亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

科挙に関する誤解

03.25.2012 · Posted in 歴史

八股文と五言排律の続きだが、

明代初期の八股文について に非常に詳しく述べてあるが、ごく概略を言えば、明末清初の学者・顧炎武は、

経義の文、流俗、之を八股と言う。蓋し成化以後に始まる。天順以前は経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対にし、或いは散にし、初めは定式無し。

と明確に記している。 つまり、明初には、そもそも八股文などというものはなかった。 しかし、 wikipedia 「八股文」には、

洪武帝は軍師の劉基とはかって、科挙には朱子の解説による四書を主眼とした。これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており、この学派が四書を重視していたためである。こうして宋題と代わって難解な教典である五経は二の次とされた。そして明朝期の受験生は答案の書き方として、八股文が指定された。

などと書かれている。 これでは、明の高祖朱元璋が軍師劉基と計って朱子学に基づいて四書を八股文で課したと読める。 まったく意味が違ってくる。

四書を科挙に用いたのは、朱元璋も劉基も、おそらく朱子も、初等テクストとしてであり、出題範囲を限定するためである。それを韻文で書こうと対句で書こうと散文で書こうと明初では自由であった。つまり当初の意図としては、何か形式張った文章題を出したわけではない。ごく妥当な、まっとうな問題が出されたのに過ぎない。

日本でも試験問題というものは、だんだん受験テクニックを駆使しないと解けないような難解なものになりやすく、その弊害をのぞくために「ゆとり教育」というものが生まれ、「ゆとり教育」ではダメだというのでまた難しくなる。同じようなことが王朝交替のたびに科挙でも起きたのは当然だ。

劉基という人の漢詩も少し読んでみたが、どちらかと言えば学者というより、自由な文人という感じを受ける。八股文というものを考案して受験生に課したというのは、まずあり得ないだろう。

またwikipedia「科挙」には

「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。

中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

などと書いてある。 しかし、「儒林外史」などを読んだだけで明らかなように、 「詩作や作文」にばかりうつつを抜かすような官僚がそんなにいただろうか。 むしろそれは、科挙に合格できなかった遁世文人たちの戯画に近いのではないか。 普通に科挙に合格して、普通に国政に腐心した政治家たちもたくさんいた。 それは清朝の歴史を調べれば、明らかだ。

科挙が有害であったことは間違いないが、あまりにも多くの責任を科挙に負わせるのも、 やはり責任逃れに過ぎない。 おそらく多くは清朝を不当におとしめようとした近代中国や、 日本の左翼学者たちの決めつけなのではなかろうか。 そのようなステレオタイプが wikipedia にも溢れているとすれば、非常に憂うことである。

受験テクニックの加熱は、往々にして、受験産業や受験生や教師や父母らによって助長されるものだ。 必ずしも大学教員や国の官僚がのぞんでそうなっているのではない。 日本の現状を観察しただけでもわかるだろう。 五言排律という格式張った中世の形式が、清朝末期に、 本来は自由な作文題だった四書題にいつの間にか潜り込んで、 定型化していき、それが八股文となったのだ。 つまり責任の多くは民衆の側にあるに違いない。

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白河天皇

03.21.2012 · Posted in 歴史

白河天皇と金葉集を調べていたのだが、調べれば調べるほど興味深い。

まず、勅撰集の初めは古今集となっているのだが、これは、 おそらく紀友則が中心となって数名が当時の流行歌を蒐集し、 友則が途中死去したので従兄弟の紀貫之が後を継いで、醍醐天皇の勅命という体裁で公に流布したのだろう。 勅命というよりは、おそらくは、編纂事業を公に援助してもらったとか、 その程度のものではなかろうか。 そういう意味では、万葉集の成立に近いものではないか。

古今集に続く後撰集と拾遺集は、それぞれ村上天皇、花山天皇の勅命によるものとされているが、 ほんとうに勅撰集であったかも疑わしい。 古今集の補遺というのに近いだろう。 少なくともこの三代集は天皇が直接関与したのではなく、できたものを天皇がオーソライズした、 という形だ。

その後しばらく勅撰集というものは途絶えた。

ところがいきなり白河天皇がまず後拾遺集編纂を命じた。 1075年から1086年までかかっている。 白河天皇の在位期間にほぼ匹敵し、おそらく、 白河天皇自らの強い意志によって作られたものと思われる。 つまり、歌人らが自発的に編纂して天皇のお墨付きをもらったというのでなしに、 天皇自らが編纂したという意味で、事実上最初の勅撰集と言えるものだ。 古今集・後撰集・拾遺集とつづいた和歌編纂事業を発展させて、 天皇が自らプロデュースした初めての勅撰集、と言える。 白河天皇による権威付けがなければ、 後世和歌と皇室はこれほどまで強い関係を持たなかっただろうし、 明治までの連続性を保ち得なかったと思う。

白河天皇は上皇になって再び院宣によって勅撰集の編纂を命じている。 上皇による編纂というのはこれが初めてのことになる。 金葉和歌集だが、これは二度も書き直しを命じられている。 つまり白河上皇は、非常にねちっこい性格であり、おそらくは気まぐれな性格でもあり、 成立までになかなか許可を与えなかったのだ。

後拾遺集も、途中経過は不明だが、同じように何度も書き直しを経て成立したのじゃなかろうかと推測できるし、金葉集も、おそらく、後拾遺集が成立した直後から計画され、 上皇が死期を察してようやく完成したのではなかろうか、と思われるフシがある (金葉集は1126年成立、白河上皇の崩御は1129年、76歳)。 つまり、白河上皇という人は、勅撰集を一つ作っても飽きたらず、さらにもう一つ作り、 しかしそれにもなかなか満足せず、死の直前までこだわり続けた人なのだ。 なぜか。わからん。 そこをつっこんでいる人もなかなかいない。

次の詞花集は崇徳上皇によるが、金葉集三奏本との重複が多いことや、 構成が金葉集に似ていることからも、大きな影響があったことがうかがえる。 また崇徳上皇と白河上皇の孫で自分の親の鳥羽天皇とは仲がとても悪かったことでも知られる。 崇徳上皇としては、鳥羽天皇や近衛天皇ではなく、自分が白河天皇の正統な後継者だと、 言いたかったのではなかろうか。

ま、ともかく、白河天皇は、勅撰集を二つも作ったこと、 事実上、後に室町末期まで続く勅撰集を創始したということ、 編纂に異様に執着したということ、 その他、歴代天皇の中でも、最も典型的な院政を行ったこと、 おそらく最も大きな経済力と権力を握り、 専制君主として一番最後の天皇だったこと、 などからして、非常に興味深い人だ。

勅撰集にこだわった天皇としては後鳥羽天皇もいるが、 どちらもあくの強そうな人だな。

だが、勅撰集の中でも、金葉集はあまり人気がある方ではない。 言及している人もほとんどいないし認知度も低い。 そこがまた面白い。

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家名と姓

03.02.2012 · Posted in 歴史

佐藤賢一『カペー朝』を読む。 「ユーグ・カペー」はユーグが名前でカペーが名字だと思うが、 カペーはあだ名にすぎない。 ユーグの家系はロベール家と呼ばれるが、ロベールも単に、 代々ロベールという人が当主になったという程度の意味であり、 ロベール家というのは何かおかしい。 ブルボン家をルイ家というようなものだ。

ただ、セルジューク朝とかオスマン朝などという。 これらは高祖の名前を王朝の名前にしている。 だが、家名ではない。 スレイマーン・オスマン(オスマン家のスレイマーン)などとは言わない。 そもそも中東の人名には姓がない。 父の名を姓の代わりに使うだけだ。

メロヴィング朝とかカロリング朝などとも言う。 これも高祖がそれぞれメロヴィクス、カールだからであり、 家名でも姓でもない。

中世の西ヨーロッパでは領地の名前が姓となり家名となっていく。 ブルボン家やハプスブルク家など。 ルイ・ブルボンとは普通言わないが、言ってもおかしくない。 ブルボンはブルボネーという地名に由来するし、 ハプスブルクという地名ももとはスイスにある。 ヨーロッパでは貴族や王族と言ってもつまるところは土地の所有者というにすぎない。 土地を相続するのが国であり王朝に他ならない。 日本の封建領主も比較的これに近い。

東ローマ帝国では、おそらくかなり古くから、 始祖の名前を姓とした家という制度が確立したと思われ、 姓が王朝の名前になっている。

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清原氏

02.16.2012 · Posted in 歴史

前九年の役 1051年 – 1062年、 延久蝦夷合戦 1069年 – 1074年、 後三年の役 1083年 – 1087年。 この三つの戦いには関連性があるのか。 延久蝦夷合戦は後三条天皇の時代で、後三条は桓武天皇を思慕し、征夷の意図があったという。 後三年の役は白河天皇即位から院政期にすっぽり含まれている。 かつ、後三年の役の主役八幡太郎義家は白河天皇の扈従で身辺警護の武士、北面の武士のはしりでもある。

思うに、前九年の役というのは、それらしきものはあったかもしれないが、いわば前説のようなもので、戦争の実態はそれほどないのかもしれない。 この三つの戦いの過程で蝦夷の清原氏が興り滅んでいる。 代わって奥州藤原氏の時代がくる。

なんかおもしろそうだな。

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懿子2

02.15.2012 · Posted in 歴史

角田文衛『待賢門院璋子の生涯』を読んでいて思ったのだが、 白河天皇の最初の后も天皇より11歳も年上で、后が28歳、天皇が17歳。 立太子した年に結婚したそうだ。 これまたかなり無茶な結婚である。

『源氏物語』の桐壺など読むとわかるが、皇子は御曹司といって、元服するまでは母親と一緒に住む。 元服したら一家を構えて別居することになるが、 普通皇子には財産がなく家もないから、金持ちの貴族の娘と結婚して、その貴族に家や所領をもらうことになる。 光源氏の最初の妻もそうだったし、 白河天皇も妻の方が年上。 後白河法皇も同様だった可能性が高い。

待賢門院璋子の父は藤原公実で、璋子の腹違いの姉にあたる女子、公子(きみこ)が、藤原経実に嫁いで生んだ子が懿子である。だから、懿子は璋子の姪にあたる。

また、源有仁は白河天皇の甥にあたるが、 やはり公実の娘をめとり、子供ができなかったのか、懿子を養子にしている。 懿子が皇子時代の後白河天皇と結婚したとき、懿子は24歳。後白河天皇は13歳だった。 実のいとこどうし(祖父がいずれも公実)の結婚ということになる。 とすると、やはり、後白河天皇はしっかりした後見人(この場合は藤原経実)を持つために、 つまり主に財政的な理由で懿子と結婚した、と考えた方がよかろう。

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源懿子

02.06.2012 · Posted in 歴史

後白河が16歳、懿子が27歳で二条天皇を産んで、懿子はそのまま死んでしまう。この年齢差が事実だとすれば、 おそらく婚姻によって懐妊したのではなかろう。 懿子は親王時代の後白河の女御か何か、つまり身の回りの世話をする女官の一人だったのだ。 いやというよりおそらく誰かの妻だったかもしれない。年が年だけに。 それを後白河が若気の至りで手をつけてしまい、妊娠して男子を産んでしまった。 正式な后を立てる前に。 皇子の男子が生まれたのであるからただではすまない。 その男子が天皇に即位すればなおさらだ。 懿子は死後皇太后となる。国母となる。 だが、皇后だったわけではない。

おそらく結婚はしてなかった。でも、その子が天皇になったので、後白河の最初の后が懿子だったことになった。 過去にさかのぼって作られた話だろう。 懿子のもともとの夫の存在も歴史から消されてしまっただろう。 後白河の后(というか後白河の皇子・皇女を産んだ女御)たちを見るとそれもまったくあり得る話だ。

後白河はその後も正式な后を選ぶことなく、いとこにあたる藤原成子に何人も子供を産ませている。 そもそも、みずから天皇になる気もなければ、周囲も彼を天皇にするつもりがまったくなかったのだろう。 まったく期待されてない天下御免の貴公子。 キム・ジョンナムに似ている、などというのは失礼すぎるだろうか。

いよいよ後白河が即位することになって、 后がいないとかっこうつかないから、藤原忻子を后にする。 しかし、忻子とはほとんどまったく夫婦関係がない。 ひどい話だ。

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magenta、solferino戦の真相

02.06.2012 · Posted in 歴史

Battle of Magentaでは、ピエモンテ・フランス連合軍が59100人、 一方オーストリア軍は125000人とある。 次の Battle of Solferinoでは、138000人対129000人となっている。 ほんとだろうか。 どちらも数字がかなりおおざっぱだ。

ソルフェリーノではオーストリア軍は皇帝フランツ・ヨーゼフが本国から増援部隊を連れてきたはずだ。 また、マジェンタではミラノに駐屯した軍隊しかいなかっただろう。 一方連合軍はナポレオン三世みずから緒戦からピエモンテに居たのだから、 最初から13万人くらいいたのではなかろうか。

つまり、マジェンタでは 13万対8万くらい、 ソルフェリーノではだいたい13万対13万くらい。 劣勢の方は数を多く見せたがる。優勢の方はわざと数を小さく見せたがる。 それがそのまま戦史になっただけではなかろうか。 憶測だがギュライの味方はごくわずかの、母国ハンガリーから連れてきた手勢しかなく、あとは適当にミラノ・ロンバルディアあたりで、 地元の領主から兵を借りたのではなかろうか。 しかしここらはもともとピエモンテにシンパシーを感じており、十年前にはピエモンテとともに叛乱を起こしたのだ。 そんな連中が協力的なわけがない。たとえ数合わせにはなったとしても。

Battle of Novaraが 85636対72380の規模だったというから、両軍ほぼ8万人程度で対等。 ピエモンテ軍はロンバルディアの反乱軍も入れた数字だろう。 単独ではもっと少なかったはず。 ミラノ軍単独でもおそらくこの程度の規模なのだろう。

そう考えるのが自然ではなかろうか。

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Citadel

02.03.2012 · Posted in 歴史

Half-Life2にCitadelというのが出てくるのだが、 漠然と語感から都市という意味かと思ってた。 しかし、wikipediaなど読むとCitadelは、 要塞という意味であり、特に18世紀から19世紀くらいにかけて作られた、 セメントやコンクリートで固めた、 堡塁を備えた近代的な要塞のことを言うらしい。 日本で言えば五稜郭がその典型で、幾何学的な構造を持つ。

citadelの語源はやはりラテン語のcitizenであって、 オーストリア・ハプスブルク家がハンガリー叛乱の鎮圧のためにブダペストに建てた Citadella が有名だそうだ。 イタリア語では cittadella (チッタデッラ) と綴るようだ。 Cittadellaという名の町はヴェネト州(つまり、ロンバルディアの東、ヴェネツィアの近く) にもある。普通の中世の都市のようだ。

Casale Monferrato では、

It successfully resisted the Austrians in 1849, and was strengthened in 1852. Towards the end of the 19th century it became known as “Cement Capital” (capitale del cemento), thanks to the quantity of Portland cement in the hills nearby

とあるので、ラデツキー将軍もカザーレの要塞を陥とすことはできなかった、ということになる。 第一次と第二次イタリア統一戦争の間にピエモンテの鉄道網とともに強化された。 capitale del cemento は「セメントの都」とでも訳せばよいか。 カザーレ・モンフェラートは近くにモンフェラートという丘があるのでそう呼ばれる。 モンフェラートではセメント(の原料)がたくさんとれた。 ポルトランドセメントという、18世紀の終わりにイギリスで実用化された、 近代の普通のセメントがばんばん使われたということのようだ。

硬化した後の風合いがイギリスのポートランド島で採れるポルトランド石 (Portland limestone) に似ているから

google maps で見ると、カザーレの要塞はほとんど痕跡を留めてない。 が、南の駅の近くに少しだけ残っているのがわかる。 目を細めてみるとなんとなく星形の全体像が見えてくる。


アレッサンドリアにも見事な cittadella がある。ほとんど完全に残されているようだ。

In 1348 Alessandria fell into the hands of the Visconti and passed with their possessions to the Sforza, following the career of Milan, until 1707, when it was ceded to the House of Savoy and henceforth formed part of Piedmont. The new domination was evidenced by the construction of a new big Cittadella on the left side of the river Tanaro, across from the city.

とあるので、サヴォア家、つまりヴィットーリオ・エマヌエーレに続く家系がピエモンテの領主になった 1707年以降に作られたもののようだ。 五稜郭と比べるとその巨大さがよくわかる。

同じ縮尺で比べてみるとこんなに違う。 当時のピエモンテと日本の国力の差もこんなだっただろう。 また、市街地に巨大な鉄道駅があり、ピエモンテ交通の要衝であることもわかる。

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後白河の后

01.29.2012 · Posted in 歴史

後白河の后はけっこう複雑だ。

親王時代に源懿子を后とするが、 懿子が死んだのが1143年、生年は1116年とされている。 西行が1118年生まれなのでそれより年上であり、 親王は1143年に16歳。 懿子は27歳。 ちょっと信じられない。何かの間違いではなかろうか。 親王の側からの必然性とか政略結婚の必要もあまり考えられないし。

初婚だとすると25歳くらいまで独身だったのか。 なんかおかしいなあ。 再婚というのならまだわかる。 後白河の皇子の二条天皇も二代后を入内させているし、そういう傾向があったとしても不思議はない。 にしても女性の方があまりにも年上過ぎないだろうか。 姉さん女房というのなら光源氏の本妻もそうだが。

皇子と后の婚姻はどちらも十代前半というのが普通だ。 当時25歳まで独身ならば明らかに婚期を逃しており、一生独身でもおかしくない。 当時の観念では初老というに近く、婚活すらしないだろう(いや、初老で結婚する人もいるだろうが)。 タイミングが変だ。まあいいや。 二条天皇を産んですぐに死んでしまう。

で、藤原忻子は1155年入内なので、懿子が死んでから12年も後だ。 子供もいない。 後白河即位と同時に入内している。 俊成はこの忻子の付き人だった。 あまり重要なポストではなかっただろう。 忻子の妹にいわゆる二代后こと藤原多子がいる。 後白河の弟・近衛天皇と、子の二条天皇の二人の天皇の后となったからだ。 姉妹の父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。 後白河にさほど寵愛を受けたとも思えない。 後白河は近衛天皇とも二条天皇とも仲が良くはなかったからかもしれない。

平滋子は1142年生まれ。 1127年生まれの後白河よりは15歳下。 寵愛を受け始めたのは1150年代後半、17、8歳ころのことではないか。 高倉天皇を生んでいる。

藤原成子は後白河のいとこにあたり、正式な后にたてられたのではないが、 1140年代半頃、つまり、懿子がなくなった頃から寵愛を受け、 以仁王、式子内親王他、皇子・皇女を何人ももうけている。

他に何人も「局」とよばれる女御がいる。

懿子が謎すぎる。伝記もあまり残ってない。 皇子の二条天皇は後白河の院政と対立したが早死してしまった。 記録があまり残ってないのはそのせいかもしれない。 後白河がまだ若い皇子の頃の后のせいかもしれない。

多子は二条天皇より年上だったが、それでもわずか三歳上なだけであり、 1161年再入内したときに21歳だった。 まあ、それもかなり特異な例だが、懿子はもっとはずれている。 なんなのかこれは。

懿子は後白河が即位前に死んでいるので、親王妃であり、 二条天皇の生母なので、皇太后を贈られている。 懿子が生きていれば即位後に順当に皇后に立てられただろう。

滋子は後白河が譲位した後の后だから、皇后ではないが、 高倉天皇の生母なので皇太后である。 譲位は1158年、入内と皇子の誕生は1161年。 滋子は平氏なので、身分が低く、女御にすらなれなかった。 皇太后になれたのは結果論である。

忻子が皇后かといえば彼女は中宮でしかない。 この時代、中宮と皇后は微妙に違う。 結局皇后がいないのだ、後白河には。皇太后は二人もいるのに。 へんてこだなあ。 以仁王が皇子であるのに冷遇されて、源頼政を巻き込んでいわゆる以仁王の乱を起こし、 源平の争乱の発端となったのは有名だ。 成子が後白河に最も寵愛され、同じくらいに滋子を寵愛したが、 正式な皇后はいなかった。 実におかしな具合だ。

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エルトゥールル

01.26.2012 · Posted in 歴史

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。 エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。

英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬とともに移動した。 そこでルームセルジュークの王によって武将に取り立てられて、東ローマ帝国との国境を任地として与えられたという。 1230年ということは、フビライが死んでオゴデイがモンゴルのハーンになったばかり。 バトゥによる西征が始まるよりも前である。 あるいは、1230年というのは概数であって、 エルトゥールルはバトゥのヨーロッパ遠征軍の中にいたのかもしれない。

なんか面白いなあ。

だいたいこんな具合ではないか。 エルトゥールルはバトゥとともに西へ向かった。 1241年にオゴデイが死ぬと、エルトゥールルも故郷のメルヴに帰ろうと思った。 しかし、バトゥがカスピ海沿岸のサライを都としてキプチャクハン国を建てると、 エルトゥールルも帰国を諦めてアナトリアで同族のルームセルジュークに仕えることにした。 まあ、曖昧な伝承しかないそうだから、このくらい脚色してもよかろう。

1157年にサンジャルは死去する。 彼には女子しかいなかったことになっているが、 その娘の中の一人がエルトゥールルを産んだ、とかいう話にすると面白そうだな。 『セルジューク戦記』の続編で『オスマン戦記』でも書くかね。 たいへんだなあ。

ある意味、チムールみたいな人だな。 エルトゥールルとチムールを対比させながら書いてみると面白いかもな。 あ、時代がまったく違ってた。 チムールの方が百年後だわ。

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