heidi 1-3-1

Auf der Weide

牧場で

Heidi erwachte am frühen Morgen an einem lauten Pfiff, und als es die Augen aufschlug, kam ein goldener Schein durch das runde Loch hereingeflossen auf sein Lager und auf das Heu daneben, dass alles golden leuchtete ringsherum. Heidi schaute erstaunt um sich und wusste durchaus nicht, wo es war. Aber nun hörte es draußen des Großvaters tiefe Stimme, und jetzt kam ihm alles in den Sinn: Woher es gekommen war und dass es nun auf der Alm beim Großvater sei, nicht mehr bei der alten Ursel, die fast nichts mehr hörte und meistens fror, so dass sie immer am Küchenfenster oder am Stubenofen gesessen hatte, wo dann auch Heidi hatte verweilen müssen oder doch ganz in der Nähe, damit die Alte sehen konnte, wo es war, weil sie es nicht hören konnte. Da war es dem Heidi manchmal zu eng drinnen, und es wäre lieber hinausgelaufen. So war es sehr froh, als es in der neuen Behausung erwachte und sich erinnerte, wie viel Neues es gestern gesehen hatte und was es heute wieder alles sehen könnte, vor allem das Schwänli und das Bärli. Heidi sprang eilig aus seinem Bett und hatte in wenig Minuten alles wieder angelegt, was es gestern getragen hatte, denn es war sehr wenig. Nun stieg es die Leiter hinunter und sprang vor die Hütte hinaus. Da stand schon der Geißenpeter mit seiner Schar, und der Großvater brachte eben Schwänli und Bärli aus dem Stall herbei, dass sie sich der Gesellschaft anschlossen. Heidi lief ihm entgegen, um ihm und den Geißen guten Tag zu sagen.

ハイディは朝早く、大きな口笛の音に目を覚ました。目を開くと丸い明かり窓から黄金の光がベッドや傍らの干し草の上に差し込んで、すべてが黄金色に光っていた。ハイディは驚いてあたりを見回し、自分がいったいどこにいるのかわからなかった。だがおじいさんの太く低い声が外から聞こえてくると、ハイディはすべてを思い出した。自分がどこから来て、おじいさんと山の上の牧場に住んでいて、もうウルゼルばあさんのところに預けられてはいないということを。そのおばあさんはほとんど耳が聞こえず寒がりでいつも調理場の窓か居間の暖炉のそばにいて、耳が聞こえないから、ハイディがどこにいるか目でみてわかるようにその子をいつも自分の目の届く範囲にいさせた。ハイディにとってそこはあまりにも狭苦しすぎて、しばしば外に飛び出してしまいたくなった。なので、その子は新しい家で目を覚まし、昨日どれほどたくさんの新しいことを経験し、今日もまた見ることができるということが、特にシュヴェンリとベルリに会えることがとてもうれしかった。ハイディは急いでベッドから飛び起きて、昨日着ていた服に着替えたが、大して着込むわけではないので数分で済んだ。それからその子はハシゴを急いで駆け下りて、小屋の前へ飛び出した。そこにはペーターが山羊の群れを連れてきていて、ちょうどおじいさんがシュヴェンリとベルリを家畜小屋から連れ出してペーターに預けるところだった。ハイディはペーターと彼の山羊たちのところへ行き、挨拶した。

デーテ 15. 姪の出戻り

 ある日いきなり朝早くゼーゼマンさんから呼び出しがあって、これはハイディが何事かしでかしたかと、お叱りがあるのかと思い、あわてて訪ねて行ったら、「ハイディが山が恋しくてホームシックのあまり夢遊病になってしまった」と言われたのよ。ハイディも姉のアーデルハイトと同じ夢遊病の気があったということなのかしら。

 最初は、フランクフルトで白パンを買って一日で山に帰るなんて駄々をこねていたけど、案外ハイディもクララと一緒に町の暮らしに慣れて楽しんでいるとばかり思っていたわ。そりゃあ、よそ様のおうちで、ロッテンマイヤー女史に監督されて、厳しくしつけられたりして、多少は窮屈だったかもしれないけど、まさかそんなくよくよと思い悩んで、ほんとうの病気にまでなってしまうなんて。なんて手間のかかる子なのでしょう。

 ゼーゼマンさんは、ものすごい剣幕で、「今日すぐにも引き取って山に返して欲しい」というのだけど、あまりに急な話で私はどうしていいのかわからなかったわ。だって私は毎日シュミットさんの事務所でニューギニア植民地に最近開設した出張所と連絡をとりあって、東アジアや太平洋の島々の物産を仕入れるのに忙しくって、一日たりとも職場を離れることはできなかったし。それに、いったんハイディをアルムおじさんに押しつけて、それを無理矢理連れ出しておいて、親戚づきあいもこれきりだからもう二度とくるなと言われて、もののはずみとはいえど、おじさんに散々あることないこと悪態ついてけんか別れしておきながら、またしてもこの子をおじさんのところに連れて行くなんて、私の面目も丸つぶれで、どうにもつらくてやりきれないと思いました。

 ああ、こんなことなら親切心をおこしてハイディを世話してあげなければ良かったと思ったわ。ハイディのためを思えばこそ、やってあげたことなのに。

 そこで仕事が忙しくて今は離れられないなどと、とやかく言い訳をしたの、実際私も仕事に何日も穴を空けてハイディを山に返しにいくなんて時間の余裕もなかったのだけど。

 ゼーゼマンさんは、「これはハイディが悪いのではなく、自分の家の不始末でハイディが病気になったから山に返して療養させたいのだ。シュミットさんには私から事情を説明するから、君はともかくも早くハイディを連れていってくれ」と言うのだけど、私の立場にしてみれば、せっかく紹介した姪が、ご奉公先をしくじって、里に出戻りになるのを連れ帰るようじゃないの。

 私のアパートは、狭くて人の出入りの多い騒々しいところだから、私がいったんハイディを身請けして、フランクフルトで一緒に暮らすことは、とうてい無理。ハイディは山に帰りたがっていて、一刻も早く返さないと病気がおもくなるというし。

 ともかく途方にくれてしまったわ。

 それで私が姪を引き取りたくなくてごねているようにみえたのかしら、それともなんとなく私の気持ちを察したのか、ゼーゼマンさんは私をそのまま帰してしまわれたの。だけど、そのあと召使いのセバスチャンという人にハイディをアルムおじさんのところへ送り返させたそうよ。それからハイディが山でどうなかったかなんて恥ずかしくて誰にも聞けないし。うまくやっていればいいけど。

 みんなは私を、紹介料ほしさにゼーゼマンさんにハイディを売り渡したとか、ハイディをやっかいもの扱いしてアルムおじさんに押しつけたとか、まるで私ばかりが悪いように言うけど。私のことを理解したうえでみんな非難しているのかしら。親も兄弟もみんな死んでしまって、身寄りと言えば七十過ぎの変人のじいさんと四才の子供だけ。

 子供の育て方だって誰かに教わったわけでなく、毎日悪戦苦闘しながら覚えていったの。ほんとに、人には言えないようなつらいことがたくさんあったのよ。私は針仕事ができるから一人でならいくらでも生きていけるし、良い人がいれば結婚だってしたいのに、姪っ子のハイディのためにどれだけ自分の人生を犠牲にしてきたかわからないわ。私には、ハイディの保護者としての責任があるのよ。文句があるならハイディを養子にもらってから言ってもらいたいわ。

 ああ、なれるものなら、私がハイディのようなお気楽な身分になりたいものよ。三食昼寝付きの文化的な都会暮らし、高級料理に豪華なお屋敷、一家の主と同じ待遇で召使いにはかしづかれて、その上勉強までさせてもらい、何不自由なく暮らせるけっこうなご身分なのに、わざわざトイレもお風呂もない山小屋の不便な暮らしがしたいなんて、酔狂が過ぎるというものだわ。

 

 

 ずいぶん長い女の問わず語りを聞かされたものだ。俺も仕方なく、夜が明けるまで話に付き合ってしまった。彼女が語って聞かせた、いろんな身内話を、俺は半分も理解できなかったが、普段胸につっかえていたことを洗いざらい吐き出して、彼女も満足だろう。

 朝が来てバーテンダーに店を締めますと言われたときには、彼女も、俺もすっかり酔いが醒めてしまっていた。

 あらもうこんな時間、私の話どう、面白かった、続きはまた今度あったときに話してあげるわ、などと言う。勘定を済ませて、二人連れ立って店を出ようと、地上に出る階段に足をかけると、彼女はさすがに足元をふらつかせ、俺はとっさに彼女の腕を取って助けてやる。二日酔いでつらそうだ。

 外はもう通勤客たちが忙しそうに歩いている。俺たちもこのまま仕事に向かわないと。彼女は一度も振り向かず、まぶしい朝の街路の中に紛れて、どこかへいなくなってしまった。なるほど、お互いフランクフルト住まいだし、デーテという名前も、勤務先も教えてもらったのだから、彼女にはまたいつでも会えるだろう。しかし、次に会ったとき、彼女は俺のことを覚えてくれているだろうか。


後書き

この作品はヨハンナ・シュピリ著『ハイディ』と『フローニの墓に一言』2作を参考に再構成したものです。

デーテ 14. 姪をドイツのお金持ちに紹介

 ゼーゼマンさんとこの娘、クララという子が、子供の頃から病弱で、片足が悪く、いつも車いすに乗って暮らしていたの。ゼーゼマンさんの奥さんは、クララを産んですぐに亡くなってしまい、ゼーゼマンさんはいつも仕事でお屋敷には不在がちで、クララはフランクフルト一というくらい大きくて立派なお屋敷で、たった一人で家庭教師に勉強を習っていたけど、一緒に住み込みで遊び相手ともなり、勉強仲間にもなれる友達を、ロッテンマイヤーさんというゼーゼマン家をきりもりしている女性の執事の方が、探していたのね。

 ロッテンマイヤー女史は、「かわいらしくて古風な趣のある、」「気高く純粋で、」「地面に触れもしない澄んだ山上の空気のような」「スイスの娘」をご所望だった。それで、スイス出身の私に、ご主人様のシュミットさんを通じて打診があったのよ、親戚や知り合いに、そんな娘の心当たりはあるまいかと。

 どうも彼女は、なにやらスイスの娘というものを勘違いしているようね。本物のスイスの娘というものは、山羊や牛や羊たちと一緒に、野山を駆け回る、獣と土と藁の混ざったような匂いのする、黒々と日に焼けた山女のようなものなのにね。でもまあ、私の脳裏にそのとき浮かんだのは、あの山の炭焼き小屋におじいさんと二人きりで置いてきた、姪のハイディのこと。あのあわれな境遇にいるハイディを、もしかしたら救い出すことができるかもしれないってことでした。

 私はさっそくゼーゼマンさんのお屋敷に伺って、ロッテンマイヤー女史に面会させていただいたの。私がハイディのことを色々と、あることないこと良い具合に紹介すると、ロッテンマイヤーさんも、まったく望み通りのすばらしい子のようだから、是非会ってみたいとおっしゃってくれて。それで私は早速シュミットさんにおいとまをいただいて、ハイディを山から連れてくることにしたのよ。

 ハイディは八才になって、とっくに小学校に行かなきゃいけない年になっていたのに、アルムおじさんはハイディを学校にもいかせず、毎日雌山羊の世話ばかりさせていたの。雌山羊というのは、牛や雄山羊と違って、小柄で非力な獣なので、子供や女が世話をするものなのよ。

 それでハイディをゼーゼマンさんに紹介しようとしたのだけど、アルムおじさんはなんだかんだとわけのわからないことを言って怒るし。それで私、カッとなって、おじさんには「祖父のあなたと、叔母の私と、どちらが正当なハイディの養育権があるか、出るとこに出て争ってもかまわないのよ。裁判でおじさんの味方をする人が、一人でもいると思う。裁判になって、ドムレシュクで財産失ってやくざ者とつきあってたことやら、ナポリで傭兵やってたことや、どこの誰とも知れないおかみさんやその息子のことや、あれこれ昔のことを蒸し返されると、困るのはおじさんの方じゃないの。」なんてことまで言って、おじさんをかんかんに怒らせてしまったわ。

 どういうわけか、そんなやっかい者のおじさんにハイディはなついてしまって、山の暮らしにすっかりなじんでしまい、山を離れそうもないので、ハイディをうまくだまくらかして、山から連れ出した。途中、ハイディが仲良くしていた山羊飼いのベーターや、ペーターのお母さんのブリギッテ、それにペーターの目の見えないおばあさんまでが、ハイディを連れて行くのをものすごく泣いて嫌がったのだけど、ハイディの幸せを考えてあげてちょうだい、こんな山の中より、都会の方が絶対に良い暮らしが出来るのよ、と説得し、ハイディには、ペーターのおばあさんのためにフランクフルトで白パンを買って帰ってくるのだと思わせて、急いで山道を降りた。デルフリ村では誰も私とハイディを引き留める者もなく素通りして、マイエンフェルト駅で汽車に乗せました。何もかもハイディのためを思って無理を承知でやったことだったわ。

 何度も何度も乗り換えてはるばるフランクフルトまでハイディを連れてきたけど、そのままゼーゼマン家に連れていくわけにもいかないから、まず私がハイディのぼさぼさのくせっ毛にブラシを入れて、毛先を切りそろえてあげると、女の子らしいウェーブのかかったセミロングの髪型になった。それからつぎはぎだらけの古着を新調した服に着替えさせ、顔もキレイに拭いてあげると、姉のアーデルハイトにそっくりな、見違えるように愛らしい女の子になった。

 「ねえ、あなたもこれからは、毎日女の子らしく、髪の毛や身だしなみに気をつけるのよ、あんたはほんとうに母親譲りの器量良しだね、」

と褒めてやると、姪っ子は、鏡に映った自分の姿を見て、髪を手ぐしでかきなでながら、

 「あたしがいくらおめかししても、山羊飼いのペーターを喜ばせるだけだわ。」

と八歳の女の子にしては、おませな口をきいた。ちなみに、ペーターというのは、夏の間ハイディと一緒にアルムの牧場まで山羊を連れていく、ブリギッテの息子のことね。

 いよいよゼーゼマン家を訪れて、私とハイディの二人でロッテンマイヤーさんと面会すると、ハイディがクララより四才も年下なので、あやうく断られそうになったのだけど、むりやりハイディをゼーゼマンさんのところに預けておいてきたの。

 あの通りあのころのハイディときたら、山育ちの野生児そのもので、自分の名前もろくにいえないし、本も読んだことがないばかりか、字も読み書きできないし、テーブルマナーも人付き合いもまるでなってなくて、どうなることかとひやひやしたけど、風変わりでひょうきんなところが、遊び相手に面白くて退屈しないと、クララお嬢様ご本人に気に入られたらしく、旦那様のゼーゼマンさんや、老ゼーゼマン夫人にもかわいがられて、しばらくはうまくやっているようだったの。

 私は私で、フランクフルトの都会生活にすっかり浮かれはしゃいでいたわ。ドイツがプロイセン王国によって統一されて、帝政ドイツとなった矢先の好景気に当たってね。それまでは、ドイツ語を話す諸侯国があって、ドイツという国も、ドイツという国の国民もなかったの。彼ら新しい「ドイツ人」たちはみな毎日がお祭り騒ぎのようなものだったわ。私はスイス人だけど同じドイツ語圏の人間で、そんな中で、遅れて来た青春を思いっきり楽しもうと、限られたお給金から奮発して貴婦人のような服を買い、着飾って毎日おもしろおかしく過ごしていたの。

 ドイツはそれまでは小さな王国や自治体の集合体だったから、産業革命が発達しても、ドイツ民族としての国力が弱くて、植民地政策には出遅れていたのよね。それをプロイセン王国の鉄血宰相ビスマルクの力で、ドイツを統一して、一つの巨大な国内商圏というものが成立して、また中央集権と強力な軍事力を背景に、いよいよ世界征服と貿易に乗り出したというわけよね。ビスマルクは、髪の毛はちょっと薄いみたいだけど、ドイツにとってなかなか頼りがいのある人だわ。いずれ世界はイギリスとドイツの最終戦争に発展し、その暁にはドイツが世界の覇者になると思うわ。

 

 

 こいつは驚いた。スイス女のくせに、ドイツのいっぱしの愛国者のようなことを言いやがる。確かに今のドイツは旭日昇天の勢いだ。ナポレオン三世の第二帝政は、内政・外交ともずっと綱渡りの連続で、プロイセンの宰相ビスマルクによって画策された普仏戦争とそれに続くドイツの統一で、ボナパルティズムの化けの皮が剥がれてしまった。以後、共和主義者や復古主義者、ボナパルティストやオルレアニストなどの小党派に分裂して政治的には大混乱だ。もはや昔のブルボン王朝や帝政時代のような挙国一致の勢いはない。

 また、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世も、それからプロイセンのゴリ押しで始まった戦争で負けて、ヴェネツィアを取られたり、ドイツの同盟国や覇権を失ったりと弱り目に祟り目だ。ドイツの盟主の椅子から転がり落ちたオーストリアは、帝国経営に懲りることも無く、ハンガリーをますます弾圧し、やはり落ち目のトルコから、イギリスやロシアと同様にバルカン半島の領土を奪い取ろうとしている。フロンティアをヨーロッパの東や南に求めているんだろうが、苦肉の策といおうか、危ない火遊びだね。

 俺が生まれ育ったフランクフルト・アム・マインは、やはり普墺戦争の巻き添えを食って、それまではドイツ同盟の中で完全な自治権を持った、独立した自由都市だったのに、オーストリア側で参戦して敗戦国となったために、プロイセン王国の州の一つに併合されてしまったのだ。俺が十七歳の時だったが、当時は結構ショックだったなあ。

 イタリアも念願の統一国家建設を果たしたが、勤勉実直な北イタリア人に、因循姑息で狡猾なローマ人、退廃的享楽的な南イタリア人が、一つの国にまとまるのは容易じゃあない。古代ローマの再現などまず無理だ。

 昔日の世界帝国、インドはすでにイギリスの手に落ちた。残るトルコと中国の解体によって欧州の世界征服は完了する。トルコにしろ中国にしろ、インド同様余命いくばくもないのは一目瞭然。トルコはロシア、オーストリア、イギリス、フランスに蚕食されていくだろう。ドイツの活路は南太平洋と中国しか残されていないが、その中国沿岸部にもすでにイギリスやロシア、アメリカ、フランスの覇権が及んでいる。我が国は中国とアジアの新興国日本との戦争に干渉して、中国沿岸部のどこかを租借し、そこを橋頭堡として内陸へ鉄道を延ばし、事実上の植民地とするだろう。イギリスが中東やインドでやっている手口だ。朝鮮と遼東半島にはロシアが進出し、イギリスはもっとも肥沃な南支那、上海から長江流域と、香港から広州一帯を押さえるから、わがドイツはおそらく山東半島に進出することになるはずだ。後進とはいえドイツはいかなる国の追随も許さぬ、世界一の先進工業国だ。その科学力・技術力・工業力と、勤勉な国民性をもってして、必要十分な植民地を獲得すれば、欧州のど真ん中を占めるドイツが、欧州全土を統べるだろう。欧州がドイツによって統一されたあかつきには、彼女の言う通りに、日の沈むことのない世界帝国・イギリスとの最終戦争に至るだろう。それだけは間違いない。

 

 

 まあ、それはともかくとして、私が働いている商社は、北海からフランクフルトの本社にいろんな物産を一旦集積し、それからドイツが誇る鉄道網でもって、全国各地や、オーストリアや、遠くはスイスやイタリアまで配送するのよ。

 ゼーゼマンさんやシュミットさんは、昔からの貴族階級の人たちではなくて、そういう新しいドイツという国で急速に力を付けてきた新興階級のようなものだから、古いことにはこだわりなく、新しいことが好きで、鷹揚でさっぱりとしたご性格で、ハイディのようにやんちゃでなんでも思った通り口にする子供がお好みらしいのね。でも、ロッテンマイヤー女史は、もともとヴェッティン家ザクセン・アルテンブルク公の家宰の娘だったそうよ。プロイセンによるドイツ帝国統一の過程で、実家がヴェッティン家ごと没落したので修道女になったのだけど、院長の紹介でゼーゼマン家の家庭教師になり、執事の仕事も任されるようになったそうよ。だから何事もお固くて、自由気ままなハイディのやることなすこと気に食わなくて、ハイディにつらくあたってしまうのよねえ。

 

 

 俺はそこでふと疑問を感じて、口を挟んだ、おや君はさっきシュミットさんのところで家政婦として働いている、と言っていたようだけど、今は、シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会の社員になったってことかい。

 

 ええ、そうよ。

 いえ、私もね、最初の一、二年は、シュミットさんのお屋敷で家の中のこまごまとした雑用に携わっていたのだけど、ご主人の貿易の仕事が猫の手も借りたいくらいに忙しくなってきてね。私も商社の事務所にヘルプで出るようになって。そしたら、私も文字の読み書きやお金の勘定くらいはマイエンフェルトの国民学校で習って一通りできるものだから、何かと会社の事務の仕事を手伝うようになったのよ。そうしたらご主人様から、その働きぶりを認められて、お給金もずっと上げてもらい、今ではすっかり事務所の専属職員として勤務しているというわけよ。毎日死ぬほど忙しくなったけど、充実していてやりがいのある仕事だわ。ずいぶん暮らし向きも楽になって、最初は住み込みの家政婦さんだったけど、今では一人できままに下宿しているのよ。仕事のストレスも増えた代わりに、遊びも人付き合いも派手になって、新しく出来たお店を仲間たちとあちこち食べ歩いて、お酒の味も覚えて、毎日飲むお酒の量もどんどん増えてしまったけど。

 まあそんな具合でね、私の人生、おおむね順風満帆で、フランクフルトの水にも慣れて、友達もたくさんできて、年が年だけに浮いた話は多くもないけど、都会暮らしを私なりに堪能し、姪のハイディのことは、すっかり忘れかけていた、その矢先のことだったわ。

デーテ 13. 都会の仕事

 母が亡くなった夏、 フランクフルトから、今お勤めしているシュミットさんのご一家が、はるばる汽車を乗り継いでラガーツに保養に来られたのよ。ご当主のシュミットさんと奥様とご子息。また、シュミットさんの伯母で、ゼーゼマン家に嫁いだゼーゼマン夫人。

 あなた、新聞記者だから、シュミットさんやゼーゼマンさんたちの御一家のをことを詳しく知りたいでしょ。私がしゃべったって言わなきゃ教えてあげるわ。

 昔、シュミットさんのお父さんやその兄弟たちは、まだこれからという若さで、癌を患ったり結核に侵されたりして亡くなってしまった。残された子供たちはまだ若い。

 ゼーゼマン夫人の旦那様もやはり貿易先のニューギニアでマラリアに罹って亡くなってしまった。ゼーゼマン夫人にはたった一人の息子、ゼーゼマンさんがいらっしゃったけど、この子もまだ若い。

 それでシュミット家とゼーゼマン家の長となったゼーゼマン夫人は、残された就学中の子供らを養育して、大学を卒業するまで面倒をみて、シュミット家とゼーゼマン家の合弁会社を作り、それを今日の規模まで大きくした。つまり、シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会はゼーゼマン夫人お一人で作り上げたようなものなの。ほんとうにゼーゼマン夫人は、男まさりの活動家で、商才のある方だと思う。そのかわり、いつもドイツ中、鉄道でせわしなく移動していらっしゃるのだけどね。

 実際、今のドイツというところは、いろんな新しい産業が興ってきて、どんな仕事を始めても面白いように儲けが出て、おばあさまのような人にとって、一代で財を成す絶好の機会に恵まれた国だと思うわ。

 ゼーゼマンさんも、シュミットさんも、統一ドイツの恩恵をうけて、ここ十年か十五年くらいの間に急に富裕になられたのよ。もともとフランクフルトはドイツ同盟経済圏の商品流通の拠点で、ここで商社を営んでらしたのだけど、ドイツが統一されてから、にわかに植民地経営が盛んになって、ハノーファー王国のハンブルクやブレーメンなどの、北海に外港を持つ町に支社を構えて、アフリカやニューギニアなどにドイツが新たに獲得した植民地や、さらにアジアの中国やインド、日本などとも船便で交易するようになった。

 今ではシュミットさんもゼーゼマンさんも立派に成長なさってそれぞれ仕事を継いでおられるので、ゼーゼマン夫人は、自分は自分で、好きな仕事をしたり旅行をしたりして、あまりフランクフルトの屋敷には居着かないで、悠々自適に暮らしていらっしゃる。

たまたまラガーツに保養所が開設したというのを聞き及んで、こちらまで甥のシュミットさん家族を連れて遊びにいらしたの。

 私がそのシュミット家の人たちの担当になってお世話してあげたらゼーゼマン夫人に気に入られちゃって、「あなたのようによく気がついて働き者の女性を是非うちで雇いたい、フランクフルトの屋敷で家政婦として働いてくれ」と言われたの。フランクフルトと言えばドイツ一の、いや世界一の大商業都市よ。私も山育ちで噂だけはいろいろ聞いていたけど、自分がそんなところに行くことになるとは、考えたことさえなかったわ。

 去年、ゼーゼマン夫人にお誘いを受けたときは、ラガーツの旅館に住み込みで働き始めたばかりで、ご奉公の支度金をだいぶ前借りしていたものだから、急には辞められなかったのだけど、その翌年の夏にもゼーゼマン夫人がまた温泉にきて、今度こそは一緒に来てくれっておっしゃるの。お給金も何倍にも増えるし、そもそもこんな田舎の湯治場で仲居の仕事なんかしてるよりは、ずっと楽しい暮らしができるよって。そのころには私も、こちらで借りていたお金をすっかり精算できるめどがたっていたの。やっと運が巡ってきたと思ったわ。

 でも、気がかりなのはハイディのことだった。私はゼーゼマン夫人に言ったの、「私にはハイディという姪がいて、その子を養わなくてはならないから、その子も一緒にフランクフルトに連れてきてもよろしいでしょうか、」って。

 そしたら、「一人子供が付いてくるくらいわけのないことだが、その子には他に身よりはないのかい、」と。

 私はお答えしましたわ。「祖父が一人おります、私の義理の叔父にあたります、」と。

 「そんならその子はそのおじいさんに育ててもらえばよい、あなたもいつまでもコブ付きだと、婚期を逃してしまうよ、おじいさんなんてのは、老い先短いのだから、孫娘の相手でもしているのがちょうどよい。あなた自身のためにも、その娘さんのためにも、そうした方がよい。その方があなたもばりばり仕事ができ、楽しく遊べて絶対良いから、」と。

 でまあ、私も生まれてずっと地味な山里暮らしをしていたから考え方もちぢこまってひっこみ思案になってしまっていたのだと思うけど、まあアルムおじさんに今更子育てなんてできるのかしらと不安もあったけど、ゼーゼマン夫人のおっしゃることはまったくもっともだと思った。ハイディは五才になってだいぶ世の中の物事も理解できるようになっていることだし。ハイディの実の祖父で、トビアスの父の、アルムおじさんがハイディの一番近い身寄りなのだから、もともとおじさんが養うべきだったのよ。これ以上私ばかりが苦労を背負い込むのは不公平というものだわ。おじさんも親族としての責任を自覚すべきよ。そんなふうに思えるようになった。

 デルフリの親戚や友達には大反対された。身内を捨て故郷を捨てて都会暮らしするってことが、田舎娘たちには理解できないのよね。特に、こちらの村に嫁入りしたばかりで、まだなんにも知らないバルベルという人には。あんないたいけな子を偏屈爺のところに置き去りにするなんて、あまりにもひどい仕打ちだなんて言われたけど。いったい何がわかるというのよ。人のうちの事情なんて、所詮他人様にはわからないものよ。

 アルムおじさんにも、もう顔を見せるなとまで言われたけど、姪のハイディのことを忘れたわけじゃなかったわ。だって私がもっと稼いでお金持ちになった方がハイディに良い思いをさせてあげられるし、落ち着いたらアルムおじさんのところから引き取ってまた面倒をみてあげようと思っていたの。

 そうして、ハイディを預けて、もとから少ない財産はすべて処分して、単身フランクフルトに移り住んだのよ。

デーテ 12. 姪と二人の暮らし

 話は戻るけど、遺された姉夫婦の子、姪のハイディを母と私が引き取ったのだけど、私はそのときまだ22才だったわ。いろいろ遊びたい盛りだったけど、贅沢なんて言えない状況だったの。姉夫婦が健在だったら、私も今頃はどこかの家に嫁いでいたに違いないわ。縁談の話もいくつかあったのだけど、うちにハイディという小さな子がいて、母は老い先短く、家にはたいした資産もなく、私と結婚するともれなくハイディもついてくる、という状況では、普通の殿方ならどうしても躊躇してしまうわよね。

 私の青春は、身内に引き続いた不幸のために台無しになってしまった。特にハイディという幼子のために。老いた母と自分を養うだけでもたいへんなのに、まだお乳を飲み、おしめもとれない子供の世話するのだから、ほんとうに毎日働いて食べていくだけで精一杯だったわ。

 そして、ハイディが4才のときとうとう母もいろんな苦労がたたって死んでしまった。

 母は、亡くなる間際まで私にハイディをくれぐれも頼むと言い残していた。ハイディの祖父のおじさんは山に引き籠もったきりになってしまい、みんなからは「アルムおじさん」と呼ばれるようになった。つまり、人里離れた山の牧草地に住んでる変人のおじさんという意味ね。もともと、ナポリ帰りの元傭兵で、凶状持ちだっていう噂だし、山に篭ってからは、村人たちはおじさんを完全に野蛮人か修験者扱い、私とハイディはその唯一の身寄りなものだから、私まで肩身が狭くて仕方がなかったわ。おじさんはおじさんで、人付き合いすると、悪いことばかり覚えて、何一つ良いことはないと、もう極力、下界との接触を避け、「神でも人でもないもの(自然の獣たち)」とだけつきあうようになってしまった。

 それで、おじさんはまったく当てにならないし。どうにも仕方がないので当時25才だった私が姪のハイディを一人で育てることになった。私がおじさんと違って村で信用があるのは、私がハイディを女手一つで立派に育てて、村のしきたりにしろ寄り合いにしても手を抜かず、きちんと真面目に暮らしてきたからよ。

 ずいぶん苦労しただろうねって、そりゃあ、いくらおしゃべりの私だって、言葉で尽くせないほどの苦労があったのよ。

 ハイディはおじさんや父親のトビアスによく似て、髪の毛は真っ黒なちぢれっ毛のもじゃもじゃ。瞳も真っ黒。でも目鼻立ちは姉のアーデルハイトに似て整っていて、肌も赤みがかった白できれいだわ。頭は良くて自分一人でおとなしく遊んでいるから、手はかからないけど、コブ付きでは私が働ける仕事も限られる。

 私のうちには、父が残してくれたデルフリの土地や屋敷、家畜など、わずかながら先祖代々の資産があって、父が死んだあとはそれを人に貸したり母が内職したりなどして、なんとか食べていけたのだけど、その遺産もとっくに食いつぶしてしまって、毎年返す当てのない借金が増えるばかり。なんとか利子だけは返して、頭を下げまくって返済を待ってもらうの。ああ、貧乏ってほんとに嫌なものね。デルフリでは食べていけるような仕事もないので、デルフリ村の父の実家や土地などはすでに借金の担保に押さえられていたけど、それも一切合切処分して、わずかばかりのお金に替えて、 ラガーツ温泉の大きな旅館で、住み込み仲居兼お針子として働くことにしたの。

 ラガーツはもと、ライン川を挟んだ、マイエンフェルトの対岸の、普通の石ころだらけの河原に過ぎなかった。タミナ川が深い渓谷を作って、ここラガーツでライン川に合流する。このタミナ渓谷に温泉が発見されたのは、13世紀の頃。道なき道の奥の崖の下に湧き出る秘湯中の秘湯。当初は、狭い崖の底へロープをつたって下りたのだそうよ。それでもその頃から大勢の人が、難病を癒すために、この湯治場を訪れていた。

 タミナ渓谷は、古来、プフェファース修道院の所領で、18世紀頃までに、タミナ渓谷の出口に当たるプフェファース村に、修道院が簡易宿泊施設付きの療養所を用意する。

 今世紀になって、いわゆる蒸気機関車というものが実用化され、私が生まれた頃に、ちょうどスイスでも州政府が民間会社に鉄道の敷設を認可し始めたので、スイス国内でもバーゼルからチューリッヒ、クールからサンクトマルグレーテンまでつながって、ドイツからバーゼルまで鉄道が延びてきて、最後にチューリッヒとサルガンスの間にも鉄道が敷かれたから、とうとうドイツ各地からグラウビュンデンまで鉄道で旅できるようになってしまった。

 そうすると、鉄道経由でやってくるお客様目当てに、線路沿いのラガーツまで木製のパイプラインでもって温泉を引いてきて、保養所やホテルを建てようって計画が持ち上がったの。

 ドイツの大手資本がどんどん進出してきて、当時世界で初めての温水プールなども作られたりして。まあ、源泉は36.5℃しかないから、パイプラインで引いてくるうちに冷えてしまって、温泉というよりは鉱泉に近いんだけどね。

 で、たちまちいっぱしのリゾート地のようになって、山育ちのスイス娘たちにも、女中や仲居に大勢募集があって、ここら一帯では一番の観光産業の拠点となって、あっという間に一つの大きな町ができあがったというわけなのよ。

 今やマイエンフェルトからフランクフルトまでは、ライン川沿いの鉄道を、夜行列車に乗って一晩で着くことができるようになったわ。なんて便利な時代になったのかしらねえ。スイスにも毎年大勢の観光客が訪れて、観光業がスイスの一大産業に数えられるようになったのも、この頃からよ。

 プフェファース修道院には、私みたいに、ラガーツで働く子持ちの女から、その連れ子を何人も預かって育てていた。ハイディの担当はウルゼルばあさんという、少し耳の遠い人。ともかくこの修道院があるから、私は安心してハイディを預けて仕事することができたの。プフェファースはラガーツから険しくうねった山道を一時間は登らないといけない。私は毎日朝から晩まで忙しいから、ハイディと会えるのは週に一度、二人で教会に礼拝に行く日曜日だけ、あとはウルゼルばあさんに、ハイディのことは何もかも任せきりにするしかなかった。

 でも、仕方ないでしょう。他にどんな方法があったというのかしら。どうやって2人食べていくか、全部自分で考えて、自分できりもりして。これまで無我夢中で生きてきたわ。

 みんないつも、物心つくまえに両親に死なれて、1人残されたハイディが不憫でならない、かわいそう、って、そればっかり言うけど、ほんとにかわいそうなのは私の方よ。うら若い、これからっていう娘が、結婚もしてないのに子育てと雇われ仕事に追われるなんて。ほんとうに私って絵に描いたような不幸な星の下に生まれたのね。気づいたときにはもう30過ぎの独り身のおばさんになってしまったわ。