亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘雑感’ Category

ユネスコ改革

10.14.2017 · Posted in 政治

【社説】米のユネスコ脱退は正しい第一歩

非常に興味深い記事だ。 原文は英語で有料会員制ですでに読めないのだが、現時点でまだ公開されている和訳を読めばほぼ十分だろう。

イリナ・ボコヴァはブルガリア共産党員(ブルガリア共産党は1990年にすでに解散)で、 モスクワ国際関係大学の卒業生で、 2009年からユネスコ事務局長であり、 2016年の国連事務局長選挙にはプーチンの支持で立候補している。 国連本部はニューヨークにあるが、 ユネスコはパリにあってアメリカのコントロールが効かない。 ボコヴァが2011年にパレスチナ自治政府のユネスコ加盟を認めたことから、 米国はパレスチナを国家として受け入れる国連組織への資金拠出を禁じる法律を発動。 別に金がもったいないから拠出しないことにしたわけではないのだ。

また、ユネスコはシリアのアサド政権を支持しているとも言っている。

要するにユネスコはパレスチナにしろシリアにしろ、ことごとくアメリカに楯突いており、 ユネスコはロシアに操られているといってもよい状態なのである。

ユネスコがパレスチナの洞窟を世界遺産に登録したことでもはやアメリカはユネスコを容認できなくなった。 まったく同じことが日本でも起きている。 日本も世界遺産なんてものに依存して商売するのはやめたほうがいい。

日本は勇気を持って行動すべきだ。 ユネスコを脱退する必要もない。 拠出金も払ってよい。 世界遺産をすべて辞退するだけでよい。 それが今のユネスコに対する抗議となる。

日本はただ、観光客目当てで世界遺産登録に躍起になっているだけだ。 ただのさもしい根性にすぎない。 「教育」「科学」「文化」の名のもとに金もうけがしたいだけにすぎないのだ。 だからこの際、世界遺産登録は返上してしまえ。

それでも観光客があとからあとから日本に押し寄せてくるだろう。 それだけの魅力が日本にはあるからだ。 そうしたら多くの国がユネスコを見限り、 ユネスコには利権が集まらなくなる。 そうしてやっと汚らしい政治家たちは去り、まっとうな「教育」「科学」「文化」の場に戻る。 日本がユネスコを改革するとはそういうことを言うのではないのかな?

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銃犯罪の本質

10.14.2017 · Posted in 政治

アメリカから銃がなぜなくならないか、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』に、明確に結論は示されている。

アメリカもカナダもいずれも銃規制は緩い。 隣り合う国どうしで、しかも、アメリカは重犯罪が非常に多く、一方、カナダにはほとんどない。 カナダのスーパーマーケットでも、銃や弾は比較的容易に買える。

銃のせいではなく、国民性の問題なのである。 おそらく人は、銃を乱射したいと思えば、カナダにいてもアメリカに来て乱射するだろう。 そうするとメディア受けが良いからだ。 インスタ映えというが、同じことで、カナダよりはアメリカでみんなに見せびらかせたほうがより受けるのだ。 同じことはマスコミにもいえる。

マスコミが憎悪を煽るから銃乱射事件が起き、事件はマスコミによって煽られ、再びさらに過激な事件が起きる。その連鎖を断ち切る必要があるのだが、問題の本質は、市民が銃を自由に所有できるかどうか、ということではないのだ。

日本も戦後、銃乱射事件が多発して、規制が強化された。 その結果銃乱射なんてことはめったにおきなくなった。 だからアメリカでも規制はある程度の意味があるだろうと思う。 しかし隣国のカナダが銃規制を行わないのに、原野が広がるアメリカで、銃規制しましょうといっても誰も従うまい。 アメリカはその国土のほとんどが北海道みたいなものだ。 原野に繰り出し野生動物と混じって暮らすにはどうしても銃が要る。

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10.12.2017 · Posted in 雑感

私が好きな作家、というか、天才だなと思えると言うか、尊敬する作家は芥川龍之介、志賀直哉、中島敦などなのだが、皆キリリと引き締まった短編を書く人たちだ。夏目漱石や村上春樹にそういう短編があるかと言えば無い。 実際芥川や志賀の長編を読んだことがあるかと言えばまともに読んだことは私はないのであって、短編の印象だけで彼らの才能を判断している。 中島敦は全集をたびたび読んだから、おそらく相当好きなのだろうと思う。だが長いものでもせいぜい李陵とか、スチーブンソンの伝記くらいでそんなに長いものはない。 菊池寛も好き。 長いものでまともに読んだのは日本外史くらいじゃないか。 あとはハイジとか? ヨハンナシュピリは好きな作家と言ってもよい。 嵐が丘は読んだ。エミリーブロンテはたしかに天才だ。スタンダールは挫折したが、嵐が丘はきっちり最後まで読んだのだから。あの気が狂ってる感じがとても良い。

昔良いなと思ったキンドル作家の作品を読み直すとそうでもないことがある。未知の作家には自分の趣味を投影して勝手に想像して読んでしまうからかも知れない。その作家を知り、作品傾向を知るにつれて初期作品のあらがみえてしまうのだろう。

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そろそろ備蓄

10.12.2017 · Posted in 政治

そろそろ非常食の備蓄をしておかねばならないような気がする。 戦争が始まるとしたらおそらくは冬、来年早々くらい。 我が家が、私が住んでいるところが、戦争で直接被害を蒙る可能性は低い、と思うが、 戦争だとなると、パニックで買い占めとか、物価高騰などが起きる可能性がある。

だから、普通の値段で買えるうちに、買い置きができるものくらいは買っておいたほうがよいのではないかという気がする。 戦争に限らず、災害というものはいつ起きてもおかしくないのだから、 そういうときのための備蓄はしておくべきだろう。

自民が大勝したら戦争になる確率は上がるだろう。 そりゃそうだ、自民が負けたときにわざわざこちらから仕掛けるなんてことはできない。 自民が大負けしたすきに相手が攻めてくるということも考えにくい。というのは自民が今回そんなむちゃくちゃな負け方をする可能性は低いからだ。

トランプが任期半ばで安倍も続投となれば、何かしかける可能性はある。 もちろん先に手を出させるためだ。 ようはパールハーバーと何の違いもない。

別に自民や安倍が好きで支持しているわけではないが、 今のところ安倍は失政らしい失政はしていないし、 代わる理由が何もない。 別にウィンドウスやビルゲイツが好きではないが、 アップルやジョブズ信者や良い気になるのがイヤだからしかたなくマイクロソフトを使っている。 私の自民党支持というのもだいたい同じで、 ほかの連中が勘違いしないように、せっせと自民党に投票している。

総理は誰がなっても同じ、という状況がマスコミの商売的にはいちばん都合が良い。 そしてマスコミがさわいで政権交代すれば、マスコミも俺の力で政治を動かした、などと調子に乗ることになる。 自民の長期政権、総理の短期在職というのはようするにマスコミや国民のせいであって政府のせいとは言いがたい。

昔は、首相や政府が暴走して、国民をだまして、マスコミが政府批判で騒いで、それでもしかたなしに戦争になるのだと、漠然と思っていた。 しかしそうではない。 政治が不安定になるとマスコミが国外勢力や国内の敵対勢力と結託して政府をつついて、政府をできるだけ弱らせようとする。 国民を騙してできるだけ自分の国に不利な判断をさせようとする。 政府が弱り国民を制御できなくなるから、いよいよ戦争が起きるのだ。

日清戦争も、日露戦争も、満州事変も、日中戦争も、大東亜戦争もだいたいそういう流れでおきた。

いまマスコミが騒いでいるのは政府の失政のせいではない。 国外勢力がマスコミを操ってできるだけ日本政府を弱らせようとしているのである。 そんなことは大昔から中国の史書に書いてある。 同じ事が何千年もの間、繰り返されてきただけのことだ。

まったく度しがたいのはマスコミだ。 現在、NHK以下、すべてのマスコミが発狂している。朝日なんかは昔から偏向していたが、今の状況はどうみても異常事態だ。 このこと自体、戦争が近いことを予感させる。 いつの時代も、戦争前夜、まずまっさきにマスコミが発狂した。

ドイツ人みたいに個人主義な国民は全体主義に傾いたときはヒトラーのような独裁者を立てる。 そして「ヒトラーという個人」に国民を率いさせるのだが、 もちろんヒトラーには個人的な資質やカリスマがあるんだろうが、 独裁者を立てて全体主義を完遂させるのであるから全体主義には変わりない。 日本の場合、いろんな理由があるんだろうが、全体主義が行き着いた先に国民の総意で独裁者を立てるという発想にはなりにくい。

日本の場合は、平常の全体主義的傾向が破綻して、すべての社会常識がリセットされてやっと個人主義が台頭し、その最終形態として、信長や秀吉や家康が出てくる仕組みになっているような気がする。 ドイツと逆だ。ドイツだと平時は個人主義だが国難が迫ると全体主義的民族主義的になり、しかしそうした空気の中でも個人主義が尊重される結果独裁者が擁立されるのである。

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10.11.2017 · Posted in 雑感

能は、人に見せるショーではなくて神に献げられるプロトコルだとか、神への祈りなどと言っている人がいて、 能というのは比較的最近の呼び方でもともと猿楽といっていた。 猿楽はつまりは猿まね芸だ。 なぜなんでもかんでも神妙にしてしまいたがるのかね。

マインドフルネスはどうでも良いただの流行り物だということはわかった。

Kindle Unlimited の雑誌なんだが、いつも見ているのはナショジオとニューズウィーク、CG World、MdN。 最近見始めたのは時計Begin。

サイゾーは見なくても良い気がしてきた。 週刊文春SPECIALも、内容的に、読むまでもない気がする。

花咲舞シリーズはまあまあ面白い。短くてすぐ終わるのが良い。 では長編を金を払って買って読むかというとそこまでではない。 銀行員が推理して不正を暴くというパターンに、それほど興味ないからかもしれない。

私は高校生の頃から朝日新聞が嫌いで、投票する政党はいつも自民党。 もう十年近く産経新聞を購読している。 最近になって右翼になったわけじゃない。 1980年代からずっと右翼だ。

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タモリ

10.07.2017 · Posted in 雑感

昨日のタモリと山中教授が出てたNHKの番組はおそろしくつまらなかった。

金はかけている。 出演者も豪華だ。 企画も悪くない。 しかし番組としてはとてもつまらない。 そもそもタモリが全然楽しそうじゃない。 まるで最近のみのもんたみたいに、ただの飾りになってしまっている。 山中教授が司会進行役にさせられているのだが、彼は確かに番組の進行でもなんでもそつなくこなす人だが、別に面白い人じゃない。 タモリの体内をレゴで作ったセットがあるのだが、なんのためあんなことをしたのか意味不明だ。

NHKはだんだん壊れかけてきているのではないか。 それとも、私の見る目が昔と変わってきたのだろうか?

ブラタモリもまあ、最初の頃は面白かったが、 だんだん最近はつまらなくなった。 それはやはりタモリ本人があまり楽しんでないからだと思う。 NHKは金かけている。ロケもすごい。 だがそれはしょせんはタモリ倶楽部の豪華版にすぎず、タモリ倶楽部にはかなわないのだ。 タモリの好きなようにさせればもっと面白くなると思う。 しかしNHKの誰かが圧力をかけているのか視聴者がクレームをつけているのか知らないが、 タモリでなくてもほかの人でもいいじゃんみたいな内容になっている。

一時期タモリ倶楽部をがっつりyoutubeで見ていて、後でみるとき便利なようにと、再生リストに入れていた。 ところがいきなり再生リストを削除され、警告まで受けた。 違法動画があったならその動画を削除すればいいはずだ。 なぜ再生リストを作っただけで警告を受けなくてはならないのか。 しかもその理由の説明もない。

おそらく古い番組ほど、放送内容にいろんな不備があってクレームを受けやすいのだろう。 タモリ倶楽部的には、どんどん youtube で見てもらいたがっているように見える。 しかし町中を撮っている映像が多いから削除依頼が出るのかもしれない。 「空耳アワー」は音声が削除されていることがおおい。やはり著作権の問題なのだろう。 テレビ朝日が過去のタモリ倶楽部を再放送したりDVDにして売ったりすることもおそらくは難しいのだろう。

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エウドキア

09.28.2017 · Posted in 雑感

最近『エウドキア』が割と良く読まれているのがうれしい。

『エウメネス』のついでで読んでもらえているのだろうか、第一次十時軍前史というあたりで興味を持ってもらえているのだろうか。 いずれにしてもありがたい。 『エウドキア』はKDPでは「古代ギリシャ史」に分類されているのだが明らかに「中世ギリシャ史」である。 しかし「中世ギリシャ史」というカテゴリーがないから仕方ない。 また『エウメネス』は「古代ギリシャ史」に違いはないのだが、どちらかといえば「ヘレニズム史」「西アジア史」というべきだ。 しかしそんなことを言っても、仕方ない。 ともかく西欧史観というのがじゃまくさい。 最近よく思うのは、たしかに自然科学というものは西欧の発明だが、それゆえにあまりにもキリスト教との親和性が高すぎて、 自然科学とキリスト教の癒着は非常に強くて、しかも無意識的なものなので、 すぐに本卦還りして、疑似科学とか精神世界とかに引きずられちゃうんだよね。 だから before and after science とかポスト自然科学とか言いながら、スピノザの汎神論まで戻っちゃうバカが現代でもどんどん湧いてくるんだよなあ。 儒教なんかだとそんな傾向はもっと薄いんだけどなあ。 でも儒教を下敷きに自然科学が出てくる可能性はないしな。 まともかく自然科学がキリスト教神学から生み出されたのは人類にとって一つの不幸であるには違いない。

話を戻すと、『エウドキア』は、もともとは、One Upon a Time in Eurasia というとてつもなくでかい話を書いてその一部を切り取ったものである。 One Upon a Time in Eurasia ではあまりにわけがわからないのでのちに『セルジューク戦記』という名前にした。 オスマン・トルコは知ってても、セルジューク・トルコを知っている人はあまりいない。 ましてマラズギルトの戦いを知っている日本人は滅多にいない。 アルプ・アルスラーンは少し(名前だけは)知られているようだ。 この話、 主人公はもとはといえばオマル・ハイヤームだった。 私は西行、太田道灌など詩人を主人公にしたがる傾向があり、 エウメネスという書記官を(アレクサンドロス本人ではなく)主人公にしたがるのも同じといえば同じである。 全般的に文人を書きたいので、新井白石や大塩平八郎も同じ理由で主人公になっている。 エウドキアもギリシャ古典文芸が好きな文学少女なので、やはりヒロインにしてみたかったのだが、まあ、歴史的にはほとんど無名なひとだよね。 エウドキアとエウメネスには共通点があるわけで、そのあたりがまあ、私が描きたい歴史上の人物、ということになる。 オマル・ハイヤームは数学者でもあって、私の場合そういう学者を主人公に書きたがる傾向もある。 『安藤レイ』『生命倫理委員会』『司書夢譚』『妻が僕を選んだ理由』『西京極家の秘仏』などがそうだ。 といった傾向をわかって読んでもらえているのだろうか? オマル・ハイヤームはその上酒飲みでもあって、私が主人公で書かないはずがないのだが、書きにくい。それはやはり中央アジアという、面白くもわかりにくい世界を舞台にしなきゃならないためでもある。一度あのへんに住んでみたいなあという気持ちはある。だがもうこの年になっては無理はきかないだろう。 『エウメネス』が最初ゲドロシア編から始まるのは、やはり私に、そういうペルシャとか西アジア、中央アジアなどの世界を書きたいという願望があるからだ。それは、多分に、宮崎市定の影響によるものだろうと思う(東アジアを書いてないわけではない。『特務内親王遼子』とか。これまた全然読まれないのだが)。

ついでだが、「エウメネース」は完全にギリシャ語の名だが、「エウ」「ドキア」はギリシャ語とラテン語のちゃんぽんで、 東ローマまで時代が下るとギリシャ語とラテン語が完全に混淆しているのが当たり前なのだが、ヘレニズム時代はきちんとギリシャ語だけで書かないと恥をかくことになる。 そこがけっこうたいへん。

話は戻るが、一番最初に疑問に思ったのは、オマル・ハイヤームはトルコ人だったのかペルシャ人だったのかということで、 少し調べればわかるがトルコ人であるはずがなく、ペルシャ人であった。 しかも生涯、今のイラン東北部のホラサーンとか、トゥルクメニスタンのメルヴあたりに暮らした人だった。

メルヴはアーリア人共通の故地であり、仏教語では須弥山と言い、西へ行った種族はペルシャ人になり、東のインドに入ってアーリア人になった。

オマル・ハイヤームの父イブラーヒムがアルプ・アルスラーンとともに西征してマラズギルトの戦いに従軍した、というのは創作であって、 そのとき若い頃のゴットフリード(ゴドフロア)、バルドヴィン(ボードワン)兄弟と遭遇したというのも創作だった。

それで余りにも話が大きすぎて、特にオマル・ハイヤーム当たりが書きにくいので、書きやすいところだけを切り取って残したのが『エウドキア』と『ロジェール』なのだが、 イェルサレム王バルドヴィンの後妻のアデライーデの息子がロジェール2世なのである。

『ロジェール』がほとんど読まれないところを見ると、どうも十字軍がらみで『エウドキア』が読まれているらしいってことがわかる。 それでまあ、第一次十字軍そのものについて、当時の東ローマ皇帝アレクシオスを主人公にして書けばそれなりに注目はされるかなと思い、 多少構想はあるのだが、書くからにはきちんとしたものが書きたいなとはおもう。すでにアレクシオスは『エウドキア』にも『ロジェール』にも登場している。 彼はすごくキャラの立ったひとだなあと思う。

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computō

09.23.2017 · Posted in 雑感

compute の語源は computō で、con + putō。 putō は綺麗にする、汚れを落とす、剪定する、などが原義であり、 そこから派生して、見積もる、考慮する、見なす、などの意味が生まれ、 さらには数える、考える、という意味にも使われる。

computō はしかし、総計するという意味にしか使われないように思われる。

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09.22.2017 · Posted in 雑感

「エウメネス4」はまったく売れてない。 しかし1とか2はぼつぼつ売れている(いつも通りともいえる)。 たぶん「エウメネス4」の内容紹介がいきなりエパメイノンダスとかアンティパトロスとかカッサンドロスとかなので、 4を読む前にとりあえず1読むか、みたいな気にさせているのかもしれない。新規の読者の場合・・・。

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大日本帝国の残留思念

09.22.2017 · Posted in 雑感

核開発して原爆をアメリカに投下しようなんてことは戦前の日本でも考えていたことで、 敗戦と、アメリカとの軍事同盟で、日本ではそんなことをいう人はほとんどいなくなったが、 中国、ロシア圏に取り込まれた北朝鮮ではそういう反米思想がそのまま純粋な形で70年間生き残っていて、 金正恩は大日本帝国の残留思念みたいなものだと考えれば、全然納得できる。

中国、ロシア、アメリカとの距離関係で、台湾は比較的親日になり、韓国や北朝鮮は反日、北朝鮮は反米になっているが、 もとをただせばやはりいずれも「日帝残滓」なのだと思う。

それで天皇皇后が埼玉の高麗神社を参拝したというのを、日本のメディアではなくて、韓国のメディアが大きく採り上げているのは非常に興味ぶかい。 鳩山由紀夫がなんかモゴモゴ言っているのも彼が韓国メディアのほうにひっぱられている証拠でもある。

私としては、天皇の戦争やめなさいというメッセージとは思わない。もちろんそういう意味も含まれているだろうが、 本質は、そろそろマジで戦争になりますよという、国民への天皇の警告なのだろうと思う。 そういう報告を安倍首相からも受けているのだろう。 おなじようなことを開戦前夜の明治天皇も昭和天皇もやっている。

北朝鮮の核開発が大日本帝国の残留思念であるとすれば、それを宥めるにはどうしたらよいか、ということは比較的簡単に導き出されるだろう。日本はすでに核開発を断念しているのだから。どのような形をとるかしれないが、北朝鮮もいずれ日本と同じ道をたどる。

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