新葉和歌集・ほととぎす

南朝の親王たち(宗良親王以外はたぶん若い)が、ほととぎすの鳴く声を聞きたくて大騒ぎしている。
誰かが聞いたとか、今日は初音かとか、聞いたけど一声だけだったとか、
鶏みたいにもっとたくさん鳴けばいいのにとか、
けっこうおもしろい。

> ひと声も小塩の山のほととぎす神代もかくやつれなかりけむ (懐邦親王)

> ほのかなる一声なれどほととぎすまた聞く人のあらばたのまむ (守永親王)

> ほととぎす鳴きつと語る人しあれば今日を初音といかが頼まむ (尊良親王)

> よそにはや鳴くとは聞きつ今はよも待つ夜かさねじ山ほととぎす (泰成親王)

> ほのかなる寝覚めの空のほととぎすそれとも聞かじ待つ身ならずば (長慶天皇)

> 今更に我に惜しむなほととぎす六十あまりの古声ぞかし (宗良親王)

> 八声鳴け寝覚めの空のほととぎすゆふつけ鳥のおなじたぐひに (宗良親王)

新古今 摂政太政大臣

新古今に摂政太政大臣と出るのは誰か、よくわからんので、
いろいろ調べてみたのだが、
たぶん九条良経だと思うのだが、実に面倒くさい。
こういうことこそきちんと校訂してほしい。

追記。よく見たら新古今冒頭の歌にだけ、摂政太政大臣良経と書いてあった。やれやれ。これは本文なのか注釈なのかどっちかね。
やはり最初に出てくる式子内親王の歌にだけ、わざわざ「後白河院皇女」と注記してあるのを見ると、もともとそうなっているのかもしれん。

新葉和歌集に出てくる「京極贈左大臣」に至っては岩波文庫版の作者索引を見ても、誰のことだかさっぱりわからない。
「京極」と呼ばれた人で、南朝から「左大臣」を追贈されたことはわかる。
でもそれに該当する人が誰なのかさっぱりわからない。誰なんだよ。
もしかするともしかして京極中納言・藤原定家のことかもしれんと思ったが、歌の傾向があまりにも違いすぎる。たぶん南朝の人。

新葉和歌集・砧の音

都人らには、田舎の砧を打つ音が珍しかったらしい。

> 都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く (宗良親王)

> 里人の袖に重ねておく霜の寒きにつけて打つ衣かな (前内大臣隆)

> 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声 (後醍醐天皇)

> おしなべて夜寒に秋やなりぬらむ里をもわかず打つ衣かな (泰成親王)

> 聞きなるる契りもつらし衣うつ民のふせ屋に軒をならべて (尊良親王)

> 寝覚めして夜寒を侘ぶる人もあらば聞けとやしづが衣打つらむ (京極贈左大臣) 

参考:

> から衣うつ声きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな (紀貫之)

> 里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ (九条良経)

> み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり (飛鳥井雅経)

新勅撰和歌集・岩波文庫版

戦後の版だけあって校訂・解題ともに至れりつくせり。

歌は、なんとも退屈で眠くなる。

藤原定家一人で選定していて、勅撰を指示した後堀河上皇も完成前に死去しており、
いったいぜんたいどういう目的でどういう基準で選んだのか。
ていうか、「新勅撰」という名前がまるでやる気を感じない。
定家の晩年の趣味を反映しているというが、単にやる気がなかっただけなんじゃないのか。

新古今と新勅撰の間には承久の乱があったわけで、
新古今は狭いながらも活発なコミュニティに属するさまざまなタイプの歌人らが、
好き勝手に歌いたいうたを歌っている。
しかし、新勅撰はまるでお通夜のようだ。

解題に言う、「必ずしも無気力蕪雑な集として、一概に軽視すべきでないように思われる」と。
つまり、一般にはやはり新勅撰は「無気力蕪雑な集」だと思われていたわけだ。

> あきこそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへもとぢよつたのもみぢば 式子内親王

やはりかなり屈折した歌。
どこかスナックのママが言ってもおかしくないセリフ。
飽き(秋とかける)てしまったのだろう。人は尋ねてこない。松(待つとかける)の戸を何重にも閉じてくれ、蔦のもみじ葉よ。
という歌。
引きこもりの歌。
やはりこの人はあまり人付き合いはうまくなかったのではないか。
定家の趣味とはやはりかなり離れているように思うが。

> 夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたた寝 式子内親王(続古今)

やはりこの人は寝ている。
一人で寝ているイメージしかわいてこない。

追記: 読んでるとじわじわ面白くなってくる。