デーテ 11. 叔父の帰郷

 ドムレシュクの人たちは、父さんが、ナポリではガリバルディの赤シャツ隊の切り込み隊長だったとか、シチリアでは悪虐非道の限りを尽くしたとか、私的な喧嘩で人を殴り殺したりとか、そのために軍隊を脱走したりとか、さんざん噂したのだけど、話には尾ひれがつくもので、実際には、そんなむちゃくちゃな行状はなかったのじゃないかなあ。何しろ父さんは工兵だったから、もっぱら後方支援に当たっていたのだと思うし。

 僕の生まれた年は、イタリア統一がなって3年後くらいだから、父さんが軍役を解かれて、まだナポリに滞在していた頃に僕は生まれたはずだ。でも、僕にはナポリの記憶がない。

 ナポリで経営がうまくいかなくなってから、僕たち親子は、イタリアのいろんなところをさまよった。父さんは、傭兵時代に知り合った、ピエモンテやロンバルディアの仲間たちをあちこち頼ったらしい。広い畑の中の町だったり、海のそばだったりした。でもいつも、僕がその土地に慣れるより前に引っ越してしまう。最後に大きな町、ミラノだと思うんだが、そこに着いたとき、「母さんはどうしてもスイスには帰りたくないという。だから母さんを残して二人でスイスに帰ろう、」などと父さんは言い出した。僕は、母さんと別れたくないと泣いて頼んだ。「母さん、父さんと一緒にスイスに行こうよ」僕は母さんにお願いした。そしたら母さんは「私と一緒にナポリに帰りましょう、トビアス。父さんは、どうしてもスイスに帰りたいというのだけど、私はイタリアを離れたくないの。」という。

 「母さん、僕と母さん二人きりでどうやって食べていくの。」そう聞くと、「スイスに帰ったって事情は同じよ。食うや食わずの生活をしなきゃならないんなら、スイスにいるよりイタリアにいるほうがずっとましだわ。」

 父さんは、とてもいらいらし始めて、「俺と一緒にスイスに来るか、母さんとイタリアに残るか、どちらか選べ」と言う。僕にはどちらも選べなかった。「ねえ、僕もすぐに大きくなって父さんの仕事を手伝えるようになるよ。僕が働けるようになるまでしんぼうして、ずっと三人で暮らそうよ。」僕はそういった。でも、父さんも母さんも、とても困った顔をして、黙りこくってしまった。

 その夜、母さんは、眠っている僕を起こして、「さあトビアス、服を着なさい、そして私と一緒に逃げよう。そしたら、父さんは一人でスイスに帰るでしょう。あんたが来なきゃ、私一人ででも、ナポリに帰りますよ。」そう言って、僕を連れ出そうとした。母さんは僕と自分の分の荷作りをしてすぐにも夜逃げする気だったんだけど、僕が母さんを引き留めて、母さんもその晩は諦めてしまった。

 結局父さんは母さんを無理矢理説得して、母さんはいやいや、僕たち親子3人は、アルプスをよじ登って、サン・ベルナルディーノ峠を越えて、ドムレシュクに戻ってきた。父さんにとっては2度目の帰郷、最初に故郷を出てから15年も経っていた。

 僕はといえば、初めて見る山国の景色に、僕には毎日が驚きの連続だった。

 スイスでの暮らしはやっぱり全然うまくいかなかった。母さんは子供の頃ずっと父親に糸車で糸を紡ぐ仕事をやらされていたんだけど、スイスに戻ってくるとやっぱりおんなじ仕事を朝から晩まで、来る日も来る日もしなくちゃならなかった。母さんはいつもナポリに帰りたがった。父さんと母さんの関係はギクシャクしていて、母さんは時々家出までして、しばらく家に戻らなかった。父さんはそのたびに癇癪を起こして母さんを殴った。そうしているうちに母さんは重い病気にかかってしまい、長患いした後、回復せず死んでしまったんだ。母さんにはまったく身寄りがなかった。親戚はみんな母さんより先に死んでしまっていたし、幼馴染みの友だちともまったく連絡を取っていなかったし、隣人に頼ったり助け合おうともしない人だった。なぜ母さんがそんな人だったのか、僕には良くわからない。ちょっと変わった性格の人だったことは確かだ。

 父さんはすっかり母さんに愛想を尽かしてしまっていて、母さんが勝手に病気にかかって死んでしまったと腹を立てて、お葬式もせず、お墓に墓標を立てることさえしなかった。まるで無縁仏みたいな扱いをされたんだ。

 母さんが死んで、みんなは父さんのせいで母さんが早死にしてしまったって父さんを責めた。そうなのかもしれない。でも僕には、父さんも母さんもどっちもどっちに見えた。母さんも父さんも意固地で聞き分けがなかった。父さんは人の忠告を聞かない人だけど、それは母さんも同じだ。実際、父さんは確かに癇癪持ちで厳しく、酔っ払うと暴れたけど、僕自身父さんから虐待を受けたとは思ってない。母さんは僕を嫌ってはいなかったが、僕をどう扱って良いかわからず、誰にも頼ることもできず、半ば育児放棄か、育児ノイローゼみたいになっていたと思う。僕は父さんも母さんも好きだ。二人がうまくやっていけなかったのはほんとうに不幸だったと思う。

 父さんもやはり1人で僕を育てることができず、途方に暮れて、ドムレシュクの親戚たちを頼った。ドムレシュクの人たちはみんな、父さんがいきなり目の前に現れて、まるで疫病神か亡霊を見るようで、若い人たちはもう父さんを知りもしない。年寄りばかりが知り合いだった。父さんは、浮浪者かと見紛うおちぶれようで、そのうえ、

 「この子が自分で働いて食っていけるようになるまで、しばらく預かってくれないか?今は俺も、このとおり落ちぶれて見る影もないが、そのうち何年かかろうと、金を稼いで、きっとお礼はする。」

と僕を親戚の誰かに預けて、自分はしばらく実入りの多い出稼ぎ仕事でもしようとしたのだけど、みんな父さんとこれ以上関わり合いになって面倒を被りたくなかったんだ。どこの家でも、ひどく冷たい仕打ちを受けたよ。父さんは

 「畜生、こんな田舎、もう二度と足を踏み入れてやるものか!」

とかんかんに腹を立てて、僕を連れて、さらに山を下って、グラウビュンデンのどんづまり、デルフリに住み着いたというわけだ。デルフリには僕や父さんの世話をしてくれる親戚もいなくはなかったし、父さんは、ヤギを飼ったり、ヤギの乳でチーズを作ったり、家具をこさえて売ったりしながら、村のはずれの掘立小屋で、自給自足に近い暮らしを始めて、僕を育ててくれた。父さんもデルフリを第二の生まれ故郷のように思って、それなりに気に入っているように見えた。

 それから何年かして、ようやく国民学校を卒業し、兵役にとられる年になると、僕はそのまんま傭兵にさせられてしまうところだった。父さんは、僕がただで手に職をつけるため、自分と同じように工兵にしたかったらしい。だけどスイスは連邦政府ができて、もう傭兵はやめようという流れになってきたし、僕はアーデルハイトとつきあいだしていたから臆病風に吹かれてしまい、彼女も父さんの話を聞くともう怖気をふるって、僕が戦争に行くのを嫌がったものだ。僕は結局、父さんや親戚、それからアーデルハイトの親に学費を前借りして、そのうち返すという約束で、メールスで徒弟になったんだ。

**

 とまあ、こんな具合に、トビアスは私に、おじさんが傭兵だった頃の話やヨーロッパの国際情勢のことやら、身の上話などを、たびたび話して聞かせたものだったわ。

 

 

 こいつは驚いた。身の上話から政治のことまで、よくまあ次から次へと、べらべら良くしゃべるスイス女だな、口から生まれたとはまさに彼女のことだと、俺はあきれたが、俺は、その話の腰を折ることもなく、辛抱強く、身内ネタばかりでわかりにくい彼女の物語りに耳を傾け、うんうんと頷きながら聞いてやった。

 なるほど、ソルフェリーノの戦いのことは俺も聞いたことがある。ちょうど俺が生まれて間もない、今から30年ほど前にイタリアであった戦争で、スイス傭兵という「血の輸出」禁止のきっかけともなり、またスイス人アンリ・デュナンによる赤十字運動の発端ともなった戦争だ。皇帝ナポレオンと諸大国の間で戦われたライプツィヒの戦いに次ぐ規模の、歴史的大会戦だ。

 トビアスという男、つまりこの女の義理の兄は、イタリア統一戦争の後に生まれたことになるから、今まだ生きていれば、やはり俺と同じくらい、30台半ばの年になっているはずだ。

デーテ 10. ガエータの戦い

 シチリア独立派たちは、王を擁立して、あくまでも北イタリア政府に抵抗するかまえを崩さない。彼らはシチリアやナポリの山岳地帯に竄匿(ざんとく)した。王フランチェスコと王妃マリア・ゾフィーが、ナポリを脱出して、ローマの南に位置するティレニア海に面した港町ガエータへ海路入ったと知ると、多くの戦士たちがガエータ要塞に集結した。

 王妃マリアの姉エリーザベトはフランツ・ヨーゼフの妻、つまりオーストリア皇后だった(エリーザベトとマリアは、いずれもバイエルン王家の傍系であるバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフと、バイエルン王女ルドヴィカの間の子)。マリアはしきりにオーストリアに救援を請うたが、フランツ・ヨーゼフは北イタリアの敗北に懲りて、動こうとはしない。マリアは要塞の中でみずから傷病兵を看護し、食料を分け与えて、ブルボン家を護る「戦う王妃」としてけなげに献身した。

 ガエータ要塞は海に突き出した地峡の先の岩山に作られた頑丈な砦で、当時欧州随一の難攻不落の城塞として名高かった。ティレニア海に洗われそそり立つ断崖に取り囲まれており、ピエモンテ艦隊の海からの砲撃では、ほとんど損傷を与えられない。チャルディーニ・ガリバルディ連合軍によって地峡側から激しい爆撃が加えられたが、四ヶ月間落とすことができなかった。爆裂弾の砲撃によって火薬庫が爆発するなどして、多くの死傷者が出た。何度も休戦や講和交渉が行われたが、しかし、籠城兵の戦意がゆるぐことはなかった。最終的に、フランス皇后ウージェニーから王妃マリア宛に送られた書簡によって、王と妃は王国退去を決意し、降伏することになった。

 こうして両シチリア王国はガリバルディがマルサラに密航してから十ヶ月、ナポリが落ちてから五ヶ月、とうとう滅亡した。王党派の残党が立て籠もったチヴィテッラ要塞も、王国滅亡の一ヶ月後には陥落した。

 サヴォイア公兼ピエモンテ公兼サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世はイタリア王に即位。首都はピエモンテのトリノとした。ヴェネツィアやローマ教皇領などが漏れたが、ともかくもここにイタリアの統一がなった。これらの一連の戦役は現在では第二次イタリア統一戦争と呼ばれる。最大の功労者カヴールは、激務のため、戦役中からずっと不眠症に悩まされていたが、統一後わずか三ヶ月で、マラリアとおぼしき病に罹った。功成り名を遂げやっと五十歳になったばかりで急逝した。

 ガエータ攻略に功績があったチャルディーニ将軍はなんとガエータの領主、つまりガエータ公(Duca di Gaeta)に叙せられ、ナポリに進駐して、政情不安な南イタリアの治安維持にあたった。今や事実上、十万人にもふくれあがったイタリア国軍の主力はここナポリ駐屯軍なのである。

 ナポリやシチリアの山岳地帯にはギャングかマフィアまがいの残党がなおも立てこもっていた。俺はそれからもずっとチャルディーニ将軍のもとで傭兵を続けていくこともできたのかもしれんが、将軍による民衆の弾圧は凄惨を極めた。我々はかつて入れ替わり立ち替わり住民を搾取した両シチリア王国歴代君主と何ら違わない。南イタリアのナポリやブリンディシまで北から鉄道が延びても、産業革命やブルジョア革命の恩恵にナポリ人やシチリア人は無縁で、北イタリアの大資本が南イタリア人民を搾取する構図は変わらなかった。

 俺は、かつて両シチリア王国でブルボン家の王の親衛隊をしていたスイス人らと、今ガエータ公チャルディーニの下で傭兵として働いている自分の境遇がまったく同じものであることに、絶望した。我々は貧乏なスイスという国から金で雇われてこの貧乏な南イタリアに来て、俺たち同様貧乏な現地住民らを弾圧する手先になっているのだ。それが我々スイス人の宿業なのか。これからも未来永劫そんなことを繰り返すのか。なんともやりきれない。俺は、自らの意思で除隊することにした。

 その後の戦争は、俺には直接関係ないわけだが、ガリバルディはローマ、ヴェネツィアを回復する戦いをあきらめず、再びシチリアに私兵を募った。あの、テアーノの和解とはいったいなんだったんだろうね。ガリバルディは、王の前で、中世の騎士みたいな気分になってしまっただけなんじゃないかなあ。それで後で、ほんとうにやりたいことはこんなことじゃあなかったのに、と悔やんだのかもしれない。

 ガエータ公チャルディーニはガリバルディとカラーブリアのアスプロモンテで衝突し、ガリバルディは敗れ負傷する。ガリバルディは懲りないやつでその後何度もローマに進軍しようとした。ガリバルディを支持する愛国者もたくさんいたのだ。彼をイタリア民族主義の体現者であったと言うのはたやすいだろうがね。実体はマフィアの親分、秘密結社の棟梁みたいなやつだったんだろうよ。カヴール閣下亡き後イタリア王国の首相は頻繁に交代し、共和派や南イタリアの独立派の動きも活発だった。閣下の僚友でもあったナポレオン三世も大いにイタリアの先行きを危惧したのだったが、結局ローマもヴェネツィアもその後「自然と」イタリア王国に編入され、イタリア統一戦争は収束していった。

 アルプスの山の中で育った俺には、ナポリは日差しに溢れた南国、温暖で、傭兵の報酬としてもらった金がたっぷりあったから、当面暮らしに困らなかった。しかし俺は、失踪した弟のことを思い出した。俺はやはりドムレシュクに戻り、農園を再興しなきゃならん。そうしたら弟も戻ってきて、また元通り、昔のように仲良くやっていけるだろうと思った。

 それで俺は、サン・ベルナール峠を越えて生まれ故郷に戻った。そんなとき、町の盛り場で出会ったのがフローニ、そう、おまえの母さんだ。

 俺はフローニに、ナポリの話を面白おかしく聞かせた。もともと俺はお調子者で、その頃の俺は羽振りも良かったし、フローニはたちまち俺の話に夢中になった。フローニはスイスを嫌っていて、海外に憧れていて、俺と結婚すればスイスを離れてアメリカに行けると思い込んだ。

 フローニは俺にアメリカに連れて行ってくれとせがんだ。俺は、弟のことが気がかりでいったんは断ったものの、「そんな家を見捨てて飛び出した弟のことなんかほっときなさい、あなたはあなたでやりたいようにやれば良いのよ、」というフローニに説得され、だんだんと俺も新天地に渡るのは悪くないと思い始めた。

 それで俺は彼女の望みを叶えてやることにした。彼女と結婚し、ドムレシュクの地所などすべて処分し、ナポリに移り住んだ。俺は軍隊にいたとき工兵だったから、大工の技術はあった。俺は船大工になろうと考えた。この大航海時代、ここナポリで造船の仕事をすれば大儲けできると思ったからだ。それで店をかまえて、弟子や使用人も雇い、手持ちの金を元手に工場の経営を始めた。そうしていよいよ資金が十分に貯まったらアメリカに渡ろうと考えていたのだが、ナポリというところは、人間の気性が北イタリアやスイスとはずいぶん違っていてなあ。どうにも商売がうまく行かないし、使用人もいうことをきかない。いつの間にか借金だけが増えていき、お前や妻を養うこともできないくらいに落ちぶれてしまった。

***

デーテ 9. 両シチリア王国

 スペインのハプスブルク家は後嗣が無く途絶し、継承戦争によってフランスのブルボン家がスペインの君主となった。これがスペイン・ブルボン家。シチリア王国とナポリ王国もスペイン・ハプスブルク家の所領であったが、どうようにスペイン・ブルボン家の分家に領主が代わる。

 ピエモンテを含む欧州の多くの国は、憲法を持つ議会制民主主義の国家に移行しつつあった。大衆万能の時代が到来しつつあった。フランス革命によって生み出された人民軍の強さがそれを実証した。君主は主権者たる国民の上に君臨する存在としてのみ、存在を許されるようになってきた。

 ブルボン家の分家のまた分家、若きシチリア王フランチェスコは、バイエルン公の娘マリア・ゾフィーと結婚し、その直後に父フェルディナンドが崩御したために王位を継いで、まだ1年も経っていなかった。若干23歳。王妃マリアは5歳年下で、まだ18歳。

 フランチェスコは英邁な君主であった。彼にも自分の置かれた立場が、自分の国の命運が、見えていた。ブルボン家の本家がフランス革命で断絶したさまも、まざまざと目にしていた。しかし、歴史の渦中にいるものは皆、過去にあったことはよく見えても、未来はぼんやりとぼやけて見えないものである。その半透明のスクリーンに自分に都合の良い幻影を投映したがるものである。

 彼はまだ若く、治世の実績もなく、国難に対処するのは最初から不可能だった。正直な話、もうしばらく妻と新婚気分に浸っていたかったに違いない。彼に適確且つ果断な政治判断を期待するのは酷というものだ。国内には秘密結社がはびこり、反乱や暴動が頻発していた。町も村も治安は最悪。対外的にはイギリスとロシアの板挟みになり、北から南へ向かって、イタリアでは革命が進行しつつある。王は、破産寸前の会社を相続した世間知らずの若旦那のような立場に立たされていた。イタリアは今や、古い体制が自然崩壊し、フランスの影響を間近に受けて一足先に民主化と産業革命が進展したピエモンテを盟主として、新しい時代へ移行しようと急いでいるかのようだった。

 かたや両シチリア王国は、時代の流れに乗って国民国家となるにはあまりにも君臣の距離が隔絶していた。立憲君主制や議会制民主主義が成立するにはブルジョアジーが不可欠である。産業革命が生み出す新興勢力が必要である。富裕な市民を欠く革命は王政を根こそぎ倒してしまう。国民は躊躇無く王を捨て、自分たちの共和国を作ってしまうだろう。

 王フランチェスコにとってピエモンテとの同盟は、彼を、王国を救い得る最善にして最後の提案であったろう。しかし彼は、それに手を伸ばすことをためらった。フランチェスコにせよ、ヴィットーレ・エマヌエーレにせよ、君主らにとってカミッロ・ベンゾという男は苦い薬だった。

 ナポリやシチリアというところは、めまぐるしく領主が交替する。古代にはギリシャの植民都市があった。ナポリという町の名も、ギリシャ語のネアポリス(新しい町、という意味)が語源である。その後、一部がカルタゴ領になり、古代ローマ共和国の属州となり、ゲルマン民族移動によって東ゴート王国となり、アラブ領となり、東ローマ領となり、ノルマン人によって征服され、その後もハプスブルク家やブルボン家などの異邦の王族に支配されてきた。シチリア人やナポリ人といった現地住民による国が建てられることはなかった。ピエモンテやスイスとはまったく異なる国柄である、と言える。

 住民の気質はギリシャ人、コルシカ人、サルディーニャ人、或いはチュニジアのアラブ人らと近く、個人主義的、享楽的。その上土地は痩せ、大した産業もなく、人民は貧しく、地縁も血縁もない君主にとって、かわいげがなく、旨味も少ない領地である。勢い、専制的な搾取・収奪・そして弾圧が常態化していた。

 飼い犬や飼い猫を愛さない人がいないように、領民や領国を愛さない領主もいない。しかし、次第に馴れ、思い通りにならず、期待に応えてくれないと、愛情は憎しみに変わっていく。飼い犬に手を噛まれた飼い主が、自分に忠実な犬に折檻を与えてしまうように。

 自然とイタリア諸国の中でピエモンテは開明的なイギリス・フランスに接近し、両シチリア王国はスペインやオーストリア、ローマ教皇など、どちらかと言えば古臭い後進国に親近感を持ち、特に当時世界最大の専制君主国であるロシア帝国と接近しようとする。

 ロシアは、黒海からエーゲ海を経て地中海へ、ジブラルタル海峡を経て大西洋、或いはスエズ運河を経てインド・アジアへと進出しようとしていた。オスマン帝国の弱体化に伴ってロシアが地中海に進出し、シチリアがロシアの寄港地になるようなことは、ジブラルタルやスエズを押さえるイギリスにとって決して容認できない。そこで、ロシアの地中海進出を徹底的に阻止しようとしたイギリスとの間で、クリミア戦争が勃発したのである。

 イギリスからみても、両シチリア王国は、煮えきらない、むしろ危険な国に見えた。王フランチェスコを見限ったイギリスは、力尽くでシチリアに権益を確保しようとする。特に不満分子が多いシチリアの住民に加担し、イタリアの革命家ジュゼッペ・ガリバルディをシチリア島の最西端マルサラに密航させた。ガリバルディは自らピエモンテで募った義勇軍とともに、オーストリアと戦っていた。それら義勇軍を再編成して、ジェノヴァから二隻の船に乗ってマルサラに上陸したのが、かの有名な赤シャツ隊、あるいは千人隊と呼ばれる部隊だ。それ以前にガリバルディはイタリア統一のための戦いに何度も従軍し、アメリカやイギリスに亡命したこともあり、軍略家、活動家、憂国の士としてすでに世界的に名高く、イギリス高官たちにも高い人気があった。そこでイギリスがシチリアに干渉するためのエージェントとして、彼に白羽の矢が立ったのである。

 シチリアの首府パレルモを落としたガリバルディは、イギリス海軍の支援を受けつつ、イタリア本土を隔てるメッシーナ海峡を渡る。カヴールはガリバルディに海峡を渡らぬよう、強く制止した。彼にしてみればガリバルディの軍事行動はイギリスによるイタリアへの干渉、シチリアの独立派の扇動に他ならないし、そもそもカヴールは未だに両シチリア王国の元首・フランチェスコを救いたい、と考えていた。カヴールは王ヴィットーリオ・エマヌエーレのために南イタリアを征服すべきだとは、考えていなかった。イタリア人民のためにイタリア連邦を作る最良の方法を模索していただけだ。南伊征服の野心を持っていたのはむしろサヴォイア公にしてピエモンテの君主、そしてサルディーニャ王たるヴィットーリオ・エマヌエーレではなかったか。彼はガリバルディに同情的で、彼の行動を黙認した。

 ナポリ王は長年スイス傭兵を親衛隊として雇っていた。スイス人の中には将軍となり、爵位をもらってナポリに永住するものさえいた。一八四八年にスイス連邦が発足すると、連邦政府は州兵の輸出を制限したため、多くのスイス傭兵が帰国したが、ナポリにはなお多くのスイス傭兵が残っていた。ナポリでは実質的には、現地ナポリやシチリアの貴族や民衆ではなく、スイス人が王の股肱(ここう)と頼む家臣だったのである。

 勤勉なスイス傭兵と、自堕落な地元貴族らは常に対立した。スイス兵にしてみれば、何もしないで特権を享受しているナポリやシチリアの貴族と同等かそれ以上の待遇を王に求めたい。ところがよそ者のスイス兵が重用されることに地元貴族は我慢がならない。当主フランチェスコがスイス人の親衛隊らと待遇改善交渉をしている間に、スイス兵は地元兵に包囲され、銃撃されてしまう。

 この事件の結果、王は親衛隊の維持を諦め、スイス傭兵らを解散し、王国に残るも去るも自由にさせた。一部の傭兵は帰国し、一部は王とともに最後まで運命を共にすることを誓う。

 王の家臣たちは、保守的な独立派と、議会制への移行を望む開明派と、過激なイタリア統一派とに分かれ、激しく対立して、収拾がつかなくなっていた。穏健なリベラル派は、叛徒と歩み寄って、王国の民主化を求めたが、貴族や領主からなる王党派は、断固として、徹底的に戦うべきであると譲らなかった。

 

 ガリバルディ軍がイタリア本土に足を踏み入れると、ピエモンテ軍もポー川を越えて教皇領に侵攻し、両シチリア王国を目指すことになった。

「諸君。5万のフランス兵は母国に引き揚げていった。今我々は真の意味で、イタリア国軍を創設せねばならぬ。ピエモンテのみならず、ハプスブルク家のくびきにつながれていたトスカーナや、我が故郷モデナからもぞくぞくと志願兵が集まり、見よ今や、6万人の大軍団となった。俺がクリミア戦争で指揮を執ったときにはわずか1000人、いや500人しかいなかったのに、今や6万だよ、6万。その兵士らの身命、家族や同胞らの運命が俺の双肩にかかっているかと思うと、重責に押しつぶされそうだ。

 この俺も父は土木技師。子供の頃から土木を仕込まれたが、土木よりゃちょっとはましな仕事がしたいと医者の学校へ進学した。ところがここががちがちの宣教師どもがやってる学校で俺はとうとう寄宿舎を飛び出してしまったよ。」

 耳にたこができるくらいなんども聞かされたチャルディーニ将軍の身の上話だ。

「だがな諸君。それがゆえにピエモンテは、鉄道を敷いてはるばるフランスから援軍を連れて来れた。大河を自由自在に堰き止め決壊させてオーストリア軍を翻弄した。そしてミラノを取った。この俺がエンジニアだったからできた芸当だ。そうだろう?

 しかしこれから、イタリアが統一され、国軍を持つとなると話は違う。そう思っとるだろう?

 あの土木現場監督に過ぎぬチャルディーニに何ができるとみんな思っとる。思っとるだろう、諸君。ああその通りだ。だがな、イタリアは、オーストリアみたいに、歴代、領主の家に生まれたボンボンが将軍職を継ぐ、そんな国にしちゃあいけない。俺みたいな土木技師がおり、鉄道技師がおり、機械工がおり、なあ見ろ、あのカヴール閣下だって農学者、化学者だ。化学肥料で農業改革を促進した人だ。そういう技術者が身を立て、大臣になり、将軍になる。そういう国にしなきゃならん。そう思うだろ諸君。だから俺は自分の出自に誇りを持っとる。俺が現場のもっこ担ぎ、ドカチンふぜいから国軍の元帥にまで出世したことを誇りに思っとるのだ。

 クリミアで鉄道を海から山の上まで開通させた。この俺がだ。嘘じゃない。イギリスももちろん手伝ったが実働部隊はピエモンテだ。そのピエモンテの工兵を指揮したのが俺だ。それで山の上まで大砲と砲弾を運び、セバストポリ軍港めがけてどっかんどっかんと爆撃した。単線じゃないぞ単線じゃ。複線だぞ。単線じゃトロッコは一度に一台しか使えない。それを上げて下げるだけ。複線なら何台も一度にトロッコで砲弾を運び上げられる。同時に空のトロッコを下ろせる。輸送の速さが桁違いだ。おかげでイギリスはロシアに勝てた。ピエモンテのおかげでロシアに勝てた。俺のおかげでロシアに勝てたのだ。そしてピエモンテも俺のおかげでオーストリアに勝てたのだ。ただ自慢したいだけでこういう話をしておるのじゃないのだ。今の時代どうすれば戦に勝てるか、そのためにはどんな将軍に、どんな国についていけば得をするかって話をしているんだよ。」

 プロイセン王のように、上にピンと跳ね上げた髭を生やし、オールバックにコテコテに固めた、気苦労というものがそんなにありそうにも見えないチャルディーニ将軍は、おおげさな身振り手振りを交えて、全軍を前にそう言った。きっとカエサルの霊が彼に降りてきたのだろう。イタリアでは良くあることらしい。俺はあたりを見渡して、はて、6万人もいるだろうか、ちと盛りすぎではあるまいか、と思ったが、戦争の動員数というのは、そんな具合にいつも大げさなのであろう。

 我々は結局ミンチョ川を渡ることなく南下し、モデナに入り、教皇領のボローニャまで来た。チャルディーニはここで、フィレンツェ・ローマ方面に別働隊を割き、自らはそのままエミリア街道をナポリへと向かった。途中、サンマリノ共和国の手前で、なんの変哲もない小川に架かる橋を渡った。渡った後、一兵卒が、橋のたもとに立っている石像を指さしていった。「こいつはカエサルですよ。今渡った川が、かの有名なルビコン川ですよ、」と。

 全軍がざわついたので、チャルディーニもそれに気付いた。

 「しまった。せっかくイタリアの将軍になったのに、何か気の利いたことを言う絶好のチャンスを逃してしまった。もう一度渡り直すかい?」

 イタリア観光巡りではないのである。行軍中にそんな悠長なことをしてるヒマは無い。

 「ところでカエサルは、この川を渡るとき、何と言ったんだっけ。」

 「たしか、ここがルビコン川だ、踊ってみろ、だったと思います。」

 「いや確か、ダーツは投げられた、ではなかったでしょうか。」

 「ダーツじゃなくて、手袋では。」

などと兵卒らは口々に囁いたが、どれも正解とは思えなかった。

 ピエモンテとガリバルディが教皇領に南北から侵攻すると教皇は世界中のカトリック信者たちに呼びかける。イタリアを救え、と。主にフランス、それからベルギーから義勇兵が集まってきた。

 チャルディーニ軍がアドリア海沿岸の港町アンコーナを接収しようと、その近くの村カステルフィダルドに宿営しているときに、教皇の義勇軍による奇襲を受けた。我らにも少なからぬ犠牲が出たが、チャルディーニは、オーストリア兵にしたような、無慈悲な榴弾爆撃を、彼らの上に降らせるようなことはしなかった。イタリア人の誰一人として、教皇と武力対決しようというものなどいない。戦闘はわずか数時間で終わり、彼らはアンコーナに立て籠もった。我らはアンコーナを放置しナポリに向かうことにした。ローマ市はフランスが守備していたので、我々は敢えて手を出さなかった。他にも教皇領内の敵対する諸都市や砦は、あちらから打って出てこない限り、基本的に無視することにしたのである。教皇はサヴォイア公ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を破門することで対抗したが、王はもはや意に介さなかった。その後イタリア人のほとんど全員が「バチカンの囚人」ピウス9世によって破門された。どうにもしようがなかった。教皇領はフランク王国時代に寄進されて以来、1000年以上続いてきたわけだが、今の国民主権の時代にそぐわないのは明らかであった。実際、教皇の持つ世俗の封建領主としての財力や権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳」と言われても仕方のない状況にあった。

 ガリバルディ軍とチャルディーニ軍はそれぞれナポリ近郊のヴォルトゥルノ、カプアで両シチリア軍を撃破し、とうとう直接対峙した。両軍は激突寸前かと思われた。が、サヴォイア公ビットーリオ・エマヌエーレ2世みずからがナポリの北テアーノという村に御幸して、ガリバルディとの交渉に臨むと、ガリバルディはカヴール軍に降って、南イタリアの占領地をサヴォイア公に献上した。それから、チャルディーニ軍はガリバルディ軍と共同で、両シチリア王国の掃討戦に向かった。

デーテ 8. ヴィッラフランカの和約

 ナポレオン3世は、近代戦争の惨禍を目の当たりにして、つくづく戦争が嫌になった。うんざりした。自ら臨んだ外征における赫々たる戦捷。しかし勝利の美酒に酔うには、支払った代償はあまりにも大きかった。

 彼は、皇帝に即位したとき、フランス国民に向けて、或いは欧州列国に向けて演説した、「帝政とは平和を意味する」と。叔父のナポレオンのような大戦争を始めるのではないか、イギリスやロシアや世界を巻き込んだドンパチを始めるのではないか、と。そんなフランス人民や諸外国の懸念を払拭することに務めたのである。彼はその時の気持ちに返っていた。「フランスが満足しているとき、世界は平和で平穏でいることができる。(※7)」ともあれ、自分が原因で欧州に戦乱の嵐をまき起こすことはもう金輪際やめよう、という気持ちになった。

 すでに彼の頭の中は、フランスの首都パリを、世界のどの国にも負けない、薔薇の花あふれる庭園と、静かで清らかな森、そしてきらびやかな宮殿と整然とした市街を備えた、芸術作品のような都市に作り替えようという夢想で占められていた。彼自身放浪時代に庭師の免許を取得していたくらいだ。彼の叔父とはずいぶん毛並みが違っていたわけだ。

 おお、花の都パリ。美女と美食の街。自分にはそんな文化事業こそ似つかわしい。戎服を着て天幕に野営するなんて、ああ、なんたる野蛮。がらにもないことはするもんじゃあないと。

  パリで摂政となった皇后ウージェニーは、プロイセンが総動員態勢を敷いてフランスとの国境、ラインラントに数十万の兵を集めつつある、早く帰ってきてくれと執拗に催促する。プロイセンは昔からライン川流域に点々と領地を持っていたのだけど、ナポレオン戦争でライン川西岸のラインラントはフランス領となり、東岸のヴェストファーレンはナポレオンの弟が治める衛星国になった。ところがナポレオンが失脚したときにラインラントとヴェストファーレンはまるごと巨大なプロイセンの西の飛び地となり、フランスのエルザス・ロートリンゲン州はプロイセンと直接国境を接するようになってしまった。ベルギー、ルクセンブルク、オランダなどの周辺の小国は、強国プロイセンの前には鎧袖一触。まるごとプロイセンの餌食になってしまうだろう。

  ラインラントこそは、フランスの柔らかい腹部に突きつけられたプロイセンの匕首(あいくち)、パリは指呼の間、なだらかな丘陵と平原が連なり、遮るものとてない。プロイセン騎兵師団ならば国境を越えて数日で走破するだろう。それに比べてロンバルディアは余りに遠い。もしプロイセンが同じドイツ民族のよしみでオーストリア側についてフランスに宣戦布告したら。ウージェニーもパリ市民も気が気ではなかった。

  フランツ・ヨーゼフがいるヴィッラフランカという町はロンバルディア・ヴェローナ県に作られた矩形防衛地帯のほぼ真ん中に位置する。ここに逃げ込まれると、攻めにくい。しかもオーストリア軍は余力を残していた。フランスは、これまで連戦連勝で来ていたが、ここヴェローナで大敗するようなことがあったら、それこそ諸国の干渉を招いてしまうだろう。

  イギリスは、プロイセンとオーストリアとフランスの間で、なし崩し的に大戦が再発することを恐れており、従ってフランスを牽制した。フランス人民に君臨する偶像皇帝。ワーテルローの戦いでは辛くもナポレオンを屈服させたイギリスであるが、未だにその膨大な戦債に苦しめられていた。フランス皇帝ナポレオン、何をしでかすかわからない。パリの宮廷でおとなしく惚けさせておくに限る。

 フランツ・ヨーゼフもまた、戦争を早く終わらせたがっていた。彼はナポレオン三世の奇矯な采配に辟易した。ナポレオンの再来だかなんだか知らないが、こんな得体の知れない、ねじのぶっとんだ奴にこれ以上関わり合うのはごめんだ。もう奴の好きにさせてやろう。彼は、ソルフェリーノの敗戦直後から休戦の可能性を探っていたが、ナポレオン3世の陣営からヴィッラフランカに使者が送られてきて、フランツ・ヨーゼフと勝手に交渉に入る。フランツ・ヨーゼフは、ハンガリー方面軍をまるごとこの戦いに動員したため、いつ背後で叛乱が再燃するか気がかりでならなかった。ハンガリーだけではない。異民族は旧ポーランド領にもボヘミアにもバルカンにもいる。何しろ帝国は広い。1つのことばかりにかかずらってはおれぬ。

 フランツ・ヨーゼフはこの初陣での大敗に懲りて、以後二度と親征軍を率いることがなかった。講和が成るとナポレオン3世とフランス軍はピエモンテ軍を残して戦線を離脱する。ロンバルディアの大半とミラノはピエモンテ領となったが、ヴェネツィアはオーストリア領に残った。

 イギリスもプロイセンもとりあえずフランスとオーストリア間に成立した和議を喜んだ。欧州大国間では休戦の機運で一致していた。しかしこのままでは収まりがつかないのがイタリア人民だ。このヴィッラフランカの和約にイタリアの愛国者たちは激怒した。もとより、独立戦争を完遂するまで、戦いをやめない決意だ。宰相カヴール自身が和議に抗議して辞職した。ピエモンテはプロンビエール条約を無効として破棄。ナポレオン三世も、単独講和がプロンビエール条約違反であることは承知の上だ。

 

 チャルディーニ軍は、ポー川南岸のハプスブルク領のモデナ公国、トスカーナ大公国へ侵攻した。 トスカーナでは、戦争と並行して革命が起き、治安維持の名目でピエモンテ軍が制圧した。トスカーナでは、ハプスブルク家の大公が国外追放されていたが、ヴィッラフランカの和約によってトスカーナに帰ることができるはずだった。しかしピエモンテにとって、自分の頭越しに結ばれた条約など知ったこっちゃない。オーストリア、フランスの要求を拒絶してトスカーナを占拠し続ける。住民も旧領主による支配を、もはや望んではいなかった。北イタリア動乱の火種は、まもなく南イタリアにも飛び火することになる。


※7 ブルボン王朝とフランス革命、そしてナポレオン帝政の頃はたしかにフランスがおとなしくしていればヨーロッパは平和だった、と概ね言えるかもしれない。しかしナポレオン3世の時代にはもはやフランスは欧州の中心ではなく、同様のことはオーストリアにも言えた。ナポレオン3世の戦争の仕方をみると非常におっちょこちょいで、常に自分が最前線に突出しようとする。それが初代ナポレオンであれば戦略的に絶大な意味をもったかもしれないが、戦争音痴のナポレオン3世には粗忽・軽率という以外の意味はなかった。オーストリアはナポレオン3世がいきなりそんな奇策に出てきたのでびっくりして負けた。プロイセンのビスマルクはナポレオン3世の戦い方を良く観察したのであろう。普仏戦争のときにはパリから勇んで飛び出してきたナポレオン3世の退路をプロイセン軍が回り込んで遮断、皇帝ともどもフランス全軍をセダン要塞に包囲、皇帝みずからが捕虜となる大失態を演じた。

デーテ 7. ソルフェリーノの戦い

 ピエモンテ・フランス連合軍にとって、ミラノ奪取までは筋書き通りだった。プロンビエールの密約が漏れたことは、戦況の成り行きに大きな影響はなく、若干シナリオを書き換えるだけでよかった。フランスは中立をよそおい、開戦時にピエモンテ領内にいないことにしたのである。

 セージア川の意図的洪水、鉄道の輸送力を駆使した電撃戦、モデナ・トスカーナ方面での陽動策戦、そして何より、フランス・ピエモンテ側の戦意の高さに対して、オーストリア側のへっぴり腰。

 イギリス、プロイセンについで産業革命が興り、民主化が進行し、近代工業力を発揮しつつあるピエモンテと、未だ後進のオーストリアでは、国民の、国家の動員力にも差が出てくる。はっきりと目には見えぬが、歴然たる彼我の形勢の違いを、カヴールは肌で感じていた。おっちょこちょいのナポレオン三世をおだてれば、確実にミラノまでは取れる、という周到な準備、絶対の勝算があって、ピエモンテはオーストリアを挑発したのだった。

 逆にオーストリアは戦力の逐次投入となってじりじりロンバルディア中原まで後退するだろう。しかし、ポー川下流域におけるオーストリアの守りは堅く、首都ヴィーンからは近く、逆にフランスやピエモンテからは遠い。おそらくここで戦線は膠着状態となって、ピエモンテとフランス、オーストリアの三者間で調整がおこなわれて、休戦協定が結ばれるだろう。その結果、ピエモンテは北イタリアの半ばまでを領有し、モデナ・トスカーナまでは自然と手に入る。教皇領の君主たるローマ教皇の立場は微妙だが、ピエモンテが教皇領をその勢力圏に収めることはできるはず。一方で、ティロルを越えてオーストリアまで攻め入るとか、イタリアをピエモンテ一国で統一しようなどという大それたことを、開戦時点で考えていたはずがない。なにしろミラノは北イタリア最大の都市、イタリアの商業・農業・工業の一大拠点である。ここを取れば戦争目的はほぼ達成されたとも言える。フランス人やピエモンテ人が浮かれ騒いだのも理由のないことではない。一方、ギュライ更迭の本当の理由はマジェンタの敗北というよりはミラノを損失したことだった。戦いの勢いとはいえ、実にふがいないことだった。ミラノさえ保っていれば、いずれオーストリアが盛り返して、最終的には痛み分け程度に終わったに違いない。

 ピエモンテが巨大商圏ミラノを得れば、イタリアの近代化は一気に加速する。つまり、イタリア統一運動も同時に進展せざるを得ない。近代化と民主化と産業革命は三位一体であるからだ。ピエモンテ市民やイタリア統一主義者たちには、もっと勝てるのではないか、いやこの機を利用してもっと勝たねばならない、と欲が出た。しかし、これからがほんとうの正念場だったのである。

 オーストリア軍はロンバルディア平原を東へ、半ばまで退却しつつ、皇帝を迎えて反撃の態勢を整えた。こうして近年稀に見る、親征軍どうしの総力戦に発展した。ピエモンテ軍はロンバルディアの士官や兵卒を編入し、オーストリアもハンガリーやヴィーンから兵隊を連れてきて、双方10万人以上の軍勢だ。両軍、否が応でも、戦意は高揚する。フランツ・ヨーゼフ1世、29歳、即位して11年目。叔父フェルディナント1世が革命により退位、その弟のフランツ・カールが帝位を継ぐのを嫌がったのでその長男のフランツ・ヨーゼフが繰り上がって即位した。オーストリアとしては、フランスが皇帝みずから出てきているんだから、こちらも皇帝を出して、全面対決するよかないと思ったんだろうね。欧州随一の名門貴族ハプスブルク・ロートリンゲン家のプリンスとして育ったフランツ・ヨーゼフにしてみれば、降って湧いたような災難だ。

 一方のナポレオン3世ボナパルトは51歳。王政時代は帰国を許されず、長年異国の地で亡命生活を強いられた、漂泊の中年貴公子。1830年の革命以来、ボナパルティストたちに担ぎ出され、立候補して議員となり、大統領となり、やがてクーデターで皇帝に即位した。本人は自らの皇帝即位に何も関与してはいない。存在も耐えられない軽さ。いわゆる神輿に過ぎない。取り巻き連中も夢想的帝国主義者やら博愛主義者、ブルジョア社会主義者、芸術家崩れなど。地に足がついた連中ではなかった。かつてたたき上げの軍人だったナポレオンはイタリア戦線で頭角を表した。ナポレオン3世は、いや彼のプロデューサーであるボナパルティストたちは、このナポレオンの甥も、この戦いにおいてフランス人民が心服する形で勝ち、ボナパルティズムを確固たるものとしたいと考えていた。 

  カスティリオーネの丘を知っているかね。ソルフェリーノのすぐ近くさ。オーストリアやプロイセンの敵将たちまでが、戦争の芸術と称え、戦争の詩人と称した天才ナポレオンの、中央突破、各個撃滅戦略が、1796年というごく初期の段階の、このカスティリオーネの戦いで初めて、萌芽的に現れた、その記念碑的な丘だ。

  かの有名なソルフェリーノ戦のとき、俺は前線にはいなかった。何しろ俺たち工兵は東西に長く延びた兵站を維持する輜重隊(しちょうたい)にいて忙しかったのだから。そのうえ皇帝ナポレオンは自分で勝手にどんどんロンバルディア平原を東へ進んでしまう。皇帝は例によって軽はずみな性格だから、1日24時間馬車を乗り継いで移動する。フランスの将軍たちはきりきり舞いで後を追いかける。歩兵は歩いてるヒマもない。重い背嚢と銃剣担いでずっと走りっぱなし。過酷なマラソンだ。本隊とピエモンテ軍が皇帝に追いついたかと思うと、もう2日前に発ちました、と言われる、その繰り返し。

 フランス皇帝はプロイセンが介入してくる前に、できるだけ早く決着をつけようと焦ってもいただろう。オーストリアは持久戦に持ち込む腹だろう。

  俺たち後方支援部隊などフランス皇帝の眼中にはない。置いてきぼりさ。おかげで命拾いしたよ。同じスイス傭兵でも歩兵や騎兵になった連中は、すわソルフェリーノで戦端が開かれた、ぐずぐずするな、急げとばかりに、順次最前線に追いつき、投入され、ほとんどが戦闘で死んでしまった。

 オーストリア皇帝軍は、キエーゼ川を西に、ミンチョ川を東に、ガルダ湖を北に、マントヴァ要塞を南に、フランス軍を迎撃するために南北に長く布陣した。アルプス南麓にはマッジョーレ湖やコモ湖、イゼーオ湖など、多くの湖が並んでいるが、これらはポー川へ流れ落ちる氷河が後退した跡にできた堰止め湖で、ガルダ湖もその中の一つ。イタリア最大の湖である。ミンチョ川はガルダ湖から流れ出してマントヴァを経て南のポー川に注ぐ支流。キエーゼ川もまた、アルプスからオーリオ川に合流しポー川へ流れ込む支流の一つである。キエーゼ川とミンチョ川に挟まれた一帯は、カスティリオーネやソルフェリーノの丘などをのぞけば概ね平坦な田園地帯で、北から南へ、サン・マルチーノ、メードレなどの村が並んでいた。

 オーストリア軍は連合軍がまだキエーゼ川の西方、ブレシア辺りにいるものと考え、ガルダ湖南岸まで進出した。一方、連合軍は、オーストリア軍がミンチョ川よりも東にいるものと予測していた。どちらも敵の意表を突こうとして、行軍を速めていたのだ。

 ミンチョ川東岸は、マントヴァ、ヴェローナ、ペスキエーラ、レニャーゴという四つの町が、矩形の要塞群を形成していた。オーストリアはナポレオン戦争の頃からこの四つの都市によって囲まれる矩形地帯をロンバルディアの防衛戦にする。だから、フランスはミンチョ川の西岸へ展開して、敵軍に対峙するつもりだった。

 しかしオーストリア軍は、ミンチョ川よりずっと西へ進出していたのだ。両軍とも偵察が不徹底で、敵の位置を憶測していたにすぎなかった。

 連合軍が先にキエーゼ川を越え、丘の上の村々に至ると、そこはオーストリア軍の宿営地であった。両軍とも作戦不備のまま、不意の遭遇戦となった。まずメードレで、連合軍右翼とオーストリア軍左翼の間に戦端が開かれ、続いてソルフェリーノ、サン・マルチーノなどでも戦闘が発生する。ナポレオン3世の勇猛果敢な陣頭指揮(?)が今回も奏功し、我が連合軍はソルフェリーノを中央突破、 午後から、暴風雨の中の白兵戦となり、前線は大混乱となったが、どちらかと言えば、この悪天候も強気の連合軍に味方した。昼過ぎにはオーストリア軍をカヴリアーナまで押し出す。フランス軍は次々と最前線に到着し、夕刻にヴォルタ・マントヴァーナまで進んだときに、ついにオーストリア軍は総崩れとなって、ミンチョ川の東、ヴィッラフランカまで撤退した。

 ソルフェリーノも、マジェンタの戦いと同様、大量殺人の、胸の悪くなるような嫌な戦いだった。予想外の「近間」の戦闘だったから、砲兵どうしが至近距離で大砲を撃ち合い、狙撃兵が歩兵たちを殺戮しまくり、欧州戦史、いや世界戦史にも希な多数の犠牲者が出た。科学の進歩によって、最新鋭の武器は、より「効率的」かつ「残忍」に兵士たちを殺傷することができるようになった(※6)。

 戦闘というよりは、無秩序な近代戦力のぶつかりあい。まさに地獄だった。当時はまだ衛生兵というものもなければ民間の赤十字組織も看護婦の派遣もなかった。戦いの規模に比べて、負傷兵の収容所は小さすぎた。兵士は、即死すれば良いが、怪我をすれば、身動きもとれず戦場に放置され、衰弱し、傷口から感染症に罹って、死ぬのを待つだけだったのだ。

 ペスキエーラを左に、マントヴァを右に見ながら、ミンチョ河畔にフランス・ピエモンテ軍が会衆したとき、宰相カヴールことカミッロ・ベンゾは珍しく将兵の前に姿を現して、言った。

「諸君。我がイタリア人民の戦いは、まだ半ばに達したに過ぎない。さらなる戦いが、このミンチョ川を越えた先に待っているだろう。

 この機会に諸君に紹介したい一人の男がいる。諸君も良く知っていよう。ピエモンテ議会議員にして我が兄、カヴール候グスタヴォだ。いっしょに前線まで来てもらったのだ。

 今日、わざわざ私が身内を連れてきて諸君に紹介するのには、わけがある。

 兄は我がベンゾ家の当主で、2人の息子がいて、1人はアウグストという名だった。彼はここミンチョ河畔で、ラデツキー軍に敗れて戦死した。1848年、アウグストが20歳の時だ。私は次男坊で、我が領地カヴールを相続することができないから、敢えて妻子を持とうとしなかった。だから私にとって、甥っ子アウグストは本当の自分の子供のようなものだった。諸君らは、今日、やっと兄と私のために、アウグストの仇をとってくれたのだ。どうしても、一言お礼が言いたかったのだ、」と。

 俺は、ただむっつりと、カミッロと並び立つ、ベンゾ家の兄グスタヴォの表情を読み取ろうとした。中年貴族らしい、でっぷり肥満したおしゃれなイタリア男。そのときたまたま私の傍らにいた例の中佐殿が、同僚と噂していた、

「もしかしたら、アウグストはカミッロの実子だったかもしれないな。次男に私生児ができたら、その子を領主の跡継ぎの子として育てるってことは、貴族ではありがちな話だよ、」そんな話をね。ほんとうか嘘か知れない、俺の聞き間違いだったかもしれん、或いは彼自身のことを言っていたのかもしれない、彼も貴族で、長男ではなかったから、中佐になったのだろう。今もその話が耳底に残っていてね。


※6 ソルフェリーノの戦いに比べれば、ナポレオンの革命戦争の頃など、まだまだ牧歌的だったといわねばならない。1849年に銃身にライフリングを施したミニエー銃が発明されることによって、世界は一変した。弾は施条によって旋回し、ジャイロのように直進性能が向上、遠く正確に狙撃することができるようになった。歩兵銃だけでなく大砲にもライフリングは応用された。

 かつて大砲の弾というのは単なる鋳造の金属球だった。いわゆる砲丸投げの砲丸と同じだ。芯まで鉄の塊だから重い。大砲というものは、その重い鉄の塊を火薬で飛ばし目標にぶつけて加害するものだった。たとえば船や砦に打ち込んで破壊したり、隊列の中へ発射して地上を飛び跳ねながらなぎ倒す目的に使われた。

 しかしナポレオン戦争の後で、中空の砲弾の中に火薬を詰めた炸裂弾(グレネード弾、榴弾)が発明される。弾は着弾地点で爆発し、火災を起こす。もしくはパチンコ玉のような鉄球を大量に当たりにまき散らして人を殺傷する。水平射撃で的に直接当てるのでなく、弾道弾によってはるかに遠くの目標も破壊できるようになった。これに加えて砲身の内面に螺旋状の旋条を施した施条砲(ライフル砲)も投入されるようになる。1868年の上野戦争のときに使われたアームストロング砲も施条砲である。

 西欧が、産業革命の産物の一つとして近代兵器を生み出す前は、西欧は世界に対して絶対的な軍事的優位に立っていたわけではない。この頃西欧が植民地にしていたのはアメリカやアフリカなどの未開な地域だけである。中国、インド、トルコ、ペルシャなどのアジアの先進諸国と対等に戦う力はまだなかった。

 1840年の阿片戦争の時でさえ、イギリス軍と清軍の軍事力にはさほどの差はなかったはずだ。阿片戦争でイギリス軍が勝てたのは、戦艦に大砲を積んでいて、海上を神出鬼没に移動でき、敵の手薄な場所へ艦砲射撃して上陸拠点を確保できたためと、清国政府が沿岸都市部の被害を恐れたためだろう。

 しかし、1853年のペリー艦隊の来航、1857年のセポイの反乱、1858年以降のロシアの極東進出、1877年の露土戦争の頃になると西欧の絶対優位性はほぼ確立しており、従って後発のイタリアやドイツなども近代兵器をひっさげて植民地経営に乗り出していったというわけである。

 ソルフェリーノ戦はしたがって近代科学戦争の始まり、或いは近代兵器の実験場と言っても良く、西欧における近代兵器の見本市のような役割を果たした。