亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

お玉が池

06.13.2012 · Posted in 歴史

1450年の江戸(太田道灌江戸城築城時) とか 1590年の江戸(家康入府時) などを見るに、 まあ、これも完全な復元ではないにしろ、 昔、上野と浅草の間は広大な沼沢地であり、とうぜん町屋も田畑もなかったわけである。

不忍池から流れ出た川はいったん姫ヶ池という池に入って、それから北上して洗足池へ入り、さらに入間川(今の荒川)に入っていた。 姫ヶ池は現在の蔵前だ。そこにかつては不忍池よりも大きな池があり、周りは湿地帯だった。南に鳥越神社の建つ高台があるのみ。

浅草は細長い砂州の上にあった。 (古)利根川が運んでくる膨大な土砂が堆積したものであり、鹿島灘の大洗海岸や浜名湖やサロマ湖のような構造になっていて、 砂州が内海を塞いでいたわけだ。 浅草寺の由来の真偽はともかくとして、古くからここに寺があったのは間違いなく、 ということはここも鳥越神社と同じく利根川の洪水や高潮でも水没しない程度の高台にあったことを意味する。

家康以来、これらの洗足池や姫ヶ池は急速に埋め立てられていく。 神田川を東へ流すために駿河台を開削して出た土砂などが埋め立てに使われたのだろう。 吉原が1657年明暦の大火後に浅草裏に移転するが、そのときにはもう洗足池があらかた埋め立てられていた、或いは、 埋め立てる真っ最中だったのであろう。

上野と浅草の間というのは便利な土地であるから、急速に町が作られていったはずだ。 実際にはここには何百という寺ができ、墓ができた。寺と墓の密集地となった。 江戸末期の古地図でみると、 現在の浅草通り沿いはびっしりと寺である。 とにもかくにも見渡す限り墓と寺だったのであろう。 喜世が住んでいた唯念寺は浅草通り沿い南にあり、 新井白石が一時期住んでいたと思われる報恩寺は浅草通りをはさんで北側すぐにある。 唯念寺は今も同じ場所にあるようで、そこから報恩寺は直線距離で100mくらいしかない。

これらの墓や寺は維新や震災、戦争などを経て、だんだんに郊外に移っていき、その後にみっしりと町屋ができたのであろう。 今の浅草からは想像できない。

お玉が池というものが今の秋葉原の神田川の反対側内神田にあったというのだが、比較的初期の 元禄時代の地図 を見ても痕跡もない。 このお玉が池とか桜が池というのはつまりは姫ヶ池のことではなかろうか。 しかし神田川開削と同時に急速に埋め立てられて元禄の頃にはとっくに消失していたのだろう。

お玉が池跡として玉姫稲荷という小さなほこらが岩本町2丁目5番にある。 地形的にここに池があってもおかしくはないが、こういう祠は移転することも往々にしてあるわけで、 ほんとにここに池があったか、それもいつまであったのか、大きさはどれくらいだったか、まるでわからない。 北辰一刀流の道場があったかしれんが、 千葉周作は江戸後期の人だから、その時代にお玉が池があった可能姓はゼロだろう。

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藤の長者

06.06.2012 · Posted in 歴史

藤原氏全体の長者を藤氏長者とか藤の長者などというようだ。 藤原氏は中臣鎌足から次第に分家が枝分かれしたのだから、 その氏の長者というものにも実体があっただろう。 長者は摂政か関白か太政大臣になるのが普通だっただろう。

そのアナロジーとして、というか公家への対抗意識で、将軍家が源氏長者などと言い出したのに違いない。源氏全体の長者などいるはずもないのだが。清和源氏の長者というのであれば、頼朝の子孫となるところだが血統が絶えたので、足利氏は八幡太郎義家の子孫というので源氏長者などと言い、足利将軍家も絶えたので、こんどは徳川氏が新田氏までさかのぼって源氏の長者と言い始めたのだろう。律令国家の朝臣は氏や姓がなきゃいけないからそうして家系を捏造しなくてはならなかった。

そうか、豊臣秀吉は藤原氏の養子になったのか。ふーん。

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新井白石御用部屋

06.02.2012 · Posted in 歴史

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、 昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、 湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。 今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、 神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。 つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、 日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。 危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。 両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、 これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。 ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、 おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、 これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。 だから、この展望台の下が台所口であり、 中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。 中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。 表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。 祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、 その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。 しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。 だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、 ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、 雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。 竹橋を経由したとは考えにくい。 平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、 おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、 そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。 甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

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柳沢吉保

05.29.2012 · Posted in 歴史

wikipedia 柳沢吉保に

延宝3年(1675年)7月12日に家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には曽雌盛定の娘定子を室に迎える。

とある。当時17才。 小姓組番衆とは小姓集団の一番下っ端の役とでも言う意味だろう。 綱吉はこのときすでに29才。 うーん。まあそんなものかな。

wikipedia 小姓組などには、主君の身辺警護に当たる純然たる戦闘部隊、とある。

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間部詮房

05.28.2012 · Posted in 歴史

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。 しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、 用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。 新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、 実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。 用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、 プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、 でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。 やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。 だとすると、 1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。

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源氏長者

05.21.2012 · Posted in 歴史

源氏長者というのは虚構なわけだが、 日本外史には家康が征夷大将軍宣下と同時に源氏長者に補されたとあるから、 なんらかの形でこの頃には源氏長者という名称が権威付けに利用されていた、制度化されていたと考えられる。

で、Wikipedia など読んでいると、つまるところ、 源氏の長者とは、もともと奨学院という貴族のための学校の校長(別当)のことを言うらしい。 それは、奨学院別当が源氏全体の祭祀を司ったからだという。

しかし、すべての源氏の祭祀を司る人間、源氏全体の長者などいるはずもない。 たとえば嵯峨源氏の長者とか村上源氏の長者とか清和源氏の長者ならばいただろう。 そういう一族の長老という意味での長者はいたに違いない。 しかしそれぞれの源氏は単に天皇家から分かれたというだけで全然違う一族だから、 共同で祭祀を行っていたはずがない。 いつかの時代に誰かがそういうことを行ったことがあったとしてもそれが「源氏全体」というものの実体をさしているはずがない。 というか「源氏全体」という実体があるはずがない以上、「源氏長者」に実体があるはずがない。

たとえば、ある時期には嵯峨源氏の長者が奨学院別当をやり、別の時期には村上源氏の長者が別当をやる、ということはあっただろう。 そりゃそうだ。単に仕事としてやっただけのことだろう。 それだけのことだ。 なぜ、学校の校長が源氏の長者だと言い張れるのか。 タイムマシンがあったら校長先生に是非聞いてみたいものだ。

奨学院というものの実体が存在しなくなり、従って別当というものが単なる名誉職となり、 従って「別当に補される」ということが完全なアイコンとなってしまっても、 その名誉職に就きたがるひとはいたのだろう。 欲しがる人がいる以上は天皇もそれを叙任し続ける。 その方が収入が増えて都合が良いからだが。典型的な官職売買のための官職。 いや、令外官だから正式には官職とは言わないのかもしれない。 どうでも良いことだが、公務員でもないのに面接官とか退官とか教官とかいうのはおかしい。いつも違和感おぼえまくる。

別当職に固執したのが村上源氏の長者だったと言われる(たぶん、村上源氏の中で他に俺が長者だと手を挙げる人がいなかったせいだと思うが) 北畠親房であろう。彼が、俺は奨学院別当職に補されたから俺が源氏の長者だ、 などと主張した、ということは大いにあり得る。 その職に就くために大いに活動しただろうことは想像できる。 そして神皇正統記の影響から、後に「俺は源氏の長者だ」と名乗りたいものが、 奨学院別当という名誉職に価値を見いだしたということだろうと思われる。

律令制そのものが完全に名誉職化しても権威付けに利用されたのと同じで奨学院別当というのが征夷大将軍と同義、 もしくは征夷大将軍が源氏固有のものであるという虚構を補強するための口実として用いられた。 更に言えば、頼朝由来の征夷大将軍の権威と、北畠親房由来の奨学院別当の権威を一つに統合したのが足利義満なのであろう。 もしかすると南北朝統一と関係するのかもしれん。

北畠親房は謎の多い人だ。どんな思想信条を持っていたのか、ちんぷんかんぷんだ。 かなり屈折した精神の持ち主だったのではなかろうか。 頼朝とか尊氏とか義満ならまだわかる気がするのだが。

征夷大将軍も別当も令外官であるのには変わりない。 だが一応天皇の勅令もしくは上皇の院宣によって就任する職ではある。 もちろん律令的な官位官職ももらって権威付けをより強固にしているわけだ。 こういうことを千年近く続けてきたわけだから、 法律とか官位とか官職とかは権威付けに使われる実体の無い虚構であるという観念が日本人に深くしみこんでいるのだろうなと思う。 現実に即して法律は作り変えていくという発想が出てきにくい。 その発想を妨げている。 日本国憲法が改正されないのも同じだろう。

古今伝授にしてもそうだが、どうしてこういう奇怪な論理が通用していたのか現代人には理解に苦しむものがあるが、 日本国憲法改正に反対している人たちを見ていると、 そういう精神というか血がいまだに日本人に受け継がれていて、 どういう連中がそういうものを信じたがるのかがわかるよな。

おそらく、家康は、源氏長者などというものが虚構であることを承知の上で、それをも利用したかったのに過ぎないだろう。 彼は現実主義者だったはずだ。 こういうプロセスで虚構の上に築かれた権威も、 とりあえず、徳川政権を支えていく上である程度役にたったわけで、 「徳川の中の人」たちはそれをわかった上で利用していたはずだ。 わかった上でしらを切っている人たちはそれで良いが、 中には本物の権威だと思い始める人たちもいて、それが実に厄介だ。 自分を自分でだませるのは精神的に楽で良いわな。 やはり虚構に基づく権威というものは、後世の人間にとっては負の遺産以外の何物でも無い。

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白石と家宣

05.03.2012 · Posted in 歴史

白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だったそうだ。 町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。 低くもないが高くもない。 旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。 つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。 側用人間部詮房は一万石だから大名だ。 後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。 家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。 家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会をしていたはずであり、 また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、 綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなった、ということだろう。 いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、 白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていた、と考えるべきだろう。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。 決して低くない。藩主か大名クラスだろう。 浅野内匠頭と同じくらいだ。 つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。 贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。 何かおかしい。おそらくは白石の希望だったのだろう。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては、十分に高齢だったと言える。 わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたはずがない。 甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。

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イギリス王位継承順位

04.30.2012 · Posted in 歴史

イギリス王位継承順位。 なるほど、男系でも女系でもよいから、 継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまうのだな。 だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。 やれやれ。

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王の姓名

04.30.2012 · Posted in 歴史

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。 明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。 ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。 北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、 即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。 もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。 姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。 名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。 ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。 で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。 東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、 もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。 そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。 というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。 姓をもってたのは貴族だけだったと。 なるほど。 しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、 未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。 だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、 それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、 それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。 官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。 後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。 しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。 たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。 そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。 カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、 カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。

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関心の無い時代

04.27.2012 · Posted in 歴史

南北朝や室町時代が面白くて料理の仕方によればとても良いものができるのは間違いないが、 現代日本人がこの時代に興味を失って実に久しい。 室町音痴になってしまっている。 北条氏はせいぜい時宗までであり、足利氏は尊氏、義満、義政、あと関心が高いのは義昭くらいだろう。 一度そういう状態になってしまうと、人の関心を呼び覚ますまでの労力が半端ないことになる。 剣豪将軍として義輝を掘り起こした人がいてその努力は敬服するに値する。

で、北条氏末期の状態だけど、必ずしも、足利氏宗家支族が北条氏得宗家および支族よりも優勢になったからだとか、 足利氏の方が新田氏よりも優勢だったとか、両統分立がどうしたこうしたとか、 なんかいろいろ理屈は付けられるけど、 やはりどれが決定的というのではない。 そうやって疑い出すと承久の乱で北条氏が圧勝したのもわからんような気になってくる。

やはり、北条氏の治世が長くなって、北条氏や足利氏などが大きく育ちすぎて、人間関係が複雑になりすぎて、 宗家と分家の関係がぎくしゃくしはじめて、 宗家による独裁体制がうまく機能しなくなってきた。 そこへ皇統分立というのが口実になって内乱に発展した、ということだろう。 承久の乱にしても、固定化した身分や社会というものがうざくなったから起こったことではあるまいか。 後鳥羽院と北条氏の力関係というよりも。 権威と権力が未分化な社会から、軍事行政統治機構というものだけで存続しえるようになった画期的な事件だわな。 社会が少し進歩した証拠だ。

たとえば、鎌倉攻めでは最初に新田義貞が稲村ヶ崎の切り通しを破ったことになっている。 龍神が助けたはずがない。 たまたま新田に内通した北条方の武将がいて、切り通しを通してやったか、由比ヶ浜を守備するはずの艦船が無抵抗だったか、 とか、そんな事情だったのではなかろうか。

鎌倉と福原は良く似ていたが、それは、比較的狭小な天然の要害になっていたからだと思う。 それ以前に日本には城らしき城はなかった。 福原遷都は日宋貿易の都合というよりは、保元・平治の乱の反省に基づくものだ。 鎌倉に幕府を開いた理由もまた同じだろう。 中国式に町全体を城壁で囲うような労働力もなければ技術もないので、 比較的それに近い地形の場所を城塞都市にしようと思ったのではなかろうか。

鎌倉と福原はしかし同じような弱点があった。 町全体を守備するのは広すぎて、たとえ守りが堅くても「内通者が出たとき」「政治的に弱みがあるとき」対処できないのだ。 ある程度、守備側の人間関係が良好でないと守り切れない。 しかし、戦争中に人間関係に頼るのは不確定要素が大きすぎる。 基本的には中国の春秋戦国時代の城塞の攻防戦に近いものであろう。 城が落ちるのは、単に城の土木建築上の問題ではない。

だから、次第に山城や、もっと労働集約的で機能的な平城などになっていったのではなかろうか。 一ノ谷の合戦や鎌倉攻めで防御が破られたのはおそらくそんな理由だと思うのだ。

足利氏内部でのまとまりもなかったし足利氏がとびぬけて優勢だったわけでもなく、新田もすごく大したことあるわけではなく、 北条氏の残党も全然力を持っていた、義満による南北朝統一とか日明貿易というのも、 なんかすごいことのように言われているが多少調整能力があった程度だったようにも思われる。

たとえて言えば、室町時代というのは、主従関係がどろどろに解けてしまって、古代天皇制の中央集権から、 地方分権に完全に移行した時代だと言える。 天皇がいなければ国家のていをなさなかっただろう。 政治が乱れたようにみえるのはそのせいで、実は単なる無政府状態だった。特に関東など地方では。 天皇(と公家)が居たから国とか都というものが、政治的な実体は伴わないが、存在したのではないか。 そうしてみると、室町幕府を手本に作られた徳川幕府というものも、実質的には、どろどろにとけた地方分権状態だった、 と言った方がより実体を言い得ているかもしれん。 国とか都などといった中央政府が存在しなくてもすんだ幸せな時代だったとも言える。

それから、皇国史観というものが消滅したあとで、天皇家をまともに主役として描ける作家や脚本家が絶滅してしまったと思う。 まして親王を主役で描ける人はいるまい。 以仁王や護良親王などはけっこう良いキャラなのに。 他にもサブキャラで内親王などに面白い人はいるが、では内親王をヒロインにドラマ作るかということはしない(せいぜい和宮くらいか)。 武士や民間人しか主人公で描けない体質になってしまった。 だもんだから、その反動で、韓国の疑似歴史ドラマが流行るのではなかろうか、とすらかんぐられる。 さらに、世の中は歴史蘊蓄ばかりが発達して、ますますフィクション仕立ての歴史というものが描きにくくなっているように思う。

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