亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘映像’ Category

09.26.2016 · Posted in 映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。 離婚した状態で物語が始まる。 或いは別居中である。 仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、 ヒロインは別れた妻で、 子供は妻に取られてて、 困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。 ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、 妻とも子とも仲が良い。 しかし軍人なので家を離れがちであり、 しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。 そんなストーリーはタブーなのだ。

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ネタバレはあります。

08.08.2016 · Posted in 映画

CGや特撮がしょぼいのはシャレもあるだろうから、そこは批判しないようにしようと思ってたが、 だいたいは良かった。 それなりにきちんとしている。 この映画のCGをハリウッド映画なんかと比較して叩くとかむなしいだろ。

ただ、いろんな路線の電車に爆弾積んでゴジラにぶつけるCGはダサかった。 いろんな電車がプラレールかなんかみたいにとびちっててなんであんなことするのかと思った。 あれは何か、鉄オタへのサービスのつもりなのだろうか。 電車ぶつけても先頭車両の爆薬くらいしか効かないだろう。

で、呑川をさかのぼってくるサンショウウオだかなんかみたいな形態のゴジラは面白かった。 ああこれがネタバレかと思った。

自衛隊とゴジラの戦闘シーンはよかった。 たぶんこの映画の一番良いところはここだ。 多摩川を挟んで自衛隊とゴジラが対決してゴジラが勝っちゃう。 米軍との戦闘もまあまあだった。 しかしゴジラの背中からビームが何本も出るのは「イデオンかよ」と思って引いた。 ゴジラの口から出すビームが「なんだ巨神兵かよ」と思った。

でまあ電車をぶつけるのはどっちらけだった。 ビルに仕掛けた爆弾でゴジラが下敷きになるのもどうかと思った。 それで口から凝固剤を流し込むのだが、血管注射するならともかく口から入れても入るかしれないし、 入っても胃があるなら胃酸で変質してしまうだろうし、 注入している間ゴジラがおとなしく気絶しているのがもう全然間抜けで、 自衛隊や米軍に対してあんなに強かったゴジラがなんでこんななのかと思う。 でそのタンクローリーみたいなのが瓦礫の山の中をどうやってゴジラまで近づくんだよ、 近付けたのは奇跡に近いんじゃないかと思う。 ともかくこのヤシオリ作戦というのがとてつもなくひどい、と私には思えた。 北の丸の屋外に指令本部みたいなのを設置して、なんか迷彩の網みたいなのをかぶして、放射能防護服着てるのだが、 なんでそんなことする必要があるのかと思った。 別に指令本部は立川にあっても良いんじゃないかと思った。 立川じゃなくても良いから北の丸よりもずっと離れた地中とかにあっても良かったはずだ。 そういうご都合主義が多すぎた。

首相官邸のすったもんだとかは別にどうでもよかった。 石原さとみも言われているほど大根役者ではなかった。 ノリとしては政治ドラマというより警察ドラマに近い。 政治臭もあるのだが、そんなに良い出来とは思えなかった。 例えば「ブラックホークダウン」みたいな、胃に穴が開きそうな緊迫感は無い。 あれも結局はアメリカマンセー臭さがあるんだけど、ああいうふうに、実際に戦争してる国が作る映画とはまるで違う物だ。 アメリカの属国とかいう言葉も、言いたかったんだろうが、軽い感じがした。

あと、主人公が最初から事故原因を巨大不明生物だと見抜いていたのが不自然過ぎる。

東映のデビルマンを1デビルマンとすれば、 シン・ゴジラは1000デビルマンくらいはある。 でもいろいろ不満な点はあるので、10000デビルマンではない。

深読みすると、 シン・ゴジラは冒頭で行方不明になる牧悟郎なる科学者が生み出したものであり、 その「倒し方」も牧悟郎が残した「暗号化資料」にすべて明記されていて、 すべては牧による自作自演であり、シン・ゴジラは牧が作った「使徒」なのであるから、 これに忠実に沿って実行されたがゆえにヤシオリ作戦は成功したのだ、と解釈できなくもない。 「私は好きにした、君らも好きにしろ」という牧の置き手紙もそういう意味。 だとしてもやはりあの「倒し方」は納得いかない。

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スピード2

09.30.2014 · Posted in 映画

ふつうに面白い。 何も考えずに楽しめる。

マッドサイエンティスト的な役回りのシステムエンジニアが悪役で、 SWATが主人公というのところに、ややいやらしさ、 エンジニアやオタクというものに対する偏見を感じないこともない。

何かの原作があるというより、 もともとアクション映画用にシナリオを書き起こしたものだろう。

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カサブランカ

09.29.2014 · Posted in 映画

いくつか問題がある。 古い映画なのでテンポが悪い。しかしこれは仕方ない。

オチが気に入らない。 敵(ヴィシー政府の軍人)が実は愛国者だったでは、面白くも何ともない。 すべて丸く収まったように見えるのはアメリカ・フランス側の人間だけだ。

悪くはないが、 総合的に判断すると、アメリカが戦時中に作ったプロパガンダ映画としては良く出来ている、 というしかない。

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トータル・リコール

09.29.2014 · Posted in 映画

トータル・リコール(シュワルツネッガーのほう)をみた。 この映画は何度もみているのだが、初めて通してみてみた。 良く出来た話だと思う。 特に最後まで夢なのか夢じゃないのかわからないしかけ。 途中、あ、やっぱ夢なんだなと思わせといて、 やっぱ現実かもしれないと思わせる絶妙の駆け引き。 味方かと思うと敵、敵かと思うと味方。 自分までもが実は敵だったというひっかけ。 いやーよくできてるなと思う。

Philip K. Dick という人の短編SF小説 We Can Remember It for You Wholesale が原作になっているという。 つまり原作は映画ほどのボリュームはなかったということだ。 映画の字幕では inspired by と書かれているので、 ざっくり下敷きにしたくらいというのが当たっているのだろう。

原作は明らかに夢では無いという設定でできている。 リコール社で注射された narkidrine という薬のせいで、主人公は削除された記憶を徐々に取り戻す、という設定。

映画のほうでは主人公は自ら記憶を取り戻すことはない。 主人公は単に昔から何度も火星にいる夢を見る、そこにはいつも同じ女性がいる、というだけだ。 リコール社で薬を打たれると火星にいた記憶がよみがえったようにも見えるがそのこと自体が夢だと解釈できなくもない。

最後まで夢かどうかというネタばらしはない。 映画を作ったスタッフの意図でそうしたのだ。 原作は原作として尊重しつつ、より込み入ったしかけに作り替えたのである。 ここまで手をかけておいて最後にやっぱり夢でしたとか、逆に現実でしたなどとネタばらしをするような、 野暮はしまい。 そういうヒントはすべて注意深く消してあるからだ。

ハリソン・フォードの逃亡者にしても原作のテレビドラマはもっとあっさりしたものだっただろう。 それを映画化するにあたってシナリオをみっちりと練り直したのだ。 一人の人間が思いつくには話ができすぎている。 同じことはシャイニングにも言えるだろう。 これが日本だと、原作に手を加えたり、連作にしたりしても、原作を超えることはおろか、 原作の味わいまでも壊してしまうことが多いように思う。 なので、脚本家は原作をなるだけ忠実に、そのおもしろさを殺さないように映画化してもらいたい、 そう願うようになる。

ハリウッドでも、リメイクしすぎてつまらなくなることは多いのだが、 そうではない、それよりか微妙に手前の、ほんとうに面白い作品もたまに出るので、そこが面白いなと思う。

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smart tv box

09.08.2014 · Posted in 映像

やはり現時点においても、最も効率の良いユーザーインターフェイスはPCのキーボードとマウス、 そしてGUIとしか言いようがない。 その次に来るのはゲーム機のコントローラーか。 スマホというのは、PCの代用というよりはテレビのリモコンがやや進化したものと言ったほうが当たっている。 あれが便利だと思うのは錯覚だろう。 一種のバカチョンデバイス。

昔のハードディスクレコーダーの時代から、AV家電のユーザーインターフェイスはタコだった。 それに比べれば今のリモコンは長足の進歩を遂げた結果なわけだが、 もとがあまりにもひどすぎたから良く見えるだけで、 未だにテレビ周りのインターフェイスはひどい。 テレビは年よりが見るものだから、あまり複雑な機能がついていると操作できないというのはあるだろう。 ならばテレビを捨ててすべてPCで視聴したいところだが、 既得権益というやつのおかげでPCでテレビを見るのは非常に不便である。

つまり、ユーザーインターフェイスを良くしようという努力が、 意識的にも無意識的にも妨げられているのであって、 こういうバカなことをするから日本はアップルに先に ipod や iphone や ipad なんかを作られてしまうのである。 頭悪すぎる。 たぶん技術者というよりか、経営者とか業界とかがバカ過ぎる。 改善の余地がありまくりすぎる。

まず、この au 製と思われる smart tv box。 ネットワーク的には普通の光回線には及ばない。 そりゃそうだろう。テレビの視聴や録画が優先されていて、 しかも3チャンネルもあるんだから、インターネットが割を食うというわけだ。 それは値段相応なので仕方ないとも言える。 本体の基本性能はまあまあだ。 若干不満はあるが、よく頑張ったといえる。

ひどいのはリモコンだ。誰がこんなものを設計したのか。 特にひどいのは十字キーで、ちょっとずれると上下左右を判定してくれない。 頭が悪すぎる。 少しはゲームコントローラーを見習えば良いのに。 あと、ホームボタン、戻るボタン、再生ボタン、早送りボタンなど、 使用頻度が高いボタンが極めて操作しにくい。 頭が悪すぎる。 できればリモコンだけでも買い換えたいのだがどうにかならんか。 で、スマホのアプリでも操作できるというのに少し期待したのだが、 このアプリの出来も全然よろしくない。 レイテンシーが悪すぎるというか。 とにかくすべてが不満だ。

ユーザーインターフェイスも地上波を優先しすぎていてむかむかする。 CMを切り抜くなどの編集機能が無いのかあるいは貧弱すぎる。

近頃は hulu とか apple tv なんてのが出てきたらしいからそっちに切り替えようかと思うが、 番組内容は catv と同じかそれよか貧弱。 vod なのは良いが、 catv も普通は hdd に予約録画して溜めておいたやつを見るわけだから、 大差ない。

便利なので以前よりかたくさん映画を見るようになったが、 使えば使うほどひどさが見えてくる。

ていうか、ビデオレンタル屋は結局ツタヤの一人勝ち状態に落ち着いたわけだが、 そのツタヤですら、あと10年もつかどうかだろう。 何でもネットでみりゃ済むんだから。 地上波放送はさすがになくならんだろうが、 ネットでコンテンツ拾って見ればいいんで、 私としては邪魔なだけだ。 速やかに衰退してほしい。

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ジブリ

08.09.2014 · Posted in アニメ

ディズニーチャンネルなど見ていると、 どうしても、なぜジブリはディズニーになれなかったのだろうと考えてしまう。 「もののけ姫」や「千と千尋」を出してた、一番体力のある頃に、 もう少し経営を多角化しておけばよかった。 ディズニーみたいにCGも使い、ゲームも作り、実写も作り、 ジブリチャンネルみたいなものも始めていればよかった。 しかしそうしなかったのは、宮崎駿や高畑勲というワンマンがいたからだろう。

ジブリは「もののけ姫」や「千と千尋」でCGを使いこなしてみせたのにそれを棄てた。 文芸的な、手描きセルアニメにこだわることによって、 ディズニーや他のアニメ制作会社と差別化を図ったつもりだろうが、 自分で自分を縛ってしまったのだ。 CGが使えなければ当然ゲームも作れない。 ゲームというものに対する反感や憎悪を感じる。 子供はぎりぎりアニメはみても良いがゲームは悪だ、そう思っているのに違いない。 だからジブリ美術館のような方向へと走っていった。

時代に逆行して手描きセルアニメばかりやってれば制作コストは増大し、 古典芸能に、伝統芸能みたいになっていくしかない。 そういう文芸部門は残しつつ、新しい部署や新しい人材を育てていけばよかったのだ。 宮崎駿や高畑勲が引退するのを待つまでもなく。 しかし日本の企業は、そういうトップダウンの経営判断が苦手だ。 鈴木敏夫ですらそれができなかった。 日本のゲーム会社がみな過去の成功体験にとらわれて世界企業に育たなかったようなものだ。

ドワンゴはそんなよどんだ日本社会の救世主のようにも見える。 しかしジブリはすでにだいぶ体力を失った。 宮崎駿は老いて、彼以外にはとくにめだった監督がいない。 監督というよりか、原作と脚本が地味すぎる。 一般受けするはずがない。

なぜここまでこじらせなくてはならなかったのか、というのが結果論ではある。 ぎりぎりまで「マーニー」に期待していたのかもしれない。 「マーニー」がこけたせいでやっとジブリのメンバーもあきらめがついて、撤退できたのかもしれない。 まさか監督を一子相伝しようとしたのか(特に血縁という意味ではなく)。 なぜそこまでしてジブリを一色に染めたいのだろう。 なぜそんなにしてまで孤立主義・純血主義なんだろう。 ジブリという会社で作品を作ることとジブリという会社を経営することとは別なはずだ。

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ゴッドファーザー追記

04.19.2014 · Posted in 映画

今では映画が一つあたるとシリーズ化するのが当たり前のようになっているが、 ゴッドファーザーの頃はそうでもなかったらしく、 続編を作ることにいろんな抵抗があったようだ。 二作目は一作目の前の話と後の話でサンドイッチする形で作られており、 一作目に相当する時期のちょっとした逸話も挿入されている。 もしマーロン・ブランドがヴィト役を引き受けていたらもっとその部分を膨らましただろう。

興行的にはともかくとして、またこの作品が結果として非常に優れているということもおいておいて、 この二作目はおそらく作る必要のないものだった。 少なくとも一作目から必然的連続的に出てくる話ではない。

コッポラはのちに地獄の黙示録を作ったように、 キューバ革命を描きたかったのだろう。 いや話はほんとは逆で、当時同時進行していたベトナム戦争が、 かつてのキューバ革命をコッポラに思い出させたのだろう。 彼の関心はアメリカという国の大義名分というものではなかったか。 あるいはアメリカ人を負かしたベトナム人やキューバ人に興味があったのかもしれない。 マフィアの話を書きたいのでもなかったかもしれない。 コッポラはヴィトやマイケルになんとかして表の世界、 つまり知事や上院議員などの仕事に就かせようとする。 裏社会の話は彼にはどうでも良い気がしていたのではないか。

コッポラにはゴッドファーザーという持ちネタがあったから、 ある意味それに引きずられて、 続編という形で作ることになる。 キューバのバチスタ政権と結んで、 フロリダ州マイアミを拠点して大儲けしていたユダヤ系のマフィアがマイヤー・ランスキー、彼はHyman Rothのモデルである。 友人のベンジャミン・シーゲルは同じユダヤ系でMoe Greeneのモデルである。

コッポラは一作目から二作目へ話を橋渡しするためにモー・グリーンを使った。 一作目でモー・グリーンとロスはヴィトの商売仲間であり、 ヴィトはモーがラスヴェガスでホテルやカジノを経営するための資金を提供し、 その代りできの悪い息子のフレドをモーに預けている。 モーは一作目で死に、ロスは二作目から出てくる。 モーはイタリア系マフィアのナンバーツーでコルレオーネ家に敵対する黒幕のEmilio Barziniと親しかった。 バルジーニは麻薬に手を出さず、政治家を独占しているヴィトの勢力を切り崩そうとしていた。 それは割と映画の中で丁寧に説明されている。 マイケルは父ヴィトと相談の上でラスヴェガスのモーを圧迫し、ヴィトの死後モーやバルジーニを殺害する。 ロスはハバナでヴィトと商売をした仲であったが、 やはりヴィトの死後、友人モーの件を遺恨に持って、マイケルを殺そうとする。 だがそのモーとロスの関係がいまいち弱い気がするんだよなあ。

上院議員のPat Gearyはものすごく緻密に描かれているのに対して、ロスはいまいちとってつけたようだ。 コッポラという人はよほど政治家(政治、戦争、革命etc)に興味があるように思える。

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映画と原作

04.19.2014 · Posted in 映画

もともとの出典はわからぬが、ウィキペディア「宮崎駿」には、

この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。が、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。

と書かれている。 原作がなければ映画は作れない、という通念が存在しているのかどうか、ということが長いこと気にかかっていた。 だもんだから、「川越素描」の中では、

私ね、以前に、加奈子にノベルゲーの台本を書いてみてはどうかって、アドバイスされたことがあったのだけど、そのとき気づいたの。私が書きたいのは台本ではなくて、小説なんだってことが。それもラノベとかじゃあなくて、ばりばりの長編小説で、登場人物が百人くらい出てきて、主人公もどんどん代わっていくようなもの。それで、まず私は原作を小説で書くわ。それを台本に落としていくの。たとえば、黒澤明監督の映画にも、山本周五郎の原作があるようなものよ。私は手加減なしに小説を書くから、それを加奈子か一成に、台本に翻案するのを手伝ってもらいたいのよ。そういう条件で良ければ、引き受けるわ。

俺はそれで、全然かまわんよ。オペラの脚色ってのは、つまり、原作をばっさばっさと切り取って、歌劇にできる部分だけを残す作業さ。難しく考えることはない。大丈夫、俺が手伝う。なんとかなるよ。それでいいかい。

などと登場人物に語らせている。 「ナウシカ」は明らかに、原作などなくてもアニメは作れるという反例である(むしろマンガの後半はアニメから派生した外伝のようにも見える)。 宮崎駿はどちらかと言えば原作を無視して勝手に話を作ってしまう人である。 ルパンの仕事をたのまれたからカリオストロを作ったのに過ぎない。 「風たちぬ」なんかもかなりひどい。 宮崎駿は原作不要論者にとっての良い見本だ。

プロデューサーという人は人とコストの計算をする人だから、 アニメーターの宮崎駿という人が、 自分の才能だけを頼りとして、損得も役割分担も考えずに作品を作られては迷惑なのだろう。 たとえて言えばチャイコフスキーのピアノコンチェルト第一番を、 楽団も指揮者も無視して、作曲家の意図も無視して、 ピアニストの独断で即興演奏するみたいなものだわな、宮崎駿の場合。 プロデューサーはモノづくりよりは金儲けを本業とする。 その一線はどうしてもある。そこがクリエイターやディレクターとは違う。

プロデューサーとかディレクターとかクリエイターとかをみんな一人の万能の人間がやったほうが良い作品ができるかといわれれば理想的にはそうだろう。 少なくとも普通のコスト管理された量産型の作品ではなく、 稀に見る天才的な作品の場合には。

ただまあ私は原作はあったほうがよいと思う。 きちんとした原作を書くこと自体そんなに簡単なことはではないし、 書いていて面白いことだ。 ゴッドファーザーを見ていても二時間か三時間の映像作品ですべてを描き切ることは不可能だ、 コッポラという天才をもってしても不可能なのだから。 コッポラは明らかにすべてを映像という媒体で説明することをあきらめている。 ストーリーや人間関係を映像で説明しながら、見ているものにだれが黒幕かを推理させようとした形跡はある。 だが1作目ではヴィトに黒幕はバルジーニであるとネタばらしさせているし、 2作目でもやはりあまり説明もなしにマイケルに黒幕はロスであると語らせている。 ミステリー作品ならこんなふうにあっさりネタばらしはしない。 作品の途中でネタばらしするとしたらそれは普通はひっかけであって本当のオチは作品の最後までひっぱるものだ(ただし、見ている者は、マイケルのその判断が正しいのかどうか、あるいは策略としてそう言っているだけなのか、半信半疑のまましばらくは見させられる)。 1作目はまだ丁寧に映像で話を説明しようとしているのだが、 2作目だと、そうできなくはなかったに違いないのにやってない。 プロットだけはあって映像化されなかった部分がある。 さらに明らかに二つの作品に分けたほうがわかりやすいのに、 二つのストーリーを交錯させてわけをわかりにくくしている。 それがコッポラ独特の演出だというが、それはかいかぶりではないか。 たぶんあまりにもわかりにくい話なのでよけいにわかりにくくしてごまかしたのだろうと思う。

で、普通の人は映画なんてのは映画館で一度しか見ないのであり、 映画を小説のように何度も何度も繰り返して見てストーリーやら演出の意図やらを理解しようとする人はいない。 今ならいても昔はそんな鑑賞の仕方ができなかった。 アカデミー賞に選ばれたのもストーリーが面白いというよりはやはり映像や演出の面白さだろう。 そういう意味では映画は明らかに「総合芸術」ではない。 単なる「映像芸術」だ。 理屈抜きに面白いのが映画ということだが、 映像で語りきれなかった部分はやはり原作が担保しなくてはならない。 そのための原作なのではなかろうか。

思えば和歌も似たようなものかもしれない。 言いたいことはあるが、それを短い定型詩であらわさねばならない。 長い詞書をつけたり定型を外れたり、言わんとすることは言わずただ口調だけ整えたりそれらしい言葉だけ並べたり。 だが良い歌はそういう窮屈な制約の中で言いたいことを言い尽くせているものなのだ。 そこをすっ飛ばしていては意味がないと思う。

菜摘としても、原作者の誇りがある。原作や台本をどうアレンジされようが、自分とは関係ない。というより、台本や原作に忠実に脚色・演出することなど不可能だ。それはそれで、勝手にすればよい。原作者が口出しすべきことでもない。原作に対して複数のさまざまな解釈があってよい。

同じ「川越素描」では主人公の菜摘にこんなことも言わせているのだが、 ま、これは一種のあきらめでもある。 原作者はどうせ原作でしか自分のアイデンティティを保てないのだから。 というか作品のつまらなさを原作のせいにされてもこまる。 原作として選ばれるのは名誉ではあるが、 原作は無視してもらってもかまわないからちゃんと面白いもの作れよくらいしか、 期待するところはない。

そういえば、 ゲームやアニメから派生したノベライズという小説もあるわな。 ノベライズはキャラクターグッズみたいなものだからな。 ノベライズは最悪。 売れないライターにはそんな仕事が回ってくるのだろうか。 あるいはクリエイターが箔付けするために小説もどきをゴーストライターに頼んで出すのだろうか。 気持ち悪い。

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Frank Pentangeli

04.18.2014 · Posted in 映画

Frank Pentangeli。 映画の中では明示されていないプロットが明かされている。

フランクの兄ヴィンチェンツォはシチリアから来た。 ヴィンチェンツォもまたシチリアのマフィアである。 ヴィンチェンツォはフランクに、 ファミリーに不利益な証言をすることでペンタンジェリ家の名誉を汚すなと目で訴えた。 マイケルはこうしてヴィンチェンツォを連れてくることによってフランクの考えを変えさせることに成功した。 またフランクがシチリアに残してきた一族はヴィンチェンツォによって守られているが、 もしフランクが一族の名誉を汚したらその庇護もなくなるということを意味したかもしれない。

フランクはもともと公聴会の証人としてFBIに保護されていた(Protective custody)のであるが、 今度は偽証罪のために400年間、つまり死ぬまで刑務所に入ることになった。 トムはフランクに面会して、 コルレオーネ一家がフランクの家族の生活を保障する代わりに自殺してもらいたいということをほのめかす。 つまりはマイケルによって口封じされたことになる。

てことを映画を見ただけでわかるはずがない。

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