亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

1185か1192か

02.27.2014 · Posted in 歴史

1185年は平氏が滅んだ年である。奥州藤原氏はまだ滅んでいない。 義経もまだ討たれてない。 諸国惣追捕使とか守護とか地頭とかいうのは必ずしも1185年に始まって、また、 この年に確立したとも言えない。 どちらかと言えば緊急時の臨時措置とみられていた。 そして鎌倉幕府の軍事力や警察力が確定するのは明らかに承久の乱においてである。

実質的な幕府の成立というのであれば、1221年の承久の乱であるべきであり、 平氏が滅んだ年では結局、説得力としては、源平合戦の域を出ていないのだが、 そもそも源平合戦という言葉が嫌いで、治承・寿永の乱と言い換えたがる学者の方々は、 そんなことで良いんですかと言いたくなる。

徳川慶喜と勝海舟 で書いたのだが、 少なくとも勝海舟は、武家政権というのは、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、 徳川慶喜が大政奉還したときまでだという認識であった。 頼朝三代とその後の宮将軍、室町将軍、徳川将軍というものがつまりは幕府なのである。 武家の棟梁が天皇に征夷大将軍に叙任されることで、オーソライズされている状態、それが幕府。 武士が実質的に政権を掌握している状態を幕府であったとは考えていなかったと思う。

1192という年はただ頼朝が征夷大将軍になったというだけの年ではない。 武士の共通認識、日本人の伝統的な歴史観、 象徴的な意味での鎌倉幕府の始まりはやはり1192でなくてはならない。 1185は根拠としてはかなり脆弱だと思う。 学術的な意味としてなら1221も許せるが。 誰がなんのために1185だなどと言い出したのだろうか。 やはり天皇とか征夷大将軍の権威を認めたがらない人たちではないか。 あるいは江戸時代までの日本人の感覚は古くさいといいたい人たちではなかろうか。

鎌倉に もとゐ開きし その末を まろかにむすぶ 今日にもあるかな

結ぶうへに いやはりつめし 厚氷 春のめぐみに 融けて跡なき

ついでにいっておけば律令制は天皇を元首として戴く明治政府によって正式に、 正当な手続きを踏んで、新しい制度に置き換えられたのである。 実質的にはすでに嵯峨天皇の時代に破綻していたが、 制度としては完全な形で残っていた。浅野内匠頭とかいう官位官職がそうだ。 徳川幕府の軍事力は別として、その権威は、完全に勅令と律令にオーソライズされる形をとった。 室町幕府をそっくりそのまままねたからだ。

同様に維新政府時代の太政官令、これも正当なものである。

何が実質的(学術的)であり、何が正当な手続きを踏んだものかというのは、 別に考えなくてはならない。 つまり両者を混同するとわけわからなくなる。 或いはわざと混同してわけわからなくしたい連中がいる。

ローマ教皇がなぜいるのかとか神聖ローマ皇帝はなぜローマ教皇に戴冠されなくてはならないのかとか、 東ローマ皇帝はなぜコンスタンティノープル総司教に戴冠されねばならないのかというのと、 同じ問題だ。 オーソライズされない軍事政権は不安定で、どうしても権威付けが必要になってくる。 徳川家が天皇家に依存したのもまさにそこだ。 複数のオーソライズされた政権というのはローマ帝国にはよくあった。 複数の教皇が立てられることもあった。 複数の教皇と複数の皇帝の間で誰が誰をオーソライズするのかというので良く戦争になった。 なんのことはない、日本の歴史と同じだ。

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一手間かけた

02.25.2014 · Posted in 歴史

eudokiax

ルネサンス期にイタリアで描かれたヴィーナス像 (ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生」)では、 アフロディーテーの髪は腰まである長い金髪、瞳は褐色、 ということになっているが、 古代、ギリシャやシリア、フェニキア人の髪の色は褐色か黒、 目の色も黒かったと思う。 大理石の彫像しか残ってないから色はわからんわけだが、 着色されていたらそうなっていたはずだ。

私はエウドキアは黒髪、黒い瞳が似合うと思うんだがどうよ。 なんかインドかペルシャの女王(アラビアンナイトに出てきそうな)みたいだよな。 まそれで合ってるんだが。 或いはこの図像には後光がさしてるから観音様にもみえなくもない。 ふつうの日本人がただこれを見ただけだと何に見えるのか知りたい。

ゴッドファーザーに出てくるアポロニアという女性もほとんど黒髪黒瞳だわな。 Apollonia Vitelli。 シチリアか。名前はギリシャ人っぽいよね。 シチリアだからギリシャ系でも全然おかしくない。

単なるフォトレタッチではなくてほんとは3DCGで挿絵描きたいんだが、 手間がかかりすぎて実現不可能だと思う。

もとのモザイク画は実はゾーエーという別の女帝なんだけどね。

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Basilis

02.16.2014 · Posted in 歴史

この写真によれば、ローマノスは ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれていて、エウドキアは ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。 ローマ字表記すると、それぞれ、 ROMANOS BASILEUS ROMAION、 EUDOKIA BASILIS ROMAION となる。 つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。 また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。 ΣではなくСが使われ、 また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。 オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、 これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、 実際にはBasilisだったわけで、 ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、 ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。 しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。 他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、 こちらのゾーエーのモザイク画 に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。 よくわからん。

こっちのコンスタンティノス9世モノマコスでは、 ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、 コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。 もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。 アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。 てことは、 おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、 その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

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へレースポントス

02.12.2014 · Posted in 歴史

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。 修正せねばならない。 へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。 意味はずばり「ギリシャの海」。 ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。 つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。 ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、 これはポントスの手前の海と解釈できる。 へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。

もっと細かく言えば、 ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。 プロポンティス海は海である。 そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、 古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。 ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、 もとは両方とも固有名詞であったか。 あるいはポントスだけが固有名詞だったか。 どういう使い分けか、よく分からない。 ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。 その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。

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班田収受

10.24.2013 · Posted in 歴史

班田収受というのが基経の時代、元慶3年(879年)に行われた。 実に50年ぶりだったという。 これは明らかに基経主導だっただろう。 元慶官田など。

元慶2年(878年)出羽国蝦夷俘囚の反乱というのは班田収受を強行しようとしたことに対する反発で、 それを鎮圧したということだろう。

高子が元慶寺を元慶元年に建立しているのだが、その出費がかさんだためではなかろうか、 などと考えてしまう。 藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基 とある。

高子は元慶2年にも山城国愛宕郡(京都市左京区岡崎東天王町)に東光寺を建立 とあって、後に高子は東光寺僧(座主?)善祐と密通したとして皇太后位を剥奪される。

ともかくこの時期高子ちゃんは自分の子供の陽成天皇が即位して、国母となれてものすごくうれしくて、 たくさん寺を建立しちゃったんですよ。 夫の清和天皇は外に女を作りまくるしね。 お兄ちゃんの基経は一生懸命税金を集めまくるんです。 で、たぶん、高子ちゃんは善祐や遍昭のパトロンだった。 もっと親密な関係であったでしょう。 業平との関係もなかったとはいいきれない。

そんで、京では天使様が代替わりしたかしらないがその母親が夫を追放して遊蕩しまくって、 そのため税金とりにくるとなれば、 陸奥で反乱が起きるのは当たり前だわな。

最後の班田収受は延喜2年に行われたのだが、 これは菅原道真が失脚し、藤原時平が実権を握った直後であるから、 父基経にならって時平が強行したのではなかろうかと思われるのだが、 よく分からん。 もし道真が計画していたとすると、話は全然違ってくるのだが、情報が少なすぎる。

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シチリア

10.11.2013 · Posted in 歴史

ノルマン人がシチリアを征服したときにシチリアはすでにアラブ人とギリシャ人による海運立国であり、同じ海洋民族でもありかつ傭兵でもあったノルマン人がその支配者として乗っかった形になったのだと思われる。 ノルマン人の数はおそらくそんなに多くはなく、 太守や提督という仕事はだいたいがアラブ人、ギリシャ人などの豪族。 現地人もほとんどはアラブ人とギリシャ人。 なんのことはない、ギリシャ人やフェニキア人が地中海を支配していたころと住民には大差がないのだ。

言われているように、ローマ教皇がノルマン人に命じて南イタリアやシチリアを征服させたのではなかったのではないか。 ノルマン人が自然と現地のギリシャ人やアラブ人と抗争しつつも宥和していって、 その支配者となった、というあたりが真実ではないか。 イスラム教国が急にキリスト教国に切り替わった、 というようなドラスティックなものではなかったはずだ。 どうようにそれは第一次十字軍で成立したイェルサレム王国やアンティオキア公国などでも同じだったはずだ。 のちのイベリア半島のレコンキスタも、実は徐々にイスラムからキリスト教に切り替わっただけではないのか。 オスマン帝国でもキリスト教徒とイスラム教徒が混在していた。 ヨーロッパ側からの史観では、そういう構図が見えにくい。

南イタリアはともかくとして、シチリアは、 ノルマン人が征服したが実質アラブ人の国であったと見ても不思議ではなく、 キリスト教国から見ると実際そのように見えただろう。 だから、神聖ローマ皇帝による十字軍が派遣されたりもした。

産業は、もっぱら海運、それから聖地巡礼などの観光業だっただろう。 聖地巡礼という風習がキリスト教にあったとは思えない。 もともとはイスラムの風習であって、 イスラムをまねてヨーロッパのキリスト教国がやるようになって、 海運にはアラブ人やノルマン人、ギリシャ人が得意であって、 特にノルマン人の勢力が地中海で伸張した結果、第一次十字軍という結果になった、 と考えるのが自然だ。 当時の地中海は今考えるよりはるかにアラブ人の勢力が強い。 アラブ人を統治できなくてはシチリアを統治することはできない。

イスラムがキリスト教徒の子供を捕まえてきて奴隷にした。 しかしイスラムでは奴隷は大切に扱われるから、 ムスリムとして育てて政治家や戦士にもなる。 それがマムルークである。

マムルークの逆もあったはずである。つまり、 もともとアラブ人であったが子供の頃にキリスト教徒に育てられて、 のちに戦士になったり、政治家になったりした者が。 マムルークほど有名ではない。 改宗者、などと呼ばれることもあるようだ。 しかし、マムルークと同じくらいにたくさんいたはずだ。 アデレードやロジェールの部下にはそういう連中がたくさんいたはず。 なぜ彼らがノルマン人に従ったのか、ということには注意しなくてはならない。

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陽成天皇暴君説

10.02.2013 · Posted in 歴史

陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。 同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。 ぼかして記述してあるというが、 陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、 どちらとも解釈できる。

私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、 藤原時平の関与はさほどなかったように思う。 つまり事実が淡々と書かれているだけであって、 暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。

それでまあ、状況証拠だけから言えば、

清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、 清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、 異常なまでに多い。 子供が生まれてないケースを考えれば、 そうとう多くの女性に手をつけているはずである。 天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、 女性の親族が負担するわけだが、 それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。 どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。

天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、 基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。 つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、 元手が回収できない。 大損なわけである。 おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。 どういう実務だったかは知らないが、 律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、 はずもない。 いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、 平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。 となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、 官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。 そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、 その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。 そうやってひたすら金と権力の日々を送る。 一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。

ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、 基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。 あるいはこういったかもしれない。 高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、 まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。

いずれにしても基経・高子には許されない話である。 これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。 特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、 今更他人に譲位されちゃこまると。

ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、 彼はひどい死に方をした。 兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。

ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。 もう成人したから摂政いらんわ、とか、 藤原氏の女御なんかいらんわ。 そう言った可能性が高い。 基経出仕拒否の時期が元服以後で、 また女御・后に基経の関係者がいない。 陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、 それは基経・高子には許容できないことだった。 今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。 どうしてもそうなる。

言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。

嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。 天皇何もしない。 陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。 外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、 いきなり国家破綻したかもしれん。 しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。

誰かが何かしないといけないのだが、 その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。 ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。 うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。

仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。 そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。

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藤原淑子

09.21.2013 · Posted in 歴史

藤原淑子。長良の娘、基経・高子の異母兄弟。 臣籍に下った定省王(源定省、後の宇多天皇)を猶子とする。

淑子さんも宇多天皇の即位に運動したかもしれんね。 でもそれは弱い気がする。

菅原道真公

光孝天皇が崩じたとき,尚侍の淑子は直ちに皇位の印の剣璽を奉持し,脱兎のような素早さで麗景殿に参入し,定省親王に奉呈した

宇多天皇は,践祚の翌日に内裏の宣耀殿を出て,内裏の東に在った雅院に移りました。それから三年半後,基経が死去した翌月, 道真公を蔵人頭に任ずる直前に,天皇は漸く内裏の清涼殿に移って日常の居所とされました。

践祚の儀式の時は内裏にいたが、その後雅院、つまり東宮御所に移り、基経が死去してやっと清涼殿に入った、というのは、 ずいぶん異様な話である。 なんでそんなことをしたのか。

その頃清涼殿には誰が住んでいたのか。 基経死去は891年だな。 清涼殿にいたのはたぶん基経の妹で皇太后(清和天皇女御で陽成天皇生母)の高子だろう。 光孝天皇はどこに居たのだろう。 まさか、黒戸御所か。 話ができすぎてるな。 高子は896年に皇太后を剥奪されているから、徐々に排除されていったわけだな。 陽成上皇は冷然院に住んだんだな。

ていうか、基経が死ぬまで内裏には陽成院が住んでいた可能性すらあるわな。 うわーわけわかんねえ。

剣璽というのは三種の神器のうちの剣と曲玉とされる。 それでは、二種の神器なのではないか。 もひとつは鏡か。

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源氏を賜った皇女

09.14.2013 · Posted in 歴史

普通、皇女や内親王は、一般人と結婚するときに、 皇籍を離脱して、そのまま夫の姓になる。

たとえば、清子内親王は、結婚したあと、 区役所に婚姻届を出したと同時に皇籍離脱して、黒田という姓になったことになっているようだ。 これが「臣籍降嫁」というものだろう。 だから、清子内親王がいったん「臣籍降下」して、 たとえば源清子という名前になり、 源清子が一般人として婚姻して黒田清子になったわけではない。 もしそうなら一時的にも、昭和源氏というものが生まれたことになる。

或いは皇族以外と婚姻しても内親王などの身分はそのままで、 厳密には姓がない、のか。

だが、女性でも源氏をたまわって臣籍降下した人いる。 たまたま見つけた。 源潔姫 という人だ。 しかしいくらなんでも四歳で良房の妻になったりするのだろうか。

他にも例があるのだろうか。 ああ、嵯峨天皇の皇女には源氏を賜った人がたくさんいるな。 光孝天皇や宇多天皇にもいるな。 源順子 とか。

ついでだが、 宮家の場合は「親王」ではなくて「王」なのだな(間違った。「親王」の場合もある)。 で、厳密には姓があるのかないのかよくわからない。 宮家から皇籍離脱したときには、たしかに宮家を姓とするように思われる。

ふむ。宮号というのは、称号であって姓ではないようだ。 しかも宮家の当主で皇族男子しか宮号は用いないのだから、やはり姓ではない。

つまり宮家というのは、普通に皇族(変な言い方だが)なわけだ。

ふむ。たとえば、 伏見宮博明王は伏見博明という名前になったわけだ。

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春秋公侯伯子男

08.29.2013 · Posted in 歴史

気になったので主に中文ウィキペディアを参考にして調べてみたのだが、 春秋時代(西周)当初の爵位というのはこんな感じだったらしい(一部戦国が混じってるかもしれない)。

公国
周、宋、虢、州、虞、召、
侯国
魯、斉、陳、唐、蔡、衛、邢、随、杞、曾、滕、薛、紀、徐、莱、韓、魏、息、荀、酆、楊、管、応、王叔、
伯国
燕、秦、曹、鄭、梁、凡、茅、郕、邳、毕、祭、原、滑、単、芮、
子国
楚、巴、呉、越、向、須句、莒、郯、鄅、鄫、钟吾、邾、偪阳、譚、牟、雍、毛、劉、賈、
男国
許、宿

周には王と公がいた。 周王と周公。 周公にはたとえば周公旦がいるが彼は王ではない。 周公爵旦などという言い方はしない。 周公国、という言い方もしなかったはず。 鄭国の君主は鄭伯、などと言ったはずである。 男国が非常に少ないがあまり重要性がないので後世に記録が残ってないだけなのかもしれぬ。

商の時代には公侯伯の三爵しかなかった。周になって五爵になった。 春秋に、そう書いてあるらしい。

子国と男国にはほんとに爵位があったかも疑わしい。 特に楚などはみずからは王を称していたのだが、 朝貢貿易みたいなもんで、 たまたま楚の使節が周に訪れたとき、周が勝手に子を叙爵しただけかもしれない。

山東地方には群小の邑があり、それらは実際に男国と呼ばれていたかもしれない。

当時の国とか君主というのは要するに今の大地主みたいなもんで、 あるいは、本家があって分家がある田舎の大家族みたいなもんで、 従者や奴隷などを含めてもせいぜい一万人くらいの集団だったのではなかろうか。

公侯は百里四方、 伯は七十里四方、 子男は五十里四方の領国とあるが、 百里は4kmなんで、百里四方は16km2=1600haくらいか。 山手線の内側が69km2らしいから、ざっとその四分の一。 まさに耕地を含めた邑の広さだわな。

たとえば、今日 Principauté de Monaco をモナコ公国と訳す。 しかるに、「春秋の筆法」に従えば、単にモナコ国となり、その君主がモナコ公となる。

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