亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

栃木弁と群馬弁

08.09.2012 · Posted in 歴史

群馬には訛りがない。栃木や茨城は訛りがひどいという。いわゆる東北弁だ。 群馬に近い長野にも訛りがないという。 静岡も神奈川もけっこうなまっている。

東京の山の手言葉が長野群馬から来たということを意味している。 なぜか。 ずばり、ここが足利氏の故郷だからだ。 足利幕府発祥の地だからだ。 こんなへんぴなところの言葉が日本の標準語となったのだ。 それ以外考えられない。

足利市は厳密に言えば栃木だが、ほとんど群馬である。 栃木でも訛りがきついのは茨城に近い方だろうと思う。 私は足利市に行ったことがないのだが、 ここの人たちは正確な標準語を話しているのに違いないと思っている。 少なくとも群馬の高崎や前橋あたりの人の言葉は自然と標準語になっている。 また、訛りのきつい栃木県人も知っている。

栃木弁と群馬弁 はコメントを受け付けていません。

吉良氏と上杉氏

08.08.2012 · Posted in 歴史

清水義範は名古屋の出身なので吉良氏にはかなりシンパシーを感じているようだが、 その「上野介の忠臣蔵」を読んでみると、彼でさえ、 吉良氏がなぜ武家の中で家格が異様に高いのか、 ということをうまく説明できていないように思われるのである。

吉良氏が清和源氏であり、八幡太郎義家の子孫であり、 足利氏から分かれたから家格が高い、 というところまではわかっているようだ。 でもそれだけじゃほとんどすべての日本人ははあそれがどうしたで終わってしまうだろう。

吉良氏は足利幕府時代には足利御一家ということで対等扱いだった。 武力も広い領地ももってないが、とにかく足利氏と同じ扱いを受けた。 足利将軍家は断絶したが、吉良家は残った。

それに比べると上杉氏は尊氏の家臣というにすぎない。 関東管領どまりだ。 毛利や島津は頼朝の家臣というに過ぎない。 つまりは源氏の家臣であり、吉良氏はまっとうな源氏だから全然格上ということになる。

しかも徳川氏は源氏を自称しているが、それが大嘘であることは公然の秘密である。 本家本元の源氏は吉良氏なのである。実力ならともかく家格であれば頭が上がるはずがない。 その上、徳川氏は足利氏の子孫、つまりこの場合は吉良氏から、 室町時代の幕府制度をあまさず継承したくて仕方なかった。 教えを請う立場である。 だからますます低姿勢にならざるを得ない。 この、江戸幕府が室町幕府の徹底的な真似(武威という意味ではない。特に天皇家からもらう官位官職やら公家との意思疎通やら)で出来ていることを認識しておらねば、 なぜ徳川氏が吉良氏を厚く遇するかわかりようがない。 ただ、赤穂浪士の頃にはもうほとんど徳川幕府は足利幕府の引き継ぎを終えていただろうから、 そろそろ高家などというものは要らなくなりつつあっただろう。

清水義範は

家の格では吉良家は上杉家にいささかもひけをとるものではないのだ。

などと言っているが、これは間違っている。 家格ということで言えば吉良氏は上杉氏よりも圧倒的に上だ。 吉良氏が上杉氏を乗っ取ろうとか、そんなことをするはずもない。 したければ室町時代だろうと戦国時代だろうととっくにやっているはずだ。 吉良氏はずっと昔に公家化してしまったので、そんな武家みたいな発想はないのである。

吉良家はいわゆる正式の武門ではない。将軍家が京の朝廷とつきあう時の折衝役であり、そういう場面でも正式の作法の指導役であった。だから武家というよりはむしろ公家に近い感覚なのである。

嘘ではないが非常にわかりにくい説明だ。 頼朝は本来公家であり、足利氏も公家である。清和源氏という王族であるから公家である。 しかも武家の棟梁だから武家でもある。 徳川将軍家と朝廷の折衝役というのはつまり高家に足利幕府の伝統が伝わっているからであり、 それは足利氏の子孫だからなのだ。 清水義範ですらきちんと認識してないのだから普通の日本人がわかるはずがない。

足利嫡流に比較的近いのは一色、渋川、斯波、石堂、今川。 少し遠くて細川、仁木。

(足利)将軍家に次ぐ家柄といわれ、権勢並ぶもののがないほどだった。

それはどうだろうか。たぶん吉良、今川、一色はいずれも高家だ。足利氏だからだ。 さほどの優劣はなかっただろう。 実力や権力ならば細川氏や今川氏の方がずっと上だっただろう。 つまり、吉良氏というのはすでに室町時代から異様に家格は高いが権力を持たない、 武家の中の公家のような存在だった、というあたりが当たっているのではないか。

なぜそうなったはわからないが、おそらくは、足利氏の分家の中で比較的所帯の小さなところが本卦還りして公家に戻った、ということではなかろうか。

吉良氏と上杉氏 はコメントを受け付けていません。

プロイセン王国

07.22.2012 · Posted in 歴史

プロイセンプロイセンの領土拡張2プロイセンの領土拡張3ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国ライン川

昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。 東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。 プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、 プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。

神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、 ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。 ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、 ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、 フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。 プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。 一躍大国となる。 1862年にはビスマルクが宰相となる。 イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。 イタリアに続けという気持ちはあっただろう。

1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。 つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。 ビスマルクすげえ。

プロイセン部族

Königreich Preußen

プロイセン王国 はコメントを受け付けていません。

宋の改革

07.21.2012 · Posted in 歴史

安史の乱が755年、 王仙芝・黄巣の乱が874年、 907年唐滅亡。 53年間の五胡十六国時代を経て、 960年には趙匡胤による宋王朝の成立。

唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。

一方で日本は1068年に後三条天皇即位。 おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、 世界最強の帝国となったのを見て、 日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、 と思ったに違いない。 或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、 大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。

後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には (院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、 ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。 後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。 公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。 国家の体をなしていない。 これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、 当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。

後白河法皇による長すぎる院生時代には、 悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。 しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、 結局日本は長い長い封建時代へ突入する。 中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。

頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。 実にかわいそうな人たちだ。 もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。 しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。 その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。 そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。 保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、 南北朝、 戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、 やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。

案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。 神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。 今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。 なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。 同じことは日本にも言える。

宋の改革 はコメントを受け付けていません。

1両の価値

07.05.2012 · Posted in 歴史

米は1合で約150g、 1升では約1.5kgとなる。 1俵は35升なので52.5kg。

今時だいたい10kgの普通の米が4000円も出せば買える。 となると1俵で20000円くらいとなる。

新井白石の時代には1俵が37両であった。 37両 = 2万円となる。 1両がわずかに540円。 これは今の感覚で言えばずいぶんと安い。 下級の御家人は扶持米が一年に300俵くらいだったらしい。 すると年収は600万円となる。 これは割とわかりやすい。 つまり、新井白石の時代には、金は今よりずっと価値が低かったということか。

いつからか、義賊になった鼠小僧次郎吉 など読んでいると、幕末には1両で約1俵だというから、 つまり、金貨の価値が37倍にもなったことになる。 理由はよくわからんが、元禄までは金が国内ではめちゃくちゃ取れた。 それで金が余った。 それから金を輸出するようになり、産出量も減ってきた。 そこで金の価値が暴騰した。 逆に米の生産量は干拓や埋め立てなどでだいぶ増えていた。

というようなことではなかろうか。 同じ江戸時代でも百年経てば物価もだいぶ変わりますわな。

1両の価値 はコメントを受け付けていません。

良い国作ろう鎌倉幕府

07.04.2012 · Posted in 歴史

1192年は頼朝が征夷大将軍宣下をうけたときであって、幕府という体裁が成立したのは義経を追撫するという名目で全国に守護地頭を置いた時点だろう。 また、たまたま征夷大将軍職が三代にわたって世襲されたけれども、この時点で将軍職が世襲される、つまり将軍家というものができて、 それが幕府である、というはっきりとした認識は誰にもなかっただろう。 また、将軍は天皇か院が任命するものだから、もう実朝もいないから誰にも将軍宣下しないよというのは天皇、というかこの場合は後鳥羽院次第なのであり、 また北条氏に都合の良い人物に対して後鳥羽院に宣下を無理強いする実行力も大義名分も当時北条氏にはなかった。

だが北条氏としては是が非でも将軍を戴いて、その将軍が任命した形で全国に守護と地頭を維持し、 それによって事実上幕府が政治を行えるようにしておきたかった。

そこでどちらがしかけたというのでなしに承久の乱というものがおきて、たまたま鎌倉が勝って、後鳥羽院や上皇や天皇を流して、 自分の言いなりになる天皇を即位させて、それで将軍宣下させて、鎌倉に傀儡の将軍を置いて、それで守護と地頭を恒常的に置くことになった。

と考えれば、鎌倉幕府というか武士政権が成立したのは1221年承久の乱によるのであり、 別に1192年に頼朝が征夷大将軍になったからじゃあない。 別に良い国作ろうという意図があったわけでもない。 実際にはその真逆であって、三人の上皇・天皇が流されて、傀儡の天皇が即位することによって成立したものなのだ。 日本の黒歴史そのもの。 南北朝どころではない大乱によって武士政権は生まれたのである。

ところが世の中ではいまだに良い国作ろう鎌倉幕府などと教えているようで、正しい歴史認識の重大な障害になっているのは明らかだ。 明治政府というのは結局武士が作ったものだから頼朝の正統性を否定することはできないし承久の乱も否定できなかったのだろう。 まあともかく曖昧にしておきたかった。 特に、承久の乱てやつは大江広元が画策したのだが、大江広元は頼朝の家臣で毛利家の祖先であり、 島津ももとはといえば頼朝の家臣。 薩長が頼朝を否定できるわけがないのだ。 薩長は戦後に至るまで総理大臣をたくさん出している。 ここのところが直されないのに戦後教育がとか軍国史観がとかなんとか言ってみてもなんの意味もないと思う。

ただまあ新井白石が言うように、朝廷は末期的症状であって、国司は任地に赴かず、天皇家から公家や武家に至るまで、 みんな私有地を経営していた。天皇自ら国家経営を放棄して荘園ばかりいじくりまわしていたのだから、もう目もあてられない。 そういうところに北条氏が出てこなければ、政治というものが機能するはずもなかったわけだ。 そこに必然性があると言えばある。

頼朝はもともと公家のようなものであり、おそらく死ぬまで精神は公家だっただろうと思う。 二条天皇の学友として蔵人になった。 武家という意識がなくはなかったろうが、かなり希薄だったと思う。 実朝も精神的には公家であり、天皇に任命されて征夷大将軍になったと考えていたはずである。 だから後鳥羽院に鎌倉なんとかせえと言われてその気になった。 が、北条氏としてはそれはまずいということで暗殺となった。

謹みて按ずるに、後鳥羽院天下の君たらせ給ふべき器にあらず。共に徳政を語るべからず。思うに初め後白河の君を選みたまひしやう、事柄かろがろしき御事なり。

新井白石は読史余論でそう言っているのだが、 後鳥羽院の御製やら、あるいは後鳥羽院口伝やらを読み、 新古今集のできばえなどみる限りでは、 かなり聡明な君主であったのは間違いないと思う。 少なくとも後白河院よりはずっとましだっただろう。 後鳥羽院は惰弱な西国武士を募って剽悍な坂東武士にあたって自滅した無謀な君主と言われているのだが、 西国と関東が戦えば必ず関東が勝つ、鎌倉男児の方が強い、というのは結果論であり、 実際には、 たまたま鎌倉が勝ってしまった、 という方が近いのじゃないかと思う。 どちらかと言えば武士の個人のレベルの力の差というのでなしに、 総司令官の後鳥羽院の軍事音痴の方が問題だったのではなかろうかという気がする。 方や北条氏の方はもう毎日戦争に明け暮れていたから戦術的には優れていただろう。

後醍醐天皇の時でも、 西国にも赤松とか楠木など割合強い武士団があったし、 護良親王も軍事的には天才だったと言える。 それが足利氏や新田氏の離反を招いたのだし。 もし承久の乱で官軍が善戦している間に、関東に朝廷に寝返る勢力がでてきたらまったく話は違ってくる。 あまりにもあっけなく決着がつきすぎたのだ。

だから、承久の乱でもし後鳥羽院が勝ったら、というシミュレーションをしてみるのは案外悪くないと思う。

新井白石は折り焚く柴の記などと後鳥羽院の歌にちなむ随筆を書いたりなんかして、 ほんとは後鳥羽院が大好きなのではなかろうか。 なんか屈折してるよな。

良い国作ろう鎌倉幕府 はコメントを受け付けていません。

加後号

06.27.2012 · Posted in 歴史

いわゆる加後号というものは、 後一条天皇から始まっている。 これは系譜を見ると明らかなように、 村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、 ここで皇統が二つに分かれてしまっている。 円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、 花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、 一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。 これはまずいというので、 三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、 という意味合いが込められているのだろう。 それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。 後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。 後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。 どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。 蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。 しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。 国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。 鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、 きちんと国の経営をしたわけではなく、 そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、という考え方だ。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。 中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。 宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。 道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。 そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。 要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、 ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。 だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、 結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。 天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。 後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。 だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、 白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。 これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。 つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

加後号 はコメントを受け付けていません。

サンジェルマン条約

06.23.2012 · Posted in 歴史

メモ。サンジェルマン条約

ドイツ連邦

ザクセン王国、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国は第一次大戦まで存続。 ハノーファー王国は普墺戦争まで。 あとは小さすぎて何がなにやら。 ルクセンブルクやリヒテンシュタインは未だに独立を保っている、というわけか。

サンジェルマン条約 はコメントを受け付けていません。

マリア・ルイーズ

06.23.2012 · Posted in 歴史

Wikipedia のマリア・ルイーズを読んでたら、なんかすごい、見てきたような作り話が書かれてて笑った。

マリア・ルドヴィカはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。

英語版を読んでもこんなことは書かれてない。 誰か日本人の作家か学者の創作物の引用だろう。 誰が書いたんだろう。 面白いなあ。

もしかしたらベルサイユのバラあたりかな。

マリア・ルイーズは、メッテルニヒがフランツ二世とナポレオンの仲人となってナポレオンの皇后となり、 ローマ王ナポレオン二世を産むのだよね。 だがナポレオン没落後はパルマ公となると。 面白いなあ。

マリア・ルイーズ はコメントを受け付けていません。

檀家

06.15.2012 · Posted in 歴史

確かに維持運営費には最高だろうけど など読んでいて思ったのだが、 なるほど、江戸時代の家系などはお寺にしか残ってないからお寺に調べに行くとか、うちのじいさんも言っていたが、 要するに江戸時代で戸籍を管理するのは国や地方自治体ではなく寺だったのだ。 寺は民政のための一種の役所のようなものであり、つまり、町奉行ではなくて寺社奉行の管轄だった。 住職は寺社奉行の役人のようなものだったのだなあ。 それはそうだな、出生や死亡、戸籍や家系などの情報を収集管理するには檀家というものが一番便利だ。

従って町中に人口が密集してくるとある程度の寺が必要となるわけだ。 ま、合理的ではあるが、本来の仏教というものとは何の関係もないわな。

無宿人や渡世人などのアウトローはそこから外れていると。 浪人はまだ檀家に属していたのだろう。

町奉行というのは確かに必要だが、なぜ寺社奉行なんて要るのかと思っていたが、 結局どちらも民政の一部であり、所管が分かれているだけのことなのだ。 今と同じだ。

檀家 はコメントを受け付けていません。