マオとヨナ

マオちゃんというと毛沢東の子供かと思うのは私だけなのだろうか。

ヨナというと鯨に飲み込まれた人を連想するのだが。

それにしても、暑い。

ていうか、真央は銀でよかったじゃないか。
無理に張り合うと破綻したよ。
地味で派手さがない罠。笑顔も地味。色気も地味。
性格なんだろうからしかたない。
奥ゆかしく日本女性らしくて良いと言えば良い。

もののふの

頼朝

> もののふの八十宇治川をゆく水の流れてはやき年の暮れかな

柿本人麻呂

> もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

元明天皇

> ますらをの鞆(とも)の音すなりもののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも

笠金村歌集

> もののふの臣(おみ)のをとこは大君の任(まけ)のまにまに聞くと言ふものぞ

刀理宣令

> もののふの石瀬(いはせ)のもりのほととぎすいまもなかぬか山の常影(とかげ)に

読人知らず

> もののふの八十宇治川の速き瀬に立ち得ぬ恋ひも吾れはするかも

大伴家持

> もののふの八十をとめらが組みまがふ寺井のうへの堅かごの花

> 秋の庭今こそゆかめもののふのをとこをみなの花にほひ見に

岩波古語辞典によれば、「もののふの」は「矢」「射」にかかる枕詞で、
「矢」から「八十」、
「射」から「岩瀬」、
また(武臣だけでなく文臣も含めて、臣下の)人数が多いときにも使うとある。

宗尊親王

小川剛生「武士はなぜ歌を詠むか」を読むと、太田道灌の歌はほとんど後世の偽作だと書いてあり、悲しくなる。
太田道灌と後土御門天皇の問答歌なども、
「関八州古戦録」という江戸時代に書かれた軍記物に載っている話で、
太田道灌の時代から300年も後なわけで、どうもあやしい。
山口志郎「武人万葉集」など読むと非常に多くの歌が集録されているのだが、
きちんと本人の作であるかという考証なしにいろんなものが採られているようで、
結局、じゃあ当時の武士はほんとはどんな歌を詠んでいたのだろうかということがまるでわからない。
ではそれらの歌がまずいかというとそういうわけでもなく、
ちょうど万葉集や古今集の読人知らずの歌が面白いものが多いように、
名も知れぬ人が秀歌を詠んで歴史に残すにはだれか有名人の詠んだ歌だということにして、
軍記物などに潜りこませるより仕方なかったのだろう。
だから、太田道灌に仮託した読人知らず、実朝に仮託した、あるいは坂本龍馬に仮託した読人知らず、
などという歌がどんどん出てくるのだ。
ただじっくり考えてみると当時本人が詠んだにしてはきっちりしすぎているとか、
きれいにまとまりすぎているとか、
いやに説明的だったりして、どうも疑わしいということが知れる。

たとえば吾妻鏡に出てくる静御前の歌と実朝の辞世の歌は、どちらにも非常に雰囲気が似ている。
比較的有名な歌の、本歌取りの作法を無視した強引な本歌取りといい、説明的あるいは予定調和的というか。
こういう歴史的事件をわかりやすく説明したような歌は、たいてい偽作。

ところで「武士はなぜ歌を詠むか」に出てくる宗尊親王の歌はなかなか面白い。
後嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府将軍、10才から25才まで。
そのうち15才から25才まで歌を詠んだというから実朝と年齢的には大差ない。

> 世をはかる人もあらばともののふのつば抜かしたる太刀もかしこし

これは、「太刀」を詠んだとても珍しい歌で、前半「世をはかる人もあらばと」は良くわからんが、
後半は武士の鍔を抜いた抜き身の太刀が畏れ多いとでもいう意味。
万葉集の頃は武器や武人や戦争を詠んだ歌はいくらもあったが、王朝の和歌にはほとんどまったく出てこず
(古今集仮名序「たけきもののふ」うんぬんの例はある。また「もののふの」は単なる枕詞として使われる例も多い)、
おそらく頼朝実朝もそういう歌は残しておらず、
もしかすると、この宗尊親王あたりからだんだんに作られるようになったのではないか。
江戸時代になると「もののふ」やら「ますらを」がどんどん詠まれるようになるので、
どちらかといえば近世臭さのある言葉ではある。

> ひさかたのあまつ日かげのなかぞらにかたぶかぬ身といつ思ひけむ

> 今は身はよそに聞くこそあはれなれむかしはあるじ鎌倉の里

> いかがせむあはれこころのなほき木にまがれる枝を人のもとむる

> しづみゆく今こそおもへ昔せしわがかねごとははかなかりけり

> おきつ風吹きしく浦のしほ煙立ち上らぬや我が身なるらむ

> あづまにて暮れぬる年をしるせればいつつのふたつ過ぎにけるかな

> この里のすみうしとにはなけれどもなれし都ぞさすが恋しき

なにかうだうだ文句を言っている感じではある。
それはそうと足利高氏もたくさん和歌を詠んでいるらしいのだが、
「和歌の浦」とか「敷島の道」とか和歌そのものずばりを詠み込んでいる歌がいくつかあって、ぎょっとする。

> これのみや身の思ひ出となりぬらむ名をかけそめし和歌の浦波

> なにごとも思はぬうちにしきしまの道ぞこの世の望みなりける

つまり和歌が好きですと和歌に詠んでいる。
後世の、たとえば明治天皇の歌なら珍しくもないが古歌にはあまりみかけない。
岩波古語辞典など見る限りでは「敷島の道」という言い回しは千載和歌集の序辺りから始まったもののようだ。
歌に詠み込むのはもしかすると高氏辺りが初めてなのかもしれん。

太田道灌はちょうど応仁の乱の頃の人だが、
この頃までは一応勅撰和歌集というものがあり、宮廷歌人というものが居て、
武家の歌とは別に公家の歌というものがあって、
そういう宮廷の歌の方がまだ支配的だった。
武士が詠む歌も公家風で、武器やら武人を詠む歌というのはあくまでも「実験的」に詠まれていただけで、
その源流は鎌倉幕府の将軍家と御家人辺りにある。
武家に和歌が流行したのはやはり鎌倉幕府の直接敵な影響であり、
またそれを踏襲した足利幕府によるものであろう。
やがて宮廷と並行して武士たちが自分たちの領国で勝手に歌会などを開くようになる。
その最も初期の例が太田道灌で、また最も典型的な例は秀吉の歌会なのだろう。
江戸時代になると完全に武士の世となり、また万葉集の研究なども始まって、
公然と武士の歌が武士によって詠まれるようになった、ということではないか。
家康が天下人になった後、今川氏真と対面したとき平忠度を批判して、武士は和歌などに執着せず、兵法を学ぶべきだったのだ、
そうすれば平家は関東でも北陸でもあれほど負けなかっただろう、と言ったという伝説があるそうだが(故老諸談)、
こういう発想をしたのはおそらく家康一代切りであり
(そもそも、木曾義仲はともかくとして頼朝は平忠度に負けず劣らず和歌を嗜んでいたのだから)、
武士は実は昔からずっと和歌を愛好していたのではなかろうか。
少なくとも、頼朝三代が北条氏に滅ぼされたのは和歌などの公家文化に傾倒して関東武士団の神経を逆なでしたからだ、
などというのは、まあ、現代人の空想に過ぎないだろう。

ところでこの「武士はなぜ歌を詠むか」は平成20年7月初版で割合に新しい本だ。
こういう新しい研究が次々にされているのだなあ。
学問は、日進月歩だ。
題名からして実朝の話もありそうだが華麗にスルー。
主に宗尊親王と足利尊氏と太田道灌の話からなる。
思うに実朝は一人で勝手に歌を詠んでいて武士を集めて歌会を開いたりとかそういう活動をしていないので、
著者の興味を引かなかったのだろう。

牧水

若山牧水来ました(笑)。

> 朝日影さし入りて部屋にくまもなししみじみとして酒つぐわれは

ひどい歌だな。朝っぱらから酒か。

> ほんのりと酒の飲みたくなるころのたそがれがたの身のあぢきなさ

わかる気はする。

> 病む母を眼とぢおもへばかたはらのゆふべの膳に酒の匂へる

これは放蕩息子と言いたいのか。

> いざいざと友に盃すすめつつ泣かまほしかり酔はむぞ今夜

> われに若しこの酒断たば身はただに生けるむくろとなりて生くらむ

> 妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲みむせ鼻ゆこぼしつ

> うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり

> 足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちおる

> やまいには酒こそ一の毒といふその酒ばかり恋しきは無し

なんとも言いようがない。
おまけ

> 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

牧水の歌はたいてい駄作だが良いものも少しある。

太田道灌

松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」を読んでいるのだが、太田道灌の歌:

> 露おかぬかたもありけり夕立の空より広き武蔵野の原

確かに関東平野は夕立が降る箇所もあれば降らぬ箇所もあるだろう。

> わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る

江戸城のようす。
今ならわかる、太田道灌のレベルの高さ。
本物の武士で、ここまでの完成度の歌を詠んだ人として非常に貴重だと思う。

足利義政の歌:

> 何ごとも夢まぼろしと思ひ知る身には憂ひもよろこびもなし

うーむ。なんかすごい歌だな。
昔は有名だったのだろうか。

素戔嗚尊から坂本龍馬の歌まで載せているので仕方ないのかもしれんが、どうしても全体にちぐはぐな感じがする。
後醍醐天皇の

> 都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれのころ

だとか、式子内親王の

> 花は散りてその色となくながむればむなしき空にはるさめぞふる

を取り上げているところを見ると、なかなかの眼識かとも思われるが、
式子の歌「花は、咲けば散る。爛漫たる美しさを誇った桜も、時が経てば必ず散るという理が、中世の歌人たちの心をとらえたのである」
という解釈はどうもおかしくないか。
これはまあ、「桜の花が散ったあとの彩りのない、どんよりとした空を眺めていると、やはりいろどりもなく春雨が降っている」
とでも言うような、桜の花が散る前と対比した、色彩のとぼしい、
盛りを過ぎた春の日のものうさけだるさのようなものをうまく歌ったものではないか。
さらに言えば、定家の「かげもなし」ではないが、
無彩色の美、水墨画のような色のない世界の美を(本来の色あざやかな光景と対比させながら)歌ったものだと思うのだけど。
つまり映像的な色彩感覚にうったえる歌だと思うのよね。
また、後醍醐天皇の歌は1337年の事だと言うが、後醍醐天皇が吉野に居たのは
1336年11月から1339年9月までなのだが、
38年か39年かもしれないということはあり得ないのか。
実朝や静御前の歌などはどうもへんてこだし、坂本龍馬の歌もそれらしくない:

> 人心きのふのけふと変はる世に独りなげきのます鏡かな

仮にこれが坂本龍馬の真作だとしても、わざわざ載せるに値するだろうか。
というか坂本龍馬の歌にわざわざ取り上げるほどの価値があるか。
思うに坂本龍馬の歌は、吉田松陰か孝明天皇辺りのかなり露骨な本歌取りである可能性が非常に高いと思う。
偽作の可能性が高いがその場合どこかの和歌をちょっとかじった小利口なやつが、
いくつかの歌を適当に見繕っていかにも龍馬が詠みようなそんな歌をこしらえたという感じ。
実朝、静御前、神武天皇の歌などもだいたい同じことで、
もともと歌人でもない人が詠んだ歌はそうとうに疑ってかかるべきで、
そういうものをただフィーリングだけで取り上げるのはどうかと思う。
もっと、きちんとした歌人の、ほぼ間違いない真作だけを扱ってほしいものだ。
武田信玄や豊臣秀吉の歌も確かに歴史談義の枕話にするにはちょうど良いあんばいかもしれんが、
歌としてはちとひどすぎる。
後水尾天皇:

> 葦原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず

なるほど面白いがもう少しこの辺はふくらまして書いて欲しいところだ。
田安宗武:

> 涼しくも降り来る雨か夏山の繁き木の間に露のたばしる

うーむ。