神武天皇の歌

古事記に出てくる神武天皇の歌。

> 阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯

これは

> あしはらの しけしきをやに すがたたみ いやさやしきて わがふたりねし

漢字混じりで書くと

> 葦原のしけしき小屋に菅畳いやさや敷きて我が二人寝し

「葦原の汚く荒れた小屋にすがの畳を綺麗にしいて二人で寝た」というような意味で、
神武天皇の時代にこんなに整った和歌があったかと怪しまれるけれども、
雄略天皇の歌もヤマトタケルの歌もこんなには整ってないのだけど、まあいいか古事記だし。

風騒集

陳舜臣の漢詩集。
日本語の詩も少々。

波斯

歴山攻陥帝王台
遥望波斯已劫灰

歴山はアレキサンダー。
波斯はペルシャまたはペルセポリス。
「アレキサンダーは帝王の王宮を攻略して落とした。
遥かに望めばペルセポリスはすでに灰燼に帰した。」
というような意味。うーん。なんかすげえかっちょいい詩だよな。

那爛陀遺跡所懐

大唐玄奘慕浮図
葱嶺流砂不惜躯

那爛陀はナーランダ。
浮図はブッダ。
葱嶺はパミール。
「大唐の玄奘は仏教を慕い、パミール高原にも流砂にも身を惜しまなかった」うんぬん。

伊斯担堡

海峡西東欧亜分
蒼穹無際水無紋

伊斯担堡はイスタンブール。
「イスタンブールのボスポラス海峡はヨーロッパとアジアを隔て、青空は果てしなく、水は波紋もない」うんぬん。

うーん。まあだいたいこんな感じ。
なんとも言いようがない。

サラダ記念日

何か気になったので20年ぶりくらいに「サラダ記念日」を見てみたが、レベルの高いのに驚く。

> どうしても海が見たくて十二月ロマンスカーに乗る我と君

> 江ノ島に遊ぶ一日それぞれの未来があれば写真は撮らず

など。
これらはどちらもたまたま五七調だが、おもしろい。
高橋源一郎が言うように、短歌だがキャッチコピーとしても優れていて、小田急の広告にも十分使えるだろうと思ったが、
「江ノ島」の歌はあまりにエロチックで広告には不向きだよなあ。

最初期の「八月の雨」の恋の歌が、やはり優れているよなあ。

だけど、どれか一つ一番良いのは、と選ぶとけっこう難しい。
やっぱ、「江ノ島」かな。

> にわか雨を避けて屋台のコップ酒人生きていることの楽しさ

> オクサンと我を呼ぶ屋台のおばちゃんを前にしばらくオクサンとなる

あたりもやや面白い。
ちゃんと五七に切れてないのが少し惜しい。
完全な古語または現代語ならば良いが、近代短歌特有のおかしな大和言葉を使っているところがときどきあるのがやはり少し惜しい。
あと字余りが多いのも気になるかもしれん。

富士川の戦いの謎

富士川の戦いというのは非常に謎が多いが、平将門の乱の時と合わせて考えるとわかりやすいのではないか。
平将門のときは基本的には平貞盛との、平氏の中での派閥争いだったのが、
いつの間にか将門が暴走して謀反、さらには東国の武士たちに擁立されて関東自立という形になったのだった。
そこで、藤原忠文を征夷大将軍に任命して、途上兵を募って関東へ討伐に向かったのだが、
結局は関東の貞盛と奥州の藤原秀郷の連合軍によって将門は討たれ、
征夷大将軍・藤原忠文は足柄峠を越えるまでもなく、京都に帰ったとしている。
結果的には貞盛の子孫と奥州藤原氏が繁栄するきっかけとなっただけだった。

富士川の戦いの時は、流人・頼朝が関東の武士団に担がれて謀反を起こした。
そこで一応、京都(というか福原)から平維盛が征討軍として派遣されたのだが、
おそらくは関東や奥州で反頼朝の勢力が次々に起こって頼朝を討ち、
維盛は将門の時のように足柄峠を越えるまでもなく京都に帰れるだろう、と楽観していたのではなかろうか。

藤原忠文という人がどのくらいの武人だったかはわからないのだが、
wikipedia には馬や鷹がうまかったなどと書かれているが、
まあ普通の公家だろう。
維盛もまた普通の公家のようなもので、そもそも実戦経験などない。
清盛の孫、重盛の子だが、嫡流かと言えばそうとも言えない。
あまり重要な人物だったとは思えない。
将軍の選出も出発も遅れに遅れた。
というより、最初から足柄峠を越える気はなかったのだが、
できるだけ出発を遅らせ、関東の動きを待ったが、待ちきれず出発した、
という方が正しいか。

頼朝は、関東の武士団を掌握しきっていたかどうかはわからないが、
いきなり足柄峠を越えて、平氏の本隊と対決する勢いを見せた。
関東の敵対勢力を各個撃破しながら関東に引きこもっているよりは、
危険を冒して平氏本隊に戦いを挑もうとしたのかもしれん。
平氏が期待していた関東の友軍も大して役に立たなかった。
少なくとも、足柄峠を越えて頼朝の背後に出て挟撃しようとか、
維盛軍に呼応して関東で暴れまわろうとか、
そういう動きは取らなかった、
少なくとも関東の友軍とはまったく連絡がとれてなかったということだろう。
さらには甲斐源氏が駿河国を攻略し、維盛に対抗する姿勢を示した。

こうなるともう維盛では力不足というしかない。
副将の藤原忠清は奥州藤原氏系で戦闘経験もあるが、
単なる維盛の目付役程度だったのだろう。
東国武士で道案内役の斉藤実盛も途中で帰ってるし(wikipediaによれば最初から参戦してないという)。
おそらく維盛は、京都から連れてきた自分らの兵ではなく、
関東で蜂起した反頼朝軍の将軍として戦うつもりだったのだが、
現地軍が全然まったく集まらない、
となるとまったく戦闘らしき戦闘もせずに京都に引き返したとしてもおかしくないし、
維盛が京都に着いたときには10騎しかいなかった(平家物語)というのもあり得る話になってくるし、
源氏の側から見るといきなりいなくなったので、
鳥の立つ音に驚いて逃げた、
ということにするしかなかったのではないか。

承久の乱の北条泰時軍だって最初は手勢10人余りで出発したのだし、
新田義貞の旗揚げだって似たようなもんだったから、
維盛軍のような募集だって当時の常識としてあり得なくはない。
もしかすると富士川に到着した段階で維盛軍は公式には数千人、実際には数百人程度しか居なかったのかもしれない。
だから「一夜にして大軍が忽然として姿を消した」ように見えたのではないか。
ほんとはもともと居なかったのかもしれん。
だとすればすべての謎が解ける。
数千人規模の兵士が居れば若干の混乱や戦闘が記録に残るはず。
それすらない。
兵站が伸びきっていた、などというのは今日的な発想であり、
維盛軍にはそもそも京都から延々のびた兵站をあてにする気など最初からなかっただろう。
近畿や東海地方がたまたま飢饉だった、というのも同様の理由であまり関係ないと思う。

頼朝の側にしても、関東を離れて追撃するような余裕はなく(というよりは、追撃するような敵の軍勢などなく)、
関東に戻ってしばらくは鎌倉幕府の基礎作りにはげむしかなかった、というところか。
結果論だが、いきなり足柄峠を越えて敵の正面に出た頼朝の作戦はあざやかだったというしかない。
もし鎌倉に「偽宮」など作って受身に回っていたら、将門と同じ運命をたどった可能性が高い。

伊豆急

伊豆急って東急の子会社なんだ。
伊東から小田原まではJRに乗り入れてるんだな。

なるほど。下田や修善寺に行くには「踊り子」か「スーパービュー踊り子」に乗るのが結局速くて安いわけだな。
途中まで小田急使えるから余計に安いわな。
思ったよりも安いんだなこれが。
ていうか御殿場線周りで行くのが間違いだ罠。
これからはもっと伊豆急をばんばん使って行きたい気持ちでいっぱいになった。
修善寺は乗り換え多いから狙って「踊り子」に乗るのが良さそう。

> まがなぢに乗りて行きたし伊豆駿河かべに貼りたる地図を眺めて

> たまくしげ箱根越えれば伊豆山に出で湯の里の数そへるかも