亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

アルプス猟兵隊

12.10.2011 · Posted in 歴史

アルプス猟兵隊 (Hunters of the Alps) というものがある。 これはガリバルディが編成したフランス・サルディーニャ連合軍の別働隊であり、 ソルフォリーノ戦と並行してスイスに近いミラノ北部でオーストリア軍と戦い、撃破。 これがのちのシチリア上陸の際の赤シャツ隊となった。 名前が紛らわしいが、しかし、明らかにこれはスイス傭兵ではない。

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ナポレオン 獅子の時代

12.09.2011 · Posted in マンガ, 歴史

今更ながら「ナポレオン 獅子の時代」を読みなおす。 おお、面白い。ガルダ湖も出てくる。

パルムの僧院冒頭に出てくる、ロディ橋も出てくる。面白すぎる。 知識があるとないではまるで面白さが違う。

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ナポリ傭兵

12.08.2011 · Posted in 歴史

wikipedia で両シチリア王国最後の君主「フランチェスコ二世」を読んでいると、ガリバルディがシチリアに上陸する前に、

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

ということが書かれている。 つまり、スイス傭兵は長らく両シチリア王国の親衛隊として雇われていたが、フランチェスコ二世はその待遇改善を拒んで皆殺しにし、スイス傭兵を廃止した、となる。

ということは、アルムおじさんはそれ以前にやはり直接ナポリで傭兵になった可能性が高い、ということか。 あるいはフランチェスコ二世の虐殺の生き残りなのかもしれない。 うーむ。そういう話にした方が面白かったかなあ。

ナポリのブルボン家はイタリア語でボルボーネ家というらしい。

英語版 wikipedia だと、

On 7 June (1859) a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

ということは、6月4日のマジェンタの戦いと、24日のソルフェリーノの戦いの間くらいに、反乱を起こしたスイス親衛隊の一部が撃ち殺され、 それが傭兵隊全部の解隊という結果となった、ということになる。 また、当時、スイス傭兵がブルボン家最大の防波堤になっていた、とも書いてある。

スイス傭兵はローマ教皇やフランス王の近衛兵にもなっているから、どちらかといえば小規模な常備軍として雇用されることが多く、 戦争のような大規模な臨時徴収には、そもそも向かないし、雇用もされなかったのかもしれん。 ともかくガリバルディがシチリアに来た頃にはスイス傭兵はナポリにはいなかったということよね。

Swiss Guard など見ると、 ナポレオンがスペインやロシア遠征にスイス傭兵を雇ったとある。 1830年に再びチュイルリー宮殿が襲撃されたとき、スイスの近衛兵は、二度目の虐殺(一度目はルイ十六世の時)を恐れて姿をくらましたため、 以後近衛兵として雇われることはなかった、とある。

また、フランス外人部隊(French Foreign Legion, Légion Etrangère) など読むと、

The Foreign Legion acquitted itself particularly well against the Austrians at the battle of Magenta (4 June 1859) and at the Battle of Solferino (24 June).

などと書いてあって、ソルフェリーノの戦いに外人部隊が投入され善戦したらしいことがわかるし、アンリ・デュナンが見聞しているから、 その中にスイス傭兵がいなかったとはいえない。

しかし、やはり、ナポリで直接傭兵になった、という話の方がすんなりくるし、なんか面白そうでもあるんだよなあ。

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リソルジメント

12.04.2011 · Posted in 歴史

イタリア統一戦争はイタリア語では il Risorgimento と言い、英語で The Resurgence (再起、復活) と言う意味であり、 Italian unification と訳されることもあるようだ。 英語版 wikipedia を良く読むと、ガリバルディ軍は、イギリスによるサポートを受けていた。

イギリスはなぜスペイン・ブルボン家が治める両シチリア王国ではなくて、ガリバルディを助けたのか。 これも英語版には書いてある。 まず、シチリアのブルボン家は地中海に進出してこようとしていたロシア帝国とつながろうとした。 ロシアが黒海から地中海へ出てシチリアを拠点とすると、イギリスは困る。 スエズ運河の権益は絶対手放せない。 シチリア島は、地中海の戦略的拠点であるから、イギリスはガリバルディに恩を売ろうとした、ブルボン家を懲らしめた、ということらしい。 もしかするとロマノフ家とブルボン家の間に縁組でもあったのかもしれんが、よくわからん。

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イタリア統一戦争

11.30.2011 · Posted in 歴史

調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、 なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。 いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、 ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。 しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、 イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。

それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。 英語版の wikipedia を読むと、 シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。 また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、 とも書いてある。 つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、 当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。 なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。 日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。

ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence と表記している。 イタリア独立戦争。 いったい何が何から独立するというのだろうか。 どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。 実に funny だ。 そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は Unification of Germany とある。意味わからん。

ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。 違うだろ、それは。 それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。 そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。

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両シチリア王国

11.28.2011 · Posted in 歴史

『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。 アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。

しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。

ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。

それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。

それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。

私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。

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宮家

11.26.2011 · Posted in 歴史

今日の産経抄に、

当時の皇室は、財政難もあって天皇の子供でも皇位継承の可能性が高い親王を除き出家させるのが普通だった。承応3(1654)年に後光明天皇が若くして崩御した際には、皇族男子はほとんど出家しており、綱渡りの状態で後西天皇が即位した。

事態を憂えた白石は、徳川家に御三家があるように、皇室にも皇統断絶を防ぐため新たな宮家が必要だと論じた。白石が偉かったのは、宮家が増えるのは武家にとって不利ではないか、という慎重論を一蹴、「ただ、武家政治の良否のみに関係する」(折りたく柴の記・桑原武夫訳)と幕府の枠を超えた判断を示したことだ。

などとあって、これを読むだけだと、先に徳川氏の御三家があって、それを参考にして宮家が創設されたように思えるが、 wikipedia で宮家など読むと、宮家というものが、北条氏による鎌倉時代の両統迭立の頃まで遡ることができるのがわかる。

持明院統と大覚寺統に分かれた両統迭立というものは南北朝の原因になったと批判され、 新井白石の宮家創設は皇統断絶を防いだ名案だった、というのは後付けの理屈にすぎないのではないか。

徳川氏の御三家とか御三卿というのは、本家と分家の関係であり、本家が途絶えたときに分家が代わりに血統を継ぐというものであろう。 両統迭立というのは、持明院統と大覚寺統が対等で、そのために継承争いが激化した、とみなされているのかもしれない。 両統迭立の実態はそんなに簡単なものではなかったし、宮家が併存する場合でも(皇位継承順が明確に定められていない場合)、 決して問題がおきないとは言えないのではないか。

結局、新井白石の処置は事後的に適切だったといえるだけではなかろうか。

しかし、後西天皇とは紛らわしい名前である。 「後」が頭に付くのだから「西天皇」という天皇が前にいなくてはなるまい。 調べてみると、第53代淳和天皇の別名「西院天皇」にちなむという。 それで後西院と追号されたが、後西院が院号のようだというので、大正時代に後西天皇と呼ばれるようになったという。 明治以前には院号だけがあり、天皇号が存在しない天皇もいたために、明治時代には後西院天皇と呼ばれていたそうだ。 ややこしい。 最初から後淳和天皇などという名前にしておけばよかったのに。

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源氏の長者2

05.03.2011 · Posted in 歴史

調べてみると、いろいろ面白い。 賜姓というと、「源」「平」「橘」。 このうち橘氏は、特に古い時代に、正一位までなった人がたくさんいる。 平氏も皇族の末裔のはずだが、清盛まではほとんど高い官位をもらえてない。 正一位をもらっている源氏は、 854年、源常。 858年、源潔姫。 869年、源信。 895年、源融。ここまではみな嵯峨天皇の皇子・皇女。 897年、源能有、文徳天皇の皇子。 913年、源光、仁明天皇の皇子。 993年、源雅信、 995年、源重信、いずれも宇多天皇の皇子。 1094年、源顕房、村上天皇の皇子、などとなっている。 この頃までは、天皇の皇子が、直接臣籍降下して、源氏を賜って、 正一位になっている例ばかりだ。 従一位以下は枚挙にいとまない。

正一位というのは、太政大臣相当とみてよい。

思うに、村上源氏が公家として生き残ったというのは、たまたま藤原道長の時代に源氏となって、 その庇護を受けたからではなかろうか。 他の源氏は、武士になるなどして、在地に土着して、自力で生き延びたのであろう。

なお、頼朝は六位蔵人であったから、昇殿を許されていた。 つまり清和源氏であって、殿上人だった。 もし、平治の乱に巻き込まれなかったら、そのまま公卿になっていたに違いない。 また、従三位の、清和源氏の源頼政も、むろん殿上人だった。 清盛全盛の当時、頼朝や頼政の任官や叙位、官職にまで、源氏の長者として、村上源氏の誰かが口出しをしていたとは、 ちょっと信じがたいのだけど。

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土御門通親

05.03.2011 · Posted in 歴史

なぜ村上源氏が源氏の中で家格が高いとされるのですか? などを読んでいると、なるほどそうなのか、と、つい納得してしまいそうになるのだが、 たまたま源氏の中で太政大臣や内大臣になったものがいたからといって、 連綿として、公家としての源氏の長者というものがあったという考え方には無理がないか。 源氏とはつまり皇族の子孫であり、藤原氏と姻戚関係があれば、 中にはたまたま大臣にまでなるものがいても全然不思議ではない。 源雅実が太政大臣になったのは、母親が道長の娘だったから、ただそれだけだろう。

頼朝にしても元々は文官(蔵人。二条天皇の学友)だったが、 平治の乱以後、武官(右兵衛権佐。平治物語などに「前右兵衛佐頼朝」などとある)になった。 北畠親房の子も鎮守府将軍になったりした。 公家と武家を分けて考えることは、少なくとも源氏に関して言えば、あまり意味はなかろう。

土御門通親にしても、頼朝の死後、後鳥羽上皇の院政までの間、 たまたま権勢をふるったというだけだろう。 頼家、実朝の時代だから、幕府の中で内ゲバの嵐が吹き荒れており、 承久の乱以前であれば、未だ朝廷に対する幕府の優位性も確立してはいないのである。 そのような過渡期において、黒幕となって、 「朝廷、院、鎌倉幕府の全てが彼の影響下に置かれていた」と言うのは、 過大評価というより、誤解を与える表現というしかない。

つまり、結論として言えば、久我家や土御門家などのように、平安朝以後も、 公家に特化して生き延びた源氏が居た、というに過ぎないのではないか。 公家はだいたい元をたどれば藤原氏だから、王族の子孫が公家というのは、 確かに珍しく、面白い目の付け所かもしれんが。

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源氏の長者

05.02.2011 · Posted in 歴史

Wikipedia には「村上源氏」の所に

源氏といえば武家として活躍した清和源氏を想起する人が多いが、公家社会では村上源氏が最高とされていた。

などと書かれ、また、「源氏長者」の項目には、

源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。

などと書かれている。にわかに信じがたい。 いったい誰が「公家社会では村上源氏が最高とされていた」と言っているのか。 もし、北畠親房が『神皇正統記』などで主張していた、というのであれば、それは単に、 自分自身を「源氏の長者」なるものに祭り上げるための自画自賛に過ぎない。 北畠親房は、清和源氏の八幡太郎義家の流れに対するはげしいライバル意識があった。

「源氏長者」とは「治天の君」などと同様に近世、というより戦後になって作られた概念なのではなかろうか。 「源氏」というのは、たまたま賜姓が「源」だったもと皇族というだけであって、 何か具体的な横のつながりがあったというのは考えにくい。

また、「源氏長者」というものを清和源氏、つまり武家の頼朝、足利氏や徳川氏と切り離して考えること自体、無意味に思える。 そんなことをして、いったい何の意味があるのか。誰が得をするのか。

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