亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘映画’ Category

鳥刺し2

02.08.2017 · Posted in 映画

藤沢周平の原作を読んだ。

やはりなと思った。 帯屋は、あんなふうに、城内にどやどやと押し入ったのではない。 藩主の近習部屋の者たちが、みな帯屋に内通していて、 あるいは帯屋に内通しているものが近習部屋の者たちをどこかほかの場所に連れ出していたのだ。

そして帯屋は誰にも見とがめられることなく、藩主のいる部屋までやってきて、そこで兼見にいきなり遭遇して、斬り合いが始まる。

こうでなきゃおかしい。 帯屋は、ちゃんと段取りを組んで、藩主一人と対峙するつもりだった。

あるいはだ。帯屋に内通していると見せかけて、帯屋を油断させて、実は中老の指示で、 近習部屋のものたちは隠れていて、わざと帯屋と兼見を一対一で斬り合わせた。 そういう設定でもよい。

帯屋がわあわあわめきながらたった一人で屋敷の中に闖入してくるはずがない。

兼見だが、醜男で剛直な、鋼鉄のような、愚直な男として描かれている。 自らの信念で、側妾をあっさり殺してしまった。 まあ、これならまだわかる。

最後の立ち回りもあっさりしている。

やはり原作には無理はなかった。 脚色が悪い。

藤沢周平のほかの作品もいろいろ読んでみたが彼はまともな作家だと思う。 彼の話では、本来、主人公もヒロインもそんな美男美女ではない。 しかし美男美女でなくては映画にならない。 派手な殺陣がなければ時代劇にならない。 だから脚色と原作の関係に無理が生じる。

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必死剣鳥刺し

02.01.2017 · Posted in 映画

『必死剣鳥刺し』を見たのだが、美しい映画だが、おそらくは脚色に問題がある。 原作がこんなに間抜けなはずはない、と思うのだ。

まず、お家騒動というものはこのように起こるものではない。 家老の帯屋が主君を隠居させて世嗣を立てようとしたとして、 いくら帯屋が剣客であろうが、一人で城に日本刀をひっさげて乗り込むはずがない。 死ぬ気で諫めるというのならともかく、本気で主君を斬ろうとしているようにしか見えない。 あり得ないことだ。

また、お家騒動というものは頻繁に起きたことで、家老レベルならともかく、 徒党も組まずに、主人公の兼見三左エ門が義憤で側室を殺害するなどというのはかなり苦しい筋書きだと思う。 たとえ妻を亡くして死に所を探していたとしてもだ。 側室連子の横暴ぶりが殺害動機のように演出しているのはどうかと思う。 いずれにしても、兼美はごくまじめな目立たない武士だという設定では違和感がある。 かなり奇矯な性格だった、とするならばまだわかる。

それから、やくざの出入りであっても槍や長刀は使う。 まともな考証をしたやくざ映画ならそうする。 武士だからといって全員が日本刀で斬り合うということはあり得ないし、 大名ならば鉄砲ぐらいもっているだろう。 乱心者が出るとわかっているのであれば、鉄砲と槍を用意しておけば足りる話であり、 これもまた、日本刀どうしで斬り合いを演出するための間違いだ。

藤沢周平の原作を読んだわけではないので推測するしかないのだが、原作はこんなではなかっただろう。 ああいう派手な殺陣のシーンで盛り上げるためにこんなふうになったのに違いない。 里尾という亡き妻の姪との交情というのも、たぶん後付けのものだろう(まあ別に入れたけりゃ入れてもいいが)。

たとえば吉良邸討ち入りだって、ほんとに討ちとろうとするならばああいうふうに用意周到にやるものだ。

テレビドラマならともかく、キルビルじゃあるまいし、 まっとうな映画なら、日本刀だけの殺陣のシーンなんてものは作らないものだ。

私ならば、帯屋は、少数の手勢をつれて深夜に屋敷に侵入しようとすることにするだろう。 帯屋は家老なのだから、一部の内通者が手引きして、主君の寝所まで帯剣のまま入り込めるかもしれない。 それを察した兼美と帯屋の間で斬り合いが起きる、という筋立てなら無理がない。

そういう、映画にするため付け足したと思われる部分が気になってしかたない作品だ。 たぶん、売れる映画を作るためにそうしたのではない。 どうみても売れる映画を作ったようには見えない。 おそらく役者と、役者のファンのためにこのようなことをしたのだろう。 どうも今の日本映画は、どれもこれもそんなふうに、 芸能プロダクションと一部のファンが牛耳っているようなな気がしてならない。

兼美が帯屋を殺すとわかっていて、兼美をいかしておいたという設定も、かなり苦しい。 都合がよすぎる。 兼美を用心棒として飼っておいて、たまたま帯屋が乗り込んできて、彼を討ち取らせたあと、 兼美の乱心だと見せかけるために、兼美を殺した、 という手を思いついたというならまだ良い。 お家騒動はかならず幕府の処分を受けるので、隠そうとするのはわかる。

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インターステラー

01.14.2017 · Posted in 映画

インターステラーみた。

オチが少し面白いかな。 はるか未来の人類が五次元に進出してとかいうあたりが反則技っぽいけど。 まあ見ても損はない。

マン博士役が火星の人だった。

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ローラーとバイオリン

10.06.2016 · Posted in 映画

わざわざ見るほどのものではないと思うが、 なぜこのタルコフスキーの学生作品がニューヨークの学生コンクールで優勝したかを考えてみるのは面白いと思う。

アスファルトを平らにならすローラーを運転している貧しい若者と、 バイオリン教室に通う金持ちの子供の話。 アメリカ人にしてみると、社会主義ソビエトにも、 貧富の差とか、文化の差があるのかと興味深かったと思う。 そういう好奇心をかき立てる作品だったのではなかろうか。

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ボウリング・フォー・コロンバイン

10.06.2016 · Posted in 映画

この映画のキモなんだが、

2001.9.11 以後に取材されたものだと思われるが、 アメリカとカナダでは銃や弾の所有率や買いやすさなどはほとんど同じなのに、 カナダではほとんど銃犯罪が起こっておらず、 そのうえカナダでは家に鍵をかけさえしない、ということだと思う。 犯罪の街デトロイトの対岸サーニアですらそうなのだ。

マイケル・ムーアはその理由を分析するが、 アメリカという国が原住民を銃によって虐殺し、 さらには黒人奴隷が白人に対して暴動を起こすのではないかと内心怖れているために、 護身用の銃がないと精神的に不安なのではないかというのだ。

アメリカでも犯罪は減っているが犯罪を報道する回数は何倍にも増えているという。 メディアが不安を煽ることが、銃乱射という犯罪を生み出しているのではないかともいう。

なるほど、人種差別や凶悪犯罪はじょじょに減っているのだろう。 しかし、視聴者の関心が高いという理由で、メディアがある特定の犯罪を取り上げることによって、 そういう刺激的な犯罪が次第にエスカレートしていき、 模倣犯を生むという悪循環を作っているのだ。 この連鎖は、一度生み出されると、つむじ風のように、簡単には消えず、 エネルギーを吸収して成長すらする。 そのエネルギーを供給しているのは明らかにマスメディアであり、民衆の恐怖心だ。 多くのアレルギーや精神疾患がそうであるように、一度発症してしまうと、もとに戻すのは難しい。 アメリカではその不安と恐怖が世代をこえて再生産されている。

カナダにはそんな悪循環がない。 もともと犯罪件数が圧倒的に少ない。 だから、スーパーマーケットで銃弾を売っていても、 免許さえあれば簡単に銃を入手できても、 アメリカの俗悪な犯罪ドラマが国境を越えてあふれていても、犯罪はおこらない。

少なくともカナダの事例を見れば、銃規制に意味はないという全米ライフル協会の主張は正しい。 これは歴史的、社会心理的な問題なのだろう。

日本を見るに、日本はもともと銃や刀の規制は緩かった。 しかし戦後、暴力団どうしの抗争が社会問題化することによって、銃刀法がだんだんに厳しくなっていった。 戦前も刀を使ったやくざの出入りというものはあったのに違いないが、あまり問題視されていない。 やはり戦後の混乱とマスメディアのせいなんじゃないかと言う気がする。 そして銃規制や、ましてゲーム規制なんてことはあまり関係ないんじゃないかという気がする。

探偵物や刑事物に出てくる事件も統計と乖離しているのはあきらかである。 女性がいきなりストーカーに刺される、みたいなドラマにしたてやすい事件ばかりが繰り返し出てくる。 こういう風潮が社会心理というものを著しくゆがめ、犯罪を助長し再生産ているのではないのか。

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10.02.2016 · Posted in 映画

アマゾンプライムビデオというやつを最近は良くみるようになった。

J:Com の CATV でせっせと録画していたのだが、最近は録画はめんどくさくなってほとんど使ってない。 もったいない。 でも BS で自動予約録画する番組がいくつかある(酒場放浪記と女酒場放浪記だが)。 まあ使っていくしかなかろう。

そんで今日は、「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」を見た。

「東京ゴッドファーザーズ」は15年くらい前の東京が舞台で、今とはかなり違ってしまっている。 新宿中央公園にはもはや浮浪者のビニールシート小屋なんてないし、 もう誰も公衆電話なんて使わない。 勝手に線路に下りたら点検のために電車が止まっちゃうから普通捕まる。 いろんな意味で15年前の東京はまだまだいい加減だった。 新宿南口にはまだ屋台が出てたし。 東京で知り合いと偶然出会う確率はほぼ0%だ。 帰る路線が同じで帰宅時刻もかぶってたりすれば別だが。 しかしその偶然が余りにもかさなりすぎるし、しまいにゃ宝くじにあたったりするのがしらける。 そういう偶然に頼ったストーリー展開は、私ならやらない。 全部が偶然で出来ている話は書いてもいいがプライオリティが低く、 ほとんど全部を必然で組み立てていてそこにご都合主義の偶然を一つ混ぜるとすべての努力が無になるからだ。 まあ、2000年頃の新宿の雑多な風俗をアニメで表現した作品、として見れば良いのかもしれないが。

「パプリカ」には困惑する。 夢の中でまた夢を見る、他人との夢、現実とが混ざり合う。 それはそれで面白いのだが、やはり「夢オチ」はしらけるものだ。 「東京ゴッドファーザーズ」と同じようにそのしらける技を徹底的に反復したという意味で、ふっきれているつもりなのだろうが、 なんというのかなあ。こういう派手なけばけばしい作品を作られると、 まじめな作品を作ろうとしている人間にとっては、迷惑な部分もあるんだよな。

面白いから許すというところまでふっきれてないというのかなあ。 筒井康隆の原作があるから完全な娯楽に徹してない。どこか思わせぶりだ。 たぶん筒井康隆の原作は、読んでないからわからんが、その夢オチ特有のしらける感じをうまく回避して作品を成立させてたんじゃないかと想像するのよね。

私としては、「オカルト」とか「ファンタジー」のご都合主義を極力削り落としてリアリズムに徹しようとしているわけ。 で彼らがリアリズムを捨てて虚構に徹しててくれれば棲み分けできるんだけど、 オカルト屋さんやファンタジー屋さんは、リアリズムにもちょっかい出してくるじゃないですか。 ありがちなんだけど。 そうするとリアリズムの世界だけで書いてる人間にしてみると、自分の作品がただの地味な作品に見えて困るのよねえ。 現実にはそんな面白い話は簡単にころがってない。 その制約のなかでいかに面白く、地味じゃない話を作るか。 起こりえることを、それが起こる前に思いつくことには意味がある。つまりは予言だわな。新規性。 手垢の付いてないストーリー。処女地の開拓。 起こった後なら取材だわな。ま、それにはそれで価値はあるが。 一番つまんないのはテレビか何かでみたような展開をご都合主義という糊で貼り合わせたような作品だよね。

「シン・ゴジラ」なんかは割と硬派な作りで、フィクションとリアリズムが一つの作品の中に共存しているんだが、 互いを極力侵さないようにしている。 しかしフィクションとリアリズムがお互いにもたれ合ってるのは見てて不快よね。 シン・ゴジラは、 ゴジラはフィクションなんだが、自衛隊や米軍はリアリズムでできてるよね、少なくとも前半までは。 ヤシオリ作戦からおかしくなる。ゴジラが気絶してるうちに口から注入するとか、 爆弾電車ぶつけるとかドリフのコントだよね。 ヤシオリ作戦は単なるエンターテインメントの怪獣映画になっちゃっててサービスのつもりかもしれないが、私にはつまらない。 まともかくフィクションとリアリズムは混ぜないでほしいというのが私の感覚。

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ソラリス総括

10.02.2016 · Posted in 映画

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、 これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。 画質音質などに違いはあるのかもしれないが。 タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。 それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、 そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、 ジョージ・クルーニーが主演して、 ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、 最初の雨のシーンや、 宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。 レムの原作では、 クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、 何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、 たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、 そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。 ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。 ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、 心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。 そういうふうな書き方ではない。 ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、 冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。 さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、 「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、 昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、 ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。 そのメッセージは謎めいていてよくわからない。 ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、 おそらくアメリカ社会において、 心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、 その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。 アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。 原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。 見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。 クリスは間に合わなかったんだなと思う。 そう思えば自然な流れだ。 それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。 ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。 ここまでSF的要素は極めて希薄である。 スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。 ソラリスというものについても何も説明されない。 単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、 患者はすでに自殺していたという流れだ。 レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、 先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。 セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。 セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、 以後、 妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。 死んだ妻との再会、懺悔。 ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、 なんとも意味不明に見えてしまう。 おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。 精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。 そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、 やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、 この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。 別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、 映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。 だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。 男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。 きっとそういう事情がある。 日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。 これがレムのSFなのだ。 他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。 レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、 実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、 レムはそう言いたいのである。 レムの小説を読む価値はここにある。 レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。 人間の持つ先入観と戦う作業。 しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。 観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。 難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。 私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、 アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、 90分に縮めた日本語吹き替え版は、 レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。 おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。 ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、 ラストが意味不明になってしまっている。 誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。 そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

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10.02.2016 · Posted in 映画

「君の名は。」が大ヒットしたというのだが、 一部の年齢層の一部の客が見に行って、延べ100万人超えたというだけのことだろう。

よくわからんのだが、 試写招待券はともかくとして、先行上映券や前売り券、平日鑑賞券なんかをばんばんばらまけば、 興行成績というのはかなり盛ることができるのではなかろうか。 実質どのくらい収入があったのだろうか。

私も某演劇を無料で見せてもらったことがある。 知り合いのコネさえあれば、見ようと思えば、人気の無い公演ならばいつでも見られるようだ。 そういうからくりはきっとあるはずだ。 映画館だってホテルだって、開店休業よりは、たとえもうけはほとんどなくても、 少しでも客を入れたほうがマシだと思うだろう。

100万人と言えばなんとなく気分で多いように思うが、 実は大したことないのではなかろうか。

シン・ゴジラは、やらせ無しでガチンコで客を呼んだのではないかと思う。 誰かそういう裏話をしてくれないだろうか。 知っている人はもっと詳しく知っているはずだ。

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タルコフスキーのソラリス

09.30.2016 · Posted in 映画

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は付け足した、などと書いたのだけど、 タルコフスキーはそれに気付いていたか、 或いはレムから直接聞いたのかもしれない。 その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。 が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。 前振りになっていない上に邪魔ですらある。 レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、 おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。 クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。 彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。 スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。 クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。 そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。 車でバートンとその息子が到着する。 この家には少女と馬と犬がいる。 この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。 クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、 そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、 バートン報告のビデオなどないし、 ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。 宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。 タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。 もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。 バートンは息子を連れて帰る。 その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。 今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、 このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。 しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、 私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

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09.26.2016 · Posted in 映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。 離婚した状態で物語が始まる。 或いは別居中である。 仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、 ヒロインは別れた妻で、 子供は妻に取られてて、 困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。 ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、 妻とも子とも仲が良い。 しかし軍人なので家を離れがちであり、 しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。 そんなストーリーはタブーなのだ。

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