亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

天皇の系図

02.20.2015 · Posted in 歴史

tenno2tenno

天皇の系図を見ていると、どうも、応神・仁徳あたりでようやく難波に進出しており、 それまでは九州あたりにいたのではないかと思えてくる。 景行天皇の熊襲征伐、神功皇后の三韓征伐、継体天皇の時代の磐井の乱、 天智天皇の頃の白村江の戦いなど、大きな戦はみな九州か韓半島で起きている。 神武天皇のいわゆる神武東遷という事績は、あったのかもしれないが、 当時大和は一番東の端の辺境であり、神武は陸奥を征伐した源義家のようなものではなかっただろうか。

日本外史の徳川氏の系譜などみていると、 神武から開化までの一本調子で空虚な系譜によく似ている。 徳川氏は自分のルーツを源義家までたどりたかったからああいう無理な系譜ができたのである。 古代なんらかの歴史的できごとはあったのだが、それにルーツを求めようとしてあのような系譜になった。

応神天皇から武烈天皇までの頃、 拠点が難波から大和川をさかのぼって初瀨までのラインに置かれたことがわかる。 応神天皇陵、仁徳天皇陵などは、この時期に断続的に行われた大和川開鑿の土木工事の副産物だ。 しかし継体天皇より後、再び日本の中心と言える場所は揺れ動き始める。 少なくとも初瀨ではなくなる。

神武が橿原で即位したとすることによっていろいろ問題が起きてくる。 ここが日本の中心になったのは天武から後ではなかろうか。 今のロシアもそうだ。 もともとロシアはキエフから来て、キエフは東ローマからきた。 しかしロシアが自らのルーツをモスクワ大公国にたどろうとすることによって、 いろんなゆがみが生じるのだ。

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カニバリズム

01.05.2015 · Posted in 歴史

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。 年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、 ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、 実際にイエスが食われたかはともかく、 初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。 日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、 後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。 福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、 それは平家物語の成立とも似ているが、 一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、 古代には広くみられたはずだ。 犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。 人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。 つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。 中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。 今日ではマオタイ酒がその代わりをする。 キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。 ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。 おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。 アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。 というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、 ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。 しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。 初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。 それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。 明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。 パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。 そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。 ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、 要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、 という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、 小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。 ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。 兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。

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1214年

12.04.2014 · Posted in 歴史

建暦3年は12月5日まで、翌日改元して、建保1年12月6日となる。 建保1年12月6日はユリウス暦で1214年1月18日。 つまり建暦3年は西暦でいうと1213年と1214年をまたいでいる。 1214年は、建暦3年でもあり、建保1年でもある。

問題は、建保2年1月1日が1214年2月12日なので、 1214年は建暦3年でもあり、建保1年でもあり、建保2年でもあるのである。 ややこしい!

建保1年は、1214年1月18日から1214年2月11日まで。

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定家の禅2

11.15.2014 · Posted in 歴史

まったく終わる気がしない。 すでに四百字用紙換算で300枚超えている。 分量はもうそんなに増えないはずだが、書き換えが終わらない。話が収束しない。 調べ始めるときりがなく、 wikipedia と吾妻鏡の記述に矛盾があったりして困る。

余暇のほとんどを執筆活動に追われて、ツイッターとか書いてるヒマがない、のは良い傾向だ。

wikipedia の日本史は汚染されている。 読んでてすごく嫌だ。 特に仏教関係には捏造が多い印象。

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北条泰時

10.17.2014 · Posted in 歴史

北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、 ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。 そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。 泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。

頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。 だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。 その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。 しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。

頼朝は泰時をかわいがっていた。 もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。 頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。 なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。 いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。

実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。 頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。 事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。 頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。

北条泰時をあらためてちゃんと調べなきゃなという気がしてきた。

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嵯峨中院

10.17.2014 · Posted in 歴史

明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。 頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、 立派な邸宅に住んでいたとは思えない。 またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。

障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。 障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。 襖が100枚というのはいかにも多すぎる。 襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。 ちと考えにくい。 頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。 そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。

頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。 当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。 1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。 御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。 泰時はときどき六波羅に来ていただろう。 六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。 定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。 ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。 うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。

襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。 48を4で割ると割り切れて12。 1辺が12枚の部屋は72畳。 あり得るな。

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承久の乱

10.17.2014 · Posted in 歴史

北条義時と西園寺公経は親しく、 後鳥羽院は公経を殺そうとしたと日本外史にある。 公経は頼朝に近く、おそらくは関東申次的な役職だった。 というより西園寺家が関東申次の家で、公経がその嚆矢であった。 公経は平頼盛の曾孫。

徳大寺公継と葉室光親も後鳥羽院を諫めた。 光親は光俊の父。 光親は後鳥羽院側の中心人物とみなされていた。

伊賀光季と大江親広は鎌倉幕府の京都守護。

藤原秀康・三浦胤義は幕府から朝廷側についた者。 三浦義村は胤義の兄。 胤義は使者押松丸をつかわして、後鳥羽院の院宣を義村にもたらした。 義村は直ちにこれを義時に知らせ、 幕府の御家人は少なからず動揺したが、 義村は幕府の武将として参戦し、胤義は討ち死にした。 西園寺公経と伊賀光季からもたらされる情報で幕府は速やかに動いた。 まあ要するに、幕府の御家人と幕府に味方する公卿は一枚岩だった。 後鳥羽院は切り崩しを図ったがうまく行かなかった。 ということだわな。

後鳥羽院側の公卿「合戦張本公卿」一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂は処刑。 一条信能は能保の子。ただし母は坊門姫ではなく遊女。 源有雅は後鳥羽院の寵臣。 葉室宗行と葉室光親の関係はよくわからんが葉室家は九条家の家宰のようなものだったらしい。 つまり九条家は明らかに後鳥羽院派で、これに対して西園寺家が幕府派であった、ということになる。 高倉範茂も後鳥羽院の寵臣。

坊門忠信は坊門信子(実朝の正室)の兄。

坊門信子も坊門姫と呼ばれていたらしい。それはわかるが、 頼朝の妹まで坊門姫と呼ばれたのはなぜか。 幼少の頃坊門家に匿われたということか。よくわからん。

こうしてみると、後鳥羽院側の九条良経

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む

と幕府側の西園寺公経

花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

の歌が百人一首に並んで採られており、かつ公経のほうが厭世観に満ちているのは興味深い。 九条家と西園寺家の「手打ち」的なものを感じさせる。 公経が中心的なネゴシエーターになったのだろう。

公経(1171-1244)の歌は新勅撰集(1232)に採られているから、 定家(1241死去)とも親しかったはずで、 かつ、歌の内容からして承久の乱の後に詠まれたものであろう。 新勅撰集成立時にちょうど還暦を迎えている。 「百人秀歌」の最後が公経の歌になっていることからも、 公経が、少なくとも続後撰集より前までは、 百人一首の成立にかなり深く関与していたと言える。 実に興味深い歌だわな。 やはり「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだろうか。

小倉色紙成立は1235年だが、 何しろ関東申次なんで、最初から公経の歌が入っていた可能性は高い。

西園寺というのは今の金閣寺なのだな。

公経は入道前太政大臣と呼ばれているが太政大臣になったのは承久の乱の後。 出家したのはいつだかわからん。

ひとつ考え得るのは、公経と定家が生きているうちに、 小倉百人一首のプロトタイプ的なものはやはり出来ていて、 それが小倉色紙であり、百人秀歌であったかもしれない。 単に宇都宮頼綱が定家に依頼したというよりも、 幕府というか、関東申次の西園寺家からの要望があったのかもしれん。 それについて定家には異議のありようがない。 だが定家が選びそうもない凡歌が多数百人秀歌に含まれているのは確かであって、 最初はもっと少なかったのか、あるいは、 最初から百首あったとすれば、 定家の意見を参考にしつつたとえば公経自身が選んだと考えてもおかしくない。

しかしその後後鳥羽院派の九条家がのしてきていろいろと歌を付け足した。 それが小倉百人一首なのかもしれんね。

まあその後にもいろんな改竄があった可能性はあるわな。

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ペルセポリス

10.11.2014 · Posted in 歴史

ペルセポリスはダレイオス一世によって作られ、アレクサンドロス大王によって破壊された。 すなわち、わずか200年足らずしか存在しなかった、人工都市だったということだ。

スーサとかバビロンとかエクバタナなどの都市と同じように考えることはできない。

アケメネス朝でもっとも栄えた町はバビロンかスーサであろう。 アレクサンドロスはスーサで大結婚式を行った。 またバビロンで戴冠式を行った。 つまりスーサもバビロンも破壊されなかったということだろう。 エクバタナはペルシャ人発祥の古都である。 ここも略奪されたとか破壊されたとは書かれてない。

ペルセポリスには確かに王宮があったが、 ここはどちらかと言えば王墓の都であり、王家祭祀の町であって、一般住民はほとんどいなかったと思う。 ダレイオス一世以後の墓はあるがそれ以前のキュロス大王の墓などは別のところにある。 王墓と町はほとんど重なるようにして建てられている。 エジプトのピラミッド、カルナーク、ルクソール、アブシンベルのようなもので、 町というよりは神殿群のようなもの、ペルシャの民衆というより王家固有のものではなかったか。

アレクサンドロスがペルセポリスの王宮を焼いたというのは、ある種、象徴的な行為であって、 それはペルシャ軍がアテナイのアクロポリスを略奪したことへの報復というような意味であったかもしれない。 或いはギリシャの神々、とくにディオニュソスを信仰するギリシャ人からみて、 ペルセポリスは破壊すべき異教の町に見えたかもしれない。 いずれにせよ一般民衆から略奪したというのとはかなりニュアンスが違うように思う。

或いは、スーサやバビロンなどはペルシャ人によって支配された民の町、被征服者の町であったが、 ペルセポリスだけは、ペルシャ人の、ペルシャの王族が住む町であったかもしれない。 従ってスーサやバビロンではさしたる民衆の抵抗はなかったが、 ペルセポリスに入城するときには強硬な抵抗があったのかもしれない。 ペルシャを征服するにはペルセポリスを無傷で残すことはできなかった。 歴史の長いアジアでは征服者どうしが戦うことはあっても、 征服者と被征服者が戦うことは滅多にない。

さらに、ダレイオス三世はアレクサンドロスによって代々の王と同様に(つまり丁重に)ペルセポリスに葬られている。 このことから見ても、アレクサンドロスが単にペルセポリスを破壊し、略奪したとは思えないのである。 ペルセポリスは、スーサと同様に、ペルシャ帝国の衰亡とともに捨てられ、忘れ去られただけではないのか。

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アジアとエジプト

09.17.2014 · Posted in 歴史

ブログのリンクをツイッターにはろうかどうか悩んでいる。 宣伝にはなると思うが、 このブログはおもいついたことをそのまま書きためておくところで、 永遠に未完成の書きかけなのだ。 後から書き直すかもしれない。

そんなことを言えばKDPで出版したものも後でわりと書き直すほうなのだが、 どうもブログを宣伝するのは気が引ける。

アドンとエデンなどというものを昔書いていてすっかり忘れていた。 なぜ今更思い出したかといえば、JetPackというwordpressの統計プラグインのおかげである。

アラビア語ではエデンをアドンという。 ヘブライ語で主をアドナイという。アドナイはアドンの複数形。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアメンホテプ四世による、 エジプトのアトン信仰にさかのぼることができる。 フェニキア人の神にアドニスがいる。 これらはみな同じであると仮定するとどういうことになるか。

エジプトにとって東とはほぼ間違いなくアジア(狭義にはメソポタミア)のことである。 つまり、エジプトにおける一神教とはメソポタミアから輸入された舶来の宗教であったといえる。

思うにエジプト新王国はアジアの征服王朝ヒクソスから独立して生まれたものだ。 エジプト古来の文化や宗教が復活し、アジアとエジプトという対立概念が生まれた。 外圧によってエジプトがエジプトを自覚したと言ってもよいかもしれぬ。 アトン信仰はヒクソスの時代にすでにエジプトにもたらされていたかもしれぬ。 いきなりエジプトに来たのではないかもしれぬ。

つまり、エデンとかアトンというのは、もともとは、 エジプトの神に対する、メソポタミアの神、のことを言っていたのではなかろうか。 エデンというのは、メソポタミアでは単に平原を表す普通名詞である。 エジプト人はメソポタミアのことをエデンと呼んでいたかもしれない。 エデンの神のことを、だんだん略して単にエデンとかアドンと呼んだかもしれない。

エジプト新王国はしだいにアジアのミタンニ王国と同盟するようになった。 さかんに王族どうしで婚姻するようになった。 これが王家と神官たちの宗教的対立を産んだだろう。 エジプト国粋主義の神官たちと、 アジア由来の神を信仰する王族。

ミタンニ王国は実はヒクソスの末裔であるかもしれない。 エジプトはいったんヒクソスの支配を脱したのではなくて、 ヒクソスによる支配はある程度残存していたのではないか。 第15王朝から第18王朝まで、 王朝の交代という不連続な変化が起きたのではなく、 エジプト固有勢力とアジア勢力の連続的な均衡が続いていたのではなかろうか。 少なくとも当時、よりエジプト的な部族や人民、よりアジア的な部族や人民が、 エジプトに混じり合って住んでいた。 アジア的な部族とはつまり「エジプトへ下ったイスラエルの子ら」である。

イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。

エジプト新王国はまさにそのような状況だっただろう。

アジアとエジプトの対立が極端な、最終的な形で現れたのがアメンホテプ四世による宗教改革であった。 エジプト古来の神と、アジア由来の神の対立によって先鋭化したものが一神教であったはずだ。 この時期、きわめてリアルな彫像が作られたのも、アジアの影響だったはずだ。 いきなりエジプト人の中からああいうものが出てきたと考えるほうが不自然で、どこかから輸入されたアートだと考えるべき。 リアルと言えばギリシャ彫刻だが、その由来も案外同じかもしれぬ。 このエジプト第18王朝はエジプト保守勢力によって途絶えた。 そのとき王族がエジプトを脱出したのが出エジプト記の記述に相当する。 おそらく、旧約聖書に記されている多くの古代の事績はまずアジアからエジプトにもたらされ、 エジプトから迫害されて、 ユダヤの地に残存したのだろう。

フロイトも指摘しているように、 割礼はアフリカで広く見られる風習であって、 アジア的なものではない。 アトン信仰がエジプトの宗教となった結果、 土着の割礼という風習を何かのきっかけで採り入れたと考えるべきだろう。

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傘松道詠

06.27.2014 · Posted in 歴史

道元歌集

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり

おし鳥や かもめともまた 見へわかぬ 立てる波間に うき沈むかな

水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は わすれざりけり

世の中に まことの人や なかるらむ かぎりも見へぬ 大空の色

春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にのこる うたがひもなし

聞くままに また心なき 身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水

濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる

冬草も 見へぬ雪野の しらざきは おのが姿に 身をかくしけり

峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我より先に 人をわたさむ

山深み 峯にも尾にも こゑたてて けふもくれぬと 日ぐらしぞなく

都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

梓弓 春の嵐に 咲きぬらむ 峯にも尾にも 花匂ひけり

あし引の 山鳥の尾の 長きよの やみぢへだてて くらしけるかな

心とて 人に見すべき 色ぞなき ただ露霜の むすぶのみして

心なき 草木も秋は 凋むなり 目に見たる人 愁ひざらめや

大空に 心の月を ながむるも やみにまよひて 色にめてけり

春風に 我がことの葉の ちりけるを 花の歌とや 人の見るらむ

愚かなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならむ

山のはの ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶほたるかな

花紅葉 冬の白雪 見しことも おもへば悔し 色にめてけり

朝日待つ 草葉の露の ほどなきに いそぎな立ちそ 野辺の秋風

世の中は いかにたとへむ 水鳥の はしふる露に やとる月影

また見むと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする

全体的に普通。 あまり説教臭くない。

最初の歌が一番有名らしいがあまり感心しない。

目には青葉 山郭公 初松魚

を思わせる。 江戸時代の俳人山口素堂の句というが、 道元の影響を受けていたかいなかったか。

「色にめてけり」がよくわからん。 「色に愛でけり」ではあるまい。 「色に見えてけり」ではあるまいか。 俊成の歌に、

たかさごの をのへのさくら みしことも おもへばかなし いろにめてけり

とある。 慈円のようにつまらなくもないが、 俊成や西行にははるかに及ばない。

都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

これが少し面白い。 道元より後の人だが、宗良親王に

都にも しぐれやすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ

がある。 道元と宗良親王には接点がある。 「将軍放浪記」に書いたとおりだが、 越後、越中と放浪し越前の新田・名越氏らを頼った宗良親王が、 永平寺に立ち寄ったかどうかまではわからぬが、 道元の境遇を自分と重ね合わせて詠んだ歌であっただろうと思う。 も少し調べてみると、道元の三十才年長で藤原範宗という人がいて、

都だに 夜寒になりぬ いかばかり 越の山人 ころもうつらむ

とあるが、道元はこの歌を本歌としたのではなかったか。

夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

これと先の「都には」の二つは、奥越前永平寺の暮らしを偲ばせる秀歌と言ってよい。

北条時頼が道元を鎌倉に招いたのだが道元は越州に帰ってしまった。 鎌倉時代からの禅宗の寺はたいてい臨済宗で、 曹洞宗の寺は戦国以後のものしかないようだ。

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