亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

南総里見八犬伝

04.25.2014 · Posted in 歴史, 読書

南総里見八犬伝が、足利持氏・成氏父子によって引き起こされた、 永享の乱から享徳の乱に至る、関東の騒乱を元にした伝奇小説であることを知り、 今さらながら衝撃を受けている。 古河公方のことを滸河公方(訓みは同じ)などと記している。

南総里見八犬伝の登場人物 によれば、 長尾景春、足利成氏、上杉定正、千葉自胤、上杉顕定、北条早雲などが登場しているのに、 太田道灌は出てこない。 実に不思議である。 私の小説「川越素描」では、千葉自胤の妹佐枝が赤塚姫で(架空の人物)、太田道灌の愛妾になることになっている。 山崎菜摘と竹田一成、そして木下加奈子の三人は卒業制作に歌劇「赤塚姫」を作る、というものなんだがね。 とにかくもうびっくりである。 滝沢馬琴先生とネタがかぶってたなんて。全然しらんかった。 ともかく原文でじっくり読ませてもらい、ネタをいただこう。

太田道灌と千葉自胤は同世代だが、長尾景春、上杉定正などは少し年下、上杉顕定、北条早雲などはもっと後の人である。

扇谷定正と山内顕定と足利成氏の連合軍が里見を攻める、これを関東大戦などと言っているが、 まったくの虚構である。あり得ないことだ。 全体的に、時代考証はいい加減で、かなり好き勝手に作っている。 先行する里見家関連の軍記物に大きな影響を受けているのだろう。 滝沢馬琴は、太田道灌を主役にした享徳の乱の話などはまったく書く気がなかったのだろうか。 なかっただろうなあ。 よくわからん人だが、江戸時代の人にとって歴史とは、だいたいそんなものだったのかもしれん。 道灌を出してしまうと急に普通の歴史物になってしまってしらけるのかもしれんな。

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江の島合戦

04.25.2014 · Posted in 歴史

成氏が鎌倉公方に復帰するときには当然父持氏についた恩顧の家臣らを鎌倉に連れてきたわけだが、 幕府再建の名のもとに、事実上の鎌倉の領主である上杉家宰の長尾や太田は、 その所領の一部を成氏の名のもとに没収されようとした、というのはあり得る話である。 その多くは実際没収されたであろう。 だが、長尾の本貫である鎌倉郡長尾郷までも、成氏の家臣簗田持助にとられようとして、 長尾は反発した。 家宰長尾景仲は主君関東管領上杉憲忠にその取り消しを願い、また簗田持助と多少の揉め事があっただろう。

それで長尾と太田が先に鎌倉公方の御所を襲撃したという記述も見えるが、 襲撃計画が事前に漏れて逃れた、というほうが事実に近く、おそらくは、 成氏が江の島弁天を参詣したときに簗田あたりがそそのかして、鎌倉に戻らず、 場合によっては頼朝のように海路安房にわたって、それから持氏らの本拠であった結城に戻り、再起をはかりましょう、 くらいのことは言ったかもしれない。

つまりは成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 いきなり長尾太田が鎌倉御所を襲うというのは信じられない。 また江の島合戦という呼称自体が、成氏が江の島を陣としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあって、 しばらく成氏も鎌倉には戻れず、 憲忠も戻れず、 太田は伊勢原の糟屋館に避難し、 太田資清の主君上杉持朝は厚木七沢に避難した。 憲忠も七沢にいたらしいから、長尾も七沢にいたのであろう。 憲忠の父憲実は伊豆に隠遁していた。

要するに成氏に対する持朝や長尾や太田の謀叛というよりは、 幕府再建当初のトラブルのようなものであり、ゆえに仲裁が入ることによってなんとか収まったのだろう。

足利氏はふるさと関東を離れて京都にいながらにして、 鎌倉公方と関東管領によって関東を支配しようとした。 鎌倉公方は京都の公方、つまり室町将軍の代わりに関東の守護を支配するはずであり、 京都扶持衆という言葉あるように、室町将軍に直接仕える関東の守護もいた。 将軍に関東管領に任命された上杉氏なども実質的な京都扶持衆といえる。 もし関東管領が鎌倉公方に任命されるのであれば関東の独立性はもっと高まったはずだが、 それを京都が許すはずもない。

足利氏の本貫が北関東の足利であるように、 もともと足利氏は北関東と親和性が強い。 上杉は京都から関東管領を拝命し、五ないし八くらいの守護を束ねたわけだが、 それは京都の代官役を買って出たからである。 鎌倉公方はどんどん土着していって関東武士(一国のみの守護ら)に戴かれるようになる。 それで当初は鎌倉一極であったが、 後には京都派は伊豆腰越公方に、関東派は常陸古河公方に二極化したが、 それはそれで一つの安定解であった。 でまあ後付の理屈のようにもみえるが再び関東を一か所で支配しようとしたときに、 二極の最前線にあたる江戸城を家康が居城に選んだのは必然だといえる。

成氏はすんなり鎌倉に入ることができず、 出たり入ったりしたのが江の島合戦。 結局鎌倉に居着くことができず鎌倉を出て北関東に奔ったのが享徳の乱、ということになる。

南総里見八犬伝でも、持氏の遺臣である里見義実が頼朝のように海路安房に渡った、という記述があるのが興味ぶかい。

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ややこしい。

04.22.2014 · Posted in 歴史

とりあえずまとめておく。

足利満兼 によれば、満兼は義満を討って自分が将軍になろうとした、という。 西国六国の守護大内義弘が乱を起こすと挙兵して上洛をうかがうが、 乱がおさまったので鎌倉に帰っている。 義満はこれに怒り陸奥国伊達政宗に反乱を起こさせるが、 満兼は上杉禅秀を大将として派遣して平定する。

満兼が死んだとき(1409)、息子の持氏はまだ満11歳で、元服前だっただろう。 満兼の弟満隆は不服として自分が鎌倉公方になろうとする。 当然、満兼を嫌っていた京都将軍家の支持があっただろう。 しかし結局満隆は折れて持氏の弟満仲を養子とする(1410)。

持氏と上杉禅秀は不仲で、禅秀は関東管領を辞する。 不服とした理由は家人が持氏に領地を没収されたからとあるが、まあいろいろあったのだろう。 このとき当然禅秀は満隆に接近したであろう。 持氏と満仲も不和だった可能性がある。 こうして、満隆・満仲・禅秀は持氏に謀反を企てるが、 このとき足利義嗣足利満直 らも同調して時の将軍義持 に対抗しようとしたのかもしれない。 それだけ義持の基盤が脆弱だと思われていたのかもしれない。

禅秀の乱によって持氏は鎌倉を逐われるが、 結局は満隆よりも持氏を支持する家人が多かったのだろう、乱は失敗する。 禅秀は上杉氏宗家である犬懸上杉氏であったが、 以後は山之内上杉氏が関東管領となる。

持氏は義持の次の将軍義教に反発し、山之内上杉氏と対立するが、 結局討たれてしまう。 義教が暗殺され、持氏の子成氏が鎌倉公方に復帰すると、 当然成氏と山之内上杉氏は不仲となる。 成氏と京都将軍家も対立する。 成氏を排除して義教の子政知を鎌倉公方に送り込もうという動きがあり、 成氏は上杉氏の家宰長尾氏と太田氏に鎌倉を逐われる。 いわゆる江の島合戦であるが、 結局、やはり成氏を支持する関東武士団によって成氏は鎌倉に戻る。

思うに持氏が討たれるというのは関東武士団にとっては異常事態なのだが (その他の場面ではたいてい関東の意向が通っている。鎌倉公方が慕われているというよりは、京都の支配下にはいるのが嫌なのだろう)、 義教が赤松氏に討たれたのも実は関東武士による画策ではなかったか。 関東は西国よりも武士が倍多い。 西国の細川・山名などが京都で政争を繰り広げているようにみえるが、 実は関東の影響というのはそうとう大きかったのではなかろうか。

普通の人は応仁の乱を無意味で無駄な内乱だった、と思っている。 私も日本史をほとんど知らなかったころは漠然とそう思っていた。 関ヶ原とか大坂の陣などは意味のある大事な戦争だと思っていた。 でも今はそんなことはない。 応仁の乱や室町時代について知らなすぎるだけなのだ。 室町時代は一言でいえば守護や将軍家の家督争いが延々と続いた時代なのだ。

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足利将軍家

04.21.2014 · Posted in 歴史

ashikaga

こうして系図にしてみると、 足利将軍家というのは兄弟で横にどんどん分岐していて、 しかも徳川氏のように御三家とか御三卿などの区別もなく、 尊氏の子孫のだれが偉いのかという序列もないように見える。 これではお家騒動が頻発してもおかしくない。 そのお家騒動に乗じて守護らが力をつけていき、足利氏はさらに弱体化していったはずだ。

逆の言い方をすれば徳川氏は足利氏のありさまを見て、 争い事が起きないような相続の規則を定めたのだろう。 徳川氏ではめったに起きてない、同族間の抗争が、足利氏では頻発しているのがわかるのである。

しかしまあ、知れば知るほど室町時代は奥が深いな。 そのうえほとんど世間には知られていない。

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家康転封2

04.12.2014 · Posted in 歴史

日本外史によれば、 家康は秀吉によって関八州に封じられたが、 実質は六州(武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野)に過ぎず、 下野には宇都宮氏、安房には里見氏(八犬伝の)があった。 そのほか、結城・佐野・皆川、北条氏の残党などが関東を割拠していた。 元の三河・駿河・遠江・信濃・甲斐の五州から八州に加増させたとみせて、 家康を「拒塞」した、とある。

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家康転封

04.07.2014 · Posted in 歴史

秀吉が家康を東海道から関八州に転封したのは左遷であるとか、 居城を鎌倉や小田原ではなく辺鄙な江戸にしたのも秀吉の指図であるとか、 いろいろ言われているわけだ。 しかし、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、 日本は近畿と関東の二箇所に拠点を置くのが常態となった。 室町時代は足利尊氏の子孫を鎌倉公方とした。 近畿は西日本から中部まで、関東は甲信越から奥州までを支配下に置く。

これらの流れでみるとき、 秀吉が近畿を、家康が関東を押さえるという二局体制にしようと考えたとすべきである。 もし家康に異心があれば、彼を関東に放つのは極めて危険である。 関東は常に騒乱の拠点となってきたからだ。 であればやはり秀吉は生前ずっと家康を信頼し評価していたとすべきではないか。

家康は戦功があるから、三河・遠江・駿河の三国で足りなければではどうするかというときに、 関東をまとめて与えようと考えても不思議ではなく、左遷とは言いがたい。 秀吉の狙いは明や朝鮮であっただろうし、 関東には苦手意識があったと思う。 江戸は上杉氏や後北条氏の頃からすでに関東の要衝となりつつあった。 小田原や鎌倉は関東全域を治めるにははずれすぎる。 室町時代関東は、西の上杉氏と東の古河公方に分かれて対立した。 その最前線に太田道灌が築いたのが江戸城と川越城。 その前例がある。 つまり、関東全域を治めるには、パワーバランス的に江戸川越のラインに主城を置かねばならぬが、 江戸は海に面していて物資を調達しやすい。 やはり江戸でなくてはならなかった。 世田谷城では内陸すぎる。 それらの判断はやはり小田原攻めの最中、石垣城において、 秀吉と家康の間でなされたのであろう。

なるほど、近畿と関東の二局分割を解消するために、 たとえば愛知とか岐阜に首都をもってこようというアイディアもある。 しかし今までそれは一度も歴史上実現しなかった。 橋下市長のように大阪都を作って二都態勢にするというのが、 結局東京一局集中を回避するための現実策ではなかろうか。

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河原院

03.18.2014 · Posted in 歴史

源融は嵯峨天皇の皇子だが、兄にあたる仁明天皇の養子になっている。 仁明天皇が皇后の子で、源融は庶出大原氏の子だから、この養子縁組は扶養の意味だろう。 河原左大臣こと源融が住んだ河原院はわりと豪勢な邸だったようだ。 源融の男子には源湛、源昇らがあったが、 昇が河原の院を相続し、河原大納言などと呼ばれている。 昇は生まれてすぐに光孝天皇の養子になっている。 昇の母は不詳とあるから、これもまた扶養目的だったように思う。 昇は宇多上皇の吉野御幸にも随伴している。 近しい側近という感じである。

河原院は昇が死ぬと宇多上皇に献上されたという。 理由は不明だが、おそらく、 河原院は融が仁明天皇の養子になったときに下賜されたものなのだろう。 河原院を昇が相続するにあたって改めて光孝天皇の養子となった。 昇の子は誰も天皇の養子にならなかったので、皇室に河原院を返上したのではないか。

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歴史と文学

03.16.2014 · Posted in 歴史, 読書

小林秀雄の「歴史と文学」というエッセイ読んでる。少し面白い。

例えば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読むことは決して出来ないていのものだ。 これを無味乾燥なものと教えて来たからには、そこによっぽどの余計な工夫が凝らされて来たと見る可きではないか。

こんなことを、すでに昭和十六年に言っている。 戦前、というか戦中ですらそうなんだから、 戦後の日本の歴史教育なんてものは、どうなっちゃうのか。

僕等がこちらから出向いて登らねばならぬ道もない山であります。 手前の低い山にさえ登れない人には、向こうにある雪を冠った山の姿は見えて来ない、そういうものである。

ですます調とである調をわざと混ぜて書いている。 あの、小林秀雄が! なんだろう、元は口述筆記かな。

僕は、日本人の書いた歴史のうちで、「神皇正統記」が一番立派な歴史だと思っています。

ええー(笑)。 ショック。

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ドゥカス王朝の皇帝交替問題

03.14.2014 · Posted in 歴史

ドゥカス王朝の皇帝交替問題 という論文を見つけたのだが、 なかなか興味ぶかい。 ま、エウドキアはフィクションなんで脚色してて別にかまわないわけだが、 この論文を読んでもらえば、だいたい史実に沿ってる、ってことはわかってもらえるだろう (めんどくさいから誰も読まないと思うが)。

ローマノスとヨハネスの間のマラズギルト敗戦後の関係が少し違うといえば違う。 確かにWikipedia英語版読むとそう書いてある。 だが結局これらの話はすべてはミカエル・プセロスという人の伝記がソースであり、 おそらく相当正確ではあろうが、 ただ彼がそう書いているというだけであり、 彼は単にエウドキアに比較的近かった学者というだけで、 政治の駆け引きというものが実際にはどうだったかなんてことは結局はわからない、と思う。 だからこそ状況証拠という名の補助線が必要になってくるわけだが。

ミカエル・プセロスの原典を当たってみないとわからんことではあるが(それはたぶん私には無理)、 上掲論文ではイスタンブルのことをコンスタンティノープルではなくコンスタンティノーポリでもなく、 ちゃんとコンスタンティノポリスと呼んでいる。

おんなじようなところに疑問を持ってるわな。 なぜイサキオスはコンスタンティノスを後継者に指名したか。 なぜ帝位は再びコムネノス家のアレクシオスに戻ったか。 なぜエウドキアはローマノスと再婚したのか。 伝記だけではわからんのよね。論文は仮定以上のことは書けない。 小説だから大胆に創作して書ける。

ヨハネスとは実際どんな人物であったか、兄コンスタンティノスとの関係はどうだったか、 ってとこが難しい。 状況証拠的にはそうとう仲が悪かった。 仲の悪い理由は不明なのでそこは推測して創作するしかなかった。

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ポントスとボスポロス

02.28.2014 · Posted in 歴史

へレースポントスにポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、 昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。 またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。 イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。 英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。 またケルソネソスという言い方もある。 c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

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