亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

坊門

03.30.2013 · Posted in 歴史

坊門信清は後鳥羽院の外祖父。 息子忠信は後鳥羽院の寵臣。 実朝の妻は坊門信子、忠信の妹。 つまり、実朝は信清の婿、忠信の義理の弟。 後鳥羽天皇の女房・坊門局は後鳥羽院の女房。ともに隠岐に渡り、院の死後、京都に戻る。 坊門局は道助入道親王、頼仁親王、嘉陽門院礼子内親王を産む。 道助入道親王は後鳥羽院と礼子内親王の戒師。 礼子内親王は歴代最後の賀茂斎院。式子内親王の四代後。

実朝と後鳥羽院、つまり、実朝と朝廷の間にいたのが坊門ということだわな。 ふーむ。

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親王宣下と元服

03.30.2013 · Posted in 歴史

後醍醐天皇の諡号は生前に本人がつけたというが、 村上天皇は醍醐天皇の皇子なので、 後醍醐天皇の次は後村上天皇になったのだろうか。 朱雀天皇も醍醐天皇の皇子だが、後朱雀天皇は平安時代にすでにいたわけだ。

建武の新政というが、初代神武天皇まで戻ろうというよりは、 醍醐・村上帝の時代の延喜・天暦の治を目指したのかもしれん。

後村上天皇の経歴が実はよくわかってなかった。 1328年9月生まれらしい。年は間違いなさそうだが、月日が曖昧。 1333年建武の新政。 1334年5月、奥州多賀城において親王宣下、 1336年3月、比叡山において元服、三品陸奥太守に叙任、とあるのだが、 調べてみると親王宣下とは幼名を捨てて「憲良」という諱を付けることで、 元服は大人になったという儀式で、大人の髪型、服装に改め、幼名を捨てて大人の名前にする儀式。 だが、おそらく天皇家では、幼い時、元服前に皇太子になったり親王になったり天皇になったりしなきゃならないこともあるから、 元服と親王宣下が分かれたのだろうか。 異様にややこしい。

わざわざ奥州まで下向して親王宣下されておきながら、実際に三品という官位、陸奥太守という官職をもらったのは元服の時、というのもよくわかんない。 そういうもんですか、としか言いようがない。 ともかく、親王宣下というのは、大人になることでもなく官位官職をもらうことでもない、 幼い頃に、親王として生きるか、単なる皇子として生きていくのか、決めること、 つまり、天皇家の家庭の事情で決まることなのだろう。

そんな細かいことまでこだわるべきだろうか。

北畠顕家は1333年に従三位陸奥守になっているので、 憲良親王が陸奥太守になる3年も前だ。 まあそんだけ憲良親王が幼かった、そのためのタイムラグが生じただけで、 建武の新政当初から、憲良親王を陸奥太守、顕家が陸奥守とする予定だった、ということだ。

そこまでこだわるか。 大筋のストーリーにはあまり影響はないけどな。

憲良親王には同母兄の成良親王と恒良親王がある。 母はいずれも阿野廉子。阿野氏は頼朝の父源義朝の血筋に当たる。

成良親王は1326年生まれで1333年親王宣下。 1334年、関東に下向して四品上野太守。 憲良親王とほぼ同じ時期とみてよい。

1335年7月、中先代の乱。 成良親王は足利直義とともに鎌倉を逃れて上洛。 8月、征夷大将軍となるが、 翌1336年2月解任。 11月、北朝第2代光明天皇の皇太子となるが12月に廃される。 北朝第3代崇光天皇が立太子されるのが1348年。同年光明天皇から譲位される。 実質的には光厳院が院政を行ったらしい。 1336年から1348年まで、北朝には皇太子がいなかったということでよろしいか。

成良親王は南朝なのにずっと足利氏に捕らえられていた、ということらしいんだが、詳しいことがまるでわからん。

恒良親王は1324年生まれ。 1334年立太子。 いつ親王宣下されたかわからん。立太子と同時か。 1336年越前金ヶ崎の戦いに敗れ、京都に送られて 1338年に死去したことになっているが不明。

1339年に憲良親王が立太子してその直後に後醍醐天皇崩御。後村上天皇即位。 どうもこのあたり、あとからつじつま合わせをしたような感じがする。

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黄門さまと犬公方

03.21.2013 · Posted in 歴史

『黄門さまと犬公方』というのを読んだのだが、 アマゾンの書評にはかなり辛辣なことを書かれているようだ。

普通にさらっと読めばいいんじゃないですか。 水戸黄門と徳川綱吉、無理矢理おいしいとこ取りした感じは否めないけど。 たぶん国文とか日本史とかの研究をしている人なら、うちらが入手するのが困難な一次資料とかじっくり読む機会があると思うんですよ。 私みたいに適当にそこらの図書館やウィキペディアで調べたんじゃない。 そこがうらやましい。

ただ、情報が少ないぶん、うちらは、主にウィキペディアだが、 状況証拠を広く少しずつ集めて、 たぶんこうだったんじゃなかろうかって、 あたりをつけて小説にするわけ。

当時の記録というのは、その記録を残した人の都合で書かれているのは当たり前なわけで、 一次資料で貴重ではあるが、そのまんまでは使い物にならない。 ウィキペディアだった誰か知らんやつの勝手な思い込みで書かれているわけで。 昔も今も書かれたものというのは、まったく信用できない。 いろんな立場の人が書いた史料とか一般的な史実とかとつきあわせることでなんかわかってくる。 やってることは私とだいたい同じだなと思った。

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籤引きの真相

03.21.2013 · Posted in 歴史

それはまあそうと義持は、子の義量が死んでも次期征夷大将軍を決めず、 空位のままほっといて、自分が死ぬときにも後継者の指命を拒否した、 というのは、普通に考えれば、もう足利宗家から将軍ださなくてもいいじゃん、 事実今も幕府は問題なく動いてるし、 すでに幕府は守護連合みたいなもんで、将軍とか飾りだからいらないんじゃね、とか、 守護が衆議して決めればいいんじゃね、とか、 そんなことを考えていたんじゃないかと思う。 江戸時代の徳川宗家みたいに是が非でも将軍職は世襲しますよみたいな気分はなかったのではなかろうか。

江戸時代の幕臣とか譜代大名らはみんな徳川幕府によりかかって、 運命共同体みたいになっていたが、 室町時代は守護の連合体みたいなもんで独立性が高いから、 必ずしもみんなで一生懸命足利家をもり立てようという感じではない。 日野とかの一部の公家が足利宗家に執着してただけなんじゃないかと思える。 江戸時代の感覚で室町時代を見ても雰囲気わからんと思う。

で、 三宝院門跡の満済というのが義持の護持僧で一番の側近、 籤引きで定めることを決めたのは畠山満家であって、 この二人が仕組んだいかさま籤ではなかろうかということについて、 「籤引き将軍足利義教」に若干詳しい考察があるのだが、 思うに、黒幕は義持の正室で義量の生母である、日野栄子。 そしてその日野家当主義資であったろう、と考えるのが自然だ。 日野家は義満の正室と継室を出している。 足利将軍家の内情に一番詳しくかつ親密な関係だったはずだ。 四人の候補を見るに、一番の年長は義円(義教)。出自も比較的まっとうだ。 他の三人は母親の得体がしれない。 また、日野義資はおそらく義円が青蓮院門跡であったころの世話役であったと思われる (いやそもそも、義円にあたりをつけていたからこそ世話役を買ってでたのだろう)。 義資は義円に、自分の妹・宗子を正室にするならば将軍にしてやろうと義円にもちかける。 籤で義円が選ばれるとすかさず彼を日野邸に連れ込み(1428)、 元服が済むと宗子を正室に送り込む。 こうして、義量の血統が絶えても、日野家は足利家の外戚のまま存続することを得た。

ところが、将軍となった義教は日野がじゃまで仕方ないから、 正親町三条家の尹子という女を正室にすると勝手に宣言(1431)、 宗子は離縁され、その代償に宗子の妹の重子が側室になる。 重子は義勝(1434)、義政(1436)、義視(1439)を産む。 十分男子が生まれ、もはや義教が不要になった日野家は、 正室正親町三条氏が嫡男を生まないうちに、赤松満祐をそそのかして (或いは、義教が次に粛清するのはおまえだ、とか脅しをかけて)義教を討たせ(1441)、 義勝に将軍を継がせる(1442)。 義勝は早世してしまったので、 義政を跡継ぎにして(1449)、日野富子を正室にすえる(1455)。

という具合だったと考えるとすんなりいくではないか。 まさに仁義なき戦い室町編(笑)。 足利家が日野家にがんじがらめにされていくのが目に見えるようだ。

つまり、籤引きなんて単なるいかさま、嘘っぱちだ、と言いたいわけなのだが。

義教が足利宗家を継いでもすぐには将軍宣下がなされなかったというのは、 義量が死んで長いこと空位だったから、別に義教が将軍にならなくてもいいんじゃね、 くらいの雰囲気だったのではなかろうか。 鎌倉公方の足利持氏が代わりに将軍宣下されるんじゃないか、 という可能性があったとは思えないなあ。 日野家としては義教くんが将軍になってくれないとただの守護の中の一人みたいになって困るから、 いろいろ運動したんだろうなあ。 そんくらいじゃないのか。

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光格天皇

03.20.2013 · Posted in 歴史

光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、 天皇号が復活して、光格天皇と諡された。 それは公家から武家に強く要望したからだという。 公家の中では中山忠能だけが反対したという。

後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。 たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。 孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。

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青蓮院と知恩院

03.05.2013 · Posted in 歴史

青蓮院のサイトによれば、

徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられました

とあり、地図を見てみるとたしかに知恩院と青蓮院はどちらも円山町にあって、境内が隣り合っている。 知恩院は浄土宗で青蓮院は天台宗のはずだがおかしいなと思い、良く読んでみると、

慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。 青蓮院の由緒

というわけで、青蓮院門跡が慈円のとき、慈円が当時新興宗教であった浄土宗や浄土真宗を保護して、それが縁で現在の知恩院ができた、 と思われる。 ウィキペディアによれば

浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。 知恩院

とあるから、もともと青蓮院の境内に法然が草庵のようなものを構え、 その寺域を家康が青蓮院から分離して、今のような大伽藍を作った、ということなのだろう。

知恩院のサイトの記述も参考にするに、 知恩院が浄土宗総本山としての地位を獲得したのは家康以来ということではなかろうか。

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法尊、法助

03.05.2013 · Posted in 歴史

義満の子で義持の弟に法尊 という人がいて、「仁和寺門跡」とあるが、

永助法親王から伝法潅頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代に摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だったが、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。

とあり、また 仁和寺門跡一覧 にもないのだから、門跡じゃないんじゃないのそれは? としか言いようがない。

三歳年上の兄・義円(義教)より法尊のほうが出世が早かった、 ということになっているが、仁和寺門跡を実際に継いだわけじゃないのだから、 実際に青蓮院の門跡になった義円のほうが出世が早かった、というべきではないのか。

また、 法助 だが、 仁和寺門跡一覧には「法助法親王」とあるが、親王じゃないんだから、法親王でもないんじゃないの、と思う。 単なる誤記なら修正しようかと思ったが、 仁和寺のサイト にも同様に書かれているので、 ほっとくことにする。

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多賀谷氏家

02.18.2013 · Posted in 歴史

多賀谷氏家 には、

宝徳3年(1451年)、足利成氏の命により関東管領・上杉憲忠の鎌倉西御門館を急襲、氏家・朝経兄弟は憲忠の首を討ち取った(享徳の乱)。

と書かれているが、 上杉憲忠 には、

享徳3年12月27日(1455年1月15日)に鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城成朝の家臣多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった

と書かれている。 どっちなんだよ。

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有栖川宮幸仁親王

01.25.2013 · Posted in 歴史

宮将軍擁立説 なるものを書いたのだが、 有栖川宮幸仁親王の母親は藤原共子であって明子王女ではない。 明子は家康の玄孫であるが、幸仁親王は明子の実子ではないのだから、幸仁親王は家康の血を引いてない。 なんかだまされた。

ではなんで幸仁親王を将軍にしようなんて話が出てきたのだろう。 おかしいなあ。

でも、明子には桂宮長仁親王があるので、彼ならば宮将軍になってもおかしくない。 だから宮将軍擁立説は実は幸仁親王ではなく長仁親王だったのではないか。

ダメだ。家綱が死んだ1680年には、長仁親王はすでに死んでいる。1675年死去。 実子も残してない。

藤原共子にはけっこう年子が多い。 これも怪しいと言えば怪しい。 実は幸仁親王は明子の実子だが、それを隠匿するため藤原共子の子としたのか。 うーんトリッキーだなあ。 結構無理がある。 それとも、wikipediaの記述が間違っていて、もともと幸仁親王は明子の実子だったが、 綱吉がその出生を捏造したとか。 うーむ。

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von Fersen

01.22.2013 · Posted in 歴史

メモ。

Fredrik Axel von Fersen (1719-1794) の妻は Hedvig Catharina (1732–1800) 、 子は Hedvig Elenora (1753-1792), Hans Axel (1755-1810), Eva Sophie (1757-1816), Fabian Reinhold (1762-1818).

Hedvig Elenora と Eva Sophie は女、 Hans Axel と Fabian Reinhold は男。

Fredrik Axel von Fersen は Axel von Fersen the Elder とも呼ばれ、 Hans Axel von Fersen は Axel von Fersen the Younger とも呼ばれる。 いずれもスウェーデン王国の伯爵。 つまり、フェルセン伯。

Hedvig Elenoreは スウェーデン女王Sophia Magdalena に仕える女官。 二回結婚して子供が四人。

Eva Sophie は Sophie Piperとも呼ばれる。 スウェーデン女王Hedvig Elizabeth Charlotteに仕える女官。 夫は Adolf Ludwig Piper。

Fabian Reinhold

ヴァレンヌ事件

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