亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

04.13.2016 · Posted in 歴史

とはずがたりで、主人公の後深草二条が伊勢の外宮にお詣りしたとき、

神だちといふ所に、一・二の禰宜より宮人ども祗候したる、すみぞめのたもとは憚りあることと聞けば、いづくにていかにと参るべきこととも知らねば、「二の御鳥居、三には所といふへんまでは苦しからじ」といふ。

などとある。 墨染めの袂というのはつまり出家した尼姿だということだ。 他の箇所では熱田神宮にも参っているが、そんなことは書いてない。写経までしている。 鎌倉時代でも、 伊勢神宮だけは神仏習合を免れていたということだ。 そして僧侶や尼は第二鳥居の先にある第三庭所というところまでは入って良いとされていたことがわかる。

伊勢神宮がなければ日本の神道と仏教は完全にごっちゃになっていたかもしれない。 伊勢神宮以外で仏教色がほとんどないのはあとはわずかに上賀茂神社、下鴨神社くらいか。

大和国に長谷寺というのがあるが、ここはもとは雄略天皇などの都であったはずで、 かつては神道の本場だったと思われるのだが、神宮などはなく、 ただ長谷寺があるばかりだ。 南紀の神道も完全に密教と融合してしまっている。

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邪鬼

03.26.2016 · Posted in 歴史

四天王に踏まれている邪鬼だが、これは夜叉とも言い、 インドでは男はヤクシャ、女はヤクシー、もしくはヤクシニーと言う。 それで仏教が始まってしばらくの間は仏像はなかったが、バラモン教の神像はあったようだ。

釈迦が出家する(密かに城を出る)ときに馬の蹄の音がしないように蹄を持ち上げているのがヤクシャであり、 この頃からすでにヤクシャは踏まれていたということになる。 また、ヤクシャは建造物を支える像としても作られている。

四天王に踏まれている邪鬼が笑っているように見えるのはヤクシャがそもそも笑っている神像だからではなかろうか。

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天皇の血を引いた徳川将軍

03.05.2016 · Posted in 歴史

tenno8

徳川家康の母は「大」と言い、皇族ではない。

秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。

家光の母「江」も皇族ではない。 正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。

家綱の母「楽」も普通の農民の娘。 正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。 家綱に実子はない。

綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。 正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。 しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。

家宣の母「保良」も一般人。 正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。 つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。

家継の母「喜代」も一般人。 霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。

吉宗の母「由利」も一般人。 ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。

家重の母「須磨」も一般人。 ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。

家治の母「幸」も一般人。 ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。

家斉の母「富」は幕臣の娘。

家慶の母「照」も一般人。 ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。

家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。

家茂の母「美佐」は紀州松平。 ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。

慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。 織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。 奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。 母は松室敦子。 霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、 天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。 しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、 たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。 家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。 しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかったのである。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。 もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。 もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。 皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。 おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。 慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

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天皇の系図

03.05.2016 · Posted in 歴史

tenno8

皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。 ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。 幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。 これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、 霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、 特に感慨ぶかい。 その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、 彦坐王とか何者なんだろうとか、 手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。

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天皇の系図

03.01.2016 · Posted in 歴史

tenno7 皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、 後嵯峨天皇あたりで力尽きた。 余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。 かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。 後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。 この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。 だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。 またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。 皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。 その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。 道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。 妃や子供の数が明らかに減っている。 たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。 その後も天皇家はどんどん衰退していく。 天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。 光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、 法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。 「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。 源光(845-913)。 母は宮人・百済王豊俊の娘。 百済からの帰化人の家系。 源多(みなもとのまさる)という兄がいた。 この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

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伏見宮家

02.17.2016 · Posted in 歴史

ssdのhpの安いノートPCを仕事用に買ったのだが、win7だったので、 いじらないうちにwin10にアップグレードした。 ssdだと5時間くらいバッテリーもってくれるかなという期待で。

chromeブックだと安いし7時間くらい平気でもつのだが、あまりにも使いにくいので、もう使うのやめる。 なんかのサブには使うかもしれんが。

じんましんとか胸やけはどうも飲酒がきっかけで発症するらしく、 年をとって体力が落ちているのと病気の合わせ技だってことがほぼわかってきた。 そうだな。こんなに無茶な飲み方するからいけないんだ。 とにかく養生。

思うに、伏見宮初代栄仁親王は崇光天皇の皇子なので親王宣下されたけれども、 その栄仁親王の皇子治仁王は親王宣下されなかった。 治仁王の弟の貞成王も最初は親王宣下されなかった。 ところが称光天皇が病気で危篤になると、貞成は後小松院の猶子として親王宣下を受ける。 しかるに称光天皇が病気から快復すると貞成親王は出家して道欽入道親王となる。 いったん親王となった皇子が出家した場合は法親王とはいわずに入道親王というのかもしれないが、かなり異例だ。 結局、称光天皇は跡継ぎなく崩御し、 後小松院は道欽入道親王の皇子彦仁王を改めて猶子とし、称光天皇崩御の後譲国の儀をもってこれを即位させ後花園天皇とする。

後花園天皇が実母弟の貞常親王に勅許して、伏見宮を世襲親王家としたのは、 今後も称光天皇のように血統が絶える危険があることを認識していたからだろう。 その際に、称光と貞成のような、つまり大覚寺統と持明院統のような対立が二度とあってはならないので、 伏見宮家があくまでも分家であるというけじめをつけることにした。

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天皇の系図2

02.14.2016 · Posted in 歴史

tenno5

縦に並べた。

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宮家

02.14.2016 · Posted in 歴史

tenno4

思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」 というのはなんかおかしな感じである。 誰がそんなことを言い始めたのだろうか。 佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。 かといって親王宣下されたわけではない。 だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。 だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、 それを言い出した人はそうとうな山師だ。 まったく同じことは後南朝でも起きた。 後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。

南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、 例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、 北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。 これは南朝に対抗するために違いない。 特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、 持明院統と特別に対立しているわけではない。 かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。 また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、 京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。 彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。

伏見宮家は北朝から分かれたが、 本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。 これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。

閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。 これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。 閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。

ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、 戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。

本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。 せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、 全滅してしまっている。 白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。 むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、 まだ血は近かったのに違いない。

思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、 伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。 これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。 その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、 百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。 すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。 ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、 いつ王国が復活するかわからないわけだが、 余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。

明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。 一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、 中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。 それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、 宮家を創設するようになったから大混乱だ。

江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。 それは室町期でも同じだ。 皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。

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天皇の系図

02.13.2016 · Posted in 歴史

tenno3

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史学への反省

01.12.2016 · Posted in 歴史

柳田国男『故郷七十年』の続き。

「史学への反省」という文で

日本の史学が遅れてゐることの理由の一つは、漢字を憶えることが史学に入るための困難な関門になつてゐることであると思ふのである。漢字を憶えるために苦労をするため、やつと他人が書いたものを理解できる段階にまで至つた時には相当の年齢に達してをり、そこから自力で考へ、自分のものを創り出すところまでにはなかなか到達しないのである。漢字を制限してみても、この悪弊は打破できないのであつて、まして外国文献をそのままあてはめるくらゐのことで日本の史学の将来が解決するものとは思はない。

などと書いてあって、 柳田国男という人が、日本の古典というものに非常に同情的であると同時に、 これをなんとかしなければならないと考えていることがわかる。 しかし史学とか古典というものは漢字があろうとなかろうと、日本だろうと海外だろうと、 「他人が書いたものを理解できる段階にまで至」るまでには相当な年月がかかるものであり、 従って若者にはなかなか独自研究はできぬものである。 それが自然科学、とりわけ数学などとは違うところだ。 逆の言い方をすれば、かの早熟な柳田国男ですらそうなのであるから、 凡百の若者が、史学や古典などがわかったようなことを言うのは、ただの勘違いに過ぎないということだ。

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