酒を詠んだ戯れ歌

> 飽き果てぬ酒に心の失せぬ間に酒なき里にうつり住ままし

> あさか山かげさへ見ゆる山の井の浅くぞ酒は飲むべかりける

> ゑはばとて秩父の山のいはが根のいはずもありなむよしなし事は

> 雨降れば湯気にくもれる窓の戸のゑひて心のなどか晴れざる

> 春の日に酒てふもののなかりせば花は咲くとものどけからまし

> いづこにか酒をのがれむみよしのの奥にも酒はありてふものを

> けふも酒明日もさけさけむらぎもの心のぬしは酒にこそあらめ

岩波文庫和歌集

ざっと検索してみると、現在岩波文庫で入手できる和歌集は

> 古今和歌集 佐伯梅友校注 定価 840円 1981年1月16日発行

> 新訂 新古今和歌集 佐佐木信綱校訂 定価 798円 1929年7月5日発行

> 新勅撰和歌集 久曾神昇,樋口芳麻呂校訂 定価 735円 1961年4月25日発行

> 新葉和歌集 岩佐正校訂 定価 735円 在庫僅少 1940年11月29日発行

この四つだけのようだが、すでに全部買ってしまった。
新葉集は予備にもう一冊くらい買っておいた方が良いかもしれん(笑)。
古今集は、今月

> 古今和歌集 (ちくま学芸文庫) (文庫) 小町谷照彦

というものが出た。そのほか、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫、などからも出ているわけだが、
文庫本という形態を考えたとき、現代語訳や解説をあまり詳しくして厚くしてしまうと持ち運びが不便。
角川や講談社は分冊にしてしまっているがなおさら不便。金もかかるし。
結局岩波文庫が一番薄くて安くて便利となるのだが、
岩波文庫版にしても古今集はあと半分の厚さで出せるのではないか。すかすかだ。

岩波文庫だと新古今和歌集が一番どんな書店にも並んでいて入手しやすいのだが、
佐佐木信綱の戦前の版で活字も印刷も悪いし、不親切だし、解題も勇ましいばかりであまり役に立たない。
しかし他の人がやり直すとこれもまた分冊になってしまうのだろう。

後撰集、拾遺集あたりも文庫本でほしいところで、古今集と併せて一冊の文庫本にしてくれるとたいへんありがたいのだが、
歌だけ淡々と収録するなら入らなくもないが、そんな本はたぶん誰も買いたがらず、詠みたがらないのだろうと思う。
文庫本というのは実に便利で kindle とか ipad などにはない便利さがある。
小さいし軽いしポケットにもつっこめるしはじっこを折ったり付箋はったり、メモ代わりに書き込みもできる。
書き込みや折ったりするのは図書館の本ではできまいが、しかし愛読書を文庫でとなるとそれも可能。
正直移動中に kindle で読書するかどうか疑問だが、
しかし満員電車で身動きとれないとき片手で操作できるならやや便利かもしれん。
それで勅撰和歌集などをそれぞれ300円くらいで出してくれれば全部集めてもせいぜい7000円くらいで、
デジタルだから絶版になることもなく便利なのではないか。
kindle のような端末で出すとするとページとか見開きなどという概念はむしろじゃまで、
昔ながらに巻物みたいにして縦書きの横スクロールできるようにすると良かろうと思う。
歌は10とばしとか一巻とばしとか、そうなると動画再生に気分は似てくるな。

古今集

古今集を読み始める。
面白い。
新古今で家隆の

> おもふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宿貸せ野辺のうぐひす

が実は素性法師

> 思ふどち春の山べにうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか

の本歌取りだったりとか。
実朝の万葉調というのが実は万葉集から来たというよりは古今集に集録された東歌に影響されたんじゃないのかとか。

春下はさくらが散る歌ばかりだ。
紀友則の

> しづごころなく花の散るらむ

や小町の

> 我が身世にふるながめせしまに

が有名だが、それに類する歌がいくつもある。たとえば貫之の

> 桜花とく散りぬとも思ほえず人の心ぞ風も吹きあへぬ

> 春霞なに隠すらむ桜花散る間をだにも見るべきものを

よみ人しらずの

> 残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はての憂ければ

> うつせみの世にも似たるか花桜咲くと見し間にかつ散りにけり

> 散る花をなにか恨みむ世の中にわが身もともにあらむものかは

素性法師の

> いざ桜我も散りなむひとさかりありなば人に憂き目見えなむ

凡河内躬恒の

> しるしなきねをも鳴くかなうぐひすの今年のみ散る花ならなくに

などのように未練なく散るさくらを愛する歌が多い。
これらの歌は明らかに宣長の趣味とは異なり、というよりも、宣長が平安時代以来の日本人のメンタリティからかなり逸脱しており、
故に宣長が誤解される原因となっていることを意味している。

思うに、「ますらを」は万葉時代には明らかに「立派で優れた男性」特に「強い武人」を意味していた。
しかし古今の時代にはそれらがまったく忘れられ、
新古今の時代になると単なる「農夫」「狩人」「漁師」「木こり」の意味、つまり野山や海で肉体労働するまずしくいやしい男性の意味に使い、
知的労働階級たる殿上人たちが田舎の風景を歌に詠む上で鹿や雁や鶴などと同じく、
いわば屏風絵というジオラマの中の小道具扱いされている。
特にこの「ますらを」を繰返し繰返し誤用しているのは俊成である。
かれの武士蔑視、貴族意識ははなはだしいものがあっただろう。
このことは万葉集をちょっとでも学びまた新古今の歌に親しんだ人々にはすぐに察せられただろう。
武家の時代になって万葉集を研究した真淵らなどはこのような堂上歌風に憤激したに違いない。
ところが宣長はそういうところにはまったく無関心で、古今・新古今時代の誤用であることは明らかなのに、それに言及する気すらないように思われる。
また、あれほど源氏物語には熱心なのに平家物語などの軍記物にはなんら関心を示していないが、
やはり、宣長という人はどこか、徳川の尚武の時代にあって、何か根本的にひとりだけ浮いているところがある。
この部分を宣長はまったく解決していない。
真淵による宣長批判も、大筋には正しいと思う(ただし学問的な緻密さ正確さでは真淵は宣長にはるかに及ばないとは思うが)。
おそらく宣長は心情的あるいは精神構造的には「公家」であって、
公家は公家自身を自己批判できない。
だが真淵らは武士か町人か、ともかくも徳川支配の世の中の一般的な庶民の立場に居て、
公家を外から批判的に見て、
公家というのがどうしようもなく退廃的で衰え落ちぶれたように見えただろう。
なぜ公家はかつては栄華を極め今はあのように惰弱なのか、
なぜ武家はいまや民百姓を代表して世の中を経営しているのか、その現実を目の当たりにしているからこその、
源氏物語、新古今批判なのである。

プーさんの鼻

俵万智「プーさんの鼻」をさらっと読む。
そうかあ。
かつての学生歌人が20年経って今はこんな歌を詠んでるのか。
我が子を「みどりご」と呼ぶシングルマザー。
贈り物が

> いるけどいないパパから届く

このあやうさがやはり俵万智なんだよなあ。
ある意味20年前となんら変わらず歌を詠み続けているんだなと思った。

> 記念写真撮らんとするにみどりごは足の親指飽かず舐めおり

うーん。
「それぞれの未来があれば写真はとらず」からこうなったんだなあ。
大きなお世話だがけっこう高齢出産だな。

ねぢけゆくわが心

> 木の花の咲くがなどかはめづらしきよそぢとしふる我が身なりせば

> 木の花のうつしゑうつすはかなさよよろづの人もならふてぶりに

> ねぢけたる老い人なれやわこうどのいはふ日なれどたのしくもなし

> 春の日にねぢけゆくわが心かなおくりむかふる人の世ぞ憂き

> いはふとて飽かざらましや千とせふるつるかめの身の我ならなくに

> いはふべき春の良き日にしかすがにふさがりとざす我が心かな

> ねぢをれてひねまがりたる老いけやき憂き世に長くふればなるべし

> 浮かれ女や浮かれ男つどふ春の野辺たまゆらにこそ浮かれやはせめ