亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

釣月耕雲と禁葷食

06.24.2014 · Posted in 歴史

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、 それでいろいろ人とも話をしてみて、 果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、 もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。 一休も、また、済顛も肉を食べた。 道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。 我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。 しかし、当時中国でも日本でも、 僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうも禁葷食 など読むと、 中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。 というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、 中国の神仙思想から来ているように思えるからである。 カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。 日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。 インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、 独自の中国仏教というものが出来てきた。 私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが (寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、 あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、 中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。 ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、 仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、 その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、 そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、 道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。 日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。 そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、 今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。 曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。 日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、 むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。

原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、 インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、 仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。 そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。 「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、 「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、 「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、 済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと 「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。 道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。 そう思って読むと、 「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。 「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。

でまあ、私のブログで良く読まれているのが 臨済関連の「裏柳生口伝」と 済顛関連の「山居」 なのは単なる偶然ではないのかもしれん。 誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。 最近中国語のスパム多いし)。 ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、 ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、 というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、 それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。 警策自体は江戸時代以来らしいが、 それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。 そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。

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男系女系

06.19.2014 · Posted in 歴史

女帝は奈良時代に圧倒的に多く、 平安遷都してからはしばらく途絶えて、 その次は江戸時代の明正天皇まで時代をくだらなくてはならない。 後水尾天皇が春日局と家光に腹を立ててむりやり明正天皇に譲位したのだから、 やはりかなりイレギュラーな即位だった。

私は思うのだが、 歴史に残ってないだけで、実は推古天皇より昔にもたくさん女帝はいたのではないか。 天照大神から推古天皇の間に一人の女帝もいないと考えるほうが不自然ではないか。 推古天皇より前の皇統というものはそれだけ不確かなものなのだ。 あ、そういえば神功皇后がいたな。 彼女もまた女帝だったはずだ。

天皇はやっぱ男子でしょ、 という話はやはり平安遷都をきっかけにして固定したのだと思う。 桓武天皇がどんな人だったかよくわからないが、 嵯峨天皇ならばよくわかる。 漢風。唐風。これに尽きる。 万事中国の制度に倣って中央集権な国家にする。 女帝なんてありえない。 則天武后の一件がやはり日本の皇位継承ルールにも影響を与えただろう。

女系男系という話も実は持統天皇より以前にはほとんど意識されてなくて、 天皇には男がなっても女がなっても良いとされた時代があって、 それが今から見ると男系に見えるとか、 男系に見えるように皇統が改竄されたとしたほうがすっきりする。

それでまあなぜ男系ということになったかというとそれは全然天皇家古来の家訓というのではなしに、 藤原氏の都合であっただろう。

女帝の息子でも天皇になれるというのでは、 皇統はどんどん分岐していってコントロールがきかない。 一つの有力な貴族だけが天皇の外戚となって皇統をコントロールできる仕組み、 それが男系なのである。 その仕組みは平清盛にも崩せなかった。 清盛は藤原氏がそうしてきたように、 娘を入内させてその皇子が即位するのを待つしかなかった。 しかし清盛の死後、平家は滅亡した。 藤原氏はたくさん皇族の親戚がいて存続した。 ある意味この仕組みは昭和天皇まで残ったのである。

皇統とか皇位継承のルールというものは天皇家主体ではなく、藤原氏、北条氏、 足利氏、徳川氏などの時の実力者の恣意によって決められてきた、 天皇主体の時代にはむしろ皇統というものは案外好い加減だった、 ということは先に皇統の正統性に書いたとおりである。

今の女系男系議論は、そもそもなぜ天皇家は男系となったのか、 という前提にまったく基づいてない。 万世一系天皇家は男系だったから、というほとんど根拠の無い理屈。 或いは持統天皇や推古天皇、舒明天皇などのあまりにも古い時代の例を挙げて、 男系ならば女帝でもいいじゃないかと言う。、 或いは女権論者が欧州の王位継承ルールの話を持ち込んできたりする。 論理的にプアな右翼と同じくらい論理的にプアな左翼が子供の喧嘩をしてる感じだ。

男系でも女系でも実はどっちでもよい。 おそらく考古学的学術的に精査すればそういう結論になるのに違いない。 しかし中世や近世、近代の事例を尊重するならば、 皇位継承のルールをいきなり書き換えようとすれば天下大乱となってきたことを念頭に置くべきだ。

今ホリエモンが皇太子がどうしたという話も実にナンセンスで、 ホリエモンはただのリベラルだがそこにかみついてくる連中の論理がお粗末だ。 リベラルにはリベラルの論理武装というものがあるから、 単に感情的に反論してもなんの意味も無い。 いつかどこかでみたような議論が蒸し返されるだけで何の価値も無い。

歴史的に言えば臣下に殺害された皇子はたくさんいる。 以仁王がそうだし、 護良親王もそうだ。 安徳天皇は違うかもしれない。 皇太子で殺された例はなかったかもしれない。 皇族をなぜ敬わなくてはならないのか、 なぜ敬わなくてもよいのかという問題は、 自明ではない。 皇室を敬うべきであるという論拠は、 皇統が割れて、 皇子らがどんどん戦争に巻き込まれて行き、 どんどん殺されていった南北朝の事例にこそあるのだが、 誰もそこを論点にしようとしない。 護良親王なんてすごく面白い人なのにまるで人気が無い。 おかげで鎌倉宮も参拝客や観光客集めに必死だ。 やはり私が「剣豪親王護良」とかいう小説を書いてみせなきゃダメか。 いやそれでもまだ全然ダメだな。 読者がいないことには。

ああいうことをもう一度繰り返さなくて済むという意味では、あの歴史は実に貴重である。 天皇家の歴史というのはおおむね連続的にきちんと残っているのだから、 すべては歴史に記されていて、 それをまっとうに解釈すれば済むだけなのだが、 そんな議論はめったに見かけない。

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皇統の正統性

06.08.2014 · Posted in 歴史

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。 中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、 蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。 私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、 私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。 おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、 抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。 強い者が王となる。 強い一族が王家となる。 日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。 それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、 連綿と続いてきたものなのか、 いろんな断続があったものなのか、 確かな記録がなくてよくわからない。 ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、 大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、 自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。 藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。 つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。 天皇が自らそう主張したというよりも、 藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。 皇統と外戚は同時にできた。 外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。 というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。 それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。 それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。 当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。 天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。 藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。 藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。 天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。 とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。 皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。 まさにカオス。 源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。 天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。 白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。 法親王というやつ。 法親王は一生独身。 彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。 皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。 皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。 白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。 気づいてみれば当たり前のことだ。 なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、 それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。 天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。 だから、皇子たちは一致団結することなく、 藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。 嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。 清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。 陽成天皇までの天皇というのは、 ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、 王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。 王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。 藤原氏が皇統を発明したのである。 その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、 その子の良房、 その養子の基経らによって確立された。 つまり摂関政治というやつだ。 藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。 そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、 それ以外の皇子を排除した。 そうして実利を得た。 この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、 皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね? ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。 このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。 宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。 平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない (皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。 後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。 この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。 北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。 そんなことは藤原氏は発明してない。 藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、 先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、 藤原が天皇家の外戚であること、 皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。 そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、 まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、 仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。 今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。 天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。 当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。 後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。 だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。 俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。 いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。 神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。 そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。 北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。 尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。 ここまでは北条氏と同じである。 北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。 神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。 「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。 尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。 廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。 説得力ゼロ。 いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。 このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。 これによって南北朝の合一はなったのであるが、 北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。 このことは明治になって蒸し返されて、 北朝ではなく南朝が正統であるとされた。 北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、 国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、 万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。 国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、 そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。 イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、 イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。 ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。 血統が大切なのではない。 継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。 欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。 南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。 そうすれば血統がなぜ重要かわかる。 他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。 欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。 ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。 他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、 北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。 要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、 政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、 至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。 奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。 強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。 さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。 日本人はそのどれも採用しなかった。 自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、 皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。 藤原氏は天智天皇までさかのぼった。 北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。 足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。 後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。 本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。 藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。 藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。 それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。 別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。 新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。 また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、 神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。 どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。 空想力がそこまでいたらなかったはずだ。 家康は自らを東照神君と呼んだ。 明らかに天照大神とタメをはろうとしている。 家康はまた天台宗にも凝った。 かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。 周りの人もやはりわからなかった。 誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。 産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、 国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。 国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。 近代考古学によって箔付けされた神話を。 ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。 イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。 トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。 国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。 国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。 国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。 本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。 国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。 国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。 たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。 天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。 天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。 南北朝の歴史を知る必要がある。 しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。 歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。 あるとき急に完成した形で生まれるのではない。 急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。 ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。 些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。 日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。 しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。 だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。 しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、 日本史なら日本史、世界史なら世界史。 その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。 司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。 歴史のつまみ食い。 これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、 いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。 従って、人間宣言というものがあのような形で出た。 その内容は極めて妥当なものだった。 昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス (We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ (We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、 またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、 皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。 しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、 左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、 今日に至っているのである。

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左翼は良い仕事をした。

06.08.2014 · Posted in 歴史

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、 それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。 世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。 日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。 語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。 或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。 三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。 古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。 古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。 文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、 普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。 人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、 成熟したものだった。 その思想は十分に明治維新に耐えた。 少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。 しかし次第に陳腐化した。 敗戦によってそれまでの日本史は否定された。 過去の遺物ということになった。 左翼につけいるすきを与えた。 左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。 おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。 日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、 しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、 右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。 現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。 しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、 場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。 それでは左翼の思うつぼである。 坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。 それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。 左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。 もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。 私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。 右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。 朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。 高校には右の教員もいたし左の教員もいた。 右の教員は合気道をやっていた。 精神論者だった。 なんのロジックも身につけてなかった。 これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。 古文IIは合気道。 しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。 そりゃそうだろう。 英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。 しかし和歌を詠み、 和歌好きがこうじて小説を書くようになって、 いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた (何度も言うが世界史はもともと好きだった)。 高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、 それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。 日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。 もともとつまらないのではない。 誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。 私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。 今のネトウヨの99%は救いようがない。 だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。 しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。 いかなる学問も日進月歩である。 時代とともに理論は新しくなる。 過去の理論は新しい理論によって淘汰される。 自然科学だけではない。 人文科学も長い目でみるとそうだ(論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。 学問と紙媒体に何の関係がある?)。 かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、 その進歩に取り残されつつある。 彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。 馬鹿にされて当然でもあったが、 しかし、 日本史そのものは、 ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。 それを立証するのが、 私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。 ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。 Wikipedia未満。 それでいいと誰が決めたのだろう。 神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。 また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。 もう少しなんとかしようよ。

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東大五月祭

05.18.2014 · Posted in 歴史

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2011年ころに「帝都春暦」という小説をどこかの新人賞に応募してそのままにしているのだが、 これは関東大震災直後の主に東大本郷キャンパスを描いたものだった。


そんな四方山話を交えながら、僕は例によって、昼二時過ぎには中座して、遅い昼食をとりに学食に向かった。島村先生も宮内さんもお弁当持参なので、僕だけ学食を利用している。この学食もまた、校庭の空き地に建てられた、震災後のバラックだ。新しい学食は、今建設中の、安田講堂という建物の地階にできる予定だ。他にも続々と新築の校舎が建てられてる。

本郷キャンパスの校舎は地震による倒壊、またその後の出火でほとんど壊滅した。僕も地震の時は島村先生と一目散に三四郎池に、それから不忍池方面に避難した。翌日戻ってみると、本郷は完全な廃墟になっていた。それで東大は代々木の練兵場へ移転が計画されたりもしたのだが、結局本郷に残ることになった。

とか

順天堂病院前の電停から外堀線に乗って東京駅へ向かう。路面電車はまず、神田川に架かる鉄骨トラス造りのお茶の水橋を渡り、明治大学や日本大学などが建ち並び、ニコライ堂がそびえ立つ駿河台界隈を抜ける。ギリシャ正教建築の尖塔とドームが見事だったニコライ堂は、その煉瓦造りの尖塔が倒壊してドームを破壊してしまって、未だに修復中である。

震災復興事業として、ニコライ堂と湯島聖堂の間に新たに橋を架けて、上野から神田橋を通り丸の内まで大通りを通すことになった。帝都の大動脈となる予定である。この橋の名前は公募で「聖橋」と決まったのだが、それは儒教とギリシャ正教の聖堂が両岸にあるからなのだった。

とか

東大本郷キャンパスもやはり、化学薬品室から出火して、図書館を類焼してしまったのだよ。

などといろいろ調べて書いたのだが、 その図書館の玄関が今発掘工事されていて、非常に感慨深かった。 このままだとちとアレだがお蔵入りにするのももったいない気がするので、 そのうち使いまわすかもしれない。 大正時代というのは割合面白い素材なのでもっと書きたいのだが。 いろいろアイディアだけはあるのだが、 歴史小説はお膳立てが非常に大変で。 下手なことは書けないからなあ。

「宮内さん、やはり、あなたは本を読むのが好きで、近視になってしまったのでしょうね。」

「ええそうね。私、尋常小学校に上がるときの身体検査で、いきなりひっかかってしまったの。親は慌てて眼科に連れて行き、さっそく眼鏡をこしらえて、それからはずっと眼鏡っ子。「メガネザル」とみんなによく馬鹿にされたわ。みんなが外の明るいところで遊んでいるとき、暗い屋内で、かまわず本を読んでいたのがいけなかったのね。

でも、私はずっと、師範学校の頃も本の虫でした。お茶の水に居たころも、東京大学図書館には七十六万冊の蔵書があるというので、学校に届け出して、本郷によく通ったものです。ところが本郷の図書館も、震災で一万冊を残して焼けてしまいました。明大・日大・中央大・専修大・お茶大・東大などの大学の学生街として発展してきた神保町の古書店街も全焼して、何百万冊という本が、文字通り灰燼に帰してしまいました。実にもったいないことでした。

今仮に設営されている大学図書館には、日本中の図書館から蔵書を分けてもらったり、新たに購入したりして、もう十万冊まで増えましたけど。なにしろ建物がバラックなので、もうこれ以上は入りません。

ところが、今建造が予定されていて、三年後に完成する新図書館棟は、地下一階、地上三階、中央部は五階建て。鉄骨鉄筋コンクリート造り。世界三十カ国以上から図書の寄贈を受けて、一挙に五十五万冊にまで、蔵書が回復するんですって。さらに百万冊くらいは余裕で収蔵可能だそうですよ。なんだかわくわくしてくるわね。」

いやはや。 久しぶりに読むと懐かしい。

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銀杏並木も安田講堂と一緒に植えられ、整備されたものらしい。 この切り株は福武ホールというものを建てるため、並木の一部を伐採した残りのようであるが、 それから新芽が出ていて、 感慨深い。 これまた震災の記憶なのだ。

しかしこの夏至の季節が近づくと日差しが強くて写真を撮るのが楽しいよね。


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天皇とは何かという問題

05.10.2014 · Posted in 歴史

いろんな本を読んでいるのだが、 なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、 なぜ足利幕府は京都にあったかとか、 肝心なところがわかってないと思うし、 それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、 著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。 直義、直冬である。 二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。 尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。 なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。 自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。 中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。 なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。 さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、 天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」? 馬鹿をいっちゃいけない。 なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから? 神話? 「永遠の過去が持つ権威」? それも違う。 そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、 或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。 私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。 天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。 その皇帝を皇帝Aとしよう。 このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。 こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。 皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、 みんな皇帝Aの側につくだろう。 しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、 多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。 今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。 そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。 皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。 このようにしてあたかも二大政党制のように、 複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、 彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。 キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、 多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。 故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。 キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。 庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。 今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。 イスラムなんてそのものずばり。 一神教と政治は親和性が高い。 信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。 キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。 北条氏の時代。 南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。 尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、 尊氏は負けかけた。 しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、 武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。 武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。 どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。 義満が皇統を統一した。 だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、 反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。 細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、 直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。 足利といえば鎌倉公方もいる。 それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。 義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。 室町将軍とはそのくらい脆弱だ。 応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。 足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、 誰を担ごうかと日和見するのだ。 室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。 つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、 人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。 理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。 馬鹿を簡単に見分けられてよい。 便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。 徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。 というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。 デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、 あっさり諦めた。 旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。 特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。 武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。 皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。 徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、 もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。 だれが武家の棟梁となるか。 とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。 特に後醍醐天皇はダメ。 しかし、足利の誰を担ぐか。 尊氏、直義、直冬。 特に決め手はない。 強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。 強い棟梁だからみんなが味方するのではない。 みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。 天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。 国家レベルの軍事的独裁権を持てる。 人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。 人と物と金を集める才能のことだわな。 足利時代には武家は離合集散。 徳川時代にはも少し統制とれてきた。 というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。 だがおかげで二百年以上平和が維持された。 南北朝がわからなければ天皇はわからない。 徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。 徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい? まあある意味ではそうだ。 徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。 すごく仲良しだった(表向きは)。 権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。 足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、 徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。 そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。 継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。 自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。 仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。 神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、 ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。 このとき院宣の正統性が確立した。 神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。 つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。 たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。 彼らに大事なものは律令制。 きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。 古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。 神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。 迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。 そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。 このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。 もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、 そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。 天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。 いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。 やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。 絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。 当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。 皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。 それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。 皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、 まだ正統性があった。 もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。 しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。 だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。 明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。 後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、 南朝が正統ってことにしたのではなかったか。 だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。 やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。 そういう場合は正統性がなかったことにされた。 どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。 そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、 天皇や神話の権威に他ならない。 つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。 天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。 天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。 藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。 天皇から遠い武家ほど革新的。 藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。 次から次におかしなアイディアが出てきて、 ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。 そんなわけない。 明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。 ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。 天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。 どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。 今の女系天皇是非論。 やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。 天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。 女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。 皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。 そうでないと何でもありになってしまう。 でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。 その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。 手抜かり無い。よく研究しているよね。 ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。 天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。 世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。 革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。 ところが、太平天国の乱のときもそうだが、 中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。 なぜだかよくわからない。 あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。 これでは王朝が交代せざるを得ない。 これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。 一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。 ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

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一緡の青蚨

05.06.2014 · Posted in 歴史

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。 穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。 青蚨とは銭のこと。 一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。 銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。 蚨は水棲の虫で蝉に似るという。 鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。 市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、 子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、 繰り返し終わることがない。 そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。 なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。 「青蚨術」。 ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記 というものに書かれているらしい。

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原勝郎

05.06.2014 · Posted in 歴史

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。 司馬遼太郎やドナルドキーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、 何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。 ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。 なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。 今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。 ちゃんと統計を取れば、 昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。 明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。 室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。 封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。 ほほう。 宗祇から古今伝授された二条派の歌人ではないか。

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幼名と諱

05.05.2014 · Posted in 歴史

幼名を調べ始めて思うのだが、 犬丸とか虎丸など、動物名に丸を付ける名前というのは非常に一般的な気がする。 それで近代でも、野口英世の母の名は鹿であったし、 女性名にも熊とか虎などがあった。

元服して付ける名前が正式な名前であるというが、 古来日本の名前というのは幼名しかなかったのではないか。 少なくとも庶民は幼名のまま一生を過ごしたのではないか。 柿本人麻呂とか猿丸、蝉丸、こういう名前は元服などしなかった庶民の名ではないか。 山部赤人や山上憶良もそうではないか。 そんな気がしてならないので、万葉集などを見てみると、 他にもいろんな例がある。

麻呂が付くもの、 阿曾麻呂(あそまろ)。 清麻呂(きよまろ)。 鮎麻呂(あゆまろ)。 駿河麻呂(かすがまろ)。 奥麻呂(おきまろ)。 兄麻呂(えまろ)。 乙麻呂(おとまろ、弟麻呂)。 福麻呂(さきまろ)。 黒麻呂(くろまろ)。 奈良麻呂(ならまろ)。 仲麻呂(なかまろ)。 比良麻呂(ひらまろ、枚麻呂)。 田村麻呂(たむらまろ)。 武智麻呂(むちまろ)。 巨勢麻呂(こせまろ)。 安麻呂(やすまろ)。 雄能麻呂(をのまろ)。 常麻呂(とこまろ)。 今麻呂(いままろ)。 耳麻呂(みみまろ)。 鈴伎麻呂(すずきまろ)。 苗麻呂(なへまろ)。 梁麻呂(やなまろ)。 咋麻呂(くひまろ)。 愛宕麻呂(あたごまろ)。 葛野麻呂(かどのまろ)。 小黒麻呂(をぐろまろ)。 内麻呂(うちまろ)。 縵麻呂(かづらまろ)。 賀祜麻呂(かこまろ)。 田麻呂(たまろ)。 苅田麻呂(かりたまろ)。 長田麻呂(おさだまろ)。 島田麻呂(しまだまろ)。 宮田麻呂(みやたまろ)。 海田麻呂(うみたまろ)。 長谷麻呂(はせまろ)。 綿麻呂(わたまろ)。 家麻呂(やかまろ)。 富士麻呂(ふじまろ)。 福当麻呂(ふたぎまろ)。 文室麻呂(ふみやまろ)。 元利麻呂(もりまろ)。 奈止麻呂(なとまろ)。 帯麻呂(おびまろ)。 多太麻呂(ただまろ、縄麻呂)。 虫麻呂(むしまろ)。 公麻呂(きみまろ)。 堺麻呂(さかひまろ)。 道麻呂(みちまろ)。 奈弖麻呂(なでまろ)。 楓麻呂(かえでまろ)。 訓儒麻呂(くすまろ、明らかに儒者、陰陽師らしい漢字の選び方)。 蔵下麻呂(くらじまろ)。 飯麻呂(いひまろ)。 宿奈麻呂(すくなまろ)。 嶋麻呂(しままろ)。 蓑麻呂(みのまろ)。 豊麻呂(とよまろ)。 赤麻呂(あかまろ)。 国麻呂(くにまろ)。 大麻呂(おほまろ)。 子麻呂(こまろ)。 閉麻呂(あへまろ)。 訶多麻呂(かたまろ)。 倉麻呂(くらまろ)。 石川麻呂(いしかはまろ)。 足麻呂(たりまろ)。 龍麻呂(たつまろ)。 麻呂は、もと、男子の自称か。 明らかに丸、円と同根。 一個の、という意味か。

通常男子の名だが、翁丸のように犬の名に付けることもあったようだ。

足(たり)が付く例、 島足(しまたり)。 鎌足(かまたり)。 石足(いはたり)。 仲足(なかたり)。 名足(なたり)。 越足(こしたり)。 年足(としたり)。 道足(みちたり)。 継足(つぐたり)。 潔足(きよたり)。 比広足(ひろたり)。 五百足(いほたり)。 小足(をたり)。 足はもともとは一人(ひとり)、二人(ふたり)、三人(みたり)、 四人(よたり)、幾人(いくたり)などの「たり」と同じ。 たりは朝鮮語かもとのこと。

たぶん、麻呂、足、だけで人名になりえたのだろうと思う。

そのほか、 毛人(えみし)。 堅魚(かつを)。 広耳(ひろみみ)。 四縄(よつな)。 宇合(うまかひ)。 八束(やつか)。 鹿人(かひと)。

たぶん固有名詞だが、一般名詞かもしれない例。 東人(あづまひと)。 真人(まひと)。 伊勢人(いせひと)。 祖父麻呂(おほぢまろ)。

たぶん一般名詞、或いは役職名。 大嬢(おほいらつめ)。 女郎(いらつめ)。 郎子(いらつこ)。 娘子(をとめ、または処女)。 老夫(おきな)。 武良自(むらじ)。 犬養(いぬかひ)。 鳥養(とりかひ)。 牛養(うしかひ)。 副使麻呂(ふくしまろ)。 船守(ふなもり)。 意美麻呂(おみまろ)。

おそらく元服した後の名前。 大伴家持。 藤原広嗣。 阿倍広庭。

家持の父は旅人(たびと)。こちらはどうも元服後の名前とは思えない。

日本における諱の歴史。 しかし嵯峨天皇はすでに平安時代であって、 家持はその前の人だから、 家持が諱であるなら諱はもう少し前から始まっていないといけない。

諱とか戒名というが、もともとは死んだ後に残す名前であったかもしれない。 或いは朝廷に出仕するために付けた公の名前。 いずれにせよ唐から輸入した風習だわな。 諱を使わない人が万葉時代にはまだたくさんいた。 家持は諱を使うようになった最初期の人かもしれない。

でまあ話は戻るが、日本人は昔から、 動物や地名や植物の名を人の名に使ってきていたのだろう、 「家持」のような漢字二字の男名、 「高子」のような漢字一字に子を付ける女子名、 というのは、奈良後期にもなかったわけではないが、 平安初期にかなり一般化したということだろう。

たぶん諱というのは、自分の実の親ではなく、自分の上司などに付けてもらう名前で、 それゆえにより社会的であり、公の名であり、社会の一員としての名前なのだ。 烏帽子親というが加冠する人は自分の親ではなく親から依頼されただれかだろう。 偏諱という。二文字の名のうち一文字は貴人からもらう。もう一文字は実父(あるいは養父) が与える。棟梁ならば一族の通し字を用いる。 そういう儀礼なのだろう。

女性の名前というのはずっとよくわからなかったのだが、 戦国武将の娘の名前がちらほら歴史に残るようになる。 例えば、家康の長女は亀姫。 おそらく単に亀という名だったと思う。 これまた動物名。 妹に振姫、督姫がある。 秀忠の娘に勝姫。勝姫の娘に、ふたたび亀姫。 ほかに、豪姫、寧々。 ほんとにわずかしかわからない。 あとは庶民から側室となった女性の名で喜世、など。

たぶんもうかなり詳細に調べてる人がいるはずだ。

そういや荷田春満(かだのあづままろ)という江戸時代の国学者がいたな。 なぜ「満」をまろと読ませたかったのだろうか。 秀丸はテキストエディタだしな。

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04.29.2014 · Posted in 歴史

結城氏と小山氏の関係を調べていて気づいたのだが、 結城直朝の幼名は「犬鶴丸」。 小山義政の息子に「若犬丸」(元服前に死んだか)。 小山朝郷の幼名は「常犬丸」。 小山持政の幼名は「藤犬丸」。 小山氏郷(の子?)「虎犬丸」。 氏郷が若死にしたので山川家から成長を養子をもらい、成長の幼名が「梅犬丸」。 成長は小山泰朝の曾孫。

つまり、結城氏と小山氏には「某犬丸」「犬某丸」という幼名が一般的だったらしい。 そういう幼名を付けた他の武家の例がないわけではないが、 特に結城・小川氏に多い。 結城と言えば結城合戦。 「八犬伝」と無関係ではあるまい。 つまり犬の名を付けるのはもともとは安房ではなく下野、いや常陸の風習だったということだ。 いやいやいや、小山は下野で結城は常陸だわな。 ややこしい。

小山氏と結城氏の家系は養子縁組ばかりでよくわからん。 資料もあるようでないようで。 今も小山市と結城市は隣どうし。JR水戸線でつながれている。 なんか面白いな。 一度行ったことあるがすごい田舎だ。

だんだんわかってきた。 源平合戦のころ頼朝についた武将に小山朝光があり、 彼が結城朝光を名乗る。 つまり結城氏は小山氏から分かれた。 小山氏は藤原秀郷の子孫でもとは太田氏らしい。 だが、朝光の父政光くらいまでしか確かにはたどれないようだ。 要するに小山氏も結城氏も同族で頼朝の時代に、 その住む場所によって家名が二つに分かれた、ということだな。

朝光は頼朝が烏帽子親となって元服する。 頼朝の命で義経に腰越で鎌倉入り不可の口上を伝える、 とあるから、まあ、頼朝の寵臣だったらしい。

時代は下って、 小山義政が鎌倉公方足利氏満に謀反を起こして小山宗家は断絶。 分家筋の結城家から小山家に養子泰明を迎えて家督をつなぐ。 逆に小山泰明から結城家に養子氏満を迎えて家督相続。 結城氏満が結城合戦の主役で、 氏満の子成朝が江ノ島合戦や享徳の乱の主役、というわけだ。 ふー。

そういや義経の幼名は「牛若丸」。 「丸」は「麿」「麻呂」なんだよな。 蝉丸とか。猿丸とか。人麻呂も人丸と言ったりする。 基本的には人の名、それも、万葉時代から前の名の名残なんだろうな。

「牛若丸」「犬若丸」があれば、「虎若丸」「熊若丸」「鶴若丸」「亀若丸」「馬若丸」、 「松若丸」「梅若丸」「藤若丸」「菊若丸」なんてのもあったんだろうが、 どうやって調べれば良い。

ていうか頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、 それまで名字をもっていなかった、 或いは持っていたけどよくわかんなかった人が、 御家人となり、名字を持つようになって、 やっと武家というものが生まれたのだろう。 それまでは、そもそも庶民には名前がなく家系もなかった。 と、考えると頼朝はすごい。 奥州藤原氏とか、その前の清原、阿倍氏なども、 みな京都の貴族の名を借りただけで、ようは、名字なんてただの飾りだったのだろう。 三河介みたいなもんで、勝手に自分で名乗ってた。

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