亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

セルジュークの系譜

01.25.2012 · Posted in 歴史

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。 このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、 Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジュークの子孫といわれている。

アナトリア定住はセルジューク朝のスルターンであるアルプ・アルスラーンが東ローマ帝国をマラズギルトで破って以来進んだということになっている。

しかし、ほんとだろうか。 一番気になるのは、Israel、Yunus、Musa、Mikailなどの名前が、 セルジュークの家系の中で浮いているということだ。 Yunus はアラブ語で、日本語訳聖書的に言えば「ヨナ」のこと。 英語では Jonas など。 Musa はモーセのこと。 スレイマーンはソロモンのことだが、スレイマーンという名前は、 おそらくは中東のキリスト教からイスラム教に入ってアラブ語化したものであり、 ユダヤ人に限らず、アラブ人にも多く見られる名前である。 ユヌスもそうだろう。 セルジューク王族の名前が、トルコ語由来ではなく、 アラブ語由来のユダヤ系の名前であってもおかしくはない。 他にはダーヴード (David、ダビデのこと)などがある。 しかし、それはアラブ世界に侵入して、 首長がスルターンと呼ばれるようになった後のことのはずだ。 もし彼らがトゥルクメニスタンやキプチャクから来たのであれば、当時はトルコ語由来の名前でなくてはおかしいのではないか。

セルジュークは伝説の人であるし、その四人の息子も名前しか伝わってない。 しかし、Mikailの子のチャグリー・ベクやトゥグリル・ベクなどはかなり詳しい伝承が残っている。

思うにルームセルジュークの始祖はセルジュークの家系とは直接関係ないのではないか。 トルコ民族はすでにキプチャク平原に広く移住してきていた。 あの辺りは当時は人口密度はほぼゼロに近く、定住する都市というものもなく、 あったとしても千人を超えることはまれだっただろう。 だから、遊牧民族が侵入してきて、ここは俺の国だと宣言するだけで国が作れたのに違いない。 アナトリアに侵入してきたのもルームセルジュークが最初ではなかっただろう。

たまたまモスルやアレッポなどのシリアの都市を征服したアルプ・アルスラーンが、 義侠心によって、アナトリアに居た同族(母語を同じくする人々)の加勢をした。 それがたまたまローマに圧勝した。 それでトルコ人のアナトリアへの入植が加速した。

クタルミシュなどの、ルームセルジュークの祖が、セルジュークの子孫である必然性が何もないのである。 一方、アルプ・アルスラーンはおそらく本当にセルジュークの子孫であり、 ホラサーンからわざわざシリアまで遠征したのに違いない。 バグダードでアッバース朝カリフからスルターンの称号をもらったというのも、まずほんとうのことだろう。 史実の濃密さが違う。 一方クタルミシュの家系はただ名前が羅列されているのに過ぎず、 伝説以上のものではなかろう。 アルプ・アルスラーンを参戦させるためにセルジュークの子孫である、と主張するくらいのことはしたのかもしれない。

オスマンは、セルジューク朝の成立以後もキプチャク平原に残っていたオグズの出身で、 彼らの一族はモンゴル族に圧迫されて西へ移動したらしい。 後にアナトリアに侵入し、ここで他のトルコ民族を糾合したのだろう。

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宣長の結婚

01.02.2012 · Posted in 歴史

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。 それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。 景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。 この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家への養子となる運動を始めている。 養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。 子供が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。 まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、 その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。 実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかったのだ。 しかし、それらの運動はうまくいかず、 宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。 宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。 宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。 宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。 宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。 宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。 どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、 などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。 妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。 だからわざわざ書き残したのではないか。 宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、 趣味の世界ばかり熱中している。 しかもヘビースモーカーだ(笑)。 こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、 宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、 宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。 なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、 途中、津の草深家に立ち寄る。 宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。 縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。 当時宣長は満26歳、多美は満16歳。 大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。 宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。 多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。 少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。 宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、 そのことの方がより重要だったと思う。 五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、 婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。 要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと結婚が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。 たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、 学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。 仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。 仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。 と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。 国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。 戦前も戦後も、今現在も同様だ。 時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。 何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。 大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、 などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。 この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、 事実であるかのように断定する傾向にある。 ちょっと信じがたい。 というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。 そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。 しかし、リアリティに欠けるなあ。 大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。 もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、 リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。 それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。 なんかの恋愛観のことじゃないと思う。 恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。 『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、 と言ってるだけなんじゃないかなあ。 「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。 その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。 宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。 至極もっともな解釈だと思う。

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ポー川

12.19.2011 · Posted in 歴史

ふと地図を眺めていて気付いたのだが、オーストリアのギュライ軍は、ポー川が氾濫して水田が水浸しになったから、 ノヴァーラで足止めを食ったのではない。 なぜかというに、ミラノからトリノまでは、ポー川を渡らなくてもたどり着くことができるからだ。 ギュライが渡れなかったのは、ノヴァーラとヴェルチェッリの間に流れている、 ポー川の支流のセージア川でなくてはならない。

また、水田が水浸しになったのは、ピエモンテ軍がわざと川を決壊させていたからだ。 おそらくピエモンテ軍は大雨で水かさが増しているのを知っていて、オーストリア軍を挑発したのだろう。 或いは、四月から五月にかけて、アルプスの雪解け水で、田んぼは勝手に水であふれるのかもしれん。 ピエモンテ側では予測の範囲内ではなかったか。

それから、ナポリとテアーノとガエータの位置が間違っていたので、直す。 いじりまくりだな。

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ピエモンテの鉄道

12.17.2011 · Posted in 歴史

Turin–Genoa railwayによれば、トリノからジェノヴァまでの路線は、 国費によって1853年に完成している。

Turin–Modane railwayによれば、スーザからトリノまでの路線も、 1854年には完成している。

アレッサンドリア駅は1850年に開業している。

カザーレ駅は1857年に開業している。

ノヴァーラ駅は1854年に開通している。

ヴェルチェッリ駅は1856年に開通している。

ナポレオン三世は、スーザからアレッサンドリアまで来たのだろうか。 船でジェノヴァまで来て、そこから鉄道でアレッサンドリアまで来たのかもしれない。 どちらかわからん。 おそらくフランス軍はその両方から来たのだと思う。だから、アレッサンドリアが集結地に選ばれたのだ。

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シチリアとロシア

12.17.2011 · Posted in 歴史

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

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ギュライ軍の謎

12.17.2011 · Posted in 歴史

ギュライがミラノを出たのが1859年4月29日。ヴェルチェッリに着いたのが5月14日。50kmの行程に2週間かかっている。50kmといえば東京と川越の道のりくらいだ。夏目漱石の『坑夫』という小説では東京から川越まで川越街道を歩いて2日で着いた、などという描写がある。素人が歩いて2日で着くところをなぜ2週間もかけたのか。遅れればフランス軍が参戦してくる可能性があることくらい、ギュライにはわかっていたはずだ。ミラノから100km離れたトリノを目指していたのならば、強行軍で1週間くらいで到着できていたはず。その頃はまだフランス軍はピエモンテに入ったばかりで、すでにトリノに入城していたとしても、態勢が整っていなかったはずだ。オーストリアにとって、開戦後の1週間こそが、勝機であったはず。いくらポー川が氾濫していたからといって、たとえば最悪、タイの洪水のような状態だったとしても、軍隊というものは、歩兵というものはある程度は前進できるはずであって、2週間で50kmしか進めなかったはずがない。謎だらけだ。

一般に負けた方の戦史は失われて残らないことが多い。ギュライがなぜ負けたのか。なぜあんなへたくそな戦をしたのか。わからん。調べようもなさそうな気がする。

もしかすると、ギュライには、トリノにフランス軍が到着した知らせが入っていて、トリノまで行くのをためらったのかもしれない。それで代わりにアレッサンドリアを取ろうと進路を変更したが、こちらも先にナポレオン三世に入られてしまった。そういうことかもしれん。

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スイス兵の暴動の真実

12.16.2011 · Posted in 歴史

こちらにスイス傭兵の暴動についての非常に詳しい資料がある。 The Swiss and the Royal House of Naples-Sicily 1735-1861 A Preview on the 150th Anniversary of the Surrender at Gaeta

One late evening in June 1859, the Court, thinking of rebellious Neapolitans, was panic-stricken when hundreds of mutinying Swiss were approaching in a riot. What happened? In 1848 the Swiss Federal Council abolished the Foreign Service but tolerated the contracts with Naples. In 1859, because of her neutrality, Switzerland forbade flying the Swiss flags in Italy. Not all soldiers, however, accepted the removal of the Swiss cross and wanted the King to restore it. A furious General Schumacher went to meet the drunken mutineers and gave orders to wait on the Campo di Marte for the King’s answer. The Queen, fearless as usual, watched the ghostly scene from her balcony. At dawn, after a rioting night, the mutineers were encircled by the loyal Swiss who, as they refused to surrender, gunned them down. After this incident the King made it optional for the Swiss to stay in his service. A lot went home, many stayed.

つまり、スイス連邦は1848年から傭兵の契約を廃止していたが、両シチリア王国に関しては依然として認めていた。 1859年に両シチリア王国は中立性を示すためにスイス国旗の掲揚を禁じた。 一部のスイス兵はスイス国旗掲揚を求めた。 スイスのルツェルン出身の将軍、フェリックス・フォン・シューマッハー男爵は、酔っ払って暴動を起こした兵士たちに怒り狂い、 マルテ広場で王の返事を待てと命令した。 翌朝、降伏を拒んだ暴徒たちは王に忠誠を誓うスイス兵たちに取り囲まれて銃撃された。 この事件の後、王はスイス兵たちに兵役にとどまるかどうか自由にさせた。多くは去ったが、多くは残った。

フランチェスコ2世 (両シチリア王)

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

この記述は非常に間違っていて、誤解を与える。英語版の

a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

も、実状を正確に言い表しているとは言いがたい。 スイス兵は長年両シチリア王国に忠実に仕えており、その中には将軍になったものや、男爵1に叙任されたものさえいた。つまりナポリに永住して貴族になったものすらいたということだろう。 暴徒となったスイス兵を他の忠実なスイス兵たちが銃撃して鎮圧した、というのが正しい。

いやあ、事実は小説より奇なりだよなあ。

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ガエータの戦い

12.16.2011 · Posted in 歴史

Siege of Gaeta (1860)を読んでいたのだが、

Some of the Sicilian troops were Swiss soldiers.

などと書いてある。 スイス傭兵はすべてフランチェスコ二世によって解雇されたのではなかったのか。 スイス傭兵からなる親衛隊は解散したが、スイス傭兵の一部は王軍に残ったということか。 なかなかしぶといなスイス傭兵。

多分、真相はこんな具合だっただろう。 スイス傭兵からなる親衛隊の中でも、王党派と統一派が居た。 統一派はイギリスやサルディーニャにそそのかされて「待遇改善」という名目で1859年6月7日暴動を起こした。 王フランチェスコ二世は、待遇改善を約束してなだめたが、王軍の将軍Alessandro Nunziante によって鎮圧された。 王は、親衛隊の維持を断念し、解隊した。 しかし、なおも王に仕えたいと申し出たスイス傭兵を王軍に編入した。 彼らはナポリを落ちた王とともにガエータ要塞に立てこもり、最後まで王とともに戦った。

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カスティリオーネの戦い

12.10.2011 · Posted in 歴史

Chiese は「チーゼ」ではなく「キエーゼ」と読むのだった。

カスティリオーネ戦に出てくるメドラノの丘 (Monte Medolano) と言うのは、ソルフェリーノ戦のメードレ (Medole) のことか。

マントヴァはミンチョ川の湿地帯の真ん中に作った要塞だった。 四方を囲む湖は、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖、パジョロ湖と呼ばれたが、 パジョロ湖だけは18世紀末に干拓されたという。 パジョロ湖を干拓してしまうと、要塞を完全に囲むことができない。 要塞としての機能を捨てたということか。あるいは、時期的に、ナポレオンが意図的そうしたのか。 あるいは自然と干上がってしまったのか。 あるいは、籠城戦というものが近代戦に合わなくなったのか。

いずれにしても、イタリア統一戦争の頃には、マントヴァはもはや湖に囲まれた難攻不落の要塞都市ではなくなっていた、 ロンバルディアにおける戦略的拠点ではなくなっていた、ということだろう。

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