亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘kindle’ Category

砂丘

07.09.2014 · Posted in kindle

最近になってミュートとリストという機能をおぼえて、割とほんきでツイッターを使い始めた。

小説を書いて公開していて思うことだが、 こういうコミュニティは閉じていて、 一定以上の読者を獲得するのは難しい。 いろんなコミュニティを渡り歩くのは有効ではあるが、 結局いつかは頭打ちになる。 ツイッターはいろんな人たちがいるからコミュニティが閉じてないというか、コミュニティが非常に広い。 そういう世界で地道に人をフォローし、人からフォローされることは、 いわゆる名刺を配る的な営業のようなもので、 やってみる価値はあるんじゃないかと思い始めた。 Adwords なんか広告使う気にはあまりなれない。 現在やっと2000の壁超えたばかりくらいだが、2000フォローしているうち1000くらいはミュートしてると思う。 ミュートしているのは営業とボットが多いだろう。 ミュートしてないけどそもそもあまりツイートしない人もいるから、 素で読んでるのは500くらいか。 それでも多い。

リストもかなり使っていて、 こちらはどうせフォロー返ししてくれなさそうなw有名人や政府機関なんかが多い。 ボットもフォロー返ししてくれなさそうなのはリスト。

すべてのリストを公開しているわけではない。

一度やっと二桁くらいリツイートされたことがあり、 はあ、こんなことリツイートするんだなあと感心した。

世の中にはプロと素人と、その中間にいてプロになろうとしている連中がいるのだと思っていたのだが、 小説家になろうなんかを読んでると、なかなかプロに匹敵する素人はいない。 おやなかなか面白いなと思い著者名で検索してみると本出版してたりするのだが、 あーさすがにプロだなと思い出版社を確認するとどうやら自費出版らしい。 それじゃkidle本と変わらん。 ブロガーなんかは割と中間層が厚いように思うが、作家はなんか中間層がほとんどいない気がする。

砂丘 はわりと本気で書いた短編だが、 こういうのを子供向けのラノベとか転生ものがはやりの「なろう」に載せるのは嫌がらせみたいなもんだろう。 「なろう」見てて思うのは、いきなり超能力とかファンタジー出してくるリアリティ完全放棄なものか、 それただの実話だろうみたいなリアリティはあるがフィクション性が希薄なもの。 非リアルとリアルの中間くらいにフィクションというものはあるべきで、 そのチューニングが創作活動だと思うんだが、 良質なフィクションというものが「なろう」にはほとんどない。 それだけフィクションをこしらえるってことは難しいんだよなといまさらながら思う。

良くあるパターンは、 私の名前はなんとかです、年はいくつで身長はいくつ、髪の毛の色はとかキャラの紹介から入るやつとか、 なんだよそれとか思う。 それただの設定資料だろと。 あと自分の知ってる居酒屋でああしたこうしたとか。見たまま聞いたまま体験したままを書いてて起承転結のないやつ。 起承転結はあったほうがよい。起承転結にかわるなにかオチがあればなおよい。 しかし何も無いやつはただの日記かエッセイであり小説じゃないだろと思う。 ていうかそんなのはブログに書けよと思う。 だからブログは素人にも書きやすいんだろうけど。

プロットも、面白いなと思ったら、よく考えるとテレビドラマなんかで使い回されてるようなもので、 途中で連載放棄してたりしてすごくなえる。 携帯でちまちまと長編小説書いているやつとかいるのだが、 なんだよそれ自己満足?とかしか思えないものばかりだ。

私は自分と同じような小説を書く人を探している。 でもなかなか見つけられなくて困っている。 もしかしたらそんな人は存在しないのだろうか。 同時並行して私の小説を面白いと感じてくれる人を探している。 そういう人たちに私の小説が目に触れる方法を探している、というべきか。

砂丘 はコメントを受け付けていません。

漫画貧乏

06.20.2014 · Posted in kindle

佐藤秀峰「漫画貧乏」はキンドル版ならば無料で読めるのだが、 例によって 漫画 on Webの広報的なものであり、漫画 on Webでも無料で読めるものである。

前半部分の漫画はすでにどこかで読んだことがあった。 後半の文章はかなり長いが一応読んでみた。

NHKのアナウンサーも最初はNHKというショバでNHKという看板を背負って、 認知度を上げていく。 売れっ子になればNHKを辞めてフリーランスになるわけだが、 そこには何らかの「仁義」「年季奉公」的な制度があるのだろう。 プロ野球選手もそうだ。 フリーになるのは何かやりかたがあるようでないようで、 興味がないので詳しく調べようとも思わないが、 何か円満退社するだんどりというものがあるのだろう。

私の知る限りアニメのプロダクションなどは、最初は正社員もしくは正社員に近い待遇だが、 正社員のままではいつまでも給料は上がらない。 契約社員になっていくつかのプロダクションを掛け持ちした方が儲かるということになり、 さらにはフリーランスになったり起業したりして、 人や金を使う側に回るとやっと飯を食い家を建て家族を養えるようになるそうだ。 デザイン事務所も個人経営の小さなところが多い。

アニメもデザインもだいたいは美大出の仕事であり、 美大出身の人間しかいない業界はこんなふうになりがちである。 佐藤秀峰も武蔵美の出だわな。 だが、新聞業界や出版業界は違う。 一流大学出のエリートが牛耳っている。 政治家になろうか実業家になろうかという同輩がうようよいるなかで、 たまたま文学が好きで、 出版業界に入ってくる。 だが漫画家はそうではない。たいてい学歴は無い。 漫画家はアイドルタレントに似ている。 本人に実力があるかどうかは大した問題ではない。 ある種の愛嬌と個性があればそれでいい。 業界に取り込まれて、がんじがらめにされて、 足抜けできなくされる。 同じクリエイティブな職種でも、 そこがアニメーターやデザイナーとは根本的に違うところだ。

アニメーターの劣悪な労働環境を考えるとどちらが良いとも言えない。 どちらも悪いとしかいいようがないが、 ともかく、 佐藤秀峰はそういう地雷をどんどん踏みつけていった。 彼は学閥エリートの社会と、 美大という自由な世界のちょうど中間点にいた。 でまあ、この漫画貧乏を読んでいると、 出版業には、出版業界にはやはり関わらぬ方がよいと思う。 他人に恩を売るのも売られるのもまっぴらごめんだ。

作品そのものより名前を売りたいとか名を残したいというのならともかく、 クリエイティブな仕事をしていればよいというだけなら、 どこかの小さなデザイン事務所でちらしや名刺のデザインしてたほうがましだろう。

漫画 on Webは偉大な試みだったがたぶんそんなには売れないだろう。 彼はいろんな新人漫画家の参加を期待していたようだが、 そんなに良い人材はうまく集まってこない。 けっきょく佐藤秀峰一人のウェブサイトになってしまい、 それ以上に広がらない。 電脳マヴォのほうがまだましかもしれない。 竹熊健太郎は佐藤秀峰のやり方を良く観察してあのようなサイトを立ち上げた。 良い新人が集まっているかどうかわからんが、 少なくとも多様性はある。

キンドルの良いところは個人作家の多様性があることだと思う。 誰でも小説を書いて出版することができる。 大半はつまらんが中には良いものが含まれる可能性がある。 出版社や編集者にいじられることなく。 意外性や偶発性がある。 もちろん胴元のアマゾンの意向には逆らえないが。

佐藤秀峰のデビュー前の作品は絵は下手くそだが、それなりにストーリーは面白い。 もしブラよろでブレイクしなければ、 ああいう地味でアシスタントも使えない下手な絵の面白い漫画をこつこつ書き続ける、 味のある貧乏漫画家になったのではなかろうか。

他人の力を借りようとすればたかられる。 他人とつるもうとすれば身動きとれなくなる。 そういうことはできるだけしないつもりでいる。

漫画貧乏 はコメントを受け付けていません。

未来に希望をもとう。

06.04.2014 · Posted in kindle

このブログを検索してみると、 2013年1月に kindle paperwhite を買ったなどと書いていて、 一番最初にkdpで出したのは2月頃「川越素描」だったらしい。

最近のKDPだが、 といってもKDPが日本で始まって一年半しか経ってないわけだが、 次々に新人作家が出てきて、 その中には割とまともな人もいるなと思う。 このままどんどん若手が育ってきて、 古顔も(笑)そこそこ頑張ってれば活気がでるだろうし、 わざわざ本屋行くより新しい本や新しい作家探すのに便利だということになれば、 読者はさらに増えるはずだ。 ビジネス本や英会話やエロや啓発本も相変わらず多いが、 普通の小説もだいぶ増えてきて、 メインはラノベ風な純文学か純文学風のラノベあたりが多いのが私としてはじゃっかんアレだが、 キンドル作家や読者の裾野が広がるというのは要するにそういうことだろうし、 その中でも時代物や歴史物をせっせと書く人も、徐々にだが含まれるようになってきている。

たった二年でここまで変わったのだからすごい。

未来に希望をもとう。 はコメントを受け付けていません。

ヤリューティスタン

06.03.2014 · Posted in kindle

ここのところずっとネタだしに苦しんでいた。

特務内親王遼子は王道の狗をヒントに川島芳子をモデルにして出来た話なんだが、 ヤリュート王族の末裔タプイェンというのが出てくるのが少しオリジナルで、 ついでに欧州の王族もわりと絡んでくる(予定である)。 近代史なのもよけいにややこしい。

ヤリュート、つまり耶律氏は東北アジアに発する契丹(キタイ)人の一族であり、 おそらくは内モンゴルか満州地方に住んでいたモンゴル系の遊牧民の一支族であろう。 耶律阿保機のときに遼という国を作った。 遼は女真族の金に滅ぼされ、耶律はモンゴルの臣下となる。 また、耶律大石は中央アジアに西遼(カラキタイ)という亡命政権を作った。 カラキタイはナイマン部の王族クチュルクに簒奪されたあと、 モンゴルに滅ぼされた。 タプイェンはそのカラキタイの王族の末裔という設定なのだが、 ヤリュート族の末裔がどうやって700年ほど後の時代に復活するのか。 日本で言えば後南朝の末裔が昭和になって出てくるくらいの話である。 フィクションだからとでたらめに作ることもできるが、 そんな無理はしたくない。 史実にまがうようなリアリティが欲しい。

こんなときファンタジーなら簡単で、 たとえばシータがラピュタ王の末裔であるのは、 古代の超文明とか飛行石とか超能力が証明してくれる。 ナディアならブルーウォーターだわな。 イデオンもナウシカもエヴァもインディージョーンズも結局はみんな同じ。 ファンタジーは楽だ。 しかしファンタジーを禁じ手とし、 あくまでも史実として成立可能な設定にする。 とても難しい。

天皇の皇位継承も承久の乱や南北朝なんか見るととてつもなく微妙でやっかいで込み入っている。 ヨーロッパでもルイ十四世なんかずっと継承戦争とかやってる。 誰が正統な王位の継承者かってのは、 サルゴン大王の時代からずっと貴種流離譚と言って神話の典型パターンである。 王位継承ってのはそんだけ関心も高かったし、ちゃんと立証するのは難しくもあったのだ。

どうやってヤリュート王族の末裔であることを証明するか。 血?中央アジアではモンゴル人、トュルク人、ペルシャ人らが複雑に混血しているので、 単に血筋だけでは何族かは決まらない。 土地?ヤリュート族は土地も国も失った。ユダヤ人やアルメニア人やクルド人みたいなものだ。 三種の神器みたいなもの?そういうものにはあまり頼りたくない。 家父長制とか律令とか?これまたちゃんと説明するのは難しい。 文化や言語や宗教?ある意味落としどころはそのへんかもしれぬ。 ともかく青くて光る宝石のせいにするわけにはいかない。 どうすりゃいいのか。

中央アジアから北インドにかけて20世紀になってもたくさん「藩王国」とか「土侯国」 が存在していた。 ネパールやブータンなどは王国のまま現代まで存続している。 トゥルクメニスタン、キルギスタン、ウズベキスタンなどは共和国になっている。 東トルキスタン(ウィグル)やらチベットは中国の一部になっている。 モンゴルやアフガニスタンなんかはずっと存在している。 これらは全部もとはといえばモンゴル帝国のなれの果てである。 ムガール帝国も語源はモンゴルだし。 モンゴルやムガール帝国が衰退すると、 これらの土侯国は大英帝国かロシア帝国か中国の保護国となった。 だけど宗主国が衰退したり、 内戦状態になったり革命が起きたりすると独立することもあるわけだ。 旧オスマン帝国領内の少数民族もまあ似たようなもんだ。

そういうややこしいところにカラキタイの王族の末裔が突如現れて、 中央アジアにヤリューティスタンという国を建国する、 その主たるエージェントがタプイェンという設定なのだが、 先に多少ネタばらししておくと、 特務内親王遼子2でタプイェンが遼子を「姉さん」と呼んでいたわけだが、 実は遼子もヤリュートの血を引いている。 「遼子」という名もそれを暗示している。 気づいている人はすでに気付いているし気付かない人にはなんのことやらわからないと思うが、 高黍宮の高黍とはコウリャンのことで東アジアでは主要な穀物である。

ヤリューティスタン はコメントを受け付けていません。

無料キャンペーン

05.28.2014 · Posted in kindle

kdpの販売データ一覧ってのがグラフィカルになったからよけいわかりやすいのだが、 無料キャンペーンのダウンロード数というのは、減ってきている。 私の書いたものがだんだんにつまらなくなってきている、とも解釈できるわけだが、 おそらくはkdpの注目度が下がってきているのと、 私の場合、すでに数を出しているから、読まないひとは最初からダウンロードしなくなってきているのだと思う。 kdpはもはやお祭り騒ぎの場ではない。 日常の一部なのだ。 派手なことをやれば目立つという時期は終わった。 新しいことはみんな興味をもつし取材もされるだろう。 新しくなくなるとだいたい人は離れていくし、 新しさもないのに作家活動を続けて生き残れる人はほとんどいない。 だからこそ生き残ることに価値があるともいえる。 小説なんてのは日本でもすでに竹取物語のころからあった。 和歌なんてそれよりずっと前からあった。 今更めずらしいもんでもない。

私は似たような業界にいるのである程度わかるが、 派手さも新鮮さもなくなったネタにいつまでもしがみつく人はいる。 わかりやすい例でいえばHTML (cssやjavascriptを含む)なんかがそうだ。 1995年くらいはほんとに新しかった。 新しさがなくなった後、HTMLは日常になった。 いまや世界中の、名もない子供から年寄りまで何億人という人がHTMLが書ける。 HTMLなんてテキストデータだし、ライセンス料もかからんし、 こんな元手のかからない商売はない。 しかしライバルはものすごく多いし、その中には大企業もいれば天才もいる。 まあ普通に考えれば勝てるはずがない。 ネタに新鮮さが失われたあとがほんとの勝負だといってその古いネタにしがみつくひとがいて、 間違いではないが、 古いネタで飯が食えるひとというのはいわゆる古典芸能的な人か、 ほんとうの個性を持っている人だろう。 ほんとうの個性を持っているなら、やれば良い。信じてやればよい。自分の才能にうぬぼれればいい。 しかし、ネタが派手だったころの成功体験を引きずって惰性でやめられずにいるなら、 自分の才能を錯覚しているだけなら、見苦しいだけだ。 うまくいけてるか見苦しいだけかは本人が自分で判断するしかない。 はたから見ててとやかくいうつもりはない。 作家活動と営業とは区別できない、というのは最近わかってきた。 だが、作品にみるべきものがないのに営業ばかりやってるのがほとんどの作家の実情だ。

無料キャンペーンは5日間なのだが、キャンペーン期間とレポートの期間にはずれがあって、 実質6日間の記録がみれる。 面白いのは2日目にピークがあり、 3日目はへこんで4日目に小さなピークができる、というパターンがあるらしい、 ということである。 1日、2日目に落とすひとというのはたぶんはきんどうさんのところなどの速報を見て落としている。 きんどうさんのような広報をしてくださる方にはやはり感謝をしなくてはならないと思っている。 4日目に落とす人はたぶんアマゾンのランキングを見てそれで目について買っているのかと思う。 私もどちらかと言えば後者な人だ。 よほど注目している作家(たとえばツイッターでフォローしている)でない限り、 出ていきなりは買ったり落としたりはしない。 キャンペーン期間が終わりかけたころにやっと気づいて買うほうである。

kdpはやはり最初の頃に比べるとインパクトは薄まっている。 kdpに近いことは、やり方はさまざまだがアマゾン以外でもはやってきている。 たぶん au がやってるくらいだから docomo も softbank もなんかやってるに違いない。 google も apple もやってるに違いない。 電子書籍のユーザーというのはようはスマホユーザーであって、 いわゆる読書人ではなく、 ほんとうの読書人というのはそんなたくさんはいないはずだ。

ライトなスマホユーザーに対して営業活動をして、その中に稀に存在している、 ほんとのファン、ほんとの読書人に気づいてもらうというのが、私のビジネスモデル、のはずだ。 今小学生や中学生の人たちは将来ほとんど全員がスマホユーザーになる。 その後生まれてくる人たちはほとんど全員電子書籍で本を読むようになる。 今と比べ物にならないくらいにユーザー数は増える。 今のうちにあるまとまった量の本を書いておくことは意外と後で効いてくるかもしれん。

ライトなスマホユーザーに対してライトな小説を提供するのが私の仕事ではない。

私がほんとの読者をどのくらい獲得しているかはわからんのだが、 無料キャンペーンをやるとしばらくわずかだが有料で買ってくれる人がいる。 無料の本を読んで面白かったから有料の本も買ってくださったのだろうと、 勝手に解釈しているのだが、 そういう声無き、お金を払ってくれる支持者というのはうれしいし、 そういう人をどうやって増やすか、 1つ目だけでなく2つ目のピークやそれ以外のピークをどうやって作っていくかが課題だわな。

いずれにしても無料キャンペーンは私にとってほとんど唯一の営業活動なので、 月に一回くらい、 定期的にやるのがよいと思う。 逆に言えば、 執筆量から逆算して月に1度定期的に出版できるような連載物もしくは短編を執筆すべきではなかろうか。 月刊、季刊、そのくらいのペースで出していく。別に今更珍しいビジネスモデルではない。 連載物がたまってきたら合冊して売ればよい。 こまめに執筆こまめに営業して露出を絶やさないことは重要だろうと思う。

無料キャンペーン はコメントを受け付けていません。

もっとライトに

05.26.2014 · Posted in kindle

酒でたとえると、若者はやはり、アルコール低めの甘いカクテルのようなものが好きなわけです。 自分も最初はカクテルなどから酒の味を覚えはじめ、 だんだん飽き足らなくなって、強い酒や苦い酒、臭い酒を飲むようになる。 微妙な味わいの違いをたしなむようになる。 そっから先は日本では違法だが、 なら自分で自分の好きな酒は造ろうなどと考えるようになるだろう。

私が書いている小説というのはたぶんそういうものだ。 だから重い。 難しいというより、重い。 中年オヤジ特有の重さだ。 泥炭臭い、木香の強い、シングルモルトみたいな味。 嵐が丘で農夫が自分で適当に樽でエールを醸してジョッキに酌んで飲んでる。 もちろん常温だ。ぬるくて苦い。 たぶんまずいだろう。 だがそんなものも一度は飲んでみたいと思うのがオヤジだ。 まずくても自分で作ったものが飲みたい。 工業製品ではない、当たりはずれのある、自然と偶然の産物が飲みたい。 近代以前の、家内制手工業みたいな状態に立ち返ってみたい。

現代社会に生きているある種の反動なのだろう。 自分でもしかし普段は軽い酒を飲むし、 飲みすぎれば限りなくウーロン茶に近いウーロン割りを飲んだりする。 体の調子が良くないというか不安定なのでノンアルコールビールやホッピーの外なんか飲んだりする。 軽い酒はそういう飲み方もできる。 BGM代わりにテレビをつけっぱなしにしているようなもの。

山梨とか長野で、脱サラして蕎麦屋をやってるおやじみたいなことを、 自分もやっているんだなと思う。 蕎麦は地元の天然もの、蕎麦は自分で引いて打つ。もちろん蕎麦粉100%。 儲かるわけがない。 店主にはなれるだろう。そこそこ繁盛すれば、一応プロと言ってみることもできるかもしれない。 しかしそれだけでは自己満足に過ぎぬ。 世間一般ではうどんやスパゲッティが流行る、という構図と同じだ。 多くの中年おやじが次々に同じところにはまる。 だから駄目だとは思わない。 事例研究したうえで、きちんと対策を立てなきゃと思う。

自分で酒を醸して自分で飲むのならともかく、 人に飲ませなくてはならないとすると、 もっとさらっと飲める軽いものをたくさん作る必要があるんだろうなと思う。 そのうち軽い酒に飲み飽きてもっと重いのが飲みたいと思っている自分と同じ中年オヤジの目にふれるかもしれん。 それまでは軽いのを作ったほうがいい。

個人的にはシングルモルトは嫌いじゃないがあまり飲まない。 青酎みたいな臭い芋焼酎を飲んでいたらある日突然飽きていまは焼酎の中では麦焼酎が一番好みかな。 ビールもエビスとかシメイみたいのを飲んでて飽きて、今は普通にピルスナー飲んでる。 スーパードライとかモルツとか軽くて好き。

日本酒はだんだんわかるようになってきた。好きだがすぐ酔うから困る。

もっとライトに はコメントを受け付けていません。

海賊王ロジェールその2

05.24.2014 · Posted in kindle

続編の話ではなくて昨日書いたことの続き。 いつものことながら書いているうちに歴史を調べ地理を調べしてどんどんプロットが変わる。

日本人がほんわかと思っている西洋とかキリスト教に関するイメージをたたき壊すようなそんな作品になってしまった。 そういう意味ではハイジのイメージをぶちこわしにするデーテとかフローニと同じたぐいの作品になった。 なんか怒られそうで今から怖い。

ワンピースみたいな海賊冒険ものを想像して読んだ人も、唖然とするだろうと思う。 たぶん私の中には日本アニメに反逆してやろうという気持ちがあるね。 書いていてそう気づく。

ただまあ、ほんとに西洋やキリスト教を知っている人には、 逆に支持してもらえると、信じてるよ? 高校生の頃からしばらく完全に小室直樹の影響下にあったからな。 やっぱこういうふうになるわな。 宮崎市定とかもだな。

だいたいアルメニア人とかクルド人とかグルジア人とかアゼルバイジャン人とか良くわからんのだよね。 そういう意味では安彦良和はあんなに昔によく「クルドの星」を書いたと思うよ。

ユダヤ教とアルメニア教会は良く似ていると思った。 メジャーな一神教はキリスト教やイスラム教のようになるが、 マイナーな一神教はユダヤ教やアルメニア教会のようになるんだなあと思う。 そしてメジャーなようにみえて一神教の内部も宗派によってこまかく対立しているのだ。 その理由は主に、宗教が結婚というものを規定しているからだ。 家庭が相続というものを規定する以上、 いやいや相続が家庭や結婚というものを規定する以上、 相続とは宗教の教義よって決まる。 ある相続が有効か無効かは、宗教が結婚を有効と認めたかどうかで決まる。 ヨーロッパで王の相続とは国そのものであるから、 教会が結婚や相続の正統性を決め、王はそれを不服として継承戦争を起こす。 対立教皇をたてる。 対立宗派を創設する。 教会と無関係に勝手に結婚して勝手に相続すりゃいいじゃないかと、 まあ日本人なら思うわな。 だんだんそのへんのからくりをうまく説明できるような気がしてきた。

海賊王ロジェールその2 はコメントを受け付けていません。

海賊王ロジェール

05.23.2014 · Posted in kindle

今書いている海賊王ロジェールは、 割と計算尽くで書いたものである。

いくつもキンドルで本出しているとだいたい傾向はわかってくる。

私の書いたものの中では、日本史ものよりも世界史ものの方が読まれる。 エウメネスだけでなくエウドキアもわりと読まれている。 これらに比べると日本史ものは全然読まれてないと言っても良い。 洋物でも、フローニとかデーテはあまり読まれてない。

世界史、特にギリシャ関係の話は、受けるらしいのである。 といってめちゃくちゃ売れているわけではないが、 どうも私はしばらくの間はギリシャものだけ書いて、 こつこつ読者を獲得していればいいんじゃないか、とすら思う。

世界史は複雑だ。 情報量が圧倒的に多い。 できるだけたくさん集めておいて、 ストーリーに直接絡まない部分を大胆に捨てる。 教科書的、ウィキペディア的な記述にならないように。 かといってディテイルを落とさないように。 正直難しいが、その分やりがいがある。

今回かなり作って書いている。ある程度技を覚えたともいえる。 も少し若い頃から書き始めていればよかったとも思える。 「紫峰軒」や「スース」「超ヒモ理論」「安藤レイ」なんかはわりとさらっと書いている。 普通の現代小説(でも、あまり読まれてない?)。 我ながら同じ作家の作品ではないなこりゃと思う。 言っちゃ悪いが新人賞に応募してもほとんどなんの反応もない。 パブーに公開しても、読者が何考えてるかよくわからん。 しかしKDPだとかなりわかる。 書いているうちになんとなく読者や編集者の気持ちまでわかるような気がするのだ。 逆にいうとこう書けばきっと読者は喜ぶに違いないなんて書き方をするようになった。 悪いことじゃないと思う。 今までは自由すぎて逆に書きにくかったともいえる。 自由に書いてまったく反応が無いでは書きようがない。 ともかくKDPはありがたい。

KDPは自分で作家や作品を選べるのが良いと思う。 普通の読者は、書店で本を買うような読者は、実は本を自分で選んで読んでいるのではない。 本屋で平積みになってたからとか宣伝してたからとかドラマ化されたからとか映画化されたからとか、 そんなんだ。 だからソニーリーダーみたいなビジネスモデルが成立する。 選択の余地はほとんどない。 ただ流行の本、推してる本を読まされるだけだ。 KDPはそうではない。 そうじゃないことに気がつく人はこれからますます増えるだろう。 私もそういう人に読んでもらえれば十分だ。 というかそういう人をターゲットにするしか読者を獲得する方法が私にはない。

とりあえずこの複雑なストーリーをなんとか読者に最後まで飽きずに読ませることが必要だ。 複雑さ、おもしろさで言えば「将軍家の仲人」も捨てたもんじゃない。 だけど、新井白石や徳川家宣では地味すぎて読者はなかなかついてきてくれない。 十字軍ならなんとかなるんじゃないかという一縷の望みがある。 「十字軍物語」とは全然違う。 塩野七生の書いたものは、たしかにローマ人の物語の、 ハンニバル戦記あたりは面白いし参考になる。 しかしやはり教科書的であって小説っぽくない。 もう少し書きようがあったんじゃないかと思えてしかたない。 今は英語版Wikipedia他を検索すると、かなり膨大な情報が得られるから、 そう思うだけかもしれんが。

塩野七生が売れているのはおそらく需要の割に供給が少ないからだろう。 なんでか知らんが日本人はああいうのが好きなのだろう。 そして実際書けるひとは少ない。 高校のときちゃんと世界史勉強してないからだ(笑)。 三国志とか信長とか秀吉とか龍馬とかばかり読んでいて脳がやられてる。 だから私が書いてやろう。

読んだことはないが(汗)トルコ人のノーベル賞作家が書いた『わたしの名は紅』に近いんじゃないか。 とにかく書いてて調べてて話がもうどろっどろで気持ち悪くなった。 まじでどろっどろな話なので気をつけてください。 だけどこういう陰謀物でメンヘラな話だと最後まで読める人が多いような気がするんだよな。

これも旧作のリメイクなんだけど、 もとの話は世界広すぎて一度に書けないから短編にばらして書くことにした。 ある意味「エウドキア」の後に続く十字軍をすっ飛ばしてその後の話を書いた。 十字軍も書くかなあ。 手垢の付いたネタは好きじゃない。 「ベタを恐れない勇気」とか言われてそうかなあとは思うが、 そこまでまだ作家に徹し切れてない。 いや、それ以前に、十字軍の話はつまらんよ、 神殿の中は床にくるぶしまで血がたまったとか。ばかばかしい。 キリスト教徒、とくにカトリック信者によるバイアスがかかりすぎている。 それをクリスチャンでもムスリムでもない視点で直すのが面白いと言えば面白いかな。 続編書くかどうかは反応しだいだな。

ロジェールだが、 英語だと Roger (ロジャー)。 イタリア語だと Ruggero (ルッジェーロ)。 だが古ノルド語では Hrod-Ger であって、ノルマン人がシチリアにやってきたときは、 ロッゲール、と呼んでいた可能性が高いだろうと思う。 dg がgyになまってロッジェール、あるいはロジェールと呼んでいた可能性もなくもない。 フランス語だとロジェ。 ドイツ語だとロギーア(ロギエール)。Rutgers とも綴るらしい。 実際に Roger と書いてロジェールと読む名があるのはスペイン語かポルトガル語くらいらしいが、 結局ロジェールとした。 ロジャーとはしたくない。 ちなみにラテン語だとロゲリウス。

Baldwin は現代フランス語読みではボードゥワン、 Gottfried はゴドフロワなどと呼ぶが、十字軍のころ、 こんなすかした呼び方をしたはずがない。 Bald-win はすばやい、容易な勝利、という意味のゲルマン語であるし、 Gott-fried は神の平和という、やはりゲルマン語である。 Baudouin、Godefroy じゃ意味がわからん。

ロジェールはおそらくパレルモからほとんど動かなかった。 シチリアからメッシーナ海峡を渡りナポリまでも行かなかったらしい。 だが、アブドゥル・ラーマンゲオルグなどの個性豊かな海賊が部下にいた。 だから「海賊王」なのである。 続編を書くとしたらゲオルグあたりが実際の主人公になると思う。 ていうかしないといけない。

「ベタを恐れない勇気」って誰が言った言葉かと思ったら、 直木賞作家の辻村深月が言ってたわー。

ベタを恐れない勇気というか、そういうものを、たぶん一番上質なお手本としてドラえもんや藤子先生や他の作品から教えてもらったんだと思います

ベタを恐れるっていうか。 ベタなの書くのが嫌いなんだよね。読むのも嫌い。 自分以外の誰かが書いて読めばいいと思う。

海賊王ロジェール はコメントを受け付けていません。

05.16.2014 · Posted in kindle

ふと「エウメネス」の最初の頃のバージョンを読み返してみた。 それはこんな具合に終わっている。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

私は驚嘆した。王はまさしく世界の王である。この世に人類が生まれて何千年、何万年が経っただろうか。これから何万人、何百万人の王が地上に生まれるだろうか。しかし、私は彼以上に偉大な王はかつても、これからもいないと確信する。

そんな惚けた私の顔を見て、私の心を見透かしたのか、王は照れくさそうに言った。

「エウメネスよ。おまえは私がやることなすことを一つ漏らさず後世に伝えたいと言っていたから、今私が兵士らの前でやったことも、一つの美談として書き残すに違いない。

よろしい。私が死ぬまでは真実を語ってはならない。しかし私が死んだら、ありのままにこう記してほしい。

おまえは、私があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかし違うのだ。私は用心していたのだ。私は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を横から手を伸ばして食い、兵士らが飲んでいる水を分けてもらって飲む。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。

だが、兵が王に献上してくれた水をただ捨てたのでは、兵は腹を立て、私が兵を信頼しないように、兵も私を信頼しなくなってしまうだろう。だから私は少し演出を加えて、私がたぐいまれな克己心によって、水を飲むことを拒否したように思わせたのである。」

わかりやすい。 エウメネスは明確に王の書記官として、史官として現れていて、 王がときおりエウメネスに自分の真情を語って聞かせるのは、 エウメネスに託して後世に伝えるためだ、と書かれている。 まだアマストリナもラオクスナカもここには現れない。

さらに古いバージョンではタイトルは「メガス・バスィレウス」となっており、

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

といきなり沙漠の話から始まり、

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

と言わせている。 これまたわかりやすい。 そして最後にエウメネスに「バスィレウス(王よ)!」と叫ばせてしめくくっている。

だが私はその後エウメネスに絡ませるため、また王が兜の水を捨てるシーンをよりドラマティックに演出するため、アマストリナというヒロインを登場させ、 さらに男女関係を複雑にするためにアパマまで追加して、 ガンダーラから話を始めることにし、スーサ合同結婚式を後書き代わりに付けたした。 またエウメネスの主観視点(一人称)の話にした。 「バスィレウス(王よ)!」というしめの台詞も省略し、

「私が今言ったことはアマストリナには秘密だ。他の誰にも秘密だ。なぜだかふいに、おまえにだけは打ち明けてみたくなったのだ、エウメネスよ。」

と、王はただの気まぐれでエウメネスを自分の独り言の聞き役にしたことにしてしまった。 わかりにくい。 なぜこの話はここでいきなり終わっているんだ?と不思議に思うだろう。 読者はこれはエウメネスの物語だと思うだろう。 よく読めばそうではないことがわかるが、 読まない人はエウメネスが主人公でアマストリナがヒロインのはずだが、 なんかおかしな話だなと思うだろう。

今から思えば私はアマストリナのキャラを立てすぎた。 しかもエウメネスは他のマンガの主人公になっていて、やはり余計にキャラが立ちすぎた。 ほとんどの読者はその先入観なしでこの小説を読まない。 本来、王の観察者にして読者の代理人にしかすぎないキャラが立ちすぎて、 ほんとの主人公みたいになってしまった。 書いてるうちに脇役が勝手に暴走し始めるのは私の小説ではよくある。 いつの間にかメインのキャラの一人になってしまうことがあるが、 それはそれで面白いのでほうってある。

もともとこの小説は、 アレクサンドロス大王が主人公の話であった。 アレクサンドロスというよりは、アノニマスな「王」について語る話だった。 歴史上もっとも王らしい王、典型的な王、 誰もが知っている有名でわかりやすい王という意味でアレクサンドロスを選んだが、 しかし、作中ではずっと「王」で通した。 「王とは何か」ということを読者に問う作品だからなのだ。

「王とは何か」とは私の中では「天皇とは何か」という問題であって、 それはより根源的には「武士とは何か」という問題である。 武士と天皇は相対的なものである。 その二つはもとは「王」という一つのものであった。 私はずっとこの問題について考えてきた。 私の歴史小説は要するにその問いに対する解答を記述しているものだ。

もしエウメネスが「王よ!」と叫ぶ台詞であの小説をしめくくっていれば、 或いは「メガス・バスィレウス」というタイトルであれば、 私の意図はもっとわかりやすかっただろう。 しかし私は読者をもっと作中に没入させ、自分の問題として考えさせたかった。 FPS (first person shooter) の手法を借りて。 つまり作者はどうしても神の視点から物語を作ってしまう。 神がいろいろ親切にヒントを与えてしまう。 それは避けたい。 プレイヤーはノーヒントでいきなり現実の中に投げ込まれる。 そして自分で答えを見つける。 そういう小説にしたかったのだ。 そう、ハーフライフ2のように。

もし王がそういうふうに自分だけに真情を吐露したときに、 自分ならそれに対してどう思うか。 怒るかもしれない。 あきれるかもしれない。 がっかりするかもしれない。 余計に王を好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。 だが、エウメネスに「王よ!」と叫ばせてしまうと、 その答えを作者が提示してしまうことなる。 それは避けた。 読者に私とは違う解釈をする余地を残したつもりだった。

だが、そこまでたどり着けた読者がいただろうか。 そう、私自身、当初の意図がわからなくなりかけている。 まして私以外の人が正確に読み解くことができようか。

エウドキアや江の島合戦はもっと読者に親切に書いてある。 私が読者というものを以前より信頼しなくなったからでもある。

もしおまえが苦痛に快楽を覚え、快楽に苦痛を感じるようになれば、おまえもまた王の仲間入りをしたのである。

王は、戦場にいて、勝ち続けているうちだけが安全なのである。

王は、自ら偶像を演じねばならぬ。

だが一方ではこんな具合に「王とは何か」という答えを王に言わせてしまったりしているから、 難易度はいくぶんか下がっているはずだ。 たぶんこれも読者にはわかりにくいと思う。 私はバブルの絶頂期に隠者のような仕事を選んだ。 世の中が安定を求めるようになると転職した。 他人と逆のことをやるのが正しいと信じているところがある。 それが「王」に対するシンパシーになっているのだが、 多くの読者には共感できないだろう。 こんなふうに種明かししない限りは。

なぜこの話はこんな中途半端な終わりをしているんだろう。 作者の意図は何か。 作者はたぶん読者を突き放して、ラストは自分で考えよと言っているらしいな。 読者はそこまではたして気づくものだろうか。 私自身久しぶりに読むとそこがとても心許ない。

ジグソーパズルは途中まで組み立てれば何の絵が描かれているかはわかる。 残りは読者の想像に任せよう、自分と同じように補ってくれるかな。 それとも全然違う絵で補間してしまうだろうか。 そんな楽しみはある。 「川越素描」も長編なのに「素描」と言っているのは、 書かれていないことの方がずっと多いからだ。 ある意味私の作品はすべて素描だ。 細密画のようにすべてを緻密に描きこんでいるわけでない。

王 はコメントを受け付けていません。

営業

05.11.2014 · Posted in kindle

酒を飲む習慣はなかなかやめられないが、だいぶ量と回数は減らしたと思う。

主に近所の飲食街を放浪するのだが、 行列が出来てたり満席だったりする店がある一方で、 がらがらに空いてる店もある。 空いている店は広告を出してないのだ。 混んでる店は何か広告を出している。 広告を出して客がくれば動く金は大きい。 広告を出さなきゃ金はかからないが客はあまりこない。 どっちもどっちな気がする。

この町に遊びにくる連中は、この町を知らないから、 本を買ってどの店にいくか決めてからくる。 だから特定の店に客が集中するのだ。 わざわざ並んで混んだ店で飲み食いして何が楽しいのか。 それだけの価値があるとでも思っているのか。 そういう遊び方しかできないのだろう。 空いててすぐに料理がでてきてそこそこおいしい店なら、 ちゃんと探せばある。 まあ、自分でちゃんと探す、ってのが素人(笑)には難しいんだろう。 飲み屋で楽しむにもそれなりに時間と投資が必要だからな。 いきなりはできないことだ。

極端な話、出版業界と個人出版の関係も似たようなものだ。 資本を投入してがんがん売ってなんとしても資本を回収するのが出版業界。 いろんな関係者がそれで飯を食っている。 給料をもらい、原稿料をもらい、印税をもらっている。

それはいいが、疲れないか。 したくもない仕事をし、書きたくもない本を書いて、 とにかくお金を回して、後に残るものはなんなのか。 10年後にはほとんど忘れ去られるようなものを書いてなんになるのか。 確かに一つか二つ、後の世に残るような作品が書けるかもしれないが、 別に無理に出版業界に属しなくてもいいんじゃないか。 後世に残る確率は大して違いないんじゃないのか。 KDPとか、或いはもっと他にも出てくるかもしれんが、 個人商店みたいにやってればいいんじゃないか。 イオンとかイトーヨーカドーみたいなのはスケールメリットあるかもしれんが、 本を書くというのは、結局は個人の仕事であり、 あんまりスケールメリットは効かない。 むろん営業とか編集の人がいた方がいい。 それを言ったら税理士とか法務部とかもあったほうがいい。 どんどん人手がかかってきりがない。 なんもなしでいいじゃないか、と思う。 本居宣長や滝沢馬琴だってそうだったんだから。 今の方が異常なだけではないか。

もともと私は営業には向いてない。 いまさら営業やる必要なんてないと思う。

営業 はコメントを受け付けていません。