亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘kindle’ Category

個人出版はいかにプロデュースされるべきなのか

10.04.2016 · Posted in kindle

プロデュース、本来は何か物を作る、特に農産物を生産することのはずだが、多くの場合、ラジオやテレビ、映画など、 何かの作品を作るために人と金を手配して、作品を市場に売り込むことを言うらしい。 別に日本人がそう誤解しているだけでなく、本家のアメリカでもそうらしい。

Amazon 講談社の読み放題対象作品を一方的に削除した問題

きんどうとしては、もともと読み放題にユーザーさんが参加されても、読まれてもアフィ収入にはならないので……そのどっちでもいいっちゃいいんですが。

なるほど。 ぽちって買わないと広告収入にはならないわけですね。

私としてはアマゾンがこれからも「実験的」な新サービスを次々繰り出してくれることはありがたい。 アマゾンとしては Kindle Unlimited がどっちの方向へ走り出すか、 完全に読み切れない状態でのスタートだったと思うんで、不測の事態に備えて、 一方的に配信停止したり、契約解除できるような契約を結んでいたのに違いない。 大手出版社や、佐藤秀峰らが、アマゾンとどんな形で契約していたのか。知らんがな。 実際にアマゾン側に不手際があったのかどうか。 そんなことは私にはわからないから推測するしかないのだけど。

たとえば、佐藤秀峰さんところの「マンガ on ウェブ」。 今も読み放題で提供されている。 これは良い本だ。 アマゾンはこれは切ってない。 それ以外のどんな本が切られたのか。 佐藤秀峰は言及してない。

どんな本がどんな理由で配信を拒否されたか。 それについては誰も語りたがらない。明示してない。 語りたくないからでしょう。 ほんとうにアマゾンが不当だったのか。判断できない。 自分に不利なカードは隠して戦おうとしている。そりゃそうだろう。商売とは、訴訟というものはそんなものだ。 どうもどっちもどっちな気がしてしかたない。 出版社側もわかってるのではないか。なぜ切られたか。 ほんとうに自信がある本が切られたから怒ってるのじゃあるまい。 アマゾンにカスをつかませようとして断られたからキレてるだけでしょ。違うの?

私としては、アマゾンに対して、まじめな個人作家の作品をなんとかプロデュースしようという「愛」を感じている。 読者がたくさんの文字を読むということは、良書であるということだろう。 たくさんの文字を書いて、それをきちんと読んでもらえたということは、報いがあったと感じる。励みになる。 KENP はおそらくその指標のために作られたものだろう。

中身がすっかすかで、1ページ辺り読むのに1秒かかるかかからないかで読み捨てられるような本。 エロと猫と萌えの写真がずらずら並んだような本。 アマゾンとしてはそんな本をプロデュースしたくて KDP を始めたんじゃなかろうよ。 私も自分で書いていて、この本の1ページと自分の本の1ページ、同じ報酬で読まれたんじゃたまらんなという本をよくみた。 逆ももちろんある。 ああこの本の1ページには他のアホみたいな本の100ページ以上の価値があるのにと感じることもある。

もちろんアマゾンも商売で本が売れりゃそれでいい、しかし、 いままでの流通や広告では見すごされて、埋もれていた、良質な個人作家の作品を、マスとして掘り起こしたい。 潜在需要を掘り起こしたい。 いわゆるロングテイルというやつ。そういう戦略で KDP をやっている。 アマゾンの一連のサービスや対応で見えてくるのはそこだ。 アマゾンに一貫する長期戦略というのはそこだよ。 個人出版としてはそこに乗っかるしかないじゃないか。

あほみたいなマーケティングに明け暮れる出版業界。 そのあほみたいなマーケティング、特に、すでに形骸化して久しい文学賞とか権威付けに群がるしか能の無い読者たち、作家たち。 アマゾンがそこをヤってくれるかどうかはわからんが、そこが、長い目で見て解決されなきゃならない部分でしょ。淀みでしょ。

読み放題や試し読みの方法はもっといろいろ試されて良い。もっと広まったほうがよい。 読んでみたらつまらなかった本は淘汰されたほうがよい。 今のアマゾンランキングは改善されるべきだ。 これからもどんどん変わっていくのに違いない。

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斎藤さん アラカルト

08.25.2016 · Posted in kindle

Kindle Unlimited に反応したのは一部のコアな KDP ユーザーだけだったように思う。 多くの人々はまだその存在が意識の片隅をかすめただけなのだろうと思う。 多少売れたり読まれたりしたのは一過性だったのではないか。 一部のユーザーが読みたいものを一通り読み終わってしまうと沈静してしまう。 これが継続して、右肩上がりになる、というのは早計だった。 もちろん長期的にこれからずっと観察してみる必要がある。

「内親王遼子」がまったく売れておらず「エウメネス」はそこそこ売れているのは(といっても何千部も売れたわけではない)、 「内親王遼子」が私の完全オリジナルな架空のキャラクター、架空の世界を描いた作品であるのに対して、 「エウメネス」は世界史を一通り学んだ人には既知の世界だからだと思う。

とすると、今度の「斎藤さん アラカルト」は売り方を工夫しないと、「内親王遼子」状態になりかねない。 「斎藤さん」にはいろんな要素を盛り込んだ。いろんなタイプの読者の琴線に触れるように、 いろんなストーリーをアラカルトにしてみたのだ。 一番売れ筋のミステリーや推理こそないが、ファンタジー系の風味も少し加えてみたし、 藤原頼長、レオニダスなど、歴史物もやり、 剣豪物もやり、 三島由紀夫のオマージュみたいなものを書いた。

一通り私が書くジャンルが一冊に網羅されている。 長編にはレビューがつかない。ついててもろくに読んでないってことはもうわかっている。 短編集なのでさっと読んでさっとレビューを書くこともできるだろう、という計算もある。 「斎藤さん アラカルト」が売れなきゃもうどうしようか。あとは営業くらいしかやることは残ってないんじゃないか。

どれが面白かったか。どれがつまらなかったか。 レビューが集まると今後の参考になるのだが、そうもならないだろうなあ。

最初は「斎藤さん」というタイトルにしようと思ったが調べたら同じタイトルの漫画(「斎藤さん!」)が既にあった。 そんで「アラカルト」を付け足した。

今回三島由紀夫の「春の雪」を下敷きにして「春の雪 外伝」を書いたわけだが、 どうも、おんなじことを何度も繰り返して書いているところがある。 エフェクトとして巧んでそうしているというよりは、ぼけ老人が前書いたことを忘れて、 或いは推敲不足のために消し忘れているようなところがある。 文章もすごく切れるところと、だらだら書いているところがある。 明らかに文章の質にムラがある、と私には思える。 意味はまあわかるがこういうふうに書いた方がわかりやすいんじゃないか、これは一箇所でまとめて短く記述すれば済む話じゃなかろうか、 と思ったところも多々ある。 ほんとのところ、この「豊饒の海」という長編は、三島が死を覚悟して、遺書代わりに、一気呵成にあまり推敲もせずに書いたものであろう。 なので、長文のだらだら書かれたエッセイのような気分で読むには良いのかもしれん。 実は三島由紀夫をきちんと読み始めたのはこれが初めてなのだが。

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特務内親王遼子完結編

06.05.2016 · Posted in kindle

もう文章はほぼ書き終えた。 あとはどのくらい文章に厚みをつけるか、挿絵を増やすかだが、 結局、どんなに頑張っても、小説なんてものは読んでもらえないんだってふうに近頃は思えてきた。 ヨハンナ・シュピリに関して言えば、彼女のハイジ以外の作品を読んでみたいという人は多く、それに対して翻訳する人が少なかったので多少売れたのに過ぎない。 普通の小説にしても、書く人が少なくて読む人が相対的に多ければ本は売れるはずだが、 書く人が多すぎるから売れない。 小説の需要自体、大して増えも減りもしないが、書きたい人が大勢いるから一人一人の作家のもうけは少なくなる。 アニメ・マンガ業界と同じ。

がんばってCGで挿絵を増やしてできればマンガにして出したかったが、 たぶん無駄な努力だと思うからこのくらいで出そうと思う。 特務内親王遼子1はPDFで無料で公開していたが、これも公開をやめる。 2はKDPで出していたが、これも出版停止する。 1から3まであわせたものを近日中にKDPで出版する。 我ながらうまい具合に完結させた、400字原稿用紙換算で200枚ほどで、良いできだと思うのだが、期待してもしかたない。 まあ、期待しないでしばらくお待ちください。

思えば私はこういう「プリンセス」ものを今までいくつも書いてきた。 「エウメネス」のアマストリナはそうだし、「エウドキア」はそのまんまだし、「将軍家の仲人」の喜世もそうだし、 「西行秘伝」の源懿子もそうだ。 だが根っこにあるのはディズニーのプリンセスものみたいなアメリカナイズされたステレオタイプに対する反発であり (と同時にNHK大河ドラマ的ステレオタイプに対する反発でもある)、 そこからひねって和風の皇女にしてみたり、 ペルシャ王女にしてみたり、東ローマの女帝にしたりしている。 少しだけ主流から外す。 しかし主流から外れているというのは今のテレビドラマ的ハリウッド的価値観から外れているだけのことで、 いずれもそれぞれ主流たり得る、つまり小説となり得る価値がある、そういうものを「発掘」している気持ちで書いている。 「エウメネス」は外したつもりだったのに同じ主人公のマンガがあって少し売れてしまった。 なんか不本意だ。

竹取物語や源氏物語に限らずお姫様は昔からたくさん話に出てくる。 しかし「内親王」と呼ばれることはない。「内親王」という呼び名は奈良時代にはすでにあったのにも関わらず、だ。 そういうところもこだわりなのだが、一般読者には通じないかもしれない。

あちこちきどって加筆してみた。出だしはこんなふうになるはずだ。

何の恨みがあるかはしらないが、こんな風向きの日にはきっと馬賊が出る。
悪天候は彼らの宴の合図だ。
猛禽が山から舞い降りてきて、地上の獲物を掠め取っていくように、山に棲む馬賊どもが、農家の子羊を略奪し、酒盛りの肴にしてしまうのだ。
砂漠に隣り合わせの痩せた土地で、そのうえ匪賊まで出る。誰の記憶にも残ってない遠い昔、ここに住んでいた原始人が、あるいはもっと太古に、この平原を闊歩していた獣たちが犯したとんでもない罪のために、この土地は罰せられているのに違いない。こんな日に哨戒に出る稗島は、そんなふうに思わずにはいられない。
砂埃にまみれた霜が強風で舞い上がり、厚くよろった防寒具の上から肌にたたきつけてくる。

あるいは

こんなにも王族にふさわしくない私がか。こんなにいいかげんでおっちょこちょいで自分勝手で移り気で。男にだらしなくて、男にすぐ騙される私が、よりによって、民の君にならねばならないのか。

というような台詞もある。

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宇治谷 順

03.14.2015 · Posted in kindle

「キュレーター」は面白い。 しかし評判が悪くて連載打ち切りになったそうだ。 連載ものは最初だけうまくてあとはつまらないのが多い。 連載にこぎつけるまでは原作者も編集者も真剣なのだろうが、 いったん連載に持ち込めば惰性で続けているだけなものが非常に多い。

よく似たマンガに「ギャラリーフェイク」があるが、 「キュレーター」はそれより7年も前に出ている。 キュレーターとかキュレーションという言葉が一般化してきたのも最近のことだ。 どうもこのマンガはちょっと時代が早すぎたようだ。 こういうマンガが電子書籍で復刻されて再び読めるようになるのはすばらしいことだと思う。

同じ原作者のマンガで「弁護士TASUKE」というのがあるが、こちらも面白い。 連載ものであるのに、あまりキレが落ちずに続いているのは見事である。 しかし原作者の facebookなど見るとこれもまた尻切れトンボで連載打ち切りになったらしい。 もっとつまらないマンガでずっと連載しているのもあるのに不思議なことだ。

刑事もののテレビドラマはだんだん進化していて、例えば最近は「相棒」 などが評価されるようになった。 ああいうややこしい話は昔は(少なくともテレビドラマでは)人気がなかった。 「太陽にほえろ」「西部警察」「踊る大捜査線」などの馬鹿げた話が受けていた時代とは、 ずいぶんと変わった。 「弁護士TASUKE」も今連載されていればきっと人気が出ただろうと思う。

原作者がまじめに原作を書いても時代が早すぎて世の中に受け入れられないことはあるよなあと、 この宇治谷順という人の作品を見ると思ってしまうのだ。

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仕切り直し

01.06.2015 · Posted in kindle

小説を書き始めたのが2009年の夏頃で、 そのころはまず新人賞に応募して、ダメだったやつを(ダメでないやつはないのですべてだが) 順次 puboo に載せるようにしていた。

kindle で出すようになったのが 2013年から。 このころはもう、新人賞に出すこともなく、いきなり kindle に出していたように思う。

2年間ばかり kindle で悪戦苦闘してきたのだが、 だいたい状況はわかってきたように思う。 自分という書き手の問題もあれば kindle でいきなり個人出版をやる問題もある。

旧作に関してはもうこのまま kindle で売り続けることにする。 ほぼ250円で、「川越素描」などの長編は500円にする。 短編でも99円とかはもうつけない。 安くしようが高くしようが売れないものは売れないってことがわかったからでもある。 自分としては「川越素描」「司書夢譚」「安藤レイ」「アルプスの少女デーテ」などは長編なので、 他よりは高い値を付けたい気持ちがあった。 また「将軍家の仲人」は別格にしたい気持ちもあった。 今回実質値上げしたわけだが、値段の差は私の中での格付けだと思っていただきたい。

恥ずかしながら昔のつてを頼って別のやり方で出版しようと模索している。

自分には面白くても人には面白くないということは当初からだいたいわかっていた。 私に才能があるとすれば、今まで見つかってなかったパズルのピースを見つける能力だと思う。 人が気づかない、理論と理論の間のショートカットを見つける能力だと思う。 私の中ではそのショートカットを見つけただけでうれしいし面白い。 しかしそのショートカット自体は他人には何にも面白くない。 例えばそのショートカットとは泰時であったり栄西であったり西行であったりする。 或いは西園寺公経とか平頼盛であったりする。 しかし世の中の人は清盛とか頼朝しか面白いとは感じない。 つまりだ、栄西とか公経とか頼盛という自分にとっては面白い発見を利用して、 そこで得られた新しい切り口で、清盛とか頼朝の話を書かなくてはならないのだが、 これが難しい。

イェルサレム司教アルヌルフとか、ローマ教皇パスカリス二世ではなく、 神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世とか東ローマ皇帝アレクスィオスで物語を書かなくてはならぬ。 普通の人は歴史上の有名人を主人公にしたほうが話が書きやすいのかもしれないが、私には苦痛だ。 最初書いた「将軍放浪記」でも将軍というのは源でも足利でも徳川でもない。 後醍醐天皇の皇子、宗良親王だ。 そういうマイナーな人を書くのが私の快感なのだが、 この気持ちを読者と共有することはほとんど不可能だ。 おそらく私は自分が見つけたパズルのピースを主人公にしてあげたいという気持ちがあるのだ。 彼を発見したのはまさに自分だからだ。 他の英雄たちは誰でも知っている。私以外の人たちがたびたび描いている。 だから私にはちっとも親しみが感じられない。

私が思いついたことにはまだ他人が書いてないことがあるはずだが、 それを活かした本を書くことは私一人では無理かも知れない。 私一人でこの作業をやるのはつらすぎる。 身近な人に読んでもらってもいいのだが、彼らは出版のプロではない。

ともかくそろそろ仕切り直す時が来たんだと思う。

それはそうと今年で五十歳なのだが、定年まであと十五年も働かなくてはならないかと思うと、 ほんとに嫌でたまらない。 「紫峰軒」では定年後の老人の話を書いたのだが、その主人公の身分になるにはまだだいぶ働かなくてはならぬ。 私はほんとうに働くのが嫌いな人間だなと思う。 まあみんなそうかもしれないが。 だが私の知り合いの多くは定年後も再就職して働きたいと思っている人たちばかりである。 私も別に本を書くとかそういう仕事ならしても良いが、 人に雇われて働くのはもうこりごりだ。

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和歌の本

12.25.2014 · Posted in kindle

和歌の本にはある一つの定型がある。 歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。 ところが今回私が書こうとしたのは、 禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、 それらが渾然と絡まりながら発展していく、 その中心には定家があり、承久の乱がある。

こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、 関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。 承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。 禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、 それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。 禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。 そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、 普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。

で、要するに、 本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。 和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、 承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。 マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。 普通はそれを調和とは言わない。 和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。 私が好きなのはそんな本だ。 ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。 或いは論文かなにか読んだほうがましだ。 たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。 和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。 あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。 それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。 いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、 私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。

道元の話をしてもいいんだが、 道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、 それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、 平頼盛が檀那だったとか、 どうしてもそんな話になってしまう。 普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。

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自分が面白いと思うものを書くだけじゃだめ

12.25.2014 · Posted in kindle

ずいぶん長い間定家ばかりやってたが、とりあえずこっちは書き終えたということにして、 久しぶりに「海賊王ロジェール」とか「江の島合戦」などを読んでみた。 半年経つとかなりディテイルも忘れているし、 文体とか興味とかもずれてくるので自分が書いたものだがわりと新鮮に読める。

読んでみるとそれなりに面白い。 アブドゥル・ラーマンとかその娘のナディアなんて脇役は自分でもすでに忘れていたが、 こういうふうに登場させてこういうふうに描写する以外方法ないんじゃないかとおもう。 問題なのはアブドゥル・ラーマンというものすごくマイナーなシチリアの海賊を登場させることにあって、しかも彼は実在の人物であり、そこから大きく逸脱するような書き方は私はしたくないということにある。 私自身はアブドゥル・ラーマンはそのままで十分魅力的な人物に思えるが、 一般の日本人にはそうではあるまい。

「江の島合戦」にしてもこのネタで主人公を太田道灌に書くならこういう書き方をするしかない、 というか、 これより面白くはなかなかならんと思うのだが、 なにしろ「江の島合戦」という超マイナーな局地戦の話であり、 登場人物が小山氏とか宇都宮氏とか結城氏とか里見氏みたいなめちゃくちゃ関東ローカルで、 戦争自体地味で盛り上がりもなく、 そこがまた味なんだが、 一般受けするはずもない。

で、半年くらい前の私は、 ほかにも「人斬り鉤月齋」などいろんなものを書いてみて、 どこかで普通の人の興味をひかないかな、 当たりがあればそこは連載していこうってことを試行錯誤してたと思うんだが、 今や万策尽きた。 どこも当たらないのだ。 つまり、私の場合、四十年くらいの読書歴があり、 他人の本で読みたいものがなくなったので、自分が読むために小説を書き始めたようなところがあり、 自分が面白くて他人も面白ければ売れるんじゃないかという期待もあり、 少なくとも自分にとって面白い小説はかけるようになったと思うんだが、 自分に面白い小説と他人が面白いと思う小説にはほとんど接点がない、 もしくは、 潜在需要はあるかもしれんが、それを売る方法がない、 というところで行き詰まった。

自分が面白いと思うものを書くだけじゃだめなので、 やはり編集者とか出版社のような他者がなくてはならない、 少なくとも、私の場合は書いたものが直接読者に受け入れられることは考えにくい、 ということなわけだ。

で、書きたいものは今までどおりkindleで出したりブログに書いたりしていけば良いかもしれんが、 それ以外のところをどうしようかというのが問題だ。

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わかりやすく書くのに疲れている。

12.22.2014 · Posted in kindle

そろそろ定家のやつを脱稿しないと精神的にまいってしまう。

私の書いたやつというのはたいてい読みにくい。 書きたいことを書く努力と、 それをさらに磨いていく努力と、 人が読んで読みやすくする努力、この三つが必要だ。

書きたいことを書いて人にも読みやすいものを書ける人は得だなと思う。 たぶんそんな人が物書きになるのではなかろうか。 自分の書いたものは、少なくとも自分には面白いのだが、 他人はまったく面白くないのが困る。

定家や貫之や西行なんかは、私はもう頭の中にだいたいわかっているから、 それを書けばいいんだけど、 それだけでは人は読みにくい。

ある程度はしょって書かないとスピード感がでないんだわ。 何でもかんでも説明しながら書いていくともっさりする。 全然話が先にすすまないし、 ウィキペディアみたいな事実の羅列に限りなく近づく。 どっちにしても人はついてこない。 自分の中ではすでに完成形があるのにもどかしい。

作曲家の話で置き換えるとわかりやすいことがわかった。 バッハやベートーベンやブラームス、 みんなだいたい名前は知っているが、 誰が先に生まれて誰が後に生まれたかとか、 西暦何年にこの人たちが何をしたかということは、 ちゃんと書いて説明してもらわないと素人にはわからん。 ググれとかウィキペディアに書いてある、でもいいんだが、確かに不親切だ。 やはりある程度は書かねばならぬ。

自分にとって定家や貫之や西行はわかりきっているが、 バッハやベートーベンやモーツァルトはよくわからんように、 他人には、バッハやベートーベンやモーツァルトはよくわかっているが、 定家や貫之や西行はわからんのである。

ただまあ、私が読者なら、 わからんなりに面白い話を書いてくれてたら、 ググりながら読むだろうと思う。 ドラクエだってマインクラフトだって、 面白いからわざわざ攻略法調べてやるわけで、 やっぱググらせるくらい面白くなくてはならんわけである。 わかりやすく書けば良いという問題ではないのかもしれん。

最近一番外したのは『海賊王ロジェール』だと思うのだが、 ノルマンコンクエストのシチリア王の話なわけだが、 日本人にはほとんどなじみがない。 『江の島合戦』もかなり外したと思う。 こういう、まだ誰も書いてない誰も知らない話を書きたいのだが、 書いても誰にもわからない。そこが困る。

かといって頼朝とか清盛の話を書いても人がすでに書いてるからつまらないし、 じゃあ人がまだしらないこと書こうとすると、 清盛の異母弟の頼盛がとかいう話になって、 結局誰も知らん話になってしまう。とても困る。

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シンクロ率

07.11.2014 · Posted in kindle

小説を書けば書くほどにわからなくなっていく。 著者と読者が共感できる話を私は書けないのだろうか。 読者と、せめて50%くらいはシンクロしたい。 100%はまあ無理として(著者しか知らない裏設定などがあるから)80%とか90%くらいは普通にシンクロしたい。

だが現状は10%くらいだと思う。 どうしてこうなってしまうのか。

120%くらい理解してくれる読者がいてくれるとうれしいのだが。 つまり、私が隠しているつもりの裏設定までみやぶり、 私自身も気づいてない私の深層心理までも指摘してくれるような。

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著者不在読者万能

07.10.2014 · Posted in kindle

私の小説の中では「エウメネス」「エウドキア」がよく売れている方なのだが、 比較的マイナーなはずのエウドキアが売れている理由がよくわからなかった。 だがオタクの世界では、エウメネスほどではないにせよ、エウドキアはよく知られたキャラであり、 エウドキアがどんな人であったか知るために(もしかすると二次創作のための設定資料として)ポチる人が多いのではないか。 私以外の全然別の人が全然別の話を書いても同じくらいには売れたのではないか。 とすれば私という書き手は不要であり、不在であり、存在するのは読者だけということになる。 私が書かなくてはならない必然性がない。

本を売るということは、それを買う読者がいるということであり、 ようは読者万能ということである。 同じ事はすべてに言える。 政治家にしろ君主にしろ、近代・現代は国民万能時代だからどうしてもそうなる。 売れっ子ライターやアルファブロガーなどみんなそうだ。 ツイッターではそういうよく読まれる人のことは、なんと呼ばれているのだろか。

私は話の中で登場人物を死なせるのが嫌いだ。 もちろん歴史小説では死ぬが、それはその人が死ぬことが歴史的に確定しているからだ。 私が勝手にこしらえた人物を殺すのは忍びない。 ほとんど唯一の例外は墨西綺譚に出てくる乾長吉だが、墨西綺譚は今は非公開にしている。

石原慎太郎、村上龍、山田詠美、村上春樹などの流れをみると、 読者はあきらかに暴力やセックスを求めている。 ラノベにすらその傾向はある。 ミステリー・ホラー小説もつまるところ人が殺されるからおもしろがって読むのだ。 人が死なないミステリーなどほとんど見向きもされないだろう。

私の場合、男女が恋愛関係に至る過程を書くことはあっても、恋愛関係そのもの、つまり情事を書くことはほとんどないが、 それも一般読者には不満だろう。

村上春樹から暴力やセックスを差し引いたらあんなに売れると思うかね?

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