亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

親王宣下

01.21.2013 · Posted in 歴史

以仁王と式子内親王は同母姉弟であって一方が内親王、つまり親王宣下されているのに、 他方はされてない。 ふと疑問に思ってとりあえずwikipedia を読んでみると脚注に詳しい解説がある。

以仁王:版間の差分

院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。

2012年10月14日に匿名で書き込まれているのだが、 おそらくNHKの大河ドラマ「平清盛」を見た人(歴史研究者?)がふと気付いて書いてくれたのに違いない(ちなみに私はドラマは見てない)。 なるほどつまり、立太子とか男子の親王宣下というのは、 少なくとも後白河上皇の時代にはなかった(天皇は即位直前に立太子された)、ということか。

また、

幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗。永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。

とあるのだが、法親王宣下されてなくても仏弟子となったのであれば、木曾義仲が擁立しようとした北陸宮どうよう、皇位継承権は放棄されたものとみなされて当然だと思う。

実際に還俗し元服し、「以仁」と名乗ったのか、 ほんとに八条院暲子内親王の猶子となったのかも疑おうと思えば疑えるわけで、 以仁王の挙兵時に「令旨」を権威づけるため適当にでっちあげたことかもしれん。 実は法親王宣下すらされず、ずっと僧侶としてほったらかされてただけかもしれん (勝手に最勝法親王と名乗っていた可能性が高い)。 後白河天皇自体がそもそも天皇の器ではないとほったらかされた人だった。 その内縁の妻の男子なのだから、そんなぞんざいな扱いをうけてもおかしくない。 後白河天皇以外の天皇がどんどん死んでしまい、 いつの間にか以仁王の重要性が高まってしまい、それに頼政が目をつけて、 うまくおだてた、というだけだろう。

幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。

このへんの Wikipedia の記述もまったく当てにはならない。 詩歌とやらが一つでも残っていればともかく。 姉の式子内親王は歌がうまかったわけだが。

北陸宮は以仁王の子なのだが、以仁王は29歳で死んだわりにはずいぶん妻と子供がいる。 正式に結婚したのではない。手をつけたらできてしまったのだろう。 そっちのほうが割と気になる。 余計なこと考えぬように女性だけはたくさんあてがわれていたか。

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江戸の繁華街

01.09.2013 · Posted in 歴史

思うに、家康入府以前に、江戸城から浅草を通って奥州に通じる奥州道というものはあった。 また、岩槻道というものが整備されて中山道となった。 岩槻道と奥州道が交わるのは日本橋・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町辺りだっただろう。 もっとピンポイントに言えば現在の「室町三丁目」「本町三丁目」辺りだろう。 ここらは室町・戦国時代にすでに交通の要衝であり、旅籠屋や問屋、運送屋、廻船問屋などがあったはずだ。 この、江戸城から浅草までの間が江戸の一番古くからある繁華街であって、 家康はごく初期の段階にここをそのまま利用したと思われる。 天下普請が始まったのはもっと後からのことだろう。

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日本橋と大名行列

01.02.2013 · Posted in 歴史

以前江戸の街道に書いたことの繰り返しになるが、 1600年関ヶ原、 1601年から「五街道」整備、 1603年に日本橋が架かり、 1604年から日本橋を五街道の起点にした、などとあるが、 その根拠はいったいなんなのか。

日本橋よりも神田橋の方が先に架かっていて、 門も見付もある。 中山道と奥州街道の起点はこの神田橋門(神田口門)であり、 東海道は虎の門、甲州街道は半蔵門を起点とすると考えたほうがずっと自然ですっきりする。 また、日光街道が徳川家にとって重要になったのは家康が葬られて家光が東照宮を祖先崇拝してからだと思われるし、 1604年ころから日光街道を奥州街道と区別し五街道と呼んでいたとは信じられない。 また甲州街道が五街道に入るほどに重要だろうか。 完成したのも他の街道より百年ほど遅い。 甲府街道が重視されたのは、吉宗以後幕府直轄領になってからではないのか。

道中奉行というものがあったそうだが、たぶん日本橋は道中奉行の支配ではなく、町奉行支配であろう (と思うが橋奉行とかいたかも知れんね)。 神田橋に至っては江戸城の一部だから奉行とかそういうものはなかっただろう (普請奉行か?「江戸城代」という役職は家康が入府する以前のもの)。 日本橋を宿場と考えることにも疑問があるが、 商人らは日本橋や小伝馬町、馬喰町などの繁華街に投宿しただろうから、 商人や町人にとって日本橋は宿場町のようなものだったとはいえる。 日本橋付近に武家屋敷がなかったわけでもなかろうが、このあたりを大名行列が頻繁に往来したとは考えにくい。

安藤広重『東海道五十三次』日本橋には、日本橋を大名行列が通る朝の情景が描かれている、というのだが、 これがいわゆる大名行列かどうかも疑問だ。 大名行列だとして、どこの大名がどこからどこへ行こうとしているのだろうか。 大名が日本橋を通る必然性がない。 ただの公務中の旗本かもしれない。

さらに、大山街道、中原街道の方が、東海道より利便性が高いように思われる。 現在でもそうだし、江戸時代より前でもそうだった。 江戸時代だけ東海道の地位が高かったのも、よくわからん話だ。 この三つの街道は、少なくとも庶民レベルでは対等だったのではないか。

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南朝断絶

01.02.2013 · Posted in 歴史

読史余論に

後小松譲位の日、義持前盟に背きて称光院を立て参らせしかば南帝憤を含み諸国に兵を挙ぐ。此の時、義持南軍と相和するに此の次の御位には南帝の太子を立て参らすべしと約せしかば兵解けぬ。

後小松天皇が譲位したのは自分の子供に帝位を継がせ、院政を敷くためだっただろう。 1412年。 南朝最後の天皇後亀山には皇子恒教があったが、1410年に吉野に逃げている。 恒教は1422年に死ぬまで抵抗を続けている。

其の後十六年にて称光院崩じ給ひ御位を継がるべき御子もなく後小松の上皇にも又御子なし。

称光天皇の崩御は1428年。 後小松院1433年まで生きており、将軍足利義教は後小松院の意向を確認して後花園天皇を即位させる。

此の時に於ては義教宜しく南帝の太子を立て申すべき事にあらずや。然らば義満義持の盟約も違はず、南朝の旧臣の憤も散じ、且は兼務以来八十余年が程に戦死せし南朝義士の忠魂冤魄をも慰しつべし。豈忠厚の至にあらざらんや。其れに腹悪しく南帝の統を絶棄参らせし事こそうたてけれ。

うーむ。 後亀山院崩御は1424年。 後亀山院もその皇子も1428年当時すでに死んでおり、 その他の南朝の皇子、つまり、後村上天皇の子孫も、いるんだかいないんだかわからない状態だっただろうと思う。 後小松院もこの時点で死去していたとしても、 では南朝の子孫を即位させましょうということになったかどうか。 で、おそらく南朝の子孫はいただろうが僧籍に入っていたり若かったり有力な後見者がいなかったりで、 事実上不可能だったのではないか。 後花園天皇に皇子(後の後花園天皇)が生まれたのは1442年、 義教が暗殺されたあとのことで、しかも皇子はそれ以外に生まれなかった。 伏見宮家があったから皇統が絶えるという心配はなかったのかもしれんが、 南朝北朝とか言ってる場合ではなかったのではなかろうか。

南朝の子孫は、地方に散らばったり、抵抗したりしなくて、京都辺りで着々と子孫を残しさえすれば、 北朝の子孫が勝手に絶えて、いずれ南朝に皇統が戻ることが十分にありえたのだな。

新井白石が案外南朝に同情的なのには正直驚いた。 現代人にはこういう感覚は欠如していると思う。

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オクシュアルテス

12.02.2012 · Posted in 歴史

この Oxyathres (Vaxšuvarda) と、 Oxyartes (Vaxšuvadarva) は同一人物なんじゃないかと思うのだが、どうよ。 日本語版の オクシュアルテス によれば娘にロクサナとアマストリネがいたことになっている。 英語版 Oxyartes にはアマストリネの記述がないのだが、 Oxyathres には Amastris (または Amastrine)という娘がいたことになっている。

まあ、混同されても全然おかしくないレベル。 ていうか同一人物だと考えるとすっきりする。 ダレイオス三世、ベッソス(アルタクセルクセス五世)、オクシュアルテスは、 もともと王族ではあるがバクトリア太守の家系の兄弟なのであり、 ダレイオス三世はアルタクセルクセス四世の血筋が絶えたので、 ペルシャ王となった、 その後アレクサンドロスに敗れて故郷のバクトリアに逃げようとしたが、 弟のベッソスに裏切られた。 さらにその弟のオクシュアルテスがベッソスをとらえてアレクサンドロスのもとに送ったのではなかろうか。

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新井白石

11.19.2012 · Posted in 歴史

少しヒマがあったので、「折りたく柴の記」を最初から順に読んでみたのだが、 Wikipedia 「新井白石」の記事に

先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている[1]。

と書いてあるのだが、白石本人は父から聞いてなくて知らないという。 どうやって調べたのだろう。単なる伝説のたぐいか。

白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。

「火の子」と呼ばれたのは火事の時に生まれた子だから、と「折りたく柴の記」には書いてあるのだが。 それから、三歳で儒学の書(?)をそっくり書写した、などとはどこにも書いてないし、そんなことは不可能だろう。 ただ、「上野物語」という仮名草子を、紙を草紙の上に重ねて、写し取ったもののうち、文字になっているものが十のうち一、二あった。 と書いてある。もしかしてそのことを言っているのか。

どうもこの「新井白石」の記事はおかしくないか。

利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。

白石の父は、利直から直樹(頼直)に代替わりするときに病気になり、 息子の白石が仕事を継ぐ前に隠居した。 普通武士はそんなことはしない。理由はよくわからない。 何かはばかることがあったのかもしれない。 珍しいことだが、直樹は父利直は不仲だったために、 利直に目をかけられていた白石の父は数年後禄を奪われ、 白石は出仕することを禁じられ、土屋家を追われた。 と、「折りたくしばの記」には書いてあるが、ずいぶんニュアンスが違うのではないか。

その後直樹が改易されると、自由の身となった白石は大老堀田正俊に仕えたが、

改易したらすぐに自由の身になったのではない。 直樹の子が家督相続して、その子に白石が逵直(みちなお)という名前を選んでやった。 そのことによって白石は再び他家に仕官することを許された。

独学で儒学を学び続けた。

どうも独学が好きで好きこのんで師を持たなかったような印象に書いてある。 たぶん戦前の修身の教育でも同じニュアンスなのだろう。 しかし 「折りたく柴の記」には

しかるべき師といふものもありなむには、かく書に拙き身にもあらじ。

したがひ学ぶ所もありなば、文学のこともすこしく進むこともありなまし。

をしへみちびく人もありなむには、今の我にもあらじ。

学問の道において不幸なることのみ多かりし事、我にしくものもあるべからず。

などとあって、師をもてれば持ちたかったし、もしもてていれば今よりずっと学問がはかどったに違いない、などと書いている。

ところで、終戦の詔勅に 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」 というフレーズがあるのだが、「折りたく柴の記」に 「堪えがたき事をも堪え、忍びがたき事をも忍び」というくだりがあって、 はて何か漢籍に出典でもあるのかと思ったが、 それらしきものとしてはおそらく何かの仏典に由来する 「難忍能忍、難行能行」(忍びがたきをよく忍び、行いがたきことをよく行う)というものではなかろうかと思う。 ともかく昭和の人たちは白石の「折りたく柴の記」を熟知していたろうから、 玉音放送にも採った、というのは間違いなかろうと思う。

「折りたく柴の記」は比較的ひらがなの多い和文で書かれていることを思えば、 自分の子孫が(つまり漢学の素養を身につけた男子だけでなく、女子などが)読めるようにと書いたものだろう。 もし儒学者らに向けて書いたなら、読史余論のような文体になったことだろう。 内容も、後半くどくど政治のことを書いているが、普通に読めば新井家の由来、昔話と読めなくもない。

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後鳥羽上皇

11.08.2012 · Posted in 歴史

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

本気で言っているのか。 [1]はただの個人の感想ではないのか。 [2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。 [3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪んだ記述だ。

丸谷才一は後鳥羽院が大好きだからたくさん書いている。 そのことは良い。ただの作家の一個人としての感想だからだ。 しかしおかげで丸谷才一史観みたいなものができてきて、それがまるでオーソリティのようになりつつあるのではないか。 極めて危険だ。司馬遼太郎くらいに危険だ。

後鳥羽院はものすごくたくさん和歌を詠んだ人だ。 そしてすごく優れた歌人だ。 ほんとうはもっとたくさん勅撰集に採られていてもおかしくない。 しかし承久の乱を起こしたので、のちの北条氏や足利氏には嫌がられただろう。 ごく一部の歌だけが知られている。 戦後はやはり、後鳥羽院の歌は半ば封じられた。 特に承久の乱の後、隠岐に流されたころの歌とか。 順徳院の歌も。

承久の乱がなんであったのかは今も良く理解されていないと思う。

白河院はものすごく勅撰集にコミットした。万葉集、古今集は必ずしも天皇の関心事ではなかった。 勅撰集というものは白河院が創始したと言っても良い。 だが、後鳥羽院という天才歌人天皇がいなければ、勅撰集は応仁の乱までもたず、 従って今日でははるかむかしに存在した文芸、ということになっていたはずだ。

コンプレックスだけで良い歌は詠めない。後鳥羽院はほんとうの天才だった。 むしろ何のコンプレックスもなく、王者としての万能感だけがあったのではないか。 だからつい承久の乱を起こしてしまったのだと思う。

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干支日

09.19.2012 · Posted in 歴史

吾妻鏡に元暦二年五月二十四日は「戊午」とあるが、 換暦で変換すると「丙午」となる。 これは何かの間違いだろうか。

うむ。どうも吾妻鏡の方の誤記のようだ。 というのは、この元暦二年五月の記述を見るに、 23日と24日以外は換暦と一致するからだ。

ちなみに23日丁巳は乙巳の間違いで、 24日戊午は丙午の間違いである。

やれやれつまらんことにずいぶん時間を取られた。

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畠山氏

09.14.2012 · Posted in 歴史

畠山氏は足利氏の一支族となっているが、 元は武蔵国の在官で秩父氏と言うから秩父の豪族だったのだろう。

系図では、桓武平氏の祖高望から良文、 忠頼、 将恒、 武基、 武綱、 重綱、 重弘となってその子に畠山重能、小山田有重があったことになっている。 ただこれは後世の畠山氏による創作の可能性が高い。

畠山重能の子に重忠、重忠は畠山重忠の乱で滅亡。 足利義兼の子義純が重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、 畠山氏を継いだ、とある。

足利義純は先に新田義兼の娘と婚姻していたが絶縁。 新田氏との間に生まれた子が岩松時兼、田中時朝で、 それぞれ後の岩松氏、田中氏の祖先となったという。

ややこしいのう。

足利氏にこんだけ支族が多いのはどうしてかもすこし考えてみる必要がある。 足利氏は将軍になったから、 家系にも後世の捏造が多いのかもしれん。 どうも、畠山氏や岩松氏や田中氏などはもともとあまり関係ないような気がするし、 山名氏もあやしい。 正味のところどうなのか。 また、足利氏以外の家系というのも実は支族がけっこういるのだけど、 後世に伝わってないだけかもしれない。 或いは、たまたま足利氏が領した土地が豊かだったのでたくさん増えたのかもしれん。

気になるのは、つまり、後醍醐天皇の時代に足利氏がどの程度の大族であったのか、 足利氏にどれほどの戦功があったのか、 足利氏にはもともと北条氏を倒すほどの実力があったのか、 或いはたまたまいきおいで北条氏を滅ぼしてしまったのか。 或いは北条氏は滅んだとは言えなかったのだが、その後の諸事情で結局足利氏が最終的に勝利したのか。

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足利氏の系譜

09.13.2012 · Posted in 歴史

系譜はまだ書きかけなのだが、 足利氏はだいたい、兄弟の中で北条氏が母である者が足利本家の跡取りとなり、 側室に生まれた子は分家になる、というようになっていたようである。

分家がたくさんできるというのは側室をたくさんもっていたということで、 経済的に恵まれていた、もしくは、子孫に分け与えられる領地がたくさんあった、 ということであろう。 義氏、泰氏、貞氏が割と子だくさんであり、 特に泰氏のときに支族が急に増えているが、 これは承久の乱の後で足利氏が急に大きくなったためだろうと思う。 たとえば北条泰時にたくさん子がいて正室の他に側室が何人もいたら、 全国に北条氏の分家ができて、 北条氏以外の武家はあまり大きくなれなかっただろう。 しかし泰時はあまり子孫に恵まれなかったようだ。 で、おおよその傾向として北条氏はあまり分家がいなかった。 名越氏と赤橋氏くらいだわな。 徳川氏の御三家とか御三卿とかいうのに比べてあまりに貧弱だ。 足利氏の支族と比べても。 もちろん足利氏は北条氏を正室としたのだから、足利氏に北条氏の血が非常に濃く受け継がれているのだが。

足利氏は先に名越氏か赤橋氏を正室としても、のちに得宗家から正室をもらうと、 元の正室は側室扱いになり、生まれた子供は分家になってしまう。 そして分家がどんどん枝分かれして増えていく。 南北朝以後室町時代にもどんどん増える。

北条得宗家はだんだんに全国の守護を一門で独占するようになり、 また、みうちの御内人と言われる、長崎氏、諏訪氏らを重用するようになる。 外様大名的扱いの安達氏や足利氏などは分家がどんどん増える割に幕府での地位が下がっていく傾向にあった。 足利氏も得宗家との姻戚関係が強固なうちは良いが尊氏のように上杉氏の子であったり、その嫡男が赤橋氏の子であったりして、だんだんに幕府の中心から遠ざかってきた。一方で支族はどんどん増えていく。 つまり、足利氏の中の北条氏の血が薄れていく。 その当たりが、足利氏が北条氏から離反した理由ではなかろうか。

山名氏はずっと早くに義康から分かれているのだが、新田氏の子孫だと言う説もあるようだ。時代が古すぎてよくわからんのかもしれん。 というかその頃はまだ新田氏と足利氏はほとんど同族のようなもので、それほど違いがなかったということだろう。

吉良氏が三河に土着したのは、承久の乱の20年後、1240年頃らしい。 承久の乱直後から関東武士の三河への入植が始まった、と考えて良いと思う。

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