亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘宗教’ Category

宣長が養子縁組みして離縁した件

10.08.2016 · Posted in 和歌, 宗教, 歴史

神社は氏子、寺は檀家という。 しかし伊勢神宮では檀家という。 この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。 神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。

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廃仏毀釈

09.29.2016 · Posted in 宗教

明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。

神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。 神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、 物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。 同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。

神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。 タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、 タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。 皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。 神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。 神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、 神仏分離という原則が当然発動する。 この信仰は千年を経ても風化しなかった。

天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、 上皇になってしまえば出家することができる。 同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、 神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。 ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。 天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。 平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。

しかしそういう明確な線引きができない神社では、 神道は仏教によって際限なく侵食されていく。 出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。

八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。 宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。

明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺であった。 八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、 仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。 奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、 また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、 それがために攻撃された。

それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、 一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、 無茶な命令を出すこともあった。 しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、 平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。

神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、 しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である。 上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない (というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。 明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、 清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、 仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。 特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、 江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、 ある程度まで見直される必要があった。

廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、 神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、 神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。 また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。 ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。 仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。 その後、仏教そのものの衰退によって、 「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。

日本には寺が多すぎる。 江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。 特に関東の人間にはそれがわからない。 平気で寺の隣に神社を建てたりする。 京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。 その、神道と仏教は区別しなければならない、 という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎるのである。 神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。

鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、 南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。 しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。

もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、 キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、 反発する日本人は少なくないだろう。 しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。

神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、 かろうじて染まらなかったのは幸いだった。

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『正法眼蔵随聞記』2-1

08.29.2015 · Posted in 宗教

是によりて一門の同学五根房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり。

葉上とはまさしく栄西のことである。 道元が栄西のことを「一門の同学」と呼んでいるのは興味深い。 このくだりは、仏像や仏舎利などを崇拝したり、戒律を遵守し一日中読経するのは、あまりにやりすぎれば逆に外道となる、 南宋の僧も必ずしも戒律にはこだわらなかったし、栄西も戒律にこだわるのを捨てさせたというのである。

道元は栄西を同じ宗派だと考えていたのだろうか。

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亀山天皇と臨済宗

06.21.2015 · Posted in 宗教, 歴史

臨済宗はもともと鎌倉だけのもの、武士だけのものだった。 ところが亀山天皇が臨済宗南禅寺を建ててここで出家したものだから、 京都でも、公家の間でも、臨済宗が流行ることになった。

亀山天皇はなぜ臨済宗を信仰したのか。

私は、藤原為家(定家の息子)は臨済宗だと確信している。 為家は中院禅師、冷泉禅門などと呼ばれているから禅宗には違いない。 では曹洞宗か臨済宗のどちらかということになる。

為家の時代、曹洞宗は道元が越前の山奥に永平寺を建てたばかりで、ほとんど影響力はなかったと思われる。 一方、臨済宗はすでに北条時頼によって鎌倉に建長寺を建てていたし、 それ以前に泰時が東勝寺を建てており、 さらにそれより前に、北条政子の発願によって栄西が寿福寺を建てている(政子は二品禅尼と呼ばれるから明らかに臨済宗である)。 寿福寺と東勝寺は鎌倉中に作られた日本最初期の禅寺である。 建長寺は鎌倉の外、山之内に建てられた。 為家は関東申次西園寺の血を引いている。 西園寺は当時では珍しい、鎌倉寄りの公家である。

これらの状況証拠から為家が臨済宗だったのは99%確実。 為家は晩年嵯峨中院、つまり後の亀山殿に住んだ。 亀山天皇は為家に影響を受けて臨済宗に親しんだ。 おそらくそうにちがいない。 ちなみに北条氏はみな臨済宗である。

栄西の元で最も早い時期に禅宗に帰依したのは池殿こと平頼盛だったと思う。 というのは頼盛は栄西の檀那だったからだ。 為家も非常に早い。

臨済宗の寺に鎌倉五山、京都五山という格式があり、南禅寺はその中でも別格、最高とされる。 これは亀山天皇による(日本初の)勅願禅寺であったためと、亀山天皇の孫に当たる後醍醐天皇が南禅寺を重んじたためだ。 南禅寺の住職は日本人だった。 建長寺の住職が中国人であり、またのちに建仁寺にも鎌倉から中国人の住職が送り込まれるのだが、 南禅寺は臨済宗の寺であるのに中国人を住職とはしなかった。 南禅寺が日本の臨済宗の中で別格とされるのは京都独特の公家趣味と言わざるを得まい。

室町時代になると足利氏が京都に住むようになるわけだが、東国武士の足利氏が臨済宗を重んじたのはある意味当然。

建仁寺の創建に栄西が関わったのは事実かもしれないが、初期の建仁寺は純粋な禅寺とは言えない。 栄西が帰宋後博多に建てたという寺もおそらくは純粋な禅寺ではない。 栄西は鎌倉という新天地で、頼朝や政子といった理解者に恵まれて、初めて日本に独立した禅寺を建てたのだ。 それが寿福寺である。 だから本来臨済宗で一番伝統ある寺は寿福寺であり、従って最も格上であるべきだ。 足利氏と京都の公家があとからそれをゆがめてしまった。 おかげで我々は禅宗というものがどのようにして広まったのか、 誰の功績であるのか、わからなくなってしまっている。

臨済宗はもともと座禅などしなかったと思う。 座禅は道元の曹洞宗が流行らせたものだ。 臨済宗はもともとは実学的、宋学的な性格が強かったはずだ。

九条道家は東福寺を建立したが、彼もまた臨済宗だったようだ。 どうもね、藤原定家の周りはみんな臨済宗なんだよね。 定家もやはり臨済宗だったと思うが確証がない。しかし、彼が禅の影響を受けているのは間違いない。

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焼き尽くす献げ物

10.06.2014 · Posted in 宗教

「燔祭」か「焼き尽くす献げ物」か?

サムエル記上2:12-16

さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。 民のささげ物についての祭司のならわしはこうである。人が犠牲をささげる時、その肉を煮る間に、祭司のしもべは、みつまたの肉刺しを手に持ってきて、それをかま、またはなべ、またはおおがま、または鉢に突きいれ、肉刺しの引き上げるものは祭司がみな自分のものとした。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルの人に、このようにした。 人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。 その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。

普通に考えて、祭壇に献げた犠牲を完全に燃やしてしまうということは考えにくい。 神道でも仏教でもやらないことだ。 仏壇にお供えした食べ物は普通後で人が食べる。

サムエル記を読む限りでは、 祭司はお供えの肉を食べることがあったようである。 生肉のまま食べてはいけないが、 煮たり、 脂肪を焼いて煙にしてしまった後に残る肉は食べた、と解釈できるように思う。

シロはイスラエル12支族の一つエフライム族の土地にある町。 この時代、幕屋と契約の箱は移動をやめ、このシロに留まり、 やがて神殿が建てられたという。 しかしながら祭司のレビ族はそのまま神殿を管理したのであろう。 契約の箱はペリシテ人に奪われるが、 後に送り返された(ということになっている)。 祭司エリはレビ人であったように思われるが、養子のサムエルはエフライム人のようにも思われる。 レビ人に独占されていた祭司が普通のイスラエル人に移っていったことを意味しているのかもしれない。

レビ記2:1-3

人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、 これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。

穀物が献げられたときも、 司祭はその一部を取って焼くが、残りはレビ族で食べて良い、と書かれている。 つまりレビ族は自分自身の土地を持たず、 自給はできないが、祭壇に献げられたものを食べて生きていた、と考えられるのである。

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モーセとレビ族

10.05.2014 · Posted in 宗教

モーセを出したレビ族は謎である。 イスラエル12氏族は普通に数えると13氏族ある。 しかしながら、 非常に重要な祭司の一族であるレビ族は、継承する土地を持たなかったため、12支族には数えない、 らしいのである。

民数記 01:47

レビ人は、父祖以来の部族に従って彼らと共に登録されることはなかった。

民数記 01:49-51

レビ族のみは、イスラエルの人々と共に登録したり、その人口調査をしたりしてはならない。 むしろ、レビ人には掟の幕屋、その祭具および他の付属品にかかわる任務を与え、幕屋とすべての祭具の運搬と管理をさせ、幕屋の周囲に宿営させなさい。 移動する際には、レビ人が幕屋を畳み、宿営する際にはレビ人がそれを組み立てる。それ以外の者が幕屋に近づくならば、死刑に処せられる。

民数記 02:33

しかしレビ人は、主がモーセに命じられたように、イスラエルの人々と共に登録されなかった。

民数記 26:62

彼ら(レビ族)はイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。

フロイトは「モーセと一神教」の中で指摘している。 p.069

(レビ族は)いかなる伝承も、この部族が元来どこに住んでいたのか、あるいは、征服されたカナンの地のどの部分がレビ族に配分されたのか、はっきりと言明していない。

あるいは Edマイヤーという人の説

モーセという名前はおそらく、そしてジロの祭司一族のなかのピンハスという名前は、・・・疑いようもなくエジプト語である。 もちろんこれは、この一族がエジプトに起源を持っていたと証明しているのではないが、

を引用している。

これらを素直に解釈すれば、レビ族はエジプト人、 少なくともエジプト化したイスラエル人であった。 普通のイスラエル人のように、パレスチナに土地を持った部族ではなく、 エジプトから移り住んだ、となる。

至誠所は臨在の幕屋の中にある。 幕屋というのは遊牧民のテントを思わせる。 定住せず、移動・宿営を繰り返していたようだ。 レビ族は、エジプトに土着した遊牧民であったかもしれない。 やはり彼らがヒクソスなのではないか。 いや、そもそも、 イスラエル人とは、ペリシテ人(パレスチナ人)の土地に侵入したヒクソスのことなのではないか。 ヒクソスはアラビア人の一氏族なのではないか。

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日神論争

02.24.2014 · Posted in 宗教

日の神論争日の神論争2の続き。

「日の神論争」と書くのがうざいので、 比較的ましな「日神論争」と書くことにする。 宣長、秋成双方が「日神」という語を用いていることを確認した。

上田秋成の神霊感を読んで思ったのだが、 宣長と秋成の本質的な違いは、 宣長が一神教的な信仰のことを言っているのに対して、 秋成は一神教は間違いであって多神教的態度が正しい、と言っているところだと思う。 世界的には宣長みたいな人のほうが、秋成的な人より多いが、 日本人には秋成みたいに考える人がマジョリティであって、 多くの日本人には宣長の思想は、キリスト教などの一神教に対して感じるような拒絶を覚えるだろう。

たとえば、西洋ではカトリックとプロテスタントが中世に分かれて戦争に発展した。 互いに同じキリスト教徒だという認識はあっても、 一方は他方を異端として容認しない。

宣長も最初のころは秋成のような考え方をしていた。 中国人が中国を世界の中心と考え、儒教を信仰するように、 インド人がインドを世界の中心と考え、仏教(ヒンドゥー教あるいはイスラム教etc)を信仰するように、 日本人は日本が世界の中心であると考え、神道を信じればよいのだ、そう考えていた。 しかしその考え方自体が日本的な多神教の思想であって、 古代ギリシャ・ローマ的多神教と同じ考えであり、 自分には自分の神様がいるが、他の民族には他の神様がいるというので、納得してそれで終わる。 多神教は結局一神教に一方的に譲歩していることになる。 そういう多神教の相対主義は合理的で理知的態度ではあるが、不公平であり不利であって、 そのために日本の宗教は少しずつ仏教や儒教などに浸食され変質していったのであるから、 我々も他の存在を許容しなくて良い、ひたすら自己の神を信仰すればよい。 そうして自らを純粋に保つべきだ。

この考え方は一神教によく似ている。 他の宗教が存在するのは客観的事実である。 自分の宗教以外の規範が存在することをこちらからわざわざ認めてやる必要はない。 一神教はまず、自分以外の神を信仰することを否定する。 知らんぷりして、無視するだけではなく、 しばしば攻撃したり、転向者を罰したり、戦争を仕掛けたりする。 自己以外に宗教が存在しないことが明白なのであれば、そんなことをする必要はない。 そのこと自体が宗教とは相対的であること、つまり多神教を認めていることにならないか。 だが一神教が多神教を認めてしまってはもともこもないから、 自分の宗教だけがほんとうであって、 他の宗教は見せかけの嘘の宗教である、 そういう主張にならざるを得ない。 絶対的な状態から外れているから現状は相対的にみえるだけだ、ということになる。

一神教とは、人間社会を観察すると多神教のようにみえるが、 実は自分の宗教以外は偽物であって、自分だけが正しい、という主張である。 最初はみんな多神教であったが、 どれか一つが自分は一神教であると主張し始めると、 他の宗教も自分こそ一神教であると言わないと、 不利な立場に立たされる。 だから、一神教は次々に伝播していくが、 その発展過程自体が相対的で多様性があって多神教的なのである。 他の宗教との相互作用によって一神教は次第に洗練されていくのだから。

ギリシャ・ローマの多神教が滅んでしまったのは、 一神教の方が優れて好ましい宗教だからではない。 多神教が一神教に一方的に譲歩したせいだ。 一神教のほうが多神教よりも排他的だからだ。 不寛容な宗教が寛容な宗教を長い年月の間に駆逐してしまう。 おそらく宣長が出てかの不寛容な宗教を唱えなければ、 今も日本は仏教や儒教が神道と混淆したままだろう。

日本人でも親鸞や日蓮などは一神教的であるが、 宣長より前の人たちはいずれも仏教や儒教、あるいはキリスト教などの外来の思想を輸入することによって、 その境地に達したのである。 宣長は、仏教や儒教の影響を徹底的に排除し、 それ以前の原始神道を発掘補完することによって、 つまり考古学的古文辞学的手法を用いて、 一切外来の思想によらずに、 一神教的境地に初めて達した日本人である、 国産の一神教を創始した人である、ということがいえよう。 借り物ではない、純国産の宗教が必要だと最初に気づいた人なのだ(実際その需要はあったわけである)。 そうしたときに、秋成のような横やりが出てくると宣長は困る。 宗教とは、世界の宗教を観察して帰結するところでは、不寛容なものである。 神道独りが寛容で物わかりが良くてはならない。 神道は物わかりが悪くならなくてはならない。物わかりが悪いくらいでちょうどいいんだ、 みんなでどんどん理論武装してどんどん物わかりが悪くなろう、 それが宣長の秋成に対する反論なのだ。

日本独自の一神教が創始されるには、 日本において自由な学問が可能になり、 古文辞学などの高度な調査研究手法が確立されるのを待つしかなかった。 それを最初に神道に対して手がけたのが宣長だった。 それは原始神道への回帰をテーマにしてはいるがきわめて近代的・人工的・作為的なアプローチであり (明治維新が神武天皇への回帰を謳った近代化であったように)、 古代の素朴な宗教とは実はまったく異なるものである。 宣長も、もちろんそのことには気づいていただろう。

そのような一神教的態度そのものが日本古来のものというよりは、 仏教や儒教やキリスト教の影響によるものであり、 その根底には相対主義があり、科学的実証主義があるのである。 宣長もその矛盾には気づいていただろう。 しかし神道をそういうナイーブな状態に放置すれば、 外来宗教や民間信仰によって見る影もなく変質してしまう。 その危機感から彼は一神教的立場をとらざるを得なくなった。

実際世界各地に残っていた原始宗教は、 高度に理論武装されたキリスト教、仏教、イスラム教などによって駆逐されてしまった。 ギリシャ人もローマ人もノルマン人も、キリスト教に飲み込まれて固有の宗教を失ってしまった。 日本にキリスト教やイスラム教が浸透しなかったのは、 すでに仏教によって浸食された後だったからだ。 もし仏教が来る前にキリスト教が伝わっていたら今頃日本はフィリピンのようなキリスト教国になっていただろう。 もし仏教が来る前にイスラム教が来ていたら、マレーシアやインドネシアのようなイスラム教国になっていただろう。 そういう意味では、比較的多神教に寛容な仏教や儒教や道教などが先に日本に伝わり高度に発達していたことは良いことだった(と思うのはすでに相当仏教に脳をやられている証拠かも知れない)。

西洋でも宗教と近代科学は同時並行して発達した。 つまり、宗教を科学的に証明しようとした結果、その副産物として自然科学が発達したのである。 宣長も日本の古き良きものを守ろうとして高度な学問を必要とした。

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日の神論争2

02.19.2014 · Posted in 宗教

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、 なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。 しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。 たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。 私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。 私は自分の嗅覚には自信がある。 日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、 宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。 秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、 そんなことには言及しないのが良い、と言っている。 つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。 秋成には宣長への愛を感じる。 宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。 秋成の宣長への片思い。 私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。 大きなお世話である。 宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、 二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。 不愉快だろうと思う。 秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。 しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、 しかし、 宣長の弁護もしたいと思う。 つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。 それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。 そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。 秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。 宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。 私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。 宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、 源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。 治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。 そう言いたければ言えばいい。 しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、 おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、 日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。 宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。 昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。 ずっとましだ。 或いは秋成のスタンスも私は好きだ。 或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、 というアプローチも好きだ。 この三つは私には好ましいし似通ってみえる。 一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、 分かったようなカテゴライズをして、 分かったような解釈をすることだ。 そんな解釈は100年もたない。 判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

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日の神論争

02.18.2014 · Posted in 宗教

日の神論争。 なんか偶然見つけたんだが、 本居宣長と上田秋成の間でこんな論争があったなんてしらんかった。 そのうち詳しく調べてみよう。

論文もある。PDF テキストとしての神話 ―本居宣長・上田秋成論争とその周辺―。 飛鳥井雅道著。京都大学だしどうみてもお公家さんの末裔だなこの著者は。

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トーテムとタブー

04.25.2011 · Posted in 宗教

フロイトの『トーテムとタブー』を読み始める。

ここでタブーと宗教というのは、区別されている。 宗教とは神を崇拝することであって、タブーとは神よりも古く、 より原始的で、理由付けのない禁忌を言うらしい。 フロイトの時代には、世界中でさまざまな先住民や未開民族が発見され、分類された。 それらの民族の多くには、宗教と言えるような組織的なものはほとんど見られず、 タブーの方がより強く社会を制約している、とフロイトは観察している。

フロイトが言いたいことはつまりこういうことだろう。 近親姦の禁止や族外婚の風習というのは、ほとんどすべての、まったく無関係な社会にも見られる。 それは、男性のボスによる一族の女性支配に由来する。 トーテムとは部族、血縁のことで、東アジア的に言えば、姓とか本貫のこと。姓は原初的には女系だった。 なぜ古代、女系で姓が継承されるかというと、 古代は女権が強く、女性が財産権を持っていたからだ、とはフロイトは考えない。 むしろ逆。 男のボスが横暴であって、妻や娘たちを独占するために、 妻や兄弟姉妹間で姦通することを禁じるために、妻とその子孫たちはすべて同じトーテムに属することとし、 トーテム内の姦通を禁じたのである。 この理屈で言えば、一族の中で同じトーテムに属さない、つまり自由に姦通できるのは夫一人となる。 男子が成長すると、自分のトーテムの外、つまり家族の外の女と結婚しなくてはならない。 これが族外婚。Exogamy というものだ。

確かに、まったく未開の、何の言語もなく、決まりもなにもない社会にも、この理屈で言えば、 トーテムは発生しうる。 トーテムの発生には理屈がない。ただ単に横暴な男子と無力な女子供がいるだけだ。 それが数世代か数十世代繰り返されるかは知らないが、そのうち、誰もその由来は知らないが、 トーテムという社会制度だけが成立するというわけだ。

恐ろしくも非情、しかし説得力のある理論だ。 余りこれまで見聞きしたことがないのだが。 Wikipedia などには、

遺伝子上の欠陥を補う事で、子の遺伝的な多様性を増加させ、子の繁栄の可能性を高める。

とあって、確かに、古代人がその遺伝的な問題を経験的に知っていて、それゆえに族外婚が自然発生したというのが、 通説だろう。 しかし、近親婚による優生学的な弊害というのは、かなり緩慢なものであって、 たとえば貴族や王族などが、何世代にもわたって同族と婚姻関係を結んだ場合にしか起こりえないのではないか。 人口の圧倒的多数を占める庶民には、あまり関係ないはず。 庶民、特に未開民族においては、早婚、雑婚、多夫多妻が当たり前であろうから、数世代もすれば遺伝子の問題などあっという間に解消してしまい、 問題にならないように思う。

このフロイトが発見した理論が今日ではほとんど忘れさられ、無視されているのは驚くべきことだ。

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