亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる

01.04.2016 · Posted in 歴史

西洋近代とイスラムというのは、どちらも同じものなんだよ。 イスラムがたどったのと同じことがこれから近代西洋文明に起こる。 イスラムは近代西洋を導入しようとして結局は失敗した。 そりゃあそうだ、近代西洋はイスラムのコピー(おそらくは劣化コピー)なので、 イスラムを近代西洋で改革しようとしても意味が無い。 イスラムは自分でさらに新しい何かに変わっていかなくてはならない。 しかしそれができないので苦しんでいる。

西洋人は、イスラム世界が近代資本主義や個人主義で救えると思っている。 それは間違いだ。 日本人は西洋人の真似をしてある程度までうまくいったが、例外に過ぎない。

今イスラムは過激主義や原理主義という形で自傷している。 一つの文明がそのピークを迎え、崩壊すると、例えば五胡十六国のような混乱期が来る。 その時代は何百年も続くことがある。 イスラムがイスラムという定型を自ら改良し、イスラムに変わる何かを作り出すにはそれくらいの時間が必要になる。

世界史が発展するパターンはおよそ決まっている。 世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる。 今度の変化は、おそらく石油産油国の崩壊という形でまず現れるだろう。 誰もイスラムにとってかわる社会システムなんて想像できない。 それは私たちが現代人だからだ。ほんとうに新しいものなんて予測できない。 でもそれはいずれ生み出されるしかない。 東ローマとペルシャが滅んでイスラムが出てきたときと同じくらいの規模の社会変革が来なくてはならない。

世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる はコメントを受け付けていません。

世襲の効用

12.31.2015 · Posted in 歴史

社会システムというものが何もなかった中世においては、 政治にしても社会保障にしても芸事にしても、 何か世襲という形にしなくては持続性を持たなかった。 世襲でない、皆に機会が与えられて競争ができる状態のほうが優れているというのは、 社会システムが完備している現代だから言えることなのだ。 天皇家にしても将軍家にしても歌道の家にしても、みな家というものを作って「実体化」 しなくてはならなかった。 「血統」というもので相伝を守って行かねばならなかった。 一旦、「家」「血統」というものが確立したら、それをさらにいろんな伝説で理論武装し、 身内で結束しなくてはならなかった。 個人崇拝が、秘伝の教義がそこに生まれる。

それが、勅撰選者を世襲した定家の運命だったのだ。 定家個人の業績というものももちろんあるのだが、定家がなした一番大きな業績は選者を世襲したということだ。

世襲は今の時代にも案外効用がある。社会システムがいまだに不完全だから、古き良き「血」というものが補うのである。

世襲の効用 はコメントを受け付けていません。

三種の神器の呪術性

12.31.2015 · Posted in 歴史

『虚構の歌人』では承久の乱のことを日本最大の黒歴史と書いた。 後堀河天皇が三種の神器の権威だけで即位したのは律令制が否定されて古代の呪術が復活したからだと。 歴史を巻き戻したからだと。

ましかし、改めて思うに、三種の神器はそれまでも政争の具に使われてきた(花山天皇退位の時、安徳天皇入水など)、 のだが、承久の乱で三種の神器が単なる皇位継承の手段として使われたことで、 完全に呪術的価値を失った、とも解釈できる。 また律令制も崩壊した。 承久の乱はまさに、呪術性も律令制も破壊して、武家政権と封建社会をもたらした。 その危うい転換点を北条泰時という天才がうまく連結した。 不連続になったはずの日本の歴史を、完全に溶接してみせたのだ。 泰時があまりにも天才なので私たちは承久の乱も泰時も、長い日本の歴史の中で見落としてしまうくらいだ。 皇位継承というものが北条執権により純化され後世不朽に伝えられた、といえる。 このことによって承久の乱は黒歴史を転じて白歴史にした、と言えなくもない。

泰時に比べて、世の中をぐちゃぐちゃにしてしまった清盛や足利氏やその後の戦国武将のほうが目立っているのは、 歴史の皮肉というものであろう。

三種の神器の呪術性 はコメントを受け付けていません。

惟明親王

07.08.2015 · Posted in 歴史

式子内親王は人と滅多に歌を詠み交わしていないのだが、 その数少ない例が、九条良経と惟明親王である。 良経については『虚構の歌人』に書いた通り。 惟明親王のことも書いてたのだが、削ってしまった。 それをここに書いておく。

惟明親王

思ひやれ なにを忍ぶと なけれども 都おぼゆる ありあけの月

返し 式子内親王

有明の 同じながめは 君も問へ 都のほかも 秋の山里

何を忍ぶというわけではないが、都がなつかしい有明の月ですね、という問いかけに対して、都の外も秋なのですね。山里にいるあなたが言うように、私も同じ有明の月を見ていますよ、と答える。

式子内親王

八重にほふ 軒端の桜 うつろひぬ 風より先に 問ふ人もがな

返し 惟明親王

つらきかな うつろふまでに 八重桜 問へともいはで すぐる心は

八重桜が散り始めました。風よりも先に訪れる人がいるとよいのに、という問いかけに対して、散り始めるまで尋ねよとも言わずにすごす心は辛いですね、と答えている。

惟明親王は1179年生まれで高倉天皇の皇子。母は平義範の娘・範子。 義範も範子もまったくマイナーな人で、ネットで調べてもよくわからない。

九条良経は1169年生まれなので惟明はさらに10年若い。 式子は1149年生まれだから、30歳も若い。

『虚構の歌人』で私は、式子は九条兼実の愛人であり、 良経が式子の子ではないかということを書いた。 兼実は1149年生まれで式子と同い年、 若い頃の式子に恋人がいたとして、その相手に一番ふさわしいのは兼実。 少なくとも法然や定家よりはずっとましな仮説だと思う。

承久の乱が勃発したのは承久3年(1221年)5月14日なのだが、 惟明親王はその直前の1221年5月3日に死んでいる。 ずいぶん不審でしょう。 惟明親王は高倉天皇の皇子。 後鳥羽院の血筋ではない。 従って承久の乱の結果、幕府によって天皇に立てられる可能性は十分にあった。 いや、すでに出家して法親王になっていたので、自らは即位しないとしても、 惟明の皇子が天皇に立てられていたかもしれない。 順徳天皇や、順徳を擁立する九条家にとってみれば惟明は邪魔な皇子の一人なのである。 承久の乱に巻き込まれて死んだ可能性が高い。 同じことは、同じ頃に死んだ飛鳥井雅経にも言える。 そういう話も書こうかと思ったが、まったく何の証拠もないのでやめておいた。

惟明親王はなぜ式子と親しかったのか。 これに至ってはまったく検討がつかない。 式子が惟明の母平範子と親しかったからに違いないが、しかし 平範子という人が何者なのかさっぱりわからないので、なんとも言いようがない。 惟明が式子の子であった可能性は?それは無いだろうと思う。

惟明親王 はコメントを受け付けていません。

亀山天皇と臨済宗

06.21.2015 · Posted in 宗教, 歴史

臨済宗はもともと鎌倉だけのもの、武士だけのものだった。 ところが亀山天皇が臨済宗南禅寺を建ててここで出家したものだから、 京都でも、公家の間でも、臨済宗が流行ることになった。

亀山天皇はなぜ臨済宗を信仰したのか。

私は、藤原為家(定家の息子)は臨済宗だと確信している。 為家は中院禅師、冷泉禅門などと呼ばれているから禅宗には違いない。 では曹洞宗か臨済宗のどちらかということになる。

為家の時代、曹洞宗は道元が越前の山奥に永平寺を建てたばかりで、ほとんど影響力はなかったと思われる。 一方、臨済宗はすでに北条時頼によって鎌倉に建長寺を建てていたし、 それ以前に泰時が東勝寺を建てており、 さらにそれより前に、北条政子の発願によって栄西が寿福寺を建てている(政子は二品禅尼と呼ばれるから明らかに臨済宗である)。 寿福寺と東勝寺は鎌倉中に作られた日本最初期の禅寺である。 建長寺は鎌倉の外、山之内に建てられた。 為家は関東申次西園寺の血を引いている。 西園寺は当時では珍しい、鎌倉寄りの公家である。

これらの状況証拠から為家が臨済宗だったのは99%確実。 為家は晩年嵯峨中院、つまり後の亀山殿に住んだ。 亀山天皇は為家に影響を受けて臨済宗に親しんだ。 おそらくそうにちがいない。 ちなみに北条氏はみな臨済宗である。

栄西の元で最も早い時期に禅宗に帰依したのは池殿こと平頼盛だったと思う。 というのは頼盛は栄西の檀那だったからだ。 為家も非常に早い。

臨済宗の寺に鎌倉五山、京都五山という格式があり、南禅寺はその中でも別格、最高とされる。 これは亀山天皇による(日本初の)勅願禅寺であったためと、亀山天皇の孫に当たる後醍醐天皇が南禅寺を重んじたためだ。 南禅寺の住職は日本人だった。 建長寺の住職が中国人であり、またのちに建仁寺にも鎌倉から中国人の住職が送り込まれるのだが、 南禅寺は臨済宗の寺であるのに中国人を住職とはしなかった。 南禅寺が日本の臨済宗の中で別格とされるのは京都独特の公家趣味と言わざるを得まい。

室町時代になると足利氏が京都に住むようになるわけだが、東国武士の足利氏が臨済宗を重んじたのはある意味当然。

建仁寺の創建に栄西が関わったのは事実かもしれないが、初期の建仁寺は純粋な禅寺とは言えない。 栄西が帰宋後博多に建てたという寺もおそらくは純粋な禅寺ではない。 栄西は鎌倉という新天地で、頼朝や政子といった理解者に恵まれて、初めて日本に独立した禅寺を建てたのだ。 それが寿福寺である。 だから本来臨済宗で一番伝統ある寺は寿福寺であり、従って最も格上であるべきだ。 足利氏と京都の公家があとからそれをゆがめてしまった。 おかげで我々は禅宗というものがどのようにして広まったのか、 誰の功績であるのか、わからなくなってしまっている。

臨済宗はもともと座禅などしなかったと思う。 座禅は道元の曹洞宗が流行らせたものだ。 臨済宗はもともとは実学的、宋学的な性格が強かったはずだ。

九条道家は東福寺を建立したが、彼もまた臨済宗だったようだ。 どうもね、藤原定家の周りはみんな臨済宗なんだよね。 定家もやはり臨済宗だったと思うが確証がない。しかし、彼が禅の影響を受けているのは間違いない。

亀山天皇と臨済宗 はコメントを受け付けていません。

俊成

06.19.2015 · Posted in 歴史

藤原俊成は葉室家の養子だったとき、葉室顕広と名乗った。 葉室家の養父は葉室顕頼と言ったから、養父から「顕」の字をもらったわけである。

葉室顕頼の没年は1148年。 俊成が美福門院加賀と結婚したのは、長男・成家の生まれた年(1155年)から推測するに、 顕頼が死んでだいぶしてからだろう。 俊成1114年生まれ。 41才にしてやっと跡継ぎ出生というのはずいぶんおそい。 家族も養えないくらいに冷遇されていたということだろうか。 美福門院加賀が連れ子で再婚、俊成が初婚というのも思えば不可解だ。

俊成の姪にあたる徳大寺忻子が後白河即位とともに入内したのが1155年(当時忻子21歳。妹多子は15歳)。 俊成の運はこの前後から好転し始めたはずであり、 やっと一家をかまえ、妻を持ち、子を産む経済的余裕がうまれたのに違いない。

葉室家を離れたのは俊成と改名した1167年頃であったはずだ。 明らかに俊成の亡父・俊忠から「俊」の字をもらっているのである。 このとき成家は12才、定家は5才。

俊成の長男・成家だが、明らかに俊成から「成」の字をもらっている。 今日的感覚で言えば成家が俊成の嫡男ということになる。 成家は55才で正三位だからそれなりの出世だ。

俊成 はコメントを受け付けていません。

定家の禅3

06.09.2015 · Posted in 歴史

そう、もともとは、定家の禅というタイトルにしようとしていたのだった。 定家の禅2定家の禅。 最初は「古今和歌集の真相」の続編で「小倉百人一首の真相」みたいのを書く予定だった。 しかし小倉百人一首は100首全部並べるのがじゃまくさいので定家に絞った。 定家と栄西というタイトルにしようかとも思った。 しかし栄西や禅も話がとっちらかってしまうので定家に絞ったのである。 当時の書き出しはこんなふうだったのだ。

初期の日本の禅を理解してもらうため、南宋の禅や栄西についてのイメージをつかんでおいてもらう必要がある。道元、一休、沢庵などの禅師についても、比較のために見ておこう。 栄西が渡ったころの南宋では寒山詩という禅詩が流行っていた。伝説では、寒山や拾得は唐代の風狂僧であるとされるが、そのほとんどの詩は、おそらくもっと後代に作られたもの。

時人見寒山 (時人、寒山を見て)
各謂是風顛 (おのおの謂ふ、これ風顛(ふうてん)なりと)
貌不起人目 (貌(かお)は人目を起こさず)
身唯布裘纏 (身はただ布(ふ)裘(きゆう)を纏(まと)ふのみ)
我語他不会 (我は語るも、他は会せず)
他語我不言 (他が語るを、我は言はず)
為報往来者 (為に報ず、往来者)
可来向寒山 (来たりて寒山に向かふべし)

当世の人々は寒山を見て言う、「この人はフーテンだ。地味な風貌に粗末な布衣。」私は言う、「私の言葉を他人は理解せず、他人の言葉を私は言わない。道行く人々よ、私に会いたければ寒山に来るがよい。」 済公、あるいは道済などとも呼ばれる済顛(さいてん)は、栄西が南宋に渡ったころに実在していた禅僧である。その肖像の画賛に言う、

両隻帚眉、但能掃愁。一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚。未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子帰天嶺、釣月耕雲自琢磨。

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。寒くてもいつも裸足。年は取ってないのに白髪。無頓着。何事も気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。 寒山のイメージそのまんまの人だったようだ。済顛は現代中国でも人気で、日本の一休さんのようにテレビドラマの主人公になっているそうである。

今と全然違う。今は道長の話を枕にしている。 いずれ栄西については書きたいのだがせっかく書くなら鎌倉の寿福寺や建長寺できっちり取材して書きたいわな。 で、最初から「虚構の歌人 藤原定家」というものを書こうとしたわけではない。 承久の乱についても書こうとしたがこれもじゃまなので削った。

この本だが、定家だけではない、 九条兼実、良経、道家、式子内親王、後鳥羽院、西園寺公経、北条泰時、宇都宮頼綱らについても今までになかったいろんな見解を書いている。 結局定家に絞り切れてないのである。 兼実と良経と式子だけでも独立して一冊の本になるだろう。 膨らませるのが苦手なのだが。 承久の乱についてはいつか書きたい。

定家の禅3 はコメントを受け付けていません。

メディアの業

04.23.2015 · Posted in 歴史

すでに靖国神社合祀産経購読10年地方紙5紙の社説がソックリ。 などに書いたことの蒸し返しになるが、 私は2006年8月時点で日経を見限って、以来ずっと産経を読み続けていることになる。 ということは現時点でもまだ10年経ってないわけだ。

2つ目の話題は、元宮内庁長官の日記と手帳に関する報道の件です。昭和天皇が太平洋戦争のA級戦犯の靖国神社合祀について不快感を示していたという報道をしました。これは1面トップで取り上 げ、国際的なスクープになりました。

日経がなぜ報道したかというのは、新聞としての原点で考えたということです。いろいろな検証の結果、正しいと判断した事実があります。これを1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ、1年後に公表したとします。これこそまさしく政治的利用と言えるのではないでしょうか。

正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える、それが政治的にどういう影響を与えようと、読者にまず知らせるという行動をとる。これは新聞に限らずメディアの非常に重要な基本であり、日経は日経としての編集方針を忠実に守って掲載しました。

日経が富田メモを入手したのは2006年5月。 もちろん誰かが意図的にこの時期を狙って、わざわざ日経というメディアを選んでリークしたのである。 記事にしたのは2006年7月20日。 「1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ」というのはつまり、 小泉総理の総裁任期満期総辞職とその前に行った靖国参拝を言っているわけである。 普通に考えれば、富田メモをリークした者は、小泉を靖国に参拝させたくない誰かである。

日経は発表を若干遅らせることはできたがそうしなかったという。 逆に小泉靖国参拝にぶつける形でセンセーショナルに煽ったのだ。 終戦記念日まで一ヶ月きった時期にトップ一面でだ。

いや、一番の問題は、この日経のスクープ以来世論が、 昭和天皇が靖国参拝しないのはA級戦犯が合祀されているからだということに固まってしまったことだ。 詳細に分析すれば、昭和天皇が靖国参拝しない理由は他にある。 きちんと分析したきちんとした論文として発表していれば世論はこれほど騒がなかった。 しかし日経はその真逆のことをしたのだからやはり罪は重い。

報道はつねに脚色される。報道は事実ではない。 報道と事実はむしろ対極にある。 事実を称したければ仮説の一つとして提示すれば良いだけである。

メディアは単に事実を即座に発表しましたではすまされない。

正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える。

これこそが日本経済新聞社東京本社編集局総務小孫茂の、そしてより一般的にはメディアというものの確信犯的な大嘘だ。 検証したというのは要するに秦郁彦・半藤一利の二人に分析させたというだけだろう。 それは個人の見解以上のものではないし、 事実を確認したものでもない。 歴史というものは、歴史的検証とか事実とかいうものは、そんなやすいものではない。

メディアの業 はコメントを受け付けていません。

藤原氏の勉強2

03.01.2015 · Posted in 歴史

いわゆる大化の改新とか乙巳の変というのは蘇我氏のお家騒動に過ぎないように思える。 主家は滅んだが、蘇我一族が滅んだわけではなく、皇族が力を付けたかというとそういうわけでもなく、 藤原氏の台頭はもう少し後だ。

大化の改新が天智天皇と中臣鎌足によるとしたのは藤原不比等に違いないのだが、 すでに舎人親王によって完成していた日本書紀を不比等や光明皇后らが改変したとすれば足りるのである。 藤原氏は単に文武と聖武の外戚となったが故に権力を手に入れたにすぎない。 皇族や他の氏族のように日本という国を建てて、あるいは国を治めることで権力者になったわけでもない。 白村江の敗北によって日本が中央集権的な律令国家を指向し、それが奈良朝の聖武天皇の治世として結実したわけだが、 そのことにも藤原氏はほとんど関係してない。 天皇家や蘇我氏、その他の有力な氏姓が九州や中国地方から次第に近畿に移ってきたのに対して、 藤原氏は単なる山科土着の豪族で、皇室に絡みついて利を得た存在にすぎない。 というのではあまりにも後ろめたいので、 大化の改新というものの主役になることにしたのだろう。

藤原氏の勉強2 はコメントを受け付けていません。

藤原氏の勉強

02.28.2015 · Posted in 歴史

藤原氏と天皇家の関係は、 不比等の娘・宮子が文武天皇に入内するまでは見られない。 文武の皇子・聖武天皇にふたたび不比等の娘・光明が入内して皇后になった。 つまりこの二代にわたる入内と、人臣で初めての皇后の位についたのが事実上の藤原氏の歴史の初めである。 不比等の息子の四兄弟がこの藤原政権確立に活躍したが、 藤原氏は天然痘でほとんど絶えてしまう。 この段階ではそのまま歴史から消えてしまうことも十分にあり得たわけである。

蘇我氏を滅亡させたクーデターに天智天皇や中臣鎌足が関与していた可能性はかなり低い。 しかも天皇不在で、天智天皇は皇太子のまま白村江を戦ったというが信じがたい。 天智天皇はほぼ間違いなく白村江の敗北よりは後の人だ。 天智天皇陵が山科にあり、中臣氏の本貫が山科であるのは何かの因縁かもしれないが、 よくわからん。 天智・持統・草壁のラインに藤原氏が何かの関与をしたのだろうがよくわからん。 そもそも天智・天武が蘇我氏を滅ぼさなくてはならない動機がない。 持統も元明も蘇我氏の娘だし、 天武も蘇我氏に擁立されている形である。 そして天武が天智の娘をことごとく妻としているのは異様だ。 天武を擁立していた勢力が天智の血を必要としたからだが、 蘇我氏くらいしか思い当たらない。藤原氏ではないはずだ。

藤原氏の勉強 はコメントを受け付けていません。