亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

僭主と王

01.06.2017 · Posted in 歴史

僭主(τυραννος)と王(βασιλεύς)の違いはなんだろうかということをずっと考えていた。

Wikipedia の「僭主」を読んでもよくわからないと思う。 英語由来のタイラントだともっとわからない。タイラントには「暴君」という意味しかない。 これは一般化するよりは、古代ギリシャ世界における特有の呼び分け方だと思ったほうが理解しやすいと思う。

王というのは、血縁と地縁があって、その族長がなるものである。 だから王には血統があって、血筋というものが重視され、才能などはまあどちらでもよいということになる。 族長というものはどんな原始社会にもある。 王は、歴史に残らぬ古代から現代までずっとある君主の形態である。 人の集団は多かれ少なかれ、地縁と血縁、宗教や習俗でできているからであり、それは昔も今も大差ない。

これに対して、僭主はある程度文明が発達した社会にしか生まれ得ないはずである。

たとえば、地縁や血縁が強固なスパルタには僭主は生まれ得ない。王しかうまれない。

いっぽうアテナイやテーバイなどでは、無産階級が生まれ、奴隷や富豪などさまざまな、 地縁とも血縁とも関係のない市民がいた。 同じことはペルシャでもいえるのだが、 ペルシャのような巨大な国では皇帝独裁というものが発達した。 アテナイのようなミニチュアのような国では逆に、市民全員が政治に口出しする直接民主制というものが生まれた。

アテナイでもペルシャでも、一代で財をなしたり、あるいは領主となったり、 あるいは領地を相続したり、あるいは武力にうったえて政治権力をもったり、 戦争に功績があった将軍が民衆の支持を得て独裁を行ったり、 そういう形で僭主が生まれることがあるわけだ。

アテナイでは直接民主制もしくは貴族による寡占政治から逸脱した状態として、僭主が嫌われた。

しかし、ペルシャのように、大昔に支配者と被支配者が完全に分離した社会では、 ある日突然、一般人が領主になることがある。 それは婚姻によるものであったり、 跡取りがない領主が親しい奴隷に領地を相続させたりする。 宮廷の官僚や宦官などが王位を簒奪して領主になることもある。

アテナイではペイシストラトスとかテミストクレスが僭主と呼ばれる。 ペイシストラトスは貴族の親玉だった。無産階級をたくさん雇って農地や鉱山を開発させて一代で巨富を得た。 テミストクレスは戦争の英雄だった。サラミスの海戦でペルシャ艦隊を覆滅させた。 どちらも大衆を扇動して権力を独裁しようとしていると疑われたわけだ。

だけど、同じギリシャ人のポリスでもシチリアあたりだと全然違う。 どちらかといえばペルシャ世界と近い。

ギリシャ本土以外では、領主が血縁以外で継承すると僭主と言われる。 娘婿でもたぶん僭主扱い。 ただそれだけだ。

アテナイでは血縁や地縁が薄れてきたので、王政が貴族政に移行したのだろう。 直接民主制に移行したのは直接的にはペリクレスのせいだが、 狭いポリスで、アゴラに無産市民が集まって好き勝手いう環境が民主制というものを生み出したのだ。 でも同じギリシャ人でも、スパルタではそうはならなかった。 無産市民が発生せず、市民はみな農村にはなればなれで暮らしていたせいだろう。

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東ローマの後裔

01.06.2017 · Posted in 歴史, 読書

東ローマ帝国が滅びる直前一番近かったのはキエフ公国だった。血筋が一番近いのはグルジアとかアルメニアだったかもしれないが、 近隣諸国で一番でかいのはキエフだったし、 その後継のハールィチ・ヴォルィーニ公国とかモスクワ公国とか。 ともかく東ローマが滅んだ後にその血統と文化を継承したのは、いまおおざっぱにいうところのロシアの中にみんな入ってる。 なんでそうなったかといえば、キリスト教がカトリックとギリシャ正教に分かれたせいで、 両者の間ではほとんど通婚がなかったわけだ。 西ヨーロッパは、のちに宗教改革があるけど、要するに、王侯はみんな親戚どうしだから、 いざとなれば外敵には団結してあたるけど、 東ローマは血縁関係が薄いから見捨てられてしまった。 おなじようにギリシャも。

だけどまあ、近代になって、西ヨーロッパが対外進出し始めると、 一度は見捨てて見殺しにしたギリシャ世界、というか、ヘレニズム世界に食指を伸ばし始める。 オックスフォード辺りの学者が一生懸命ギリシャ語の勉強をやる。 その背景にはやはり、新約聖書がもともとはギリシャ語で書かれていたからでもある。

それで東ローマが滅んで400年近くたってから、 やっぱギリシャは俺等のもんなんじゃね、という機運が西ヨーロッパで盛んになる。 イギリス人もドイツ人も夢中になる。 一方、ロシアを含めたギリシャ正教の国々は旧態依然としてたわけよね。 というより、ロシアもペテルブルクなんか作ってドイツとかの西ヨーロッパの文化文明に憧れて、 もうギリシャとかどうでも良いと思ってた。

まあそれが今ちょっと話題になってる「社会問題」化しちゃったわけで、 ヨーロッパの若者がフィーバーして、ギリシャ独立戦争とかにつながる。 ギリシャは最初独立して王国になったが、その王様がなんとバイエルン王国の王子。 その理由が、東ローマ皇帝の血を引いているからってものなんだが、ものすごいこじつけだ。 ドイツ人のヘルダーリンも『ヒュペーリオン』とかいうおかしな小説書くし。 ゲーテもヨハンナ・シュピリもギリシャ大好きだった。 冷静に観察するとかなり頭おかしい。 しかも頭おかしいってことに自覚症状が無い。 自分たちがギリシャ人の子孫だって本気でおもってる。 ギリシャ人の子孫は今のトルコ人だよな。明らかに。 ついでにイタリアもオーストリアもイギリスもフランスもロシアもどんどんオスマントルコに進出して、 領土を切りとりはじめた。

でまあ、オックスフォードで始まった古代ギリシャ研究というのはすごいものではあるのだが、 もともとはなんの根っこもないもので、 特に初期の研究はけっこうおかしなものもあり、 それをいままじめな学者は一生懸命修正しようとしているのだが、 いったん定着したステレオタイプはなかなか消せない。 キリスト教とか19世紀のヨーロッパの哲学なんかとすごく深い教義の部分で絡み合ってしまっているので、 分離できなくなっている。

で、日本なんかはただのヨーロッパの受け売りだから、よけい始末に負えない状態に今ある。

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水尾の里と小野の里

01.05.2017 · Posted in 歴史

清和天皇と惟喬親王の扱われ方というのは良く似ている。 二人は文徳天皇の皇子で、異母兄弟なのだが、ともほぼ同じころに宮廷を追いだされて、山の中に幽閉された。 惟喬親王は貞観14年(872年)、京都の東、比叡山中の小野の里に。 清和天皇は元慶3年(879年)5月、京都の西、嵯峨野の山中・水尾の里に。 まあ要するに、藤原基経高子兄妹によって、傀儡陽成天皇を立てて、要らなくなったから追放されたのだ。

ひどい話だなと思っていた。

でもまあよくよく考えるに、惟喬親王も清和天皇も生活も経済力も外戚に丸抱えされていたわけである。 天皇や親王が個人所有している資産というものが、この時代にはなかった。 飛鳥・奈良時代にはあったんだろうが、律令国家というものを作って、官僚組織を作って、中央独裁にした結果、 天皇個人の財産と国家の財産というものの区別がなくなり、 国家から切り離された天皇個人の財産というものがなくなった。 桓武天皇とか嵯峨天皇のころにそうなっちゃった。

それで日本では、通い婚、婿取り婚の伝統があるから、本卦還りしてしまって、 天皇は嫁さんの実家の経済力に頼らざるを得なくなった。 摂関政治の本質はそこだよな。

摂家の陰謀で、清和天皇と惟喬親王は追放された、というよりは、 二人とも隠居後の資産なんて何ももってなかったから、京都近郊の山の中を開拓して、 水尾の里と小野の里というものを作って、そこに住民も移住させて、 死ぬまで生きていけるようにした。 ようは老後のための年金として水尾の里と小野の里が与えられたのだろう。 今も山の中に老人ホーム作ったりしてるがあれと同じ。そんなふうに思えてきた。 別に幽閉されたというわけではなかったようだ。京都近郊をうろうろしてた。

惟喬親王は宮中を追いだされて25年後に54才で死んだ。まあまあ長生きしたほうだ。

清和天皇は貞観18年(876年)突然譲位。まあ、失脚したんだわな。 そして3年後、出家して水尾に入り、翌年あっという間に、30才で死んでしまった。 よっぽど嫁さんに嫌われてたみたい。 あんまり指摘されることはないのだが、 清和天皇ってかわいそうなひとだったんだなってことに新井白石は気付いていた。たぶん。

で、似たような状況が後三条天皇までは続いた。 だから、花山院みたいな悲惨な上皇もいた。 皇太子や天皇の間はちやほやされるが上皇になったらもう見捨てられちゃうみたいな(時代は違うが後鳥羽院にもなんとなくそのけがある)。 白河天皇は、その反省から、天皇家が自分で資産を持つようにしたわけよね。 そうして、外戚の資産に頼らなくて済むようにした。 それがまあ白河院が目指した院政というものだわな。

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桓武天皇

10.24.2016 · Posted in 歴史

桓武天皇はやはり異常だ。 皇統譜を書いているとよくわかるのだ。

桓武平氏と言っても、四系統ある。 第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。 このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、 貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。 古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。

平氏以外に、 第七皇子明日香親王から出た久賀氏、 さらに良岑氏がある。 良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。

桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。 嵯峨天皇にも皇子が多かった。 平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。 嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。

ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、 親王以外の皇子はさらに多い。 桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。 白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、 皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。

そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。 光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、 よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。 たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。 しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。

おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、 この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。 藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。 だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。 さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。

桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、 王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、 武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。 桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。 もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。 しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。 だから封建社会になった。

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百済人と冬嗣

10.18.2016 · Posted in 歴史

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、 多くの氏族が桓武に女御を入内させた。 同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。 桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。 外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、 桓武天皇から始まる可能性があった。 しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、 飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、 良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、 帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、 ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、 冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、 言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、 摂家というものを作り出したのではなかろうか。 百済人は歴史から姿を消したように見えて、 実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、 日本の上流社会に生き延びたのである。 高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。 彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。 藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、 実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。 と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、 今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。 もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、 しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、 古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。 彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。 遍昭も良岑氏なので百済系。 源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、 母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、 かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。 彼は仁明天皇に娘種子を、 文徳天皇に静子を入内させた。 名虎は紀氏中興の祖であったが、 結局冬嗣・良房親子に負けた。 名虎の子・有常は急速に没落していき、 貫之や友則の時代の紀氏は、 藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。 しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。 紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。 紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。 小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、 紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。 有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

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皇室典範草庵談話要録

10.13.2016 · Posted in 歴史

10月10日の産経新聞の記事に、 明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、 この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。 記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。 とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。 柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。 つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、 他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。 ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。 例えば岩倉具視の意見とは思えない。 武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。 明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。 つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。 伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、 西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。 外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。 西郷隆盛は朝敵そのものであった。 実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、 京都を奪い返し、北朝を建てたのである。 この頃京都は東京に対して西京といったが、 東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。 伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。 明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、 皇統が分裂していた可能性は高いのである。 その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、 明治政府としてはたいへん困ることになる。 明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、 伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。 伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。 しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。

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宣長が養子縁組みして離縁した件

10.08.2016 · Posted in 和歌, 宗教, 歴史

神社は氏子、寺は檀家という。 しかし伊勢神宮では檀家という。 この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。 神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。

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イソクラテス弁論集

09.09.2016 · Posted in 歴史

この解説がいきなり「カイロネイアの敗報」から始まっているのだが、 私は暫くこの文章をイソクラテスが書いたのかと思って読んでしまったのが、 なんだかおかしい。 あきらかにおかしい。 読み返してみたら解説が始まっていたのだけど、 イソクラテスがデモステネスを褒めるはずがない。

デモステネスの演説がもつ決断の力強い表現は、都市国家が最後に放った閃光であり、ギリシャの弁論術の最高の達成である。

などというはずがない。 イソクラテスはデモステネスに対して真逆の評価をしていたのに違いないのである。

私に言わせればデモステネスはただのバカだ。

カイロネイアの戦いが終わって酒に酔ったフィリッポス2世がデモステネスの決議文を韻文にして吟じたなどというのは、これも誰が言ったかわからない俗説だし(フィリッポスはデモステネスを嫌っていたが、そこまでするとは思えない)、 イソクラテスがカイロネイアの敗報を聞いて断食して死んだというのも後世の俗説である(イソクラテスがそんな馬鹿なことをするはずがない。イソクラテスの死とカイロネイアの戦いがどちらが先かは不明)。 むろんそういう俗説もあると参考までに取り上げるのはかまわないが、 いきなり解説の冒頭にもってくるとはどういうことか。 ミスリーディングだろ?

この、「イソクラテス弁論集」という極めてマイナーな本を読もうという人は、 ソクラテス、プラトン、アリストテレス、或いはデモステネスと続いた正統派の古典ギリシャ哲学に、多少の疑問をもち、イソクラテスに同情的な人ではなかろうか。 フィリッポスと同時代で、彼の理解者であったイソクラテスの生の声を聞きたくてこの本を読むのではなかろうか。 この本の解説はその期待を完全に裏切る。 この本をさらに読む気が失せるほどに。 この本の著者は、単に学術業績のために、 ペルセウスの英文をたまたま翻訳しただけなのではなかろうか? イソクラテスに対する「愛」は持ち合わせてないのだろう。

少なくとも、イソクラテスの本なのだからイソクラテスのことを、 客観的に、中立公平に、学術的に論じてほしい。 そして単に今日定説となっていることを羅列して解説とするのではなく、 イソクラテスという人の意義を掘り下げてみせてほしい。 でなければ解説など邪魔だ。

それから、「平和について」と題するイソクラテスの演説も、 これはデモステネスのような主戦論者に反対して言っているのだ、 マケドニアと争うな、テーバイと同盟してマケドニアと戦争するなど大きな間違いだと。 そしてこれは大国ペルシャに対して言っているのでないことも他の演説によってわかる。 ペルシャの脅威に対してはギリシャ人全体の問題として、一致団結して、 適切に対処しろと言っているのだから。 そりゃそうだ。 スパルタ、テーバイ、アテナイ、マケドニア、ギリシャ人が内輪もめしてる場合じゃないよと。 さっさとギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主と認めて外敵ペルシャに対抗しろ。 イソクラテスはそう言っているのだから。

月報の論評は日本の「平和憲法」や「九条」と絡めて話してしまっている。 おかしな左翼思想を持ち込むなよ。 そういうコンテクストで戦争を放棄しろ、平和条約を結べ、などと言っているわけではない。 読めば明らかではないか。

ともかくイソクラテスファン(そんな人がいるかは知らぬが)が読んだら、腹を立てるに違いない。しかしおそらくそんな人は今のギリシャ哲学研究者にはいないのだろう。

それはそうとイソクラテスがスパルタという「王国」を褒めているのは面白い。 結局マケドニアはスパルタと最終的に雌雄を決することになったのだが。 まあ、マケドニアが好きなイソクラテスが同じ王国のスパルタを好きなだけかもしれないが。 そんな彼がアテナイの敗戦を悲しんで断食して死ぬはずない。

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アリストテレス

09.07.2016 · Posted in 歴史

アリストテレスなのだが、 生まれ故郷のスタゲイラはともかくとして、 アタルネウス、ミュティレネ、ペッラ、アテナイなど、 マケドニアにとって重要な拠点にばかり住んでいる。 これは単なる偶然ではない。 アリストテレスはフィリッポス2世とアレクサンドロス大王のエージェントであった可能性が高い。 転居したというよりは、これらの拠点を往還していたのだろうと思う。 王太子時代のアレクサンドロスの家庭教師というのは形式的な肩書きだっただろうと考えられる。

アリストテレスはアタルネウスの僭主エウブロス、ヘルミアスの系統の人で、 ヘルミアスが死んだあとに彼の後継者になったと考えられる。 エウブロスはおそらくアルタバゾスやメントルらと同じ世界の人で、 フリュギア・ヘレスポントス地方の船主で金貸し。 ヘルミアスはエウブロスの奴隷だったが、エウブロスの死後彼のシマを引き継いだと考えられる。 そしてアリストテレスはヘルミアスの婿養子になってアタルネウスに住んだ。

アリストテレス Ἀριστοτέλης は αριστευς (best, noblest) と τέληεις (perfect, complete) の合成語であり、この当時こんな名前の人はいない。 ソクラテスとかプラトンなどは、まあ当時の普通の人名だが、アリストテレスは後世付けられたあだ名、 というよりは弟子たちが呼んだ美称だろう。 日本語なら「尊師」とでも言うところだ。 アリストテレスが生前この名で呼ばれていた可能性はほとんどないと思う。 後世アリストテレスにあやかって彼の名を名乗った人ならいるようだ。

ウィキペディアなどでは、τέληεις ではなくて τελος (purpose) だとしているのだが、 この二つの単語は明らかに同語源であって、しかも Oxford Classical Greek Dictionary には purpose などという訳は挙げてない。

アリストテレスの本名だが、 彼の父と息子がニコマコスという名なので、彼自身もニコマコスという名であった可能性が大である。 そうすると『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの息子が編集したものだというのだが、 これこそはまず間違いなくアリストテレス自身の学問を記したものと言えるだろう。

アリストテレスがかくまで崇拝されているのは、 彼がフィリッポス2世やアレクサンドロスのもとで何か顕著な(しかし世には知られていない)功績があったからだろう。 かつ、アリストテレスがアレクサンドロスの教師であったことから、のちに、 ヘレニズム世界の百科事典が編纂されたときに、それを無造作にアリストテレス全集と名付けた。 後世の学者たちはこの全集をアリストテレス自身が全部書いたんだと信じた(というより、 「最高完璧全集」というタイトルが先にあり、最高完璧(アリストテレス)という名前の人が書いたんだと勘違いしたのかも)。

それでまあ、フィリッポス2世とヘルミアスは同盟関係にあって、 ヘルミアスはペルシャのギリシャ人傭兵隊長メントルの謀略によって捕らえられて死んだ。 アリストテレスはメントルとフィリッポスの間のエージェントだったと思われる。 アカデメイアに遊学したのはヘルミアスのおかげだろう。 ヘルミアスの死後、アタルネウスは放棄されて、アリストテレスはミュティレネに移り、 さらにマケドニアの首都ペッラに移り、アレクサンドロスが即位するとアテナイのリュケイオンに移っている。

アリストテレスの学問上の功績はないとは言えないが、 すべてはアレクサンドロスが死んだ後に作られたものだ。 つまり、世に言うように、 アリストテレスの教えによってアレクサンドロスがギリシャを統一しペルシャを征服して大王となったのではなく、 アレクサンドロス大王がヘレニズム世界を統一したことによって、 ギリシャ人によるペルシャ学の編纂事業が成り、 かつ大王の権威を借りてアリストテレスという大哲学者の偶像が作られたのである。

状況証拠的には、どう考えてもそういうふうにしかならない。 なぜこういう学説が主流にならないのか不思議だが、 西洋の学問の源泉が中世のキリスト教神学にあり、 その神学がアリストテレスの名を冠したヘレニズム哲学に呪縛されているからだろう。

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神鹿、死刑

04.21.2016 · Posted in 歴史

昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。 常識的に考えて、あり得ないことだ。

信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。 しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。 たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。

だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。 春日大社の宮司? そんなはずはない。 東大寺か興福寺の僧兵?まさか。

江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、 幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。 鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。

鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。 その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。

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