亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

馬場始

06.19.2013 · Posted in 歴史

『明治天皇記』明治二年正月、『馬場始』というものが行われ、そのとき天皇が初めて馬に乗ったらしい。 以後、明治二年には「御乗馬」の記録が頻繁に出る。 明治十年くらいになるとあまりに天皇が騎馬を好むので、岩倉具視が諫めているほどである。

調べると、馬場始は馬騎初(うまのりはじめ)の別称であり、 室町幕府は正月二日、 江戸幕府は正月五日に行ったという。 だが、宮中行事にそんなものがあるはずがなく、 たとえあったとしても天皇自ら馬に乗るはずがない。

天皇が馬に乗った、などという記録があるかすらあやしい。 天武天皇や雄略天皇が果たして馬に乗っただろうか。

馬場始 はコメントを受け付けていません。

京極黄門

06.14.2013 · Posted in 歴史

宝暦5年8月16日(『鈴屋百首歌』第1冊奥書)に「京極黄門」と見える。 藤原定家のことだが、どちらかといえば、漢学的、儒学的な呼び名のように思われる。 この頃はまだ漢学と国学のどちらという立場でもなかったか。

つまり26才の宣長はただひたすらに歌が好きな人ではなく、漢詩も作れば、和歌も詠む。 そういう人だったとすれば、 芦分け小舟を書いたのは、これよりあとだったことになる。

宝暦6年(1756)1月5日以降『在京日記』が和文体に変わった

これも傍証になろうか。

契沖に出会ったタイミングはいつだろうか。

黄門は中納言の唐名。 水戸光圀の号ではない。

宣長は契沖のように僧侶になりたかったのかもしれんね。 もし宣長が貧乏だったら迷わずそうしたのだろうが、 実家が金持ちだったから、当時としては比較的自由業に近い医者の道を選んだ。

京極黄門 はコメントを受け付けていません。

安井金比羅宮

06.14.2013 · Posted in 歴史

こないだ京都の祇園の裏当たりをうろうろしていたら、 いかにも祇園の芸妓というか水商売の女たちが信仰しているような神社があった。 こういうところにはこういう神社ができるもんなんだなと思ったのだが、 宣長『在京日記』宝暦7年1月9日

抑このこんひらの社は、近年いたく人の信し奉ること、檀王の主夜神のことく也、ことに青楼娼妓のたくひの、とりはき信仰して、うかれめあまた参り侍る也、

などと書いてあり、なんと宣長の時代からそうだったんだとあきれた。

祭神が崇徳院と源頼政と大物主神、とあって大物主神は金比羅宮だからで、崇徳院はたぶん讃岐つながりで、 頼政は、実はあんま関係ないけどなんとなく崇徳院に運命が似てるからだろうか。 あ、二人とも清盛にいじめられた。 似てる。 崇徳院と一緒に祭りたい気持ちもわかる。

「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というのも、深読みするといろいろ深い。

安井金比羅宮 はコメントを受け付けていません。

旧暦

06.10.2013 · Posted in 歴史

それでまあ旧暦の時報なんぞ始めてみるといろんなことが疑わしく思えてくる。

昔の人は日の出(明け六つ)とともに起き日の入り(暮れ六つ)とともに寝たのに違いない。 吉原なんてのは暮れ六つから開けたというが、要するに暮れ六つすぎると仕事は終わってあとは遊ぶというわけだろう。 普通の家庭では暗い中灯りを灯して晩飯なんか食うはずもない。 明るいうちに食事を終えすぐに寝たはずだ。

朝は朝とて、冷蔵庫も炊飯器もないんだから、 日の出とともに飯が食えるはずもない。 どんなに急いだって米が炊けるんだって一時間はかかるだろう。 かなり遅く、朝五つか朝四つくらいに朝食を食べたのにちがいない。 そんでまあ朝飯前っていうくらいだから、 飯を食う前に二、三時間は仕事をしたのではなかろうか。えっと夏の話ね。 冬はもっと日が短かったから、そんなには働けなかっただろう。 思うに、朝飯前という言葉は元はそれほど簡単な仕事をさしてはいなかったのではないか。 起きたばかりで飯を食う前の一番頭の冴えた、効率の良い時間帯のしごと、という意味ではなかったのか。

で、その次の食事は正午あたりではありえず、いわゆる昼八つころに食べただろう。 いわゆるおやつだが、これも、単なる間食というよりは、比較的しっかりした食事、という意味ではなかったか。 食べると眠くなるから休憩し、後は翌日の準備などするとあっという間に日が暮れるからそのまま寝たのではなかろうか。 つまり昔の人は朝四つと昼八つの二度食事をしたんじゃないか。

明治大正となりサラリーマンてのが出てくると九時五時の仕事となって、 学校なんかもそうだから、すると朝飯は朝七時くらいになり、晩飯は夜七時くらいになり、 そうなると正午くらいに昼飯を食うのが便利、ということになったんじゃないか。

でまあ、旧暦と和歌を対応させようとすると、 一月が立春で、梅。二月が桜、三月はとばして四月が藤、ほととぎす。五月は端午の節句で夏至、梅雨、花は菖蒲。 六月は真夏。とかなる。 どうも一月二月が花札にあわない。 花かるたってのも実は明治になって旧暦じゃなくなってから今のような形に落ち着いたのでなかろうかという疑いがふつふつとわいてくる。 しかしとなると藤は五月、菖蒲は六月でなくっちゃいけない。 どうもつじつまがあわない。

「さくら さくら やよいの空は」という歌詞もどうも明治の唱歌で確立したんじゃないかと思える。 明治と江戸は似ているようで全然違う。 暦と時刻が違うから全然違ってくる。

旧暦 はコメントを受け付けていません。

時の鐘bot

06.05.2013 · Posted in 歴史

時の鐘というと川越のが有名だが、昔は浅草寺でもどこでもやっていたはずだ。 今、詳しく調べてないけど、 たとえば四つの鐘というのは実際に四回鐘を叩いていたわけで、 九つだと九回。

九というのは大事な数字だからだというが、 一回、二回、三回は間違って撞いたのかもしれず、 また最初の一回などは聞き逃したりして紛らわしいので、 四回以上九回までということになったのではなかろうか。 鐘というのは実際少なすぎるとわかりにくい。

それでまあ、日の出は卯の刻、日の入りは酉の刻、と決まっているので、 昼を六等分、夜を六等分するという変則的な時刻ができたんだろうけど、 鐘の回数で、明け六つだねとか、暮れ六つだね、などと言い出して、 そっちのほうがわかりやすいんで、自然と「明け六つ」「暮れ六つ」 という呼び名が定着したのだろうと思う。

今の川越の時の鐘は、機械式で、 午前6時・正午・午後3時・午後6時の四回鳴らしているというが、 これはいかにも味気ない。正午は動きようもないのだが、明け六つ、暮れ六つは日の出日の入りに無関係、 午後三時に至っては江戸時代の時刻になんら対応していない。

機械式かどうかってことはあんまり関係ないと思う。 人が撞いた方が情緒があるかもしれんが、 そもそも江戸時代から和時計というものがあったのだから、 現代の技術をもってすれば、昼と夜をそれぞれ六等分して鐘を撞くくらいの仕掛けを作るのは簡単だろう。 そのくらいのことをなぜやらないか。

寺が夕方くらいに梵鐘を撞くけれど、 あれも六回どころでなくずっーと撞いている。 しかも毎日ではないように思われる。 気の向いたときに撞いているのではなかろうか。 入相の鐘、というらしいな。回数決まってないのかな。

でまあ、 時の鐘botというものを作ったのだが、 いろいろ考えてみるに、 明治政府が太陰太陽暦を廃止してグレゴリオ暦にした、 その直前までの暦が天保暦というもので、 いま旧暦と言っているのはその天保暦の規則をそのまま延長したものであるらしい。 だが、完全にそのまんまではなく、 天保暦では京都を基準にしたのを今は明石を基準にしている。 明石の日の出日の入りと、京都の日の出日の入りと、東京の日の出日の入りでは当然違ってくる。 緯度でも経度でも変わってくる。 日本で一番正確に天体観測されているのは明石であろう。 ならば、明石を基準にせざるを得ない。

緯度経度が変わると朔が変わる。中国と日本は経度がだいぶちがうんで、朔も違い、 従って春分やら元旦やら月の大小やら、閏月をどこに入れるかも変わってくる。 どこか基準を決めないわけにはいかないが、 日本で一番無難なのは明石であろう。 結局我ら民間人は理科年表かなんかを基準にせざるを得ない。

でまあ、 旧暦2033年問題 というのがあり、 当面botのプログラミングにはなんら問題ないのだが、 20年後くらいにはそろそろ天保暦をそのまんま使い続けていてはまずいってことになる。 閏月をどこに入れるかなんてことは一意ではないから誰かがえいやっと基準を決めちゃえばいいんだが、 それは日本政府なのか民間なのかとかそのへんがややこしいことになる。 でも問題といってもただそれだけなんで、旧暦を使い続ける需要があれば自然と決まるだろう。

旧暦は使ってみると非常に便利なもんで、 特に和歌なんか調べたり自分でも詠んでたりするとどうしても旧暦じゃないと具合が悪い。 五月晴れとか五月雨とか端午の節句とか菖蒲湯とかそのへんの感覚も現代では完全に狂ってしまっている。 その気持ち悪さの解消にはなる。

増上寺は朝と夕方の5時に6度撞くらしいね。

でまあ、日記や書簡なんかで昔どんな感じに日付を入れていたかなんだが、 私としては吾妻鏡にそろえたいところなんだけど、 干支日というのは間違えやすいもので、実際吾妻鏡も明らかに何箇所か間違えている。 間違えやすいとはいえ、逆にいえば干支日というのは60日周期できちんと大昔から決まっているものなのだから、 正確な日付を知りやすい。

一方で干支年なんてものは書いても書かなくてもどうでも良い気もするのだが、 年号は一年の途中で改元されたりするから、やっぱり干支年もあったほうが便利だろうというので、 結局両方入れたりした。

また、吾妻鏡には月の大小まで書いてあり、 当時の公家の日記なんかも読んでみたいところだが、そんなことまで必要かなと思いつつ、 入れてみた。 とにかくなんでも入れてみたのでごちゃごちゃしてしまった。

時の鐘bot はコメントを受け付けていません。

セルジューク戦記

05.19.2013 · Posted in 歴史

『セルジューク戦記』をkindleで出そうと思い読み返してみるが、 今読むといかにも粗い。 特にセルジューク皇族の継承戦争の当たりがまったく弱い。

マリク・シャーが死んだとき皇子らはみな幼かった。 ただし、セルジューク朝の勢いが衰えたわけではなく、 誰かが成人するまでの間、継承戦争がおき、また、 十字軍が起きたというだけのことだろうと思う。

マフムード二世は叔父サンジャルの娘を妻にした。 その息子ダーウードはサンジャルの孫だっただろう。 マフムード二世が死ぬと、サンジャルはダーウードを擁立しようとしただろう。 マフムードの(異母)弟のマスードはダーウードに対抗しようとする。 マフムードの(同母)弟のトゥグリルはダーウードのアタベク(教育係)となったと思われる。

つまり、マスード対(ダーウード+トゥグリル+サンジャル)という内戦が起きるが、 これはマスードが成人しており、ダーウードが幼い状況では当然あり得る話だっただろう。 おそらくダーウードはサンジャルを頼ってホラサーンに拠り、 マスードがバグダードにいたのであろうと思う。

セルジューク戦記 はコメントを受け付けていません。

ハンニバルが越えた峠

05.12.2013 · Posted in 歴史

hannibal_pass

ハンニバルがアルプスのどのへんを越えたかというので、 日本語の文献で詳しいのだと塩野七生の『ローマ人の物語』ハンニバル戦記くらいしかないので、 とりあえず読んでみると、 ギリシャ人のボリビウスはピッコロ・サン・ベルナルド峠だと言い、 ローマ人のリヴィウスはモンジネブロ峠だと言い、ナポレオンはリヴィウスに賛同している、などと書いている。

でまあ、ナポレオンのアルプス越えのイメージがあるので、ハンニバルもアルプスの北側から南のロンバルディアに降りてったようなイメージがあるわけだが、 図に書いてみると、アルプスはアルプスなんだが、ずっと西のはじの、フランスとイタリアの国境付近を越えたのはまず間違いない。 グルノーブルまで来たってことがわかっているのなら、 今もよく使われている街道と峠を使って、スーザに降りて、トリノ方面へ向かったと考えるのが自然だと思う。

モンジネブロはイタリア語で Monginevro、 極めて不親切な表記だ。 フランス語で Montgenèvre (モンジュネーヴ)と書いてもらわないと検索できないだろう。 ピッコロ・サン・ベルナルドはまだ検索に引っかかりやすい。 ピッコロはイタリア語で小さいという意味で、 フランス語だとプチ・サン・ベルナールとなり、 これはグラン・サン・ベルナールという別の峠があるからだ。 ナポレオンはこのグラン・サン・ベルナール峠を越えた。 セントバーナード犬の故郷でもある。 プチ・サン・ベルナール、グラン・サン・ベルナールともに、サン・ベルナルディーノ峠とはまったく違う。

でまあおそらくモーリエンヌから、モンスニ(Mont Cenis, Moncenisio)峠、スーザと越えていったのではないかと思うのだが、 そのルートについては『ローマ人の物語』には言及されていない。

1868年にイギリスの鉄道会社がモンスニ峠に世界で初めての登山鉄道、モンスニ鉄道というのを通したのだが、 これが厳密にはモンスニ峠を越えてない。 わざと迂回させたのかもしれないが、北の方、モンスニ湖の横を通している。 1863年にフェルという人が考案した、真ん中に第三のレールを通す方式。

ナポレオン三世の軍隊もモンスニ峠を越えたと思うのだが、当時のフランス語の新聞でも読まなきゃわかるまい。 やれやれ面倒だ。 1859年のことで、まだモンスニ峠鉄道は通ってない。 乗合馬車みたいなのが通ってたらしい。

なんでイギリスの会社がこんなところに鉄道を通したかだが、 ここに鉄道が通ると、ドーヴァー海峡のカレーから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っていて、そこからエジプトのアレキサンドリアまで船便で、 そこからスエズ運河を通ってインドまで手紙を届けられるのである。 ところが1871年モンスニ峠の近くにフレジュス鉄道トンネルが通るとモンスニ峠鉄道は廃止された。 わずか3年しか使われなかったということだ。

ハンニバルが越えた峠 はコメントを受け付けていません。

ルッカ

05.10.2013 · Posted in 歴史

イタリアの古地図は複雑でややこしい。 飛び地がいっぱいあるし、国も頻繁に生まれたり統合されたりする。

トスカーナの歴史もわかりにくい。 カール大帝の時代はトスカーナ辺境伯。 それからフィレンツェ共和国(1115-1532)となり、 途中メディチ家が一時追放されてフィオレンティーナ共和国というものがあったりして、 それからトスカーナ大公国(1569)となる。 メディチ家が絶えるとハプスブルク家のものになる(1737)。

で、マティルデという女性がトスカーナ辺境伯を治めていて彼女が死んだ(1115)あとに、 トスカーナとジェノヴァの間にルッカという共和国が独立した(1160)。 ナポレオンがルッカとピオンビーノをくっつけてルッカ・エ・ピオンビーノ公国というものにしてしまい、 ナポレオンの妹エリザ・ボナパルトとその夫のフェリーチェ・バチョッキに与える。 ナポレオンはトスカーナ大公国を復活させエリザにトスカーナ大公を兼ねさせる。 これによってトスカーナとルッカはふたたび同じ国になった、と言える。 ナポレオンが失脚するとハプスブルク家の大公が復活するが、ルッカが再び独立国になることはなかった、ということらしい。ふー。

ルッカ はコメントを受け付けていません。

ソンドリオ

05.10.2013 · Posted in 歴史

スイスの古地図を見ていると、 昔と今では少し形が違う。 現在のイタリアのロンバルディア州にあるソンドリオ県というのが、 昔は灰色同盟、つまりスイスのグラウビュンデン州の一部だったので、 当時はソンドリオはスイスのカントンの一つだったわけだ。 ソンドリオというのは町の名でこの一帯は Adda川の渓谷でValtellina地方ともいう。

宗教改革の後、 グラウビュンデンはプロテスタントとなり、 カトリックのソンドリオはプロテスタントを排斥し、 灰色同盟から独立した。 30年戦争では、主戦場の一つとなったようだ。 ナポレオンが失脚するとオーストリアがロンバルド・ヴェネト王国という衛星国を作るのだが、 そのときにソンドリオはロンバルド・ヴェネト王国の一部になったようだ。 たぶんヴィーン会議によって決まったのだろうと思うが、 あまりにマイナーで検索してもよくわからん。

この地図 の灰色の部分ソンドリオ県にあたる。

イタリア統一戦争でロンバルディアがイタリア領になり、そのまま現在までソンドリオはイタリアに含まれる、ということらしい。 ふー。

ソンドリオ はコメントを受け付けていません。

小室直樹

05.05.2013 · Posted in 歴史, 読書

「竹村健一の世相を斬る」に小室直樹が出ていたのは1980年代初頭だったはずで、 『ソビエト帝国の崩壊』が出版されたのが1980年8月5日、それからテレビに出始めたとして、 1983年1月27日以後は問題を起こしてテレビには出られなくなった。 1980年は私が中学三年生の頃であり、いくらなんでもまだ当時は小室直樹を知らなかったはずだが、 高一から高三まで、つまり思想的に一番影響を受けやすいころに、 私は小室直樹からもろに影響を受けたことになる。 彼の特異なキャラクターについては、 ウィキペディア小室直樹にも、 ymo1967氏 の話にもあるとおり。

今読み返してみると、 やはり小室直樹という人はとても変な人だ。 当時とは違って、活字を読んでいるだけで、本人に直接面とむかってまくしたてられている気分になる。 天才肌の人だったのは間違いない。 非常に面白いことを書いている。 しかし誤りも多いし、どうでもいいことをくだくだ書いている部分もある。 私が彼の編集担当だったらさぞ困ったと思う。

今主に読んでいるのは『天皇おそるべし』というネスコ(文藝春秋系列?)から出た新書 (当時の新書はカッパブックスみたいに少し厚めだった)だけど、

天照皇大神の神格、および彼女と天皇の関係の組織神学 (systematic theology)

がどうのこうの(p.30)などといきなり述べており、当時、鴨川つばめなどもこっちの方にのめり込んでいったようだが、 平田篤胤的、三島由紀夫的な神道に、かなり影響されていたのは確かだと思う。

明治維新は慶応四年に、明治天皇が勅令によって、崇徳上皇に讃岐から京都にお帰り願ったことから始まる、という思想は、確かにあったと思うが、 決してメジャーとは言えないし、本質的問題ではないと思う。 保元の乱で後白河天皇が義朝に父為義を斬らせたことによって天皇は倫理的に破綻し日本は戦乱の世となった、 と、北畠親房も言い、小室直樹も主張する。

義朝と為義の関係をそんなに重く考えたことがなかったので、少しとまどう。 そういえば最近のセンター試験の古文で保元の乱が出たときも、義朝と為義の愁嘆場が出題されたのだが、 もともと日本ではこの源氏父子の悲劇というものが、ついでに崇徳院の悲劇というものが、よほど大きな意義を持っていたのだろうか。 崇徳院・魔王説というのはもちろん今もあるのだが、どちらかといえば伝記小説的な部類だろう。

そういうところは別に私はどうとでも良いのである。 世界を見れば王族や武士が親子で殺し合うことは普通であり(これこそ小室直樹の受け売りであり、彼にはそういう著書もある)、 それだけで倫理が破綻するとか、王権が崩壊するとか、 権威が失われるとか、そんなことはあり得ないはず。 むしろ王族というものは、そうした戦乱によってより庶民から超越した権威をまとっていくのだと思う。

保元の乱もそんな怨霊とか祟りとかは抜きにごく普通の歴史的事件として解釈できると思うのだが、 小室直樹には違うらしい。

小室直樹氏逝去の報 のコメントに、

彼の著書は安心して読める。

とあるが、私も昔はそういう読み方をしていたが、 今は、嘘も本当もまぜこぜにぶちまけた、気を抜けない著作だと思って読んでいる。 そういうふうに読んだ方がずっと面白い。新鮮だ。

頼山陽だって『日本外史』の中でときどき今の目で見ると間違ったことを書いている。 史実と違うことを書いている。 そういうものは現代人として補って読めばよい。 小室直樹もまたそうだ。 古典というのはそうしたもので、古くなったり時代遅れになったりはしない。

小室直樹 はコメントを受け付けていません。