帰って来たウルトラマン

もっと雑な自主制作特撮物なのかと思っていた。想像していたものとは随分違った。

比較的かっちり真面目に作ってあるのに、ハヤカワ隊員の役者は庵野監督ではない。しかしハヤカワ隊員がウルトラマンに変身するとき庵野監督本人がウルトラマン役になっており、かぶり物もしてない。非常に違和感のある作品だが、その違和感以外に何か特筆すべきものがあるのだろうか、この作品は。

見て損は無い。

ラブ&ポップ

庵野秀明監督の実写作品をいくつかみた。

『ラブ&ポップ』は原作が村上龍、『エヴァ』をやった直後にDVカメラで撮った作品。

まあ、民生用カメラ出始めの頃にそれをあえて使ったことと、アングルにこだわりは見えるものの、庵野らしさはほとんどない。

私はこういう、渋谷で女子高生がどうしたこうしたという話が好きじゃないのかもしれない。見てていらいらしたので途中でやめてしまった。渋谷、女子高生、1990年代。自分にとって嫌な思い出しかないからかもしれない。

村上龍の作品もそれほど好きではない。『限りなく透明に近いブルー』は読んだことがある。こういうものがブンガクなんだな、ついてけないな、としか思えなかった。まあ、私の中では山田詠美とか内田春菊と同じジャンル。

その村上龍が、女子高生の援助交際ものを書いて、しかもネットでネタバレなんか読むと、おじさんが援助交際する女子高生に説教するみたいなストーリーになっているらしく、まあ、まったく共感できないなと思った。さすがの村上龍も女子高生の売春を書くことは社会通念上できなかったわけよね。彼も功成り名を遂げたから、リスクを冒す必要もなかったわけだし。

ローラーとバイオリン

わざわざ見るほどのものではないと思うが、なぜこのタルコフスキーの学生作品がニューヨークの学生コンクールで優勝したかを考えてみるのは面白いと思う。

アスファルトを平らにならすローラーを運転している貧しい若者と、バイオリン教室に通う金持ちの子供の話。アメリカ人にしてみると、社会主義ソビエトにも、貧富の差とか、文化の差があるのかと興味深かったと思う。そういう好奇心をかき立てる作品だったのではなかろうか。

ソラリス総括

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。画質音質などに違いはあるのかもしれないが。タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、ジョージ・クルーニーが主演して、ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、最初の雨のシーンや、宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。レムの原作では、クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。
ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。そういうふうな書き方ではない。
ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。そのメッセージは謎めいていてよくわからない。ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、おそらくアメリカ社会において、心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。クリスは間に合わなかったんだなと思う。そう思えば自然な流れだ。それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。ここまでSF的要素は極めて希薄である。スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。ソラリスというものについても何も説明されない。単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、患者はすでに自殺していたという流れだ。レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、以後、妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。死んだ妻との再会、懺悔。ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、なんとも意味不明に見えてしまう。おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。きっとそういう事情がある。日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。これがレムのSFなのだ。他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、レムはそう言いたいのである。レムの小説を読む価値はここにある。レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。人間の持つ先入観と戦う作業。しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、90分に縮めた日本語吹き替え版は、レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、ラストが意味不明になってしまっている。誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。