亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

本居宣長の功績

06.14.2018 · Posted in 歴史

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。

駿河国

10.07.2017 · Posted in 歴史

駿河国は非常に不自然な形をしている。 北から甲斐国が突き出してきて、富士川でほとんど東と西に分断されている。 歴史に残らない昔に、駿河と甲斐で、何か領土争いでもあったのだろうか。 戦国時代の武田信玄だけではなく、甲斐国は海が欲しい。 海に出ようとしたが、駿河に阻まれた。 そんな抗争が国境として残ったように見える。

甲斐国も西側は富士川流域で東側は相模川流域。 相模川流域はみんな相模国にしておけばよさそうなものだ。

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生贄

10.07.2017 · Posted in 歴史

ギリシャ神話というかギリシャ演劇には、親が子を生贄にする話がみられる。 アガメムノーンはイフィゲネイアをアルテミスに献げた。 他にもあるかと思いちょっと調べてみた限りではこの一例しかなかった。

旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを神に捧げようとする。

古代、人身御供自体は珍しくもないが、親が子を犠牲にする、という話が、一民族に一話くらいあった、ということは言えるだろう。

動物を生贄にするとき、ほぼまちがいなく、神に捧げたあとは、その肉をみなで食べるのである。ほとんどありとあらゆる種族の犠牲とはそうしたものである。神に捧げるという形で食べ物を無駄にするなんてことはあり得ない。 人間を生贄にした場合にも、実はその肉を食べていたのではないか。 というより食べていたと考える方がずっと自然だ。

実際、中国には史書に、親が子を殺して食う話がいくつもある。

現在でも堕胎はあり、近世まで間引きというものがあった。 古代、避妊などという概念があったはずがない。子供はほっとけばいくらでも生まれてきた。 飢饉や戦争などで子供が親に食べられてしまうということは、 或いは家庭内暴力で殺されてしまうということは、しょっちゅうあったはずなのである。

それがアブラハムやアガメムノーンの神話として残っているのだ。 後世、子殺しや食人いうものはタブー視され、忌避されるようになった。

イサクもイフィゲネイアも実は死ななかったというオチになっているが、 オリジナルの形はただ単に殺されて食われたのではなかったか。 それをそのまま後世に伝えることが憚られて、神話として改変され、悲劇に改作されてしまった。

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ディアーキー

09.29.2017 · Posted in 歴史

スパルタは君主制ではあったが、モナーキーではなかった。スパルタには常に王が二人いたのでモナーキーではなくディアーキーと言うべきなのである。このディアーキー状態が500年以上に渡って、ほぼ純粋な形で持続したらしいのだが、私は他に類例を知らない。ローマ帝国など見るとディアーキー状態は不安定で一時的なものに過ぎない。 スパルタはアテナイほど饒舌でなく、自ら何も歴史を書き残さなかった。だから私はエウメネス4で、スパルタの王制をほとんど推測で書くしかなかった。 私はスパルタを原始共産王制と表現してみた。蟻や蜂の群れと同じく、王や女王はいるが、彼らも他の個体と同様に分業しているに過ぎないのだから、一種の共産制であると言える。 スパルタが建国当初から安定してそのような政体を維持し得たのは驚くべきことのようでもあるし、必然でもあったようにも思える。彼らはまさに蟻であり、蜂であったのだ。全体主義。滅私奉公。

特務内親王遼子の蓬莱国もモナーキーのようで実はディアーキーだったというのが落ちで、広げた話になんとか落ちを付けるための苦肉の策だった。スパルタの事例は知らずに書いた。ある意味、事実は小説より奇なりだなあとおもう。

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バルシネとネアルコス

09.09.2017 · Posted in 歴史

こちらのブログを書いているということは執筆活動が一段落したということなんだけど、実はまだ修正しながらちょこちょこ書き足している。

ネアルコスはバルシネの娘(父はバルシネの最初の夫メントル)と結婚した。 この娘がなんという名であるかははっきりしていない。 作中ではアダという名前にしているのでとりあえずアダと呼んでおく。 ちなみに Ada というのは、DARPA が開発した言語の Ada と同じ。 Ada を Ada という女性が開発したのではない。 Ada という名は、世界で初めてのプログラマとされる Ada という女性にちなんだ名だという。 ちなみに女性が開発した言語としては COBOL が知られている。 グレース・ホッパーという人で、彼女もまた軍人だ。

話がそれたが、 アダとネアルコスはスーサの合同結婚式で他のカップルとまとめて結婚したことになっているのだが、必ずしもそうとはいえないと言う気がしてきた。 スーサよりずっと前にバルシネはアレクサンドロスの子ヘラクレスを身籠もった。 ヘラクレスという名はマケドニア王族には見られない名なのだが、明らかに、この名は彼がテュロスで生まれたことによる。 テュロスの神はギリシャ人にはヘラクレスと呼ばれていたからだ。 アレクサンドロスの正式な結婚式はスーサだけであり、ヘラクレスという名がマケドニア王族らしくなく、バルシネはアレクサンドロスよりずっと年上だったことなどから、バルシネは正式な妃ではなく側室であり、バルシネが生んだヘラクレスも庶子とみなされていた、といわれる。

だが、バルシネという人はかなり身分の高い人だったと思えてきた。 バルシネの妹にはアルトニスとアルタカマがいるが、この二人はバルシネほどは重視されていない(のちにアルトニスはエウメネスと、アルタカマはプトレマイオスと結婚したのだが)。 バルシネはメントルと結婚し、その後メムノンと結婚した。この二人の兄弟はアルタバゾスの艦隊を相続した。 バルシネの娘アダはネアルコスと結婚したが、 アルタバゾスの艦隊は、メントル、メムノンと相続され、その後アルタバゾスの子ファルナバゾスに相続され、 その後ネアルコスに相続されたのである。 つまり、バルシネもしくはバルシネの娘と結婚した者がアルタバゾスの正統な後継者とみなされているのである。

アルトニスやアルタカマではダメでバルシネの血筋でなくてはダメらしいのである。 それで、私としては、バルシネをハリカルナッソスの王女アルテミシア(ハリカルナッソス女王アダの娘)ということにした。 ペルシャの王族アルタバゾスが、ハリカルナッソス王女アルテミシアを正妻に迎えることは十分あり得ることで、 アルテミシアの娘であればこそ、バルシネの子はアルタバゾスの後継者にふさわしかったのではないか、ということになる。

ギリシャ、ローマ世界に見られる婿取り婚の伝統はもともとペルシャのものであったと思われる。 オクタウィアヌスがティベリウスを婿に取って以来、ローマ皇帝が婿取りする(皇女と結婚することが皇帝即位の条件となる。ローマ皇帝が女系継承される)ことは珍しくない。 女帝が再婚してその夫が皇帝になることもある(東ローマのことだが)。 カッサンドロスもフィリッポス二世の娘テッサロニケを娶って後にマケドニア王になった。 おそらくカッサンドロスとテッサロニケの結婚もスーサより前に決まっていたと思う。

フランク王国や神聖ローマ皇帝やその後の西欧の王室では、しかし婿取り婚は見られない。 それはフランク王国のサリ族の法典が、女子の相続を認めてないからだ。

それで、私としてはネアルコスの結婚は、スーサより前にネアルコスがアルタバゾスの後継者になったときすでに成立していたと思う。 また、エウメネスとアルトニスの出身地が極めて近いことも偶然ではないと思っているわけである。 少なくともエウメネスはスーサでいきなりアルトニスと会って結婚させられた可能性は低い。 プトレマイオスとアルタカマも子供の頃からの知り合いかもしれない。 その他の結婚相手も、たまたまスーサで無理矢理結婚させられたのではなくて、それまでに何か理由があって結婚したのではないかと思われるのだ。

バルシネがヘラクレスをどこで育てたかということは明らかではないのだが、 アルタバゾスのもともとの領地であるフリュギアではなくて、 バルシネの娘とネアルコスが結婚したことから、 ネアルコスの本拠地であるクレタであった可能性もあり、 また、メントルやメムノンの本拠地はハリカルナッソスもしくはロードス島であったから、 ヘラクレスはロードス島かハリカルナッソスで育ったのではないかと思われるし、 であれば、バルシネがアルテミシアの娘であると極めて都合が良いのである。

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09.08.2017 · Posted in 歴史

日本人で古典ギリシャ語を学んで本を書いている人は圧倒的にキリスト教徒だと思う。 というのは新約聖書がコイネーで書かれているからだ。 しかも新約聖書が書かれたころにはすでにヘレニズム世界は滅び、ローマがヨーロッパ世界を形成していた。 ヘレニズムとローマは一部かぶってるが全然別物だ。

それでいろんな意味で、ギリシャについての学問は偏っている。 ローマ的に、キリスト教的に解釈されている。 ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの哲学でさえもローマの、キリスト教のフィルタがかかっている。

さらにのちのドイツロマン主義などは、ローマやキリスト教を否定するためにギリシャを理想郷のように勝手に解釈してしまった。

そうした長い長い曲解と捏造のために、ギリシャをありのままに理解することはほとんど不可能に近い状態にあるとさえ言える。

日本人が読んでるギリシャの古典というのは、ほとんどすべてが英訳の和訳である。 英訳というのはだいたいオックスフォードがやった仕事だ。 すべていったん西洋史観のフィルタを通したものなのである。 しかし、ギリシャというものは、ヘレニズムというのもは、ヨーロッパとかローマの範疇で見てもわからない。 ヨーロッパから見えたギリシャというのに過ぎない。

古代ギリシャでもっとも非ギリシャ的だったのはテーバイやアテナイだ。 アテナイはギリシャのボロスの中ではむしろもっともペルシャ的と言うべきだ。 アテナイの民主制は確かに極めて独特だが、それはアテナイの特殊性というものである。 しかもほとんど完全な直接民主制だったのはペリクレスの時くらいだが、ペリクレスは内政も外交も戦争もすべてがめちゃくちゃだし、 そもそもペリクレスのせいでアテナイは衰退し、スパルタによってアテナイの民主制は一時停止した。 アテナイに対するスパルタの影響力を失わせ、アテナイに民主制を復活させたのはテーバイだ。

アテナイは確かに非常にユニークだが、しかし、 アテナイほどペルシャの影響を受けたギリシャのポリスはなかろうと思う。 少なくともアテナイをギリシャの典型的な、最終最高形態のポリスであると考えるのは完全に間違っている。

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エウメネス4

09.08.2017 · Posted in 歴史

そろそろもう読んでいただいても大丈夫かと思います(などとここに書くのも変だが)。

最初に書いた『エウメネス』がなぜか好評で、なぜ売れているのかわからず、調べてみたらエウメネスを主人公にした『ヒストリエ』というマンガがあった。

その後、『エウメネス2』という続編を書こうと思ったら思いのほか長くなったので 『エウメネス2』『エウメネス3』に分けて、最初に書いた『エウメネス』を『エウメネス1』というタイトルに変更した。

この『エウメネス1』~『エウメネス3』も、やはり不思議と読まれている。 理由としてはやはり『ヒストリエ』の読者が、ついでに読んでくれているというのが大きいのではないかと思っている。

ともかく『エウメネス1』から『エウメネス3』まで買って読んでくれている人が少なからずいるというのは驚くべき現象だ。

ところでこの『エウメネス』シリーズというのは終わりの無い、とても長い話である。 続編を書こうと思えばずっと書いていられるだろう。 『エウメネス』の主題は何かといえば、「ヘレニズム史」だ。 「古代ギリシャ史」でも「古代ローマ史」でもない。 日本史で言えば、「平安時代」と「戦国・江戸時代」の間にある、「鎌倉・室町時代」に相当する。

司馬遼太郎なんかは平安・戦国・江戸(幕末)しか歴史小説を書かない。 中国史だと『項羽と劉邦』くらいしか書いてない。西洋史はほとんど書いてない。 まあ要するに、NHKの大河ドラマと読者層がかぶっていて、日本の歴史好きは司馬遼太郎とだいたいストライクゾーンが似ているわけだ。

アレクサンドロス大王は案外人気がない。 いや、あります、という人もいるかもしれないが、本来あるべき人気よりも、はるかに人気がない。 本来エベレストくらい重要なのに、富士山くらいにしか人気がない。これは不当である。 アリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師というのにすぎない。 しかし世間一般ではアレクサンドロスよりアリストテレスの方が人気があるだろう。 一事が万事こんなふうにおかしなぐあいになっている。

人気があるのはやはり古代ギリシャ史か古代ローマ史なのであり、 アレクサンドロスはそこからかなり外れている。 外れているがあまりにも重要なのでそこそこ興味を持つ人がいるという状況。 アレクサンドロスやヘレニズムは単なるヨーロッパ史ではない。 ギリシャ史やローマ史よりも、世界史的にははるかに重要なのだが、 西洋史観に慣れている日本人にはそこが理解できない。 理解はできても好きにはなれない。

西洋では、ローマ史ができて、ギリシャ史ができて、その間をつなぐ過渡期として、ヘレニズム史ができた。 西洋史観ではだから重要性はローマ、ギリシャ、ヘレニズムの順番になるのだが、 しかし、世界史というものは西アジア(エジプトを含む)もしくは中央アジア(インドを含む)が中心であって、 そこから東アジアやヨーロッパに伝播していったのだ。 世界史的観点から見ればヘレニズムやイスラムの方が、ローマやキリスト教より重要なのは明らかだ。 欧米の史学もそのように次第に修正されてきているはずなのである。 そういうように理解しなければ世界史というものは、歴史というものは、決して理解できない。 日本人では早くに宮崎市定が主張しているところである。

しかるに、日本史の中で室町時代が一番面白いというのが変わり者なように、 世界史の中でヘレニズム時代が一番面白いというのはやはり変わり者なのである。 そして、たぶん、読者はそういうトリッキーな(ほんとは正統派なのだが)面白さを求めて私が書いたものを読みたいと思っているわけじゃないと、私は思っている。

岩明均が『ヒストリエ』を書こうと思ったのはプルタルコスの『対比列伝』を読んで面白かったからだろうが、 『対比列伝』は古代ローマ時代に書かれたものであって、 『対比列伝』をおもしろがること自体がすでにローマ文化に毒されているのである。 ローマ文化とは別にギリシャ文化が好きな人はいるがそういう人はプラトンやクセノフォン、アリストテレスを読むわけであり、 アレクサンドロス大王とか、大きなくくりでヘレニズムというものが好きな人というのはおそらくほとんどいない。

ドイツロマン主義などにみるギリシャ偏愛は非常にひどい。 今回私はアルカディアやスパルタを描いた。 スパルタといえば300だし、アルカディアといえばキャプテンハーロックだ。 メガロポリスという言葉もみんななんとなく聞いたことがある。 しかしその実態はまったく異なる。 皆が歴史だと思っていることの多くは後世作られたファンタジーに過ぎない。 私はどちらかと言えばファンタジーに酔うのではなく、ファンタジーをぶち壊して史実に置き換えるのが好きだ。 史実にできるだけ肉迫して、どうしてもわからないところだけをフィクションで補完するのが好きなのだ。 でもまあ最初からそんな読み方をしてくれる読者がいることは期待してない。 ただ私の書いたものを読んでそういう面白さをわかってもらえるとうれしいと思う。

『エウメネス4』がこれまでの『エウメネス1』~『エウメネス3』と同程度に読まれてくれれば成功だが、 さらに『エウメネス4』を読んでみてさかのぼって『エウメネス1』~『エウメネス3』も読んでもらえることを私としては狙って書いている。

さらには、まったくオリジナルな『特務内親王遼子』のようなものに関心を持ってもらえるとうれしい。 ある意味、『エウメネス』は、ほぼ史実に沿っている。 楽しく世界史を勉強したい人も読むかもしれない(実はそういう需要で読まれているのではないかと私は感じている)。 しかし『特務内親王遼子』はほぼ完全な創作なので(というか私の中で実際の歴史が一旦抽象化されて虚構として具体化されたもの)、 これを理解してもらうのはかなり難しいと思う。かなり遠いところにあるせいで、ほとんど読まれてない。 しかし私の中では『エウメネス』と『遼子』にはその主張したいところに何の違いもないのである。

ま、ともかく『エウメネス4』は一つの実験でありこれが売れてくれると私はうれしい。 私としてはここまでの読者を裏切るようなことはできない、失敗は許されない、というような気負いがあった。 しかしこれまでの私の作品がすべて実験であるように今回も一つの実験だから、完全にこけることもあり得るわけである。 著者にとって読者がどう考えるかってことはまったく予測付かない。 配信し始めてはじめてわかる。それはSNSなどのメディアでも同じことだろう。

実は最初書き始めたときは、メガロポリスの戦いだけでこんなに長く書ける気がしてなかったのだ。 だからガウガメラの戦いまであわせて一巻にしようかとも考えていた。 ところが書いてみたら結局今までよりも長いものになった。 史実以外の部分を書くのに慣れてきたせいかもしれない。 じつは史実以外の部分が異様に詳しい、歴史小説というより、新聞に連載されるような、つまり元ネタを薄めにうすめたような、大衆時代小説みたいな、誰とは言わないが吉川英治の『新平家物語』とか司馬遼太郎の『燃えよ剣』みたいなのが私は好きではない。 しかし私もこれまでいろいろ書いてきたせいで多少長く書くテクニックが身に付いてきたようだ。 私の場合、簡潔すぎるとか、戦闘シーンがあっさりしすぎている、と思われることが多いように思う。 それは、私がやりたいことはまず第一に史実を忠実になぞることであって、史実以外の部分は私の創作だから、そこに厚みを付けることに、作者自身それほど興味がないのである。 戦闘の描写よりは戦略的・戦術的背景を描くことを私は好む。 実際どういう戦闘だったかというのはいくら調べてもそんなに詳しくはわからない。 わかることだけ書けば数行で終わってしまう。 それでは作者が物足りないだろうからとなんとか引き延ばそうと努力したりもしている。 読者は戦闘シーンよりも戦闘が始まるまでの軍議の描写が異様に詳しいと感じるだろうと思う(たとえば『江の島合戦』)。 それは私には私なりの必然性があるのだ。 今回もエウメネスとカッサンドロスの軍議のシーンがかなり長くなった。 それは作者が好きな箇所、書きたい箇所だから単に長くなったのにすぎない。

読んだ人はもう気付いているかもしれないが、『エウメネス』の主人公はほんらいエウメネスではない。 アレクサンドロス大王を第三者の視点から、つまり読者の視点から見るためにエウメネスという地味なキャラを選んだのにすぎない。 私はあの時代に生まれ変わってエウメネスという剣豪になりたい、などとは決して思わないし、そういうキャラに感情移入することができない。 もし、私とどうように世界史そのものが好きな人ならば、アレクサンドロスのそばで彼を思い存分観察してみたい、と思うだろう。 それが著者自身の私であり、エウメネスなのである。 エウメネスは明らかにそういう意味で作中への私自身の「投影」である。

しかし『エウメネス4』ではエウメネスはアレクサンドロスと別行動を取り、一人でいろんな体験をする。 もはや単なるアレクサンドロスの観察者ではない。 タイトルが『エウメネス』だからそろそろ彼を主人公として扱ってやらねばならないかなあと、著者が考えたと思ってもらっても良い。 ただまあ、今回エウメネスはスパルタやメガロポリス、コリントス、ドードーナなどいろんなギリシャの町を巡るのだが、 これは私自身にそういう、古代ギリシャのいろんな場所を旅をしてみたいという欲求があって、それを作品という形で実現している、と言えなくもない。

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エウメネス4

08.20.2017 · Posted in 歴史

『エウメネス4』は今執筆中で近いうちに出るのは、まあ、たぶん間違いない。

『エウメネス2』と『エウメネス3』は書いているうちにどんどん膨らんだので途中でグラニコスの戦いとイッソスの戦いに分けた。

今回もメガロポリスの戦いとガウガメラの戦いを分けて、 『エウメネス4』『エウメネス5』として出す予定だったのだが、 どうもそんなに膨らまない。

メガロポリスとガウガメラは数ヶ月差でほぼ同時に起きた戦いで、 一方はペロポンネソス半島、もう一方はアッシリアで起きた。

それで、メガロポリスのほうはカッサンドロスを主役にしたてて書いてみた。これはこれでまあ良いとする。 古代ギリシャの中でもスパルタはとてもわかりにくい。 スパルタ王はどんな格好をしていたのか。王宮はどんなだったか。服装や髪型は? 「スパルタ王」で画像検索すると例の「300」が出てくるんだが、こんなの絶対嘘だからね。 近世もしくは近代に描かれた西洋美術のイメージで私たちは古代ギリシャを思い描いているが、そのすべては嘘だからね。

おそらく、スパルタ王は、極彩色の唐草模様のような服を着ていた。 古い時代の壁画や壺などに描かれた神や王の絵ではそうなっている。 大理石の白亜の殿堂に、真っ白な服を着ていたのではない。 スパルタ王や、ゼウスやポセイドンは、私たちが今想像しているよりはずっとアジア的な、アフリカ的な風貌をしていたと思う。

ガウガメラは調べて考えているうちに、これは実は、壮大なヤラセだったのではないかと思えてきた。 ともかく、ペルシャ側に戦意のある人が誰一人いない。ペルシャ王を含めて。 必勝の布陣で必敗の予感なのだから、これはもうヤラセとしか言いようがない。

イッソスはガチンコだったけどガウガメラはヤラセだったというのが私の解釈かなあ。

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ギリシャ古典

07.28.2017 · Posted in 歴史

『エウメネス』なんぞを書き始めて、エウメネスという人はよくわからない人なのだが、 とりあえずアリストテレスの下で学んだ学徒であったから、アレクサンドロスの遠征に秘書官として従軍した、という設定にしてみた。

それでアリストテレスを調べてみると、この人はどうも変な人で、お父さんはニコマコス、子供もニコマコス。 自分を飛ばしてお父さんの名を子に付けることは無いとはいえない(たとえばアンティオコス→セレウコス→アンティオコス)、 しかし三代同じ名前というのは普通だ。 たまたま違う名前に入れ替わって見えるのは兄弟がいたりするからだ。

でまあ、アリストテレスという名は後世の人がつけた(すげえかっちょいい)あだ名であって、本来はニコマコスという名前であった可能性が極めて高い。

そしてアリストテレスはたしかに学者であって、博物学者のようなことは(あちこち放浪しながら)多少やったようだし、 「ニコマコス倫理学」は本人が書いたものである(あるいは息子の口述筆記)のは間違いあるまいが、 しかし、リュケイオンの講義をまとめたのがアリストテレス全集だというのはまあ絶対嘘だ。

アリストテレスが有名なのは、彼がアレクサンドロスの家庭教師で、アレクサンドロスがヘレニズム世界を作って、 そのヘレニズム世界の学者らが、アリストテレスという偶像を必要としたのにすぎない。 そしてヘレニズム世界の学者がみなギリシャ人であったわけでもない。 ペルシャ人やエジプト人のほうが多かったはずだが、残された文献がギリシャ語で書かれているので、 なんとなくギリシャ人だと思っているだけだ。

それでヘレニズムは東ローマが継承したわけだが、オスマン帝国が東ローマを滅ぼして、 オスマン帝国がヘレニズムを継承することになったわけだが、 こんどは西洋がオスマン帝国をぶん殴り始めて、ギリシャを独立させ、ギリシャ王国を作って、 ヨーロッパのルーツはギリシャだとか言い出して、 ニーチェみたいなオカルト的思想が流行した。 まあ、ニーチェにしてみればギリシャだろうとペルシャだろうとよかったわけだが、いずれにしても、当時のヘレニズムというものは近世のキリスト教が生み出した虚構にすぎない。 それが虚構であって、本来のギリシャ古典とはなにかということを、 近現代のオックスフォードとかの学者たちはけんめいに復元しようとしている。 しかしオックスフォードが生み出した膨大な近代古典とか、ニーチェなどの近代哲学のために、 あとは、それらを教義に取り込んでしまったキリスト教のために、なかなか元のギリシャ古典が世の中に知られることはない。

ヨーロッパの後追いをしているだけの(しかも五周遅れくらいで!)日本ではいまなお近代ヨーロッパにおけるギリシャ感がそのまま残っており、その虚像をぶっ壊そうと考えている学者もいなければ、オックスフォードの英訳に頼らず、ギリシャ語をそのまま読んで、本意をつかもうという学者もいなさそうだ。 もちろんごくまれにプラトンを原語で読むとかいうのを自分の研究にしている人もいるようだけど。

プラトンは生粋のギリシャ人ではなくて、ギリシャ人の中でもかなり異邦人に近いシチリア人であったはずだ。 彼はソクラテスの弟子の一人だったというにすぎない。 そしてアリストテレスの師匠に収まったおかげで有名になったのである。

私たちが古代ギリシャにシンパシーを感じるとしたらそれは単に近代ヨーロッパの幻想に踊らされているだけなのだ。 イスラム教徒が描いたヘレニズムに共感を覚える日本人は少ないだろ? アレクサンドロスをイスカンダルと呼んだり、マレーシア国王がイスタンダル・シャーを名乗ったりすると違和感を感じるだろ。

それでまあ、せっかくなので、この際徹底的に調べ上げて、『エウメネス』の続編の中で、ヘレニズムの実態を暴いて、見せつけてやりたいと思ったりしているのだが、 しかしギリシャ語は難しい。

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僭主と王

01.06.2017 · Posted in 歴史

僭主(τυραννος)と王(βασιλεύς)の違いはなんだろうかということをずっと考えていた。

Wikipedia の「僭主」を読んでもよくわからないと思う。 英語由来のタイラントだともっとわからない。タイラントには「暴君」という意味しかない。 これは一般化するよりは、古代ギリシャ世界における特有の呼び分け方だと思ったほうが理解しやすいと思う。

王というのは、血縁と地縁があって、その族長がなるものである。 だから王には血統があって、血筋というものが重視され、才能などはまあどちらでもよいということになる。 族長というものはどんな原始社会にもある。 王は、歴史に残らぬ古代から現代までずっとある君主の形態である。 人の集団は多かれ少なかれ、地縁と血縁、宗教や習俗でできているからであり、それは昔も今も大差ない。

これに対して、僭主はある程度文明が発達した社会にしか生まれ得ないはずである。

たとえば、地縁や血縁が強固なスパルタには僭主は生まれ得ない。王しかうまれない。

いっぽうアテナイやテーバイなどでは、無産階級が生まれ、奴隷や富豪などさまざまな、 地縁とも血縁とも関係のない市民がいた。 同じことはペルシャでもいえるのだが、 ペルシャのような巨大な国では皇帝独裁というものが発達した。 アテナイのようなミニチュアのような国では逆に、市民全員が政治に口出しする直接民主制というものが生まれた。

アテナイでもペルシャでも、一代で財をなしたり、あるいは領主となったり、 あるいは領地を相続したり、あるいは武力にうったえて政治権力をもったり、 戦争に功績があった将軍が民衆の支持を得て独裁を行ったり、 そういう形で僭主が生まれることがあるわけだ。

アテナイでは直接民主制もしくは貴族による寡占政治から逸脱した状態として、僭主が嫌われた。

しかし、ペルシャのように、大昔に支配者と被支配者が完全に分離した社会では、 ある日突然、一般人が領主になることがある。 それは婚姻によるものであったり、 跡取りがない領主が親しい奴隷に領地を相続させたりする。 宮廷の官僚や宦官などが王位を簒奪して領主になることもある。

アテナイではペイシストラトスとかテミストクレスが僭主と呼ばれる。 ペイシストラトスは貴族の親玉だった。無産階級をたくさん雇って農地や鉱山を開発させて一代で巨富を得た。 テミストクレスは戦争の英雄だった。サラミスの海戦でペルシャ艦隊を覆滅させた。 どちらも大衆を扇動して権力を独裁しようとしていると疑われたわけだ。

だけど、同じギリシャ人のポリスでもシチリアあたりだと全然違う。 どちらかといえばペルシャ世界と近い。

ギリシャ本土以外では、領主が血縁以外で継承すると僭主と言われる。 娘婿でもたぶん僭主扱い。 ただそれだけだ。

アテナイでは血縁や地縁が薄れてきたので、王政が貴族政に移行したのだろう。 直接民主制に移行したのは直接的にはペリクレスのせいだが、 狭いポリスで、アゴラに無産市民が集まって好き勝手いう環境が民主制というものを生み出したのだ。 でも同じギリシャ人でも、スパルタではそうはならなかった。 無産市民が発生せず、市民はみな農村にはなればなれで暮らしていたせいだろう。

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