亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘歴史’ Category

産業革命はやはりすごい

08.10.2013 · Posted in 歴史

アメリカ建国とかフランス革命なんてのは、産業革命より前だから、 実は単発の事件で終わる可能性があった。 実際フランスではなんども王政復古したり帝政になったりしている。 アメリカも南北戦争でどうなるかわからんかった。

しかし、産業革命があり赤色革命があって、 市民兵というものが貴族よりもはるかに戦争が強いというのが実証され、 それで国民国家ができていった。

ただ単に、権力のバランスが動いたのよね。 昔は王侯貴族による支配のほうが実際的だったし、 産業革命で人口爆発した後は市民による支配のほうが実際的になった。 けんかになったときだれが一番腕力が強いか。 それだけなのではなかろうか。 善政が悪政を倒した的なのはたぶん間違っている。

もし人口が産業革命より前に戻れば、単に、王侯貴族的社会に戻るのではなかろうか。

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平忠盛

07.16.2013 · Posted in 歴史

鳥羽院は、和歌だけでなく、芸能全般に興味がなかったっぽいな。

待賢門院は、芸者そのものであったから、鳥羽天皇は困っただろう。

白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。

平正盛、忠盛が親子で祇園女御に仕えたと。

鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。

璋子は祇園女御の養女で、しかも清盛は祇園女御の妹の子、とある。

祇園女御の妹、といっても、遊女であれば、実の妹ではないかもしれない。 祇園女御に仕えつつ、その妹分の女を妾にもった、というような意味か。

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待賢門院・藤原璋子

07.15.2013 · Posted in 歴史

待賢門院・藤原璋子だが、この人はかなりおかしい。

父・藤原公実が七歳の時に亡くなって、 白河天皇と祇園女御の養女になる。 なぜ? なぜ公家の娘が天皇と愛妾の養子にならねばならぬ。

母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。 どうも白河院と光子の関係があやしい。 璋子は白河院と光子の子ではないのか。

だが、待賢門院を鳥羽天皇に入内させると、二人は兄妹どうしの結婚となる。 いくらなんでもそんなことはしないだろう、親として。 とすれば、 璋子は公実と祇園女御の間の子だったのではなかろうか、と思えてくる。 1107年、公実が死んだあと公実の愛人だった祇園女御を白河院がひきとった、と。

長治2年(1105年)、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという(『中右記』)

うーん。 公実が死ぬまえから、白河院の愛人だったっぽくもあるな、祇園女御。 まあ、どちらでもよい。 丈六は一丈六尺、約4.85メートルというからかなりでかい阿弥陀如来像だわな。 どこからそんな金が。 パトロンがいたわけだが、それは誰であったか。

待賢門院のサロンにはたくさん女流歌人がいる。 女流歌人と言えば聞こえはいいが、父は公家でも母が不詳。 つまりは公家の妾、おそらくは祇園の遊女。

待賢門院と鳥羽天皇の子が上西門院。 彼女は母親のサロンをそのまま引き継いだ。 やはり女流歌人が多い。

後白河天皇が今様狂いなのは、まず間違いなく母・待賢門院の影響だろう。 後白河天皇が特別変異なのではない。 崇徳院も待賢門院の子だが、早い時期に天皇に即位して母と別居したから、影響が少ないのだろうと思う。 後白河は部屋住みのまま待賢門院の影響を受け続けた。 スーパー英才教育を受けた。 待賢門院もまた七歳から祇園女御の元でスーパー英才教育を受けた。

鳥羽天皇は父・白河院と違い、割とかたぶつだったと思う。 高陽院も美福門院もたぶんかたぶつだったと思う。 父親も公家、母親も公家、息子も娘も公家、というようなちゃんとした家庭に生まれ育った連中を好んだと思う。 というより、そういう摂関家の連中に好かれた人なのだと思う、鳥羽院は。 白河院は、もっと自由人で遊び人だった。遊ぶときは尊卑を問わず的な。

待賢門院と美福門院はまったく両極端の女性であった、と思う。

鳥羽天皇は、父白河院のような、うわっついた、ちゃらちゃらした宮廷が嫌いだったのだろう。 だれが父親でだれが母親かもわからんような世界。きもちわるい。 だから、全とっかえしたかった。 それで美福門院の子・近衛天皇をかわいがった。 のではなかろうか。

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保元新政

07.13.2013 · Posted in 歴史

姝子内親王

7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。

とある。 保元の乱の後、信西が、荘園整理、内裏再建などの政策を行ったことになっているのだが、 これは守仁親王が即位して二条天皇となり、後白河院の院政を停止して、親政を開始してから、 本格的に行われるようになったものだと思っていたのだが、 鳥羽院崩御後、 ただちに動き出したということは、 白河・鳥羽院政時代の政治を否定しようという動きが、公卿の中であった、という証拠なのではなかろうか。

また、

保元2年(1157年)正月23日、姝子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。

とあるが、この大内裏というのは、のちに二条天皇が内裏とした土御門東洞院殿のことなのではなかろうか。

土御門東洞院殿は藤原泰子の所領であったが、1156年に死んだあと、 藤原邦綱の邸宅となった、とあり、時系列的にうまく説明ができるのである。 藤原邦綱の娘は六条院の乳母となったとあり、 ということは二条天皇が同居していた可能性が高い。

つまり、信西と藤原邦綱は、里内裏とか荘園などに基づく白河院や鳥羽院の中世的院政を否定して、 律令的な天皇親政を目指そうとしたということであり、 それは後三条天皇時代の政治に回帰しようとしたことを意味しよう。

信西は1159年の平治の乱で失脚したが、 保元新政は二条天皇の閣僚となって継承されることになったのだろう。

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西行秘伝

07.12.2013 · Posted in 歴史

『西行秘伝』そろそろ無料キャンペーンでもやろうかと思うのだが、 なかなかfixしない。 調べてみるといろんなことがわかってきて、 筋書きもどんどん変わってしまう。

二条天皇の養母・美福門院が1160年に死んだとき、二条天皇はまだ満で17歳だったから、 美福門院の娘、八条院暲子内親王が准母となって世話をした。 というよりか、二条天皇は美福門院の八条邸で元服し、そのままここを御所として、 美福門院が死んでからも八条邸に住み続けたから、そこの持ち主である八条院が二条天皇の保護者となった、ということだ。

八条院は今の京都駅南口辺りにあったようだ。

清盛の西八条第はそのすぐ近くにある。

鬼が住むと言われた羅城門は九条にある。すぐ近くだったはずだ。

ここらがどのくらい洛内であったのかが謎だ。

白河院から鳥羽院へ相続された所領のほとんどは美福門院が相続してしまい、それを八条院がまるごと相続した。 八条院領の興りであるが、 これはつまり、白河院に始まり美福門院が完成させた、国家の私物化、その象徴のようなものだろう。

日本社会が複雑になってくると天皇が公卿や武家からなる官僚組織を操縦することがむずかしくなる。 舵を切ろうとしても舵が重すぎて動かない。 後三条天皇の頃までは力尽くで舵取りをしようとしていたが、 白河院の代であきらめた。 藤原氏は肥大化していたが、官僚組織は社会構造に比べて相対的に非力化し、腐敗もしていった。 それを補完したのが武家だ。 寺社勢力はようやく国家の桎梏になりつつあった。

白河院は国家というものを貴族らとともに山分けして、 その中で一番大きな取り分をとった。 だから、白河院は平安王朝時代で一番最後に一番権力を持ち得たのだろう。

以後、日本は国家元首と官僚組織が中央集権的に統治する国ではなくなり、 地方の領主に徴税や軍役などのほとんどすべての行政が委任された。 天皇は相続・寄進によって得られる財産で生きていく存在となった。

全国的な警察・治安組織がないからどうしても幕府のようなものが必要になる。 そんな感じか。

二条天皇は八条院の6歳年下に過ぎない。 准母になった年24歳。 あんまり母という感じではないな。 高松院姝子内親王は八条院の同母妹で、二条天皇の中宮。二歳年上。 二条天皇は、まあだから、八条院にがしっと取り囲まれてしまったわけだな。

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ランゴバルド族

06.29.2013 · Posted in 歴史

この図のように、 ランゴバルド族はわざわざスカンジナビアからイタリアまで移動してきたのだという。 まあ、普通に考えると、ゲルマン民族の移動というのは、ノルマン人による南イタリア征服と同様に、 中央アジアの遊牧民族に圧迫されたローマ人とかフランク人が、 ヨーロッパ辺境の種族を傭兵として雇って連れてきたのが自立したのだろう。

この地図で、oströmische reich とあるのは東ローマ帝国。 Reich des Franken はフランク王国。 Burgundia はブルグンド王国。 その他、Liguria、教皇領、Neapolis などが、ランゴバルド族の国からは除外されている。

ランゴバルド族の国としては、 Neustria、 Austria、 Tuscia、 Spoleto、 Benevento がある。 Neustria はフランク人の故地 Austrasia に対する新しい土地、という意味で、 この地図 ではパリの辺りをいうらしいが、 なぜかランゴバルド族が支配するミラノ、トリノ辺りの国の名になっている。

複合弓 は北宋の発明だと思っていたが、フン族も使い、トルコ弓とも言われるという。 北宋以前から素朴な複合弓は使われていたということだろうか。 東方から伝わった新しい弓や騎射の技術が、古代ローマ社会を変えた、と考えてよいか。

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Regnum Italicum

06.28.2013 · Posted in 歴史

カール大帝のフランク王国から遺産分割でイタリア王国というのができたが、 イタリア王の血統が絶え、東フランク王オットー1世がイタリア王を兼ねることとなり、 オットーが神聖ローマ皇帝を称することによって、 神聖ローマ帝国となった。

この時期、Kingdom of Lombardy と言う言い方は間違いであり、 Kingdom of Italy という言い方は正しいが、 神聖ローマ皇帝がイタリア王を兼ねているから、実質イタリア王国というものはないのに等しい。

ノルマンコンクエストが始まる直前の南イタリアやシチリアは一部がアラブ人、 一部がギリシャ人の領地であり、 残りのカプア、サレルモ、ベネヴェントは神聖ローマ帝国外のイタリア人(ランゴバルド族)の国だった。

南イタリアのノルマン人による征服は、おそらくは、神聖ローマ皇帝がノルマン人を雇って行わせたものだろう。 神聖ローマ皇帝はローマ帝国の後継を標榜しているから、イタリアに干渉するのが好きなのだ。 ノルマン人はノルマンディから神聖ローマ皇帝の保護の元、陸路でイタリアに向かったと考えるのが自然だろう。

オットー1世がイタリア王となっても、住民や領主はランゴバルド族だったのに違いない。 オットーは、フランク王国の騎士やらに、ランゴバルド族やギリシャ人やアラブ人が支配する土地を占領するように命じた。 そう考えるのが一番つじつまがあいそうだ。

マルセイユからローヌ川上流、スイスの西半分はブルグント(ブルゴーニュ)王国と言ったのだが、 ここがいかにしてサヴォイア辺境伯の国に変わっていったのか。 それがまたよくわからない。 とにかくもう複雑すぎてよくわからない。

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Manfred del Vasto

06.28.2013 · Posted in 歴史

Manfred del Vasto は Adelaide del Vasto の父、というしかほとんど知られてないのであるが、

Manfred という名は Man + Fried (平和な男)という意味であるから、 ラテン系ではなくゲルマン系の名前であることは確かである。

del Vasto の Vasto は南イタリアの地名であり、 ノルマンコンクエストの結果、ノルマン人が獲得した土地の領主になったということであり、 それまで彼は marquess of Western Liguria であったはずだ。 当時のリグリア(今のジェノヴァ地方)は、 Obertenga (東)、Arduinica (西)、Aleramica (真ん中)の三つの辺境伯国に分かれていたとあるから、 マンフレッドはおそらく Manfred del Arduinica などと呼ばれていたはずだ。

彼は Aleramici というフランク王国に由来する、リグリアやピエモンテを治めていた一族に属するらしい。 生粋のイタリア人、というわけではない。 当然 Aleramica という地名と同源だろう。

ジェノヴァは、リグリアのほぼ中央だから、 Aleramica に生まれた自治都市国家、のようなものだったと思われる。 リグリアが三つの辺境伯国になる以前はアラブ人(の海賊)に支配されていたという。 彼らを駆逐するためにノルマン人(の海賊)が傭兵としてイタリアまですでに大勢来ていたと思われる。

ジェノヴァはやがてノルマン人による南イタリア征服の拠点となり、 十字軍の騎士を送り出す港となり、 繁栄していくのだが、それ以前は、おそらく、 いろんな海賊たちが入れ替わり立ち替わりする「辺境」そのものであったと思われる。

ていうか、 Manfred I of Turin によれば、 Arduinica というのはトリノ辺りのことを言うらしく、

the marca extended from the Alps to the Ligurian Sea and the Po Valley. Under him, Pavia became a mercantile city.He also controlled the road between Genoa and Marseilles.

つまりアルプス(Susa Valleyとあるから、フランス国境付近のことか)からトリノ、 地中海地方のマルセイユやジェノヴァまで領有していたという。 この Manfred I of Turin が Manfred del Vasto の直系の祖先かどうかまではわからんが、 一族であるのは間違いなかろうと思う。

Arduinici というのもAleramiciとほぼ同様らしい。 ここにも Manfred や Adelaide という名前の人がいる。 サヴォイア公の祖先にあたる、という。 ふむ。300年くらい間が空くようだが。

Adelaide は英語名で実際には Adalheidis などと言っていただろう。 スイスや南ドイツ由来の女性名。

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山ノ内と扇ガ谷

06.22.2013 · Posted in 歴史

たまたま梅雨の晴れ間で日差しが強くて良い写真が撮れそうなんで、 世界遺産に相手にされなかった鎌倉に行ってみた。 JR横須賀線北鎌倉駅辺りが山ノ内であり、 その南隣、北鎌倉駅と鎌倉駅の間くらいが扇ガ谷。 地名表記は「山ノ内」と「扇ガ谷」であって、「山内」でも「山之内」でも「扇谷」でも「扇ヶ谷」でもない。

だいたいにおいて上杉氏は「山ノ内」上杉氏と「扇ガ谷」上杉氏が有名なのであって、 それぞれ鎌倉にいたときは山ノ内、扇ガ谷をもともとの本拠地としたのである。 その地名が未だに現役で使われているというのはやや驚きもある。 まあ、歴史的に有名だから今もその地名が使われているということもあろう。 山ノ内と扇ガ谷の間は小高い山であり、亀ヶ谷坂切通しという狭い山道が通っている。

山ノ内というところはつまりは関東管領上杉氏の本拠地であるから、 でかい寺がある。 つまり、円覚寺と建長寺。 どちらにも国宝の鐘がある。 建長寺の鐘は五代執権北条時頼が、 円覚寺の鐘は九代執権北条貞時が作らせたものだ。 鐘というものは案外古いものはなくてかつ国宝で現在も使われているものが、 こんなに近くに二つもあるというのは珍しい。 珍しいんですよ、これは実はね。 京都にも三つ国宝の鐘があるらしいのだが、 どうも今は使われてないらしい。 飛鳥の法隆寺や薬師寺も昔ながらの鐘が使われているとはとても思えない。 奈良の興福寺や東大寺なんかも。

たとえば知恩院の鐘がでかいといってもあの寺は徳川家が天下とってから大を成したものであるから、そんなに古くはない。 金閣寺や銀閣寺が室町時代のものであるように、 実は京都の建造物の多くは室町や江戸に出来たもので、 さらにそれを明治になってから復興したものであって、 鎌倉のように北条氏の時代の鐘が残っているというのはやはり珍しいのである。

にしても、鎌倉は人が多い。東京から近くて気やすいのもあるし、 観光客以外に高校生もいるし、 あじさいの季節だというので大勢くりだしてくるし、 週末だったのでもう地獄だった。 京都と違って鎌倉は山だしな。 道は狭いわ人混みはひどいわ車は多いわでもうこれで世界遺産なんかになった日には目も当てられんだろうね。

扇ガ谷には大した寺はない、山ノ内に比べると。

鎌倉時代には御家人たちは鎌倉にみしっと集中して住んでたんだろうね。 それが鎌倉の防衛力ともなった。 しかし室町時代になると鎌倉以外の関東各地へみんな散っていってしまった。 鎌倉の相対的な価値が低下した。 鎌倉だけをきちんとまもるというやり方が廃れてしまったんだろうと思う。

円覚寺と建長寺は鐘が国宝なだけでなくて鐘楼がなかなかよろしい。 たぶん古いものなのだろう。 京都の鐘楼でがっかりするのは完全に鐘を囲ってしまって外から見えなかったり、 消化器がおいてあったり、現代風の柵が巡らしてあったり、変な立て札があったりして、 美的景観が台無しだったりすることだ。 円覚寺と建長寺の鐘楼は良い。 カメラを向けるときちんと北条氏の時代の姿で写ってくれる。 そこがまた珍しい。

上杉氏は、北条執権時代には宮将軍の世話係としての性格が強いから、 京都から来た将軍のために山ノ内にせっせと寺や鐘を作ってあげたのであろうか。

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改暦

06.19.2013 · Posted in 歴史

『明治天皇記』明治4年正月には、寅の刻四方拝、などと書いてあるが、 明治5年正月には午前4時四方拝、とある。 グレゴリオ暦への改暦は明治5年12月3日の翌日を明治6年1月1日とすることで行ったとされるが、 すると時刻の方が先に西洋風に改められた、ということか。

寅の刻というのは天皇が江戸にいるときは江戸の、京都にいるときは京都の日の出・日の入りを基準にしたのだろうか。 電信や無線で一瞬で情報が伝わるようになると、地域で時刻が異なるのははなはだ都合悪かっただろうし、そもそも精度が悪かっただろうな。

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