大国魂神社

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。
そのあと府中美術館。
歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。
工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。
戦闘機も飛ばず静かだし。
のんびり住むには良い町だろう。

> たま川をわがこえくれば川の辺に咲きたる桜ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。
ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。


こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。


頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

> 武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。
もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。
イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

> 菜の花の咲けるをりには思ひやれ身を立て世をも救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

> をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

> をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

> いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

黄砂襲来

> もろこしの砂も降り来る春の日の夜半は嵐を聞きつつぞ寝る

> 雨風はきのふの夜こそはげしけれけふはしづけく春ぞ更けゆく

> をちこちの花咲く野辺にうたげせむ日どりばかりぞまづ決まりゆく

> 惜しまずやあたら月日を春さればつとめもしげくなりゆくものを

> いにしへの大宮人よわれもまたいとましあらばうたげせましを

> わが宿ののきばに出でて草まくら旅寝ごこちの春を楽しむ

> ぼんやりとけふも暮らしつかかる日のあはれこのまま続かましかば

> なりはひのわざにつとめばなかなかにいとまなくとも歌は詠ままし

> うららかに晴れたる春を惜しむべしけふぞ過ぎなばいとまなからむ

> つのぐみて咲かむとみゆるこずゑかなをみなをのこら日を数へてぞ待つ

> ことしげき日々ぞ待ちぬる春過ぎてあはれ浮き世の夢も醒めなば

> おもひやれ四十ぢのをのこいかばかり国に貢ぎて世を支へてむ

> あしびきのやまどりのをのしだりをのしだれ桜をけふこそは見め

ますらを

[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)がおもしろい。

「ますらを」で検索すると一番古いので金葉集。つまり万葉集はともかく古今集辺りでは「ますらを」は一切歌に詠まれなかったということだ。

> 雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて

勝命法師という人の歌。新古今集。苗代に水を引く農夫が、雨がふったので、その手間がいらず、ひまなのだろうか、というのんきな歌。

> ますらをは同じふもとをかへしつつ春の山田に老いにけるかな

俊成の歌なのでだいたい新古今時代。同じ山のふもとを耕しつつ農夫は春の山田に年老いていくのだなあ。
これまたのんきな農夫の歌。
新古今時代は「ますらを」とは「農夫」「山人」「狩人」などを意味していたようだ。

> ますらをもほととぎすをや待ちつらむ鳴くひとこゑに早苗とるなり

藻壁門院但馬(知らん人)。農夫もほととぎすの声を待っていたのだろうか、一声鳴いてから早苗をとった。これまたのんきな話だわな。

> ますらをの海人くりかへし春の日にわかめかるとや浦つたひする

「ますらをのあま」で漁師。まあ「あま」だけでも大差ない。

> ますらをも月漏れとてや小山田の庵はまばらに囲ひおくらむ

誰の歌かよくわからん。
農夫も月の光が漏れるようにと小山田の庵はすきまだらけに作るのだろうか。
ふーむ。
どうも、「ますらを」「しづのを」「やまがつ」「あま」などは同じような意味だったようだな。
農業や狩猟、漁労などの第一次産業に携わる男たち。
万葉時代とはかなり違う使われかたのようだ。

宣長と山陽

宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。
宣長は頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。
ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。

宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、
当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。
武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。
そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。
ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、
エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、
単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。
師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。
敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、
現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。
今でも理解されてない。
こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。

江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。
しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、
自ら進んでその役を買って出たようにも見える。
山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、
幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。

読書は冒険

あいかわらず小林秀雄宣長本13章辺り。
ややはしょって引用するが、

> 文学の歴史的評価というものは、反省を進めてみれば、疑わしい脆弱な概念なのであるが、
実際には、文学研究家たちの間で、お互いの黙契のもとにいつの間にか自明で十分な物差しのような姿をとっている。

> 過去の作品へ至る道は平坦となってもはや冒険を必要としないように見えるが、
傑作は、理解者・認識者の行う一種の冒険を待っているものだ。
機会がどんなにまれであろうと、この機を捕らえて新しく息を吹き返そうと願っているのだ。
もののたとえではない。
宣長が行ったのはこの種の冒険だった。

なかなかおもしろい。宣長を語りながら自分自身を語っているのだろう。
傑作は冒険者を待っており、そのまれな機会を利用して何度でもよみがえろうとしている。
読書とはそういう種類の冒険であると。

ふーむ。
「まこと」と「そらごと」を超えたところにあるのが、創作だろうし、
ファンタジーというものだろうな。
現代のオタク文化に通じる肝酢。