted in 雑感

池田雅延氏 小林秀雄を語る。 リンク先のMP3ファイルはもう落とせなくなっている。 自分のPCの中に残っていたものを改めて聞いてみた。

小林秀雄の芸

57:00 あたり、「美しい花がある、花の美しさがあるのではない」という陶然とするような言葉に、読者は酔って、小林秀雄についてきたのだけど、 こういう言葉はしょせんは「読者に読んでもらおうという一心で書いた工夫」に過ぎないという。 読者サービスであってその言い回しそのものには大して意味はないのだ。

となれば白洲正子などはその読者サービスの文句ばかりを拾い読みして、読んだ後にそれらの狂言綺語を覚えているだけで、小林秀雄が言いたかったことは何もわかっていなかったということではなかろうか。 小林秀雄は『本居宣長』を書くときにはとにかくもう宣長を精しく解き究めることに夢中で読者サービスを忘れた。 というより、もう晩年で、読者も獲得済みだったから、とにかく宣長を書くことで精一杯だった。 だから白洲正子が『本居宣長』を読むと、小林秀雄の言葉が並んでいるのはわかるが、ただの作文に過ぎず、読み終わると何が書いてあるのか全部忘れてしまう、ということになるのだろう。

小林秀雄は批評家と言われ、評論家と言われるが、彼の文章は言わば「芸」であったから、美術館の中でまだ誰の作品とも知れない絵を前にして、

熟れきった麦は、金か硫黄の線條のように地面いっぱい突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の縁に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思へば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた。

などという体験をして、それを回想する形でゴッホの評論に書いている。 「旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた。」というのは小林秀雄の主観以外の何物でもないわけで、 「旧約聖書の登場人物めいた影」などというものをゴッホは自分の絵の中に描いてはいないのである。

『本居宣長』も、小林秀雄は宣長を批評しようと書いているよりは、彼の作品を鑑賞して、それを自分の文章という「芸」で著そうとしているのだから、 普通の人が書く本居宣長論と違ってくるのは当然なわけだ。

小林秀雄はさきに『実朝』『西行』を書いているから歌論というものが一応書ける人なわけだ。その延長線上で『宣長』を書いているから『宣長』が書けたのだと思う。

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01.26.2018 · Posted in 雑感

服道楽というわけではないのだが、最近、靴もズボンも服もどんどん増えてきて、仕方ないのでハンガー買ったり、業務用のハンガーラック買ったりしている。 ハンガーラックは今まで寝ていたシングルベッドの上に置くことにして、布団は寝るたびにリビングに敷くことにした。わざわざクローゼット一部屋用意するなんて贅沢なことはできないんでね。

一番大きな原因は、実家から父や祖父の服をもらってきたせいだ。めちゃくちゃ多い。

最近、古着をちょくちょく買うようになったのも原因かもしれない。

年を取ると自然と服が溜まってしまうせいかもしれない。そう、服は、捨てないとたまる一方なのだ。

もう一つ、年を取ると、役職とかのせいで、フォーマルな服とか、カジュアルな服とか、フォーマルとカジュアルの間くらいの服とか、いろんな服が必要になり、また、服に合わせてズボンや靴も買わなくてはならない。 それまで結婚式や葬式用の礼服、仕事用のスーツ、それ以外は適当な服。で済んでいたのが、仕事用も普段着も何種類も持つようになった。 若い頃は部屋の中を占領するものといえば、本とCDだったのだが、今は服がいちばんかさばる。 そして服は毎日使うものだから、てきとうにしまっておくと探すのにてまがかかって仕方ない。 だからもう諦めてハンガーラックにかけておくことにしたのだ。 ズボン用のハンガーも10個まとめ買いした。 定年退職したら、仕事用の服はすべて不要になる予定だが、それまでは服に埋もれてなきゃならないようだ。

基本的に私は革靴しか履かないのだが、 茶系統が好きだが黒も要るので、 カジュアルな革靴(茶)、少しフォーマルな革靴(茶)、フォーマルな革靴(茶)、フォーマルな革靴(黒)、雨の日用のブーツ(合皮、茶)の5種類を持っている。これら、実はブーツ以外はみんなアマゾンで買ったのだ。 そのほか、ゴム長靴、上履き(スリッポン)みたいなやつ、下駄、雪駄、オタフクの健康サンダルなどを持っている。 けっこうな靴持ちではないか。 だが、どれも状況に合わせて必要なのである。

帽子も最近はよくかぶるようにしている。まあしかしこれは趣味だな。

三十年前、高校生や大学生の頃から持ってる服や鞄というものはざらにあるわけだし、箪笥の肥やしというが、服は増えるわけだよなあ。

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01.08.2018 · Posted in 雑感

心臓に持病持ちなのだが、最近ときどき急に気分が悪くなることがあって、 心臓のせいかと思ったが、そうではなさそうだ。

もともと汗っかきなのだが、急に大汗をかいて、そのとき体内の水分が足りないと脱水状態になる。 こうなるともう立っていられない。水を飲んでもすぐには回復しない。 電車の中で揺られて立っているときになりやすかったのだが、 今回歩いていてもなった。 汗をかいたときにすかさず水分補給をするべきなのだろうが、なかなかそれは難しい。 やはり朝食をきちんと採るというのが正解なのかもしれない。特に外を出歩くときなどは。

空腹というのは不思議なもので、あれは体調にはほとんど影響がない。 ただ精神的に非常に辛いだけだ。

ほんとに腹が減っていると、私の場合には立ちくらみという形で現れる。 そういうときはしかたないのでフルーツグラノーラかなにかをかじる。

ほとんどは心臓とか、心臓のために飲んでいる薬のせいではないという気がしてきた。

コレステロール値を下げるには体重を減らすしかない。 体重を減らすには炭水化物を減らすのが一番効果的だと思う。

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恵方巻き

01.08.2018 · Posted in 雑感

恵方巻きの何が不愉快かと言えば、それが日本の伝統を偽装し、迷信を人々に植え付けているからだ。

別に商業資本が憎いわけじゃない。かれらの商売を邪魔したいわけではない。 やりたきゃ勝手にやればいい。 廃棄が大量に出るってことにも別に私は文句を言う気にならない。 チョコレート売りたいがためにバレンタインデーをはやらせるくらいは別にどうでもよい。 それはあくまでも舶来の食べ物と文化を利用しているだけだからだ。 キリスト教徒がバレンタインデーを冒涜するなと怒るかも知れないが、私には関係ないこと。

恵方巻きが昭和頃に大阪の遊郭ではやった下品な遊びだ、それを復活させるんだというなら、やれば良い。 そのくらいなら私もしゃれでやるかもしれん。

しかしまじめくさって日本の伝統行事みたいにやられちゃ腹が立つではないか。

私は基本的に六曜とか陰陽道系の迷信が大嫌いなので、その匂いがきつい恵方巻きとかもう虫酸が走る。 せっかく明治政府が太政官令で迷信を根絶しようとしたのに。

そんなに方角が好きなら、平安時代みたいに方違えでもしろよと言いたい。バカだろ。

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除夜の鐘

12.17.2017 · Posted in 雑感

除夜の鐘はなかった?~江戸町人の研究

除夜の鐘というのは、そんなに古いものじゃないと思うし、 無理に残すほどのものではないと思うなあ。

入相の鐘とか暮れ六つの鐘というものはあっただろう。

除夜の鐘というものができた当初から108回も叩いてたわけはないと思う。 108回なんてただのこじつけに過ぎない。叩きすぎ、うるさすぎなんだよな。

除夜の鐘にしろ年越し蕎麦にしろ、むやみやたらと日本の伝統というものをありがたがるのは決してコンサバティブでも保守でもない。 ほんとうに古くて良いものだけをありがたがるのが正しいコンサバティブというものであり、 そのためには、必ず、それはほんとに古いものなのかどうか疑ってみる理性が必要なのだ。

除夜の鐘はフェイクコンサバティブだと思うね。 あんなものはね、冷静に考えればただの迷惑だったことがわかるよ。

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12.03.2017 · Posted in 雑感

11月30日に出版開始してそれからさらに書き足してしまい、211枚まで増えてしまった。 私の場合どうしても出版した後にも修正したり書き足したりしてしまい、 しかもキンドルは改版するのが難しいから、出ました、とはなかなか宣伝できない。

でも読んでもらいたい気持ちはあるから、ツイッターなどで告知したい気もする。

一応完成はしているが未完成なのだ。

今あらためて『エウメネス1』を読み直すと幼稚だ。 『エウメネス』を最初に書いたのはもう4年前だ。 あの頃はアリアッノスの『アレクサンドロス大王東征記』だけ読んで、イッソスとガウガメラはある程度知っていたが、 その後のゲドロシアのところが面白かったので、そこを切り取って書いたのだった。 今『エウメネス5』を書いているが、これはアリアッノスだけでなく、ヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンなどいろんな歴史書を少しずつつまみ食いして補完して書いているのである。 もちろんウィキペディアとかペルセウスとかその他の文献も見ているが。 当時と今では知識量がまるで違う。 私は4年前、ほとんど何も知らずに書いていた。 4年前の私に『エウメネス5』を読ませたらどんな気持ちで読むだろうか。 まったく予測がつかない。

『エウメネス1』の頃の私はわりと読者目線に近かったと思う。 ふつう読者はエウメネスを知らないからエウメネスを知ろうと思ってエウメネスの本を読むわけだ。 私もエウメネスを知らずにエウメネスを書いていた。

今の私は読者目線にはなれようがない。著者としてしかエウメネスを見れなくなってしまっている。 どちらが良いともいえない。 著者としては今の私のほうが優れているはずだが、読者にとっては、自分に近い目線の人が書いたもののほうが面白いはずだ。

『エウメネス1』を書いたとき私は傑作を書いたつもりでいたが、今見るとなんとも物足りない。 あの頃はあの80枚をものすごい努力で書いたのだった。 今は200枚くらい平気でかける。 いろんなエピソードを挟んだり、架空の人物を登場させることで、いくらでも分量を増やすことはできるようになった。

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アンティオキア湖

11.23.2017 · Posted in 雑感

アンティオキアはセレウコスの父アンティオコスにちなんでセレウコスが建設した都市だが、 もともとここにはアララハという古代都市があったが、セレウコスの時代には廃墟になっていたと思われる。

アンティオキアはオロンテス川が流れ込み、流れ出す、アンティオキア湖のほとりにあった。 今は灌漑されて小さくなったが、かつてはもっと大きな湖であったはずで、したがって、イッソスからハルペへ行く途中はこの湖を迂回せねばならなかったはずだ。

google maps で地形を表示すると真っ平らなので、かつてこの平原が湖であったことは明白である。

イッソスからアンティオキア湖まではかなり急峻な山道を通らねばならない。

オロンテス川は大地溝帯の北端に当たっていて、このアンティオキア湖はその地溝帯の谷間にあったのである。 地形的にはイスラエルの死海やガリラヤ湖と同じ。

タプサコスの渡し場のあたりは、地形図で見ると平地ではなくて山地になっている。 エウフラテスの川幅が狭まっている箇所ということだろうと思う。 川の中に中州というか島がある。 ここに舟を並べて舟橋にして渡ったのであろうと思う。

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イッソスからタプサコスまで。

11.23.2017 · Posted in 雑感

クセノフォンの『アナバシス』に、 ミュリアンドス Myriandros という地名が出てくる。フェニキア人が住むシリアの海辺の町。ここはイッソスのアレクサンドリア、今のイスケンデルンである。 商業の中心地とある。

ミュリアンドスを出て行程4日、20パラサンゲス(1パラサンゲスは30スタディア、5.4km)でカロス川についた、とある。 このカロス川というのは、今のアレッポの町の中を流れるクウェイク(Queiq) 川であるという。 従ってこのカロス川が流れる町はアレッポ、古代の呼び名で Khalpe となる。 ハルペの住人は魚と鳩を食べないとある。 これはおそらく魚はダゴンの使いであり、鳩はイシュタルの使いであるからだ。 ダゴンはもともとはフェニキア人の神であり、それもハルペ南西55kmにあったエブラという町の主神であったろうと考えられる。 ハルペ住人がダゴンを信仰していて魚を食べなかったのはほぼ間違いないように思われる。 日本語のウィキペディアには、ダゴンはヘブライ語由来だと書かれているのだが、そんなことはない。 ダゴンはクトゥルフ神話で有名だが、これはラヴクラフトが適当に考えた世界観である。

鳩を食べないというのは、おそらくイシュタル信仰のためだ。イシュタルは鳩が好きで、自らも鳩の姿をしている。 それゆえイシュタルの羽根と足は鳩のものなのだ。

クセノフォンの『アナバシス』はヘロドトスの『歴史』に比べると描写がずっと具体的である。

カロス川から行程5日、30パラサンゲスでダルダス川に着くとあるが、 これは al-Bab という町を流れるDhahab 川 であろう。

ダルダス川から行程3日、15パラサンゲスでタプサコスに着く。

とまあ、こんな具合に、 アリアッノスの『アナバシス』でわからんところはヘロドトスやクセノフォンなどを参照していろいろと肉付けしているのである。

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10.24.2017 · Posted in 政治

比例代表というのは、まあこれは、大選挙区制だわな。 昔は中選挙区制で、そのために、自民党が第一党となって、その他の野党がたくさんできるという状態ができた。 そんで、小選挙区制にすれば野党が結集して二大政党制になりやすいからってんで、 小選挙区制にしたわけだが、 小選挙区制では死に票が多いから比例代表と合わせ技にすることにした。

その結果として、自民党に対抗する野党として民主党ができた。 コンサバティブとリベラルの二大政党制になりかけていた。 実際、民主党が政権を取ったことがあった。 そのこと自体はまあ悪いことじゃないと思う。 民主党は護憲、労働者寄りであって、 自民党は改憲、資本家寄りである、という対立があって、政権交代があって、政策の調整が行われるのは、まあ全然悪いことじゃない。

ところがまあどうしたことでしょう。 今回の選挙結果は中選挙区制だった頃のような野党構成ではないか。

小選挙区制が自民にだけ利益を与え、 結集できなかった野党が互いにつぶしあった。 しかしリベラルが一つにまとまれないってことは民主党をみればわかりきっている。 なぜまとまれないかってことはやはりマスコミが口出しするのが悪い。

政策でまとまれないから、安倍政治を許さないとか、そういう個人攻撃でしか共闘できないのだ。 バカではないか。

今の選挙制度で勝負する前提でみんなやってるわけで、 負けたから選挙制度のせいにするのはゴールを動かそうとしているのと同じ。 そのゴールは民主党政権の時代からそこにあったものだ。 自民党から民主党へ、そしてまたもとの自民党へ。政権交代が起きやすい、振れ幅が大きいのは小選挙区制だからだ。 すべては想定の範囲内のことだ。 政治的安定を求めるのであれば大選挙区にすりゃよかろう。 しかしその場合与党が弱体になりやすいという不安定要因は生まれるのだが。

小池百合子はマスコミに持ち上げられて落とされた。 ある意味かわいそうな人だ。 彼女は本来、自民党には良くいるタイプの普通の保守、普通の右翼だった。 ところが都知事に担がれた頃からおかしな具合になって、さらに希望の党なんてものを立ち上げてますますおかしくなった。 小池百合子を持ち上げたマスコミは、彼女が調子に乗ってまったくマスコミのいうことを聞かなくなったので叩き落とすことにした。 結局彼女は踊らされただけだったのだ。 石原慎太郎ほどの個性も自我もなかったのだろう。 サッチャーやメルケルとは比べようもない。

こんな具合にマスコミが政治家をいじくりまわすのは主にリベラルで、 保守の連中はわりと身内で固まっていて、 マスコミに操られることが少ないと言える。

もしマスコミがまったく口を出さなかったらリベラルの中からまっとうなリーダーが現れてきちんと意見調整するのかもしれない。 ともかく日本のリベラルは大同団結できない。 マスコミはただ引っかき回すだけ。

みやねやが「偏向報道というの、やめよう」などと言ったらしい。 みやねやがどういう人かは知らない。あまりみてないので。 しかしマスコミの中では比較的まともな人かもしれない。 リベラルの意見だけを尊重して番組作りをすることはあろう。 それは必ずしも偏向報道とは言い切れない。まあその程度は許容範囲だからだ。 マスコミにそれ以上のことを求めても無駄だ。 多くのマスコミがポジショントークしかしないってことで、 ポジショントークをポジショントークと見抜けないで公平中立な報道だと思うのは見てるほうが悪い。 むしろなんでこいつらはこんな極端な報道をするのだろうかとその裏を読まなくてはならないのだ。 そういうこともまた我々インテリの仕事だ。

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10.22.2017 · Posted in 雑感

年を取ったせいで怒りっぽくなっているのは間違いない。

酒を飲んだときに特に感情が振れすぎる気がする。 記憶の無いときに何をしでかすか怖くてしかたない。

それと関連してなのだが、どこに何があるか完全に把握してないと不安で仕方なくなって、 ささいなもの(折りたたみ傘や筆入れなど)でもなくすことが恐ろしい。 一つなくすときには他のものもなくしている可能性があるからだ。

それでまあ、 社会を変えようとか自分が所属している組織を変えようなんてことはこれからもう一切考えずに、 なにごともたにんごとで受け流して生きていこうと思う。 何か腹が立ったり反論したくなってもやらない。 正義感とか使命感などというものは怒りっぽくなった年寄りには害悪でしかないのだ。

最近、スーツを着てネクタイを締めていると精神的に楽なことに気付いた。 体を締め付け拘束していること、 また、世間一般から見て真面目なかっこうをしていることによって、 自制心が働きやすくなるからではないかと思う。

外へ出るとき、仕事へでるとき、スーツを着てネクタイを締め、何事にも心を動かさず、 後に残さず、内に溜めず。 そうやって何事も穏便に、無難に、無気力に生きていけば良いのではないか。 そしてネクタイピンや腕時計や靴に凝ろうと思う。 紳士のかっこうをして紳士になりきるのだ。

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