亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘写真’ Category

京都巡り

06.13.2014 · Posted in 写真

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、 寺では鐘楼を、 神社では舞殿を撮るようにしている。 鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、 舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

については以前も書いた。 上の写真は相国寺の鐘楼だ。 相国寺の近所に一泊した。 特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。 相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、 たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。 なかなか一般人が見る機会はないと思うが、 舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。 というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、 拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。 薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。 石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、 これも以前舞殿というのに書いた。 なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、 鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、 四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。 それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、 人にとっては神の表象である。 神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。 後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。 上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、 社殿ができたのはずっと後のことである。 といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。 結界に入って神に対面する人は当然貴人である。 貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。 そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。 本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。 舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。 我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。 本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。 社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。 いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。 将軍放浪記冒頭、

段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。 それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。 しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。 面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、 京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、 北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。 ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、 神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、 いったいどういうわけなのだろうか。 そういや京都御苑もルートから外れているわな。 あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。 今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、 あんなひどいところはない。 五条からの参道は狭くて車が多いし、 建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。 見た目が京都っぽいってことだろうか。 京都七不思議の一つにすべきだ。 上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、 逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。 実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、 京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、 教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。 しかし建物はよかった。 義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。 たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、 やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、 「西行秘伝」を書いたので見に行った。 法住寺。 すごいなこれは。 清盛が後白河に建ててやったものだが、 京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。 他に何かあっただろうか。 まったく思いつかない。 後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、 ここで矢通しをしたわけだ。 不思議なことをしたものである。 西行の時代に通し矢があったかどうか。 たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、 ランチだったが、ずいぶん散財した。 よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。 牛肉を食うのは横浜が先だし、 それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。 だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。 上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、 なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。 両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。 そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。 いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、 鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、 めずらしくて撮影した。 鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。 鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。 河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。


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御衣黄

04.30.2010 · Posted in 写真, 詠歌

飯田橋で電車を降りて、東京大神宮、靖国神社、千鳥ヶ淵、皇居御苑などをぶらぶら歩く。 気持ちの良い一日だった。 最近は、テレビも「パワースポット」などという言葉を流行らせようとしているが、 これは要するに新手の霊感商法のようなもので、 こんなものに荷担するのはいかがなものかと思う。

飯田橋から東京大神宮の間にバーガーキングがあり、昼飯代わりに食べる。 日本で簡単にワッパーが食べられるようになり幸せ。 肉はニュージーランド産なのだな。

それはそうと東京大神宮はもともとは明治政府が作った伊勢神宮の遙拝所から始まり、今のところに移転したものらしい。 昔は高台にあったもののようだが、今やビルに囲まれて伊勢神宮の方角など見えないわけだが。 かつては、神社の前の、南西方向に延びた道が伊勢神宮を遙拝する目的の表参道だったのかもしれない、 今神殿は南面しているので、礼拝する人は伊勢神宮に背を向ける形になる。 遙拝所という意味ではかなりおかしいが、神明神社だと思えば別に変ではない。 神前結婚式がここで始まったというのもなんとなくそんなものかもしれんと思った。 もとは伊勢神宮の出張所で首都布教の拠点だったわけだからな。 その後大正時代になると明治神宮が出来、東郷神社や乃木神社などが出来ていく過程で広まっていったのだろう。 赤福を食べた。 東京大神宮を詠める:

武蔵野の原より はるか神風の 伊勢のやしろを 拝む丘かな

靖国神社は新緑がきれいだった。 八重桜がまだ咲いていた。 いろんな種類の桜があるようだが、花が咲いてないとよくわからない。 特に「吉野桜」というのがソメイヨシノを言うのかヤマザクラを言うのかがわからない。 ソメイヨシノという名前が紛らわしすぎる。 ここの桜は、ぎりぎりまで植え替えないのだろう。 またおそらくは、あまり農薬などは使わないのだろう。 かなり年を取った桜が見られる。 街路樹や公園の桜などは幹が黒々として太くごつごつしている。 ここの桜はどちらかと言えば細く、幹は苔むしていて緑色である。 育て方が根本的に違うと見える。

植ゑられし 古きさくらは 苔むして 朽ち折れてゆく やすくにの庭

苔むして 蟻むれたかる 一筋の 道さへとほる 朽ち桜かな

老いにける 桜なれども 宮人に まもられ保つ 命なるかな

朽ち木立つ このやすくにの 宮の庭 かたへに苗ぞ かつ植ゑらるる

植ゑられて あるがまにまに 生ひ育ち 老い朽ち果つる 宮桜かな

元宮と鎮霊社にもお参りする。 元宮は、京都に作られたほこらを移したというもので、特に問題もないが、 鎮霊社は、「靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている」 とのことでなにやらただ事ではない。 調べてみると賊軍として死んだ白虎隊の隊員や、西南戦争で死んだ西郷隆盛らが祭られているとのことだった。 靖国神社の献木としては桜が多いとは思うが、そうでない木、たとえばモッコクなどがたくさん植えられている。 何かいわれがあるのだろうか。

鎮霊社を詠める:

やすくにの 庭居に百千 植ゑられし 木の間に暗き 隠れ宮かな

千鳥ケ淵戦没者墓苑。ほとんどひとけがない。比較的新しい施設のように思われる。

御製:

戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かのかたき日を 生きし人々

昭和天皇御製:

国のため いのちささげし 人々の ことを思えば むねせまりくる

千鳥ヶ淵沿いにかえで、西洋かえで、八重桜などが植えてあり、これがまた美しい。 皇居御苑には「御衣黄」という珍しい桜が咲いていたので、 少し写真を撮った。

花の形から八重桜の一種であることがわかる。 花びらに葉緑素があるので、黄色または黄緑色に見えるが、花心はピンク色。 栽培種で、日本全国の庭園など100箇所くらいで見られるという。


宮城の 千鳥が淵に 春たけて 散りそめにける 八重桜かな

大君の 千代田の宮の 苑におふる 浅葱桜の 盛りなるかな

九重の 千代田の苑も いにしへは 日比谷の海の 入り江なりけむ

今に見る 千代田の城の 石組みに もののふの世の いにしへを思ふ

もののふが 開きし海の あとなれや 千鳥が淵の 深き濃緑

春たくる 千鳥が淵を 見渡せば 水面も岸も みな青みたり

花散らす 風は吹けども 夏近き 千鳥が淵に さざなみもなし

城の濠 巡りて走る 外つ国の人は やまとの春を知るべし

外つ国の 人にみせばや 武蔵野の 千代田の城の 春の盛りを

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04.13.2010 · Posted in 写真

楓撮影するのは結構難しい。


良く見ると実がついている。 楓なんだかよくわからないが新芽と実が出ているものもある。

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散る桜

04.13.2010 · Posted in 写真

散り際のソメイヨシノは遠目にはヤマザクラに色合いが似ているが、 近づいて見るとだいぶ違う。


ついでに違う種類の桜も。

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ヤマザクラ

04.04.2010 · Posted in 写真

多摩の尾根緑道にヤマザクラの並木があったので、わざわざ撮影に行った。 美しいが、ソメイヨシノに比べるとかなり地味。 逆に、ヤマザクラを見てからソメイヨシノを見るといかにも人工的な造花のような感じがする。 ソメイヨシノは派手だが色調が単調で、幹が黒々とごつごつしてて醜い。 ヤマザクラは幹がすっと細く高く伸びて気持ちが良い。

ソメイヨシノだと、桜のトンネルのようなものを何千本も作りやすいのだろうが、 ヤマザクラはそんなことをしてもあまり派手な感じにはならず、遠目にはかなり地味な印象で、 ここの尾根緑道のような、雑木林にとけこんだような自然な感じにしかならないのではないか。 しかしまあ、むやみやたらとソメイヨシノが咲いて、屋台や御輿が出てよさこいソーラン祭りみたいになっているところもあるのだが、 わざわざこのような緑道まででかけて静かにのんびり桜を見る方がずっと良い気がする。

青い葉と白い花のコントラストが高いミドリヤマザクラとも明らかに雰囲気が異なる。

参考までにこちらが同じ日に別の場所で撮ったソメイヨシノ。 うーむ。 こういうものを日本の文化と言ってしまうのはどうかと、 ヤマザクラを見た後では考えてしまう。 単一DNAのクローンなんだよなあ、ソメイヨシノは。 戦後の混乱期に、後にどんな劇的な効果を生むか最初はあまり深く考えず、植えてしまうのだが、 それが50年も経つとえらいことになってしまい、 さくらまつりみたいな盛大な祭りをやらざるを得なくなっている、そんな気がするのだが。 ソメイヨシノに振り回されている日本、みたいな。 宣長が見たらなんと言うだろうか。

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ヤマザクラ(幼木)

04.04.2010 · Posted in 写真

比較的新しく植えられたヤマザクラ。 ソメイヨシノは割と若いうちから花がたくさん咲くようだが、 やはりヤマザクラは若いころは花が多くないのではないか。


植樹されたばかりのヤマザクラ(花が咲いてないのでよく確認できないが、状況的には) は添え木をあてられて幹は一本だけ。 花を咲かすことはできず、若い葉だけがめばえている。

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ヤマザクラ(樹形)

04.04.2010 · Posted in 写真

開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。 ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、 ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。 ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。 斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。

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ヤマザクラ(接写)

04.04.2010 · Posted in 写真

幼い葉は、若いほど赤く濃く、 だんだんに半透明の茶色に近づいていく。 花は白いがガクやつぼみはかなり赤みがある。

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大国魂神社

03.22.2010 · Posted in 写真, 旅行, 詠歌

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。 そのあと府中美術館。 歌川国芳展。まあまあ。 文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。 工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。 戦闘機も飛ばず静かだし。 のんびり住むには良い町だろう。

たま川をわがこえくれば川の辺に咲きたる桜ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。 ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。


こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。


頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。 もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。 イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の咲けるをりには思ひやれ身を立て世をも救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

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修善寺温泉

01.31.2010 · Posted in 写真, 旅行

伊豆の修善寺温泉に行くことにしたのだが、 鎌倉などに比べてネット上にあまり情報がなくて困った。 まあ、鎌倉と比べるのもかわいそうだが、るるぶなどの旅行情報誌にもあまり情報がない。 るるぶ紙面では沼津や三島などの情報も非常に少ない。 今回、沼津、三島、韮山、修善寺と観光して回ったのだが、 潜在的需要の割りには観光情報が不足していると感じた。

沼津駅から若山牧水記念館あたりまで歩く。 海からの富士山の眺めはいわゆる絶景。 田子の浦の製紙工場の煙突の煙もよく見える。 とんびかからすかかもめかしらないが富士山を背景に群れ飛んでいる。

沼津港で昼食。まあまあ。 タクシーで駅まで戻る。 1000円かからない。 タクシーならあっと言うまだが、ぶらぶら歩くと1時間コース。 時間がないときはあっさりタクシーで移動した方が良いだろう。

JRで三島に移動。 沼津市内にはほとんど観光客向けの表示がなくて難儀したが、 こちらはいたれりつくせり。 三嶋大社まで楽に歩けた。 三嶋大社はいろんな意味でいろいろ興味深い。 境内の南側に池があり、島があって、鶴ヶ丘八幡宮の場合ここは弁天様だが、 こちらは厳島神社が祭ってある。 富士山の豊富な伏流水が、ここ三嶋で湧き出しているのだ。 安政の大地震で社殿はすべて倒壊したが、 時の神主・矢田部盛治の尽力によって総檜造りで慶応四年に復興したという。 この矢田部家は物部氏の一族で伊豆国造の子孫でずっと三嶋社の神主として世襲しているというが、 国造というのはつまり律令で国司が任命されるより前の土着ということであるから、ほんとうならばおそろしく古い家系だ。 国造の子孫が今も続いている家系というのがどのくらいあるだろうか。 宝物殿の絵巻を見ると昔の社殿は朱塗りだったようだが、 幕末に復興された今の社殿はしぶく黒ずんだ天然木目である。 彫刻もかなりほどこされているが東照宮のように華美ではない。 やや狭いが神鹿苑というところに数十頭の鹿が飼われているのは、かつて鹿がここらで放し飼いになっていたなごりだろうか。 神馬社というのもかつてはほんとの馬を飼っていたそうだ。

三嶋社はもともと三宅島にあったが、 延喜式の時代には下田に移り、頼朝の時代にはすでに今の場所にあったようだ。 明治には官幣大社。 これまた宝物殿の説明によれば、伊豆沖に新島ができたり火山が噴火したり、 地震が起きたりといった自然現象はすべて三嶋の神の仕業だと考えられており、 また伊豆は地震や噴火が多いので、延喜式にも神社が非常に多く記録されているのだという。 確かに地震の神様とか噴火の神様というのは日本に居てもおかしくない。 浅間神社などがそれか。

伊豆諸島に680年頃に新たにできた島ってなんなのだろう。 調べてもよくわからん。

それから伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って修善寺駅に向かう。 伊豆箱根鉄道というのは他にも小田原から大雄山線も運営しているのだな。 なるほど西武グループなのか。 バスが西武系なので不思議だと思った。 三島駅から修善寺駅までは30分程度。 そこからバスで210円で修善寺温泉へ。 タクシーだと1200円程度のようだ。 日が暮れたのでその日はそのまま寝る。

翌日観光。 伊豆半島の中央を流れて沼津辺りで駿河湾にそそぐ狩野川という、わりと大きな川があり、 その支流の桂川沿いに修善寺温泉郷はある。 なぜここに来たかと言うと、源頼家と範頼がこの地に幽閉され、殺害されもしくは自害し、 この地に墓があるからだった。 で、いまでは「伊豆の小京都」と呼ばれてミシュランで二つ星をもらっているらしい。 ミシュラン二つ星がどの程度すごいのかよく知らんのだが。 なるほど、レストランガイドの赤ミシュランと、観光ガイドの緑ミシュランというのがあって、 こちらは緑の方なのね。


まずは、頼家の墓、 頼家の死後蜂起した十三人の家臣の墓、 頼家の菩提をとむらうために北条政子が建てたという指月殿というものを見にいく。 指月殿は伊豆に残る最古の木造建築であるという。 指月殿にはなるほどそこはかとなく風情がある。 本来は修善寺に寄進された大蔵経を収める経堂だったらしいが、それらは散逸し、 今は釈迦如来像と仁王像が置かれている。


修善寺温泉郷の中心地は修善寺近くの桂川の中にある「独鈷の湯」というものらしい。 そのほど近くに新井旅館という古風な旅館がある。桂川に面しており、 向かいの岸辺の竹林は確かに小京都というだけのことはある。 おそらく戦前はこの新井旅館周りのこぢんまりとした温泉場だったのだろうなと思う。 独鈷の湯の周りの河川敷は工事中で入れず。 川沿いに新たに足湯なども建設中。 山奥のせいか梅もまだほとんど咲いておらず、桜もなく、紅葉もなく、 独鈷の湯も工事中ということで、いわゆる完全なシーズンオフに来てしまい、 宿もずっと外れだったわけだが、 だから割安だったのだろう。 人混みしているとそれはそれで鬱陶しい。

修善寺は寺の表記は「修禅寺」となっており、曹洞宗であればそれでも良いのだが、 弘法大師が開祖とは不思議だと思ったのだが、 もとは真言宗だったのだが、途中から臨済宗(禅宗の一つ)となり、 のちに北条早雲が曹洞宗(これも禅宗の一つ)として再興したのだという。 手水が温泉なのがやや珍しい。

鬼門に日枝神社あり。ここに範頼が幽閉された館があったらしい。 ここらだけ、杉木立がうっそうとしており、夫婦杉などある。 神社の境内は樹木の伐採などしないから自然とそうなるのだろう。


範頼の墓。やや離れたところにある。


帰途、韮山で降り、江戸時代の江川氏の代官屋敷、韮山町の郷土資料館、韮山城跡に行く。 正確には、韮山町は合併して伊豆の国市となったらしい。 韮山城は北条早雲の最初の居城。城山と城池が残る。 子母沢寛「新撰組始末記」によれば、近藤勇が生まれた調布も韮山代官江川氏の支配だったという。

蛭が島。 頼朝と政子の像。 富士山の方角を向いているのだが、 どうしても逆光になる。 フラッシュかレフ板が必要だな。 記念撮影しにくい。 しかも背景の送電線が気になる。 北向きに銅像を建ててはいかんね。 向きを変えた方がいいんじゃあるまいかなどと思った。 流刑地が蛭が島というのは後世の伝承、推定らしいが、 それ以外に特に情報もなく、 ここらは昔は狩野川の氾濫原で、 この辺りのどこかに、蛭が島という狩野川の中州があって、頼朝が居たと思ってもまあいいかと思った。 平氏がもし北条氏に託して頼朝を厳重に幽閉しようというのであれば、 北条の里の後背地で、より行き詰まった修善寺辺りの谷あいに住まわせるだろうが、 おそらくそこまで配慮はしていないだろう。 このやや狭苦しい伊豆の内陸部の狩野川の流域が北条の里であり、頼朝や北条氏や後北条氏の故地であった、 とおもえば、なにやら感慨深い風景ではあるな。


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