亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

愚管抄

09.02.2012 · Posted in 歴史

慈円って面白いな、同母兄の九条兼実が書いた『玉葉』とかと合わせて、 『愚管抄』『拾玉集』とか徹底的に読んでみたいなと思う。 まあしかし、『拾玉集』を見た限りでは、どうでも良いことをだらだら書く人なんだろうなと思う。 それはそうと、講談社学術文庫の『愚管抄を読む』を読んでいると面白いことが書いてあった。

後三条天皇については以前に 藤原能信宋の改革など書いたのだが、 天皇が度量衡の統一政策で、延久宣旨枡というものを作らせ、 それを天皇に奉ったところ、天皇は清涼殿の庭の白砂を自ら枡に入れて確かめたという。 本当にそんなことがあったのかもしれないが、良く出来た作り話のような気もする。 どうも北宋の皇帝か何かがやったことを後三条天皇もやったように脚色しただけではなかろうか。 或いは北宋皇帝がやったことを真似てやってみせたとか。 側近の文官による演出はきっとあったのに違いない。

唐の皇帝はそんな自分で枡で量を計って確かめるような実務的なことはやらない。 唐の皇帝を真似た日本の天皇もやらない。 しかし宋の皇帝はやってみせた。 職人や商人がやるようなことを自ら、率先してやった。 そうして官製の枡というものを普及させようとした。 日本の天皇も宋の皇帝のように変わらねばならない。 そのメッセージのようなものだろうと思う。

だがまあ王様の体を基準にして長さや量を決める、ってのはいろんな時代いろんな国でやってそうだが。 そういうことを一番嫌がるのは貴族だ罠。

それから、天皇は荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設けた。 関白頼通にも自分が持ってる荘園を申告させようとした。 ところが頼通は、荘園を寄進すると勝手に言われるがままにもらっていた、 荘園の整理ということは関白自らがやるべきことであるのにそれを怠っていたのだから、 このさいすべて廃止すべきだ、などとしゃあしゃあと言ったそうだ。 後三条天皇はしかし頼通の荘園だけは記録から除外することにしたという。 これがさも美談であるかのように書いてあるのだが、とんでもないことだ。 頼通は結局天皇の改革の及ばない権力を持っていたというだけではないか。

慈円はここまで歴史をさかのぼって調べていながら、 保元の乱以後日本が乱れたのは、後三条天皇の改革が白河天皇の時代に頓挫したからだ、 宋のように天皇主体で官僚制へ移行する改革が不徹底だったからだ、 だから武家の時代が来たのだ、 とは考えていない。 実に不思議なことだ。 結局は彼も藤原氏だったということか。

思うに中央集権に流れるか、地方分権に進むかということは、 ささいなきっかけでどちらか一方に決まってしまうのだろう。 中国では宋以後ずっと中央集権のままになってしまう。 一方日本や欧州では地方分権に固まってしまう。 後三条天皇はその岐路にいたのである。

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江戸の街道

09.02.2012 · Posted in 歴史

別の地図を見ると、 小山から日光、宇都宮、水戸の三方向に街道が分岐している。 宇都宮から日光へ至るのが正式な日光街道であり、小山から日光に至るのは脇街道と見なせばよいか。 思うのだが、江戸から小山を経て日光へ至るのが一番自然な道筋だと思う。 いやそれよりも、そもそも江戸から日光へ至るには日光御成道を通るのが一番自然だ。 よくわからん、もっと正確な地図が欲しい。 宇都宮から大田原、鳥山、日光などに至る道が極めて適当に描かれている。 奥州街道を整備するにあたって宇都宮をその主要な中継地点にしたというような事情ではなかろうか。

小山から水戸へ至るのもやはり脇街道だろう。

千住から船橋を経て佐倉まで佐倉街道が延びているが、 これは町人が成田山詣でに利用したために成田まで延びて成田街道などとも呼ばれる。

大山街道というのは複数あって紛らわしいのだが、世田谷を起点として矢倉沢往還を記入してみた。 大山道というのも要するに江戸で大山詣でが流行ったからそういう呼び名が定着したのにすぎない。 ついでに中原街道も記入してみる。

東海道五十三次というが江戸と京都は含まれてない。 品川から大津までだ。 歌川広重の絵は五十五枚ある。 これの影響で、江戸の起点を日本橋としたのではなかろうか。 あまり根拠のあるものとは思えない。 東海道の京都側の終点を三条大橋だなどとはあまり言わないのではないか。 広重は幕末の絵師なのでまあそのへんは適当で。

江戸から行徳、船橋などへは直接街道が延びてない。 みな千住方面に迂回しているが、つまり、江戸初期にここらは低湿地であったためだろう。

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江戸の四宿と街道

09.01.2012 · Posted in 歴史

元禄六年の江戸地図を見ていると、中山道は単に板橋道と書かれている。 板橋道は本郷追分で岩渕道と分かれている。 岩渕道というのは岩槻街道もしくは日光御成道(おなりみち)のことであり、 荒川を挟んで手前が岩渕宿、向こう岸が川口宿。 日光御成道は日光街道の脇街道となっているのだが、これがまた紛らわしい。 日光御成道と日光街道は幸手(さって)追分で合流する。 追分とは街道の分岐点のこと。 本街道と脇街道が分かれたり合流するところなど。

同じ地図で奥州街道は「千種海道」と書かれているがどうやらこれは千住街道という意味らしい。 こちらの地図 では、千住街道は千住大橋を渡った先の千住宿(今の北千住)で日光道と奥州道と水戸道に分かれている。 が、wikipedia では奥州街道と日光街道は宇都宮までは共通だなどと書かれている。 おそらくここで日光道と呼ばれているのは厳密に言えば日光御成道のことなのだろう。

ついでに江戸四宿の内藤新宿、板橋宿、千住宿、品川宿も描き込んでみる。

こうしてみると、どう考えても、日本橋がすべての街道の起点になっている、 などとは言えないのである。 江戸城をぐるりと取り囲む門や見附がそれぞれの街道の起点となっている、 と考える方が自然であるし、 特に江戸城下では中山道や日光街道や水戸街道などという明確な認識はなくて、 岩渕道とか板橋道とか大山道とか甲州街道とか青梅街道などがあっただけなのだろう。 従って、青梅街道や甲州街道の起点は内藤新宿であり、 奥州街道や水戸街道の起点は千住であり、 東海道の起点は品川であり、 中山道や川越街道の起点は板橋である、 と考えるのもわかりやすいと思う。 なんでもかんでも日本橋を出発点にするという考え方はどこから出てきたのだろうかとふと疑問を持つ。

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宮将軍擁立説

08.26.2012 · Posted in 歴史

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、 弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、 有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったという。 徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、 家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、 その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。 忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。 好仁親王と亀姫の子・明子は後西天皇の妃で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。 たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、 これがまったくはっきりしない。 血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。 長子相続の原則にのっとれば綱豊であるが、誰かが擁立しようという話はなかったようだ。 有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。 酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、 頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、 家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。 ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、 いたらもっと大問題になっていただろう。 いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。 だって御三家だっているわけだし。 血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶかね。 吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、 堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。 また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派ということもあり得よう。 事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。 よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。 最近はときどきつながらないし。

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筋違

08.26.2012 · Posted in 歴史

筋違はスジカイと読むらしい。 中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、 湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、 わからんことだらけだ。 川越素描にも同じ地図を掲載したが、 小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。 SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。 こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。 あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。 しかし、あまり見かけない地図である。


などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。 現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、 もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、 家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。 北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。 この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、 上野へ向かう道である。 浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。 ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。 なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。 特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。 やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。 また、西の丸の辺りもややこしい。 今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。 現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。 今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。 シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。 京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、 次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。 すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、 しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、 そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。 昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。 古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。 中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。 もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。 今東京では新橋は固有名詞のようになっている。 日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、 都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、 この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。 武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。 実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。 国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。 江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。 武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、 平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。 そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、 通常の考え方で言えば落ちない。 少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。 案外黒船とも戦えたのではないかと思う。 しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。 あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。 たぶん台場を築き始めて、 考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。 土木技術の発達のたまものだ。 また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。 紫禁城には城壁はあっても濠がない。 たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。 紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


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通貨吹き替え

08.23.2012 · Posted in 歴史

新井白石 をパブーに公開する。 某新人賞選考漏れ確定のため。 今更読み返すと確かに娯楽的要素が足りない気もする。 いろいろ書き換えたくなるのでいじる。 もともとは「将軍家の仲人」というタイトルだが、 ネットに公開するにあたって検索にひっかかりやすいようにタイトルを「新井白石」とし、 「将軍家の仲人」をサブタイトルにする。 いつもやっていること。

新井白石といえば生類憐れみの令を廃止したとか、 朝鮮通信使の扱いを変えたとか、 通貨改革をやったとか、子供の頃ガリ勉だったとか、 そういう話が多いかと思うのだが、 そういうのはさくっと省略した。 みんなが書いているようなことを書くのはつまらん。

大石慎三郎「徳川吉宗と江戸の改革」を読む。 新井白石の通貨吹替えによって世の中に流通する通貨が半減してしまい、 デフレになったのだという。 よくわからん。 インフレであれば通貨供給量を減らす。 デフレであれば通貨供給量を増やす。 金本位制であれば、通貨供給量を増やすには金の含有量を減らせばよく、 通貨供給量を減らしたければ金の含有量を増やせばよろしい。 わかるようなわからんような理由だ。

江戸初期には商業経済が発達していなかった。 しかし金は新しい金山がたくさん見つかって非常に増えた。 日本では金がとても豊富で安くなった。 逆に言えば米の値段などは非常に高くなってしまう。つまり物価上昇、インフレだ。 幕末だと、米の値段は非常に安い。逆に言えば金の値段がとても高くなった。 日本の経済が発達して、流通しなければならない金貨がたくさん必要な上に、 日本の金が海外の相場より安いからどんどん海外に流出する。 金が減ってしまう。 つまり通貨が減る。 凶作で無い限り農業技術の革新やら治水工事やらで米は増産。 米が多くて金が少ないから、米の値段は下がる。 そうするとデフレになる。

思うに、江戸時代の日本のように、金が非常に豊富で安価な社会において、 金貨の品質を維持しようとするのは、特に間違ってないと思う。 日本ですら金が足りないということならば、もっと金が少ない国ではどうするのか。 金は少なくてよくて、問題は通貨の供給ということだろう。 通貨をどんどん流通させる必要があるなら、 たとえば銀貨を主要通貨にするとか(ギリシャとか中国とかだけでなく大阪でもそうだったようだ)、 銅貨とか紙幣とかを流通させるとか。 或いは為替のような信用取引を発達させるとか。 いろいろやり方はあるんじゃないの。 金貨の品質を上げて金貨の流通量を少なくしたのがただちに良くないことだとは思えない。

デフレもインフレもどちらもよろしくない。 どうも、江戸時代には、そういう経済をコントロールする方法があまりにも未熟だった、 としか言いようがないのではなかろうか。 根本的な問題は、商品経済が発達しているのにそれをコントロールする方法論が未発達だったことであり、 金貨や銀貨の質の問題なのではないのではなかろうか。 まあ、経済の話はよくわからん。

赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日なのだが、西暦だと1703年1月30日。 年をまたいでしまっている。 元禄15年 (1702) とすべきか、元禄15年 (1703) とすべきか、非常に迷う。 私は 1702 の方がまだましだと思うが。

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江戸古地図

08.21.2012 · Posted in 歴史

たまたま江戸の古地図を家族が買ってきたので見ると、 甲府藩邸が日比谷門の外に描かれていて、 しかも永代橋がまだない。 赤穂浪士は永代橋を渡って吉良邸に討ち入ったのだから、 赤穂浪士事件よりは前だとしれる。 良く見ると元禄六年と書いてある。 永代橋ができたのは元禄十一年、 赤穂浪士の仇討ちは元禄十五年。 甲府藩邸にはまだ綱豊という名前の家宣がいたはずだ。 溜池も心なしか大きく描かれていて、畔には山王神社がある。

年を取るといらん蘊蓄ばかり増えていくなあ。 こんな地図を眺めているだけでけっこう楽しめるのだから。

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配給

08.16.2012 · Posted in 歴史, 読書

『ローマ人の物語』巻9はガリア戦記に相当するところだが、 ローマ軍の兵士は一日に小麦粉850gを支給されたとある。 根拠はわからんのだが少なくともガリア戦記にはその記述はなさそうだ。

日本軍は、大東亜戦争までは1日に一人米を6合食べていたという。 米1合は150gだから、900g。 そんなに食うのかと思うがそういうものなのだろう。

宮沢賢治の詩では一日に4合食べるというから600g。 これも相当多そうに思えるがたぶん控えめな値なのであろう。 たしかに蕎麦を3束、揖保乃糸だと1袋、 乾麺で300gくらいを一度に食べろと言われて食べられないわけではない。 私自身若い頃はそういう食べ方をしてた。

現代人は主食だけでなくおかずからも相当のカロリーを摂取しているだろう。 昔の人は逆に主食からもある程度蛋白質の摂取を期待していたと考えるべきだろう。

そりゃそうと、ガリア戦記をオリジナルよりも面白く書くのは難しいのかもしれんが、 作者自身そう言い訳しているが、正直ヘルウェティイ族の話のところなどかなりつまらない。 も少しどうにかなるんじゃないかと思うのだ。 さらに言えば、「ヘルヴェティ族」と表記しているが、ラテン語に忠実ならば 「ヘルウェティイ」、より正確には「ヘルウェーティイー」となるだろう。 そんな配慮は彼女にはまったくない。 他の著作を見てもそうだ。 単に現代イタリア語的に読んでいる。 たぶんイタリア語の文献を下敷きにしているんだろうな。

ガリア戦記を現代人のためにケルト人やゲルマン人について補完すればきっと何倍もの分量になろう。 しかし、量は減らしつつ現代的な解釈や補注を加えている。 これで面白くなるはずもないと思うが。 塩野七生はたぶんケルト人やゲルマン人などの蛮族には何の関心も無いのに違いない。 トルコ人やギリシャ人やアラブ人に対する態度と同じだ。

カエサルがどうしたこうしたということを書きたいだけなのだ。 ハンニバル戦記など、 面白い箇所もあるが、全体としてみると、 こういう有名になってから引き受けた長編小説では、 多くの箇所が中だるみしていてもしかたないのだろうか。 『十字軍物語』はさらにひどいと思う。 分野的に他に比較できる作家があまりいないせいだと思うが、あまり批判は聞かないよな。 逆に、彼女は日本人にとっては新しい分野を開拓した、先駆者なのだから、 もう少し良い仕事をすれば良いのにと思う。 もっとうがった見方をすれば、 彼女の小説の面白いところにはイタリア語の良質な文献がある。 それ以外のところは適当に間を埋めているのかもしれない。

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皇位継承

08.13.2012 · Posted in 歴史

wikipedia 皇位継承

後三条天皇は、皇統統一をより強固なものとするため、生前に直系男子へ譲位し、上皇として政務に当たることを目論んでいた。後三条天皇はその実現の前に没したが、その直系男子の白河天皇は後三条天皇の遺志を継いで、上皇となって事実上の君主(治天の君)として政務に当たる院政を開始した。

うざいな。 wikipedia は「治天の君」厨がわいていて異様にうざい。 誰だろうこんなことを言いたがるのは。 どうしてこんなおかしな学説を世の中に広めたがるのだろう。 「治天の君」という概念は戦後のモノだろう。たぶん吉川英治厨あたりだろうな。 後三条天皇は譲位後すぐに死んでしまったので、 病気によって政務が執れないから引退しただけじゃないの。

だいたい後三条天皇の遺志を継ぐなら親政しろよ。 官僚体制整えて中央集権国家目指せよ。 なんかとんちんかんだよなあ。

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藤原能信

08.13.2012 · Posted in 歴史

藤原頼通は道長の長男、教通は五男で頼通の同母弟。 能信は四男、頼通の異母弟。 頼宗は道長の次男。

後三条天皇は後冷泉天皇の弟だった。 頼通は養女・嫄子を天皇の中宮に入内させる。 教通も娘・生子を女御として入内させる。 頼宗も娘・延子を入内させる。 一方、能信は天皇の弟の尊仁親王(後三条天皇)の側に付く。 能信には子がなく、妻の姪・茂子を養女として尊仁親王の妃(白河天皇の実母)とする。 尊仁親王は皇太子であったが、じきに後冷泉天皇に皇子が生まれれば皇太子の変更があるだろうと、親王を後見する者は能信以外にいなかった。

後冷泉天皇が跡継ぎなく死去したので、尊仁親王が皇位継承して後三条天皇となる。 天皇と関白頼通は直接の血縁関係がない。 能信と茂子は天皇が即位する前に死んでしまう。 教通は頼通から関白を譲られるはずだったが、頼通が自分の息子の信長に関白を継がせようとしたために対抗して天皇に接近する。おそらく天皇との間の密約かなんかがあって関白職に就く。

天皇は即位時33才の壮年であり、積極的に親政を行って摂関家の勢力削減に努めた。 下級官吏の大江匡房、藤原実政らを抜擢するとともに、 村上源氏の祖・源師房、能信の養子の能長(実父は頼宗)、 源隆国(高明の孫)の子息・俊明などを登用した。 大内裏再建、荘園整理、蝦夷征伐、財政再建のための貨幣・度量衡の国家統一を次々に打ち出す。 しかし改革半ばにして40才で崩御。

こうしてみると、藤原能信という人が、 後三条天皇の改革のキーパーソンであることがわかるな。 どんな人だったのだろう。 もしかすると俊明辺りから母方の祖父・高明の間接的な影響を受けているのかもしれん。

いやー。面白すぎるな。 いままでは、道長的世界のエピローグとして、 続く白河天皇による院政期のプロローグとして、能信が描かれることはあったようだが、 私としては、中国で宋が出来て、宋から新しい政治システムが日本に導入されてきて、 古い律令政治が行き詰まって荘園だらけになって、 個人領主としての天皇家は富んでいても国家財政は破綻寸前。

それを宋に習って改革しようとしたのが後三条天皇で、 宋の中央集権的官僚制をモデルとして能信、匡房、実政、師房、能長、俊明らにばりばり仕事をさせたということになろう。 道長の王朝時代よりずっと面白い時代だと思うのだがのー。

宋の改革参照。

白河天皇は逆にもう国家はどうとでもなれと。 天皇家が公家よりも大きな荘園を持っていればそれでよい、 公家もどんどん荘園もて、 寺社もみんなもてもて、という方針に切り替えた。 自らも出家して法皇とか称して仏教やら建築に放蕩三昧。 為政者としてはどうかと思うがまあ時代には合ってたんだろうな。 勅撰集編纂を復活させた、というより、事実上創始したのも白河天皇だしな。 法皇とかおかしなことも白河天皇が始めたようなもん。 もっとも院政が発達し、最も天皇の権威が高かったのも白河天皇のときだしな。 どう評価してよいのやらわからんが、 しかし、新井白石は後三条天皇は褒めているが、白河天皇の評価は極めて低い。 ある意味後三条天皇は雍正帝に似ており、 白河天皇は乾隆帝に似てるわな。 後白河天皇は白河天皇の劣化コピーだしな。

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