読史余論

読史余論に言う。
もし平家都落ちのときにたまたま後白河法皇が京都に残っておらず、
平家とともに西海に移されていたら、
頼朝はただの反逆者と同じことだっただろうと。
そりゃまあそうだ。
そうなっていた可能性はだいぶあった。
頼朝は当時「伊豆国流人源頼朝」というのみ。
頼朝がやったことはもともとは謀反と同じであり、
たまたまつじつまがあったように見えるだけだと。

さみだれ

明治天皇御製には「梅雨」と書いて「さみだれ」と読ませるものがあるようだ。
「つゆ」では字数がどれも合わない。
まさか「うめあめ」ではあるまい。

ついでに J-Text 版にはかなり誤記があるようだ。
一度きちんと確かめないと。

日本国王

引き続き、桜井英治「室町人の精神」から。

> 義満の遣明施設に博多商人肥富(こいづみ)と遁世者祖亜(そあ)という、一国の使者としてはおよそ器量不足の、しかし貿易のエキスパートとみられる人物が選ばれたのも、義満の意図がどこにあったかを率直に物語っていよう。

祖亜と肥富だが「善隣国報記」というものに書かれていて、一応日本史でも習うことらしい。

> 義満自身は大の中国びいきで、応永改元のとき、洪武帝にあこがれて年号を推薦し、
側近の貴族たちにさえ相手にされなかった話は有名だが、

有名なのか。

> 義満の中国びいきに注がれる周囲の目は、このように実に冷ややかなものであった。
とりわけ、天書(明国書)に対し、蹲踞・三拝という最敬礼をとった義満の卑屈な態度は長く人びとの語り草になった。「日本国王」号が天皇の権威に対抗しうる条件など、当時の日本国内にはまったく存在しなかったのである。

とある。
非常に興味深い。
義満のイメージががらっと変わる罠。
その後も天書に対する儀礼は勝手に将軍がやれば良く天皇は関知しないという態度だったようだ。

> 義満の皇位簒奪計画を実在視する学者たちは、義満が明皇帝から「日本国王」に冊封された時点で、
義満が本当の(国内向けにも)「日本国王」になったとみなしている。
ところが当時の室町幕府首脳部は、そのようには考えていなかった。

> 日朝貿易では十五世紀半ば以降、
対馬の宗氏や博多商人らが大名や琉球国王の名を騙って派遣したいわゆる[偽使](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E4%BD%BF)が横行するが、
義満が明に対しておこなったことというのも、じつはそれらと大差ない。
幕府の遣明貿易それ自体がすでに「日本国王」の名を騙った大がかりな偽使にほかならなかったのである。

ということだが、
これらはどんな史料に基づいているのだろうか。

Wikipedia:偽使によれば

> 義満は、日明貿易の利権を目当てに通交を試みたが、先に通交していた「日本国王良懐」(懐良親王のこと)の敵(北朝のこと)の臣下とみなされ認められず、しばらくの間、懐良親王の名を騙って通交を行った

らしい。
へええ。
懐良親王って南朝の征西将軍のことだな。
義満一生懸命だったんだな。
懐良親王だって別に日本国王ではないわけだが。

> 室町幕府は弱体な政権であり、宗氏や大内氏といった地方勢力が独自に行っていた朝鮮通交を制限するどころか、彼等が幕府の名を騙り勝手な通交を展開しても懲罰を加えることすら叶わなかった。

ふーん。
つまり、足利将軍は「北朝」の首領としての権限はもっていたが、幕府内で守護大名らに超越するような独自の権力を持っていたわけではない、ってことでOk?

応仁の乱の原因

桜井英治「室町人の精神」を読む。
足利義教もまた、源実朝同様に暗殺され、最後まで首がどこにあるかわからなかった将軍なわけだが、
義教が関東公方を滅ぼしてしまったことが応仁の乱の遠因であると、この本は指摘していて、
なかなか興味深い。

足利幕府初期には南朝の他に鎌倉公方が居て、日本はだいたい三つの政権に分かれていた。
鎌倉公方と言っても足利氏なわけだが、
板東はいつでも自立する勢いであるから、何かと牽制される。
鎌倉幕府時代に京都と鎌倉の二ヶ所に権力が分かれてバランスを取っていたのと似ている。

ところが義教の時代に関東公方は滅んでしまい、南朝も後南朝もほとんど滅んでしまった。
京都の政権は、パワーバランスを保ちつつ善政を施すというモチベーションが失われてしまった。
しかも義教の一局独裁が始まった矢先に義教は赤松満祐に殺されてしまった。
これによって室町政権は暴走を始めたというのである。
畠山氏の家督争いも義教の独裁体制に起因しているし、
山名氏が強くなりすぎたのも義教の弔い合戦に山名氏が勝利し赤松満祐の所領をまるごと得たからだ。
しかも日野富子口出ししすぎ(笑)。
なんだかますます義政がかわいそうになってくる罠。
義教は将軍直属の軍団を作ろうとしたが、
逆に言えば、足利氏単独の軍事組織など無いに等しく、
所領と言っても大したことはなく、
管領クラスの守護大名らがそれぞれ地元で反乱を起こせば手がつけられなくなる状態だった。
義政君かわいそう。
彼も下手すると義教や実朝みたいに暗殺されるかもしれない立場で、
政治に口出ししたり女房を懲らしめたりするよりも、
天皇や公家らと仲良く隠遁した方がましだと思ったのだろう。
その辺はやはりフランスの絶対王政なんかとはまるで違うわな。

このころの歴史はほんとうに濃密で、源平合戦の頃とはまるで違う。
まるで違うけれども権謀術数も発達していて、
南朝だの後南朝だの義教暗殺だの嘉吉の乱だの、
記録は残っているが黒幕は誰だったかなどということは隠蔽されているのだな。
記録が残るようになればなるほど隠蔽工作も発達するということだわな。
そこが平安時代とはまるで状況が違う。

頼朝と義経の対面の謎。

おなじく岩波書店新日本文学大系43。
こんどは平治物語。

平治物語は初めてざっと通して読んだが、
なんと後白河法皇が亡くなるところまで書いてある。
つまり、終わりは平家物語とだいたい同じなんだが、
治承年間の戦いのところはごくあっさりとしか書いてない。

驚くべきことには、頼朝と義経の対面は、吾妻鏡や平家物語では黄瀬川であったことになっているのだが、
こちら平治物語では相模国の大庭(藤沢の辺り)で対面し、
その後に富士川の戦いが記述されており、
このままでは義経も富士川の戦いに参加したことになる
のだが、こちらの方がよほどあり得る話だ。
吾妻鏡だと治承四年10月20日が富士川の戦い、
翌日21日に黄瀬川対面。
しかしこれだと、義経は陸奥国からよっぽど遅参したことになるし、
足柄峠も越えて単独で来たことになる。かなり無理がある。
一日遅れで富士川の戦いに間に合わなかったなどというのもかなり嘘くさい。
だが、おそらく、この平治物語の後ろの方におまけのように書かれたこの記述を、
ほとんどの人は読んでないし、これまでも無視されてきた。

結局ほんとのところはわからんのだな。