歴史的仮名遣い2

契沖仮名遣いという言い方にならえば、
明治政府が普及させ、昭和の敗戦まで国語の「正書法」として確立していた仮名遣いは、
「宣長仮名遣い」とでも言うべきものだと思う。
おそらくそのくらい、宣長の影響は大きい。

坂本龍馬の仮名遣いもかなりへんてこだった。
「宣長仮名遣い」はともかくも、当時の混乱した仮名遣いを矯正するには必要なものだった。
戦後は「現代仮名遣い」というものになったのだが、これは、
すでに区別の意味も失われた化石的な痕跡を無くしてしまうというのが目的だったのだろう。
おそらく、大した抵抗もなく歴史的仮名遣いが捨て去られてしまったのは、
大半の人たちにとって、この宣長が作り上げた、精緻だが煩瑣な仮名遣いについてこれなかったのかもしれない。
しかし、宣長ほどの天才が作り上げた仮名遣いをただ面倒だという理由で捨ててしまうのは、
もったいない気がする。

[本居宣長「在京日記」における仮名遣い : 歴史的仮名遣いとの相違を中心に](https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/10371)

この論文の中で、永山勇の説として

> 明和初年(1764年、宣長34才)頃まで、仮名遭いが彼此勤揺し、きわめて不安定な語がすくなからずあった

> 概していえば定家流仮名還いの系譜につながるものであり、更にいえば、
当時の世俗的仮名遣いに従っていたものとものと評して大遍ない

などと紹介してあるのは興味深い。
また、宣長の京都遊学中の日記である「在京日記」の仮名遣いを実に詳しく調べている。

歴史的仮名遣い

思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。
上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。
宣長は30才くらいまではへんてこだった、
だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。

小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。
まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。
明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、
しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、
詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。
しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。

丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。
49才以後ということになる。
かなり遅い。

こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、
「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、
完全には行われなかったのだ。
なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、
それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。
歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。
実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。

ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。
やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。

岩波文庫版排蘆小船

岩波文庫版排蘆小船は底本が戦前岩波書店から出た宣長全集。
普通に普及しているのは戦後に大野信が編集した筑摩書房版の全集なのだが、
やはり同じ岩波から出すと言う関係で戦前のものを底本にしたのか。

カタカナがひらがなに改めてあり、読みやすい。
歴史的仮名遣いがかなり間違っていることに驚く。

> おひてのみ惜き物かは年の暮れわかきも同じ心なりけり

宣長満で20才の時の歌だが、仮名遣いが間違っている。「老ひて」ではなく「老いて」でなくてはらない。

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉も

満で22才、まだ仮名遣いに間違いがある。「よみをける」は「よみおける」が正しい。

> 八月十四日の夜くまなき月影に軒ちかう出侍てひとりしめやかになかめ侍るまゝいとゝさやけさまさり行心ちしてとみにもいりやらすいと久しうしつゝなをあかねは

満23才。「なを」は「なほ」の誤り。

> 桃のさかりを見にまかりていとかえりがてにして

満24才。「かえり」は「かへり」の誤り。

> 大かた花のころも過ぎぬる比高台寺にまいり侍りけれは

同じく24才。「まいり」は「まゐり」の間違い。

> 此里の名を句の上にすへて蚊遣火の烟の立を見てよめる

満29才。「すへて」は「すゑて」の誤り。
そうか、本居宣長ともあろう人が30才くらいまではきちんとした歴史的仮名遣いで書けてなかった、ということか。
そりゃあそうかもしれん。そういう教科書もないわけだから。
上田秋成などもかなりいい加減だ。

なので排蘆小船も30過ぎに書かれた可能性があるわけだな。

肝大小心録

岩波文庫版上田秋成「肝大小心録」を読む。
戦前の復刻。かなり珍しいもの。

> 天にさまざまあるはいかに。
儒・仏・道、また、我が国の古伝に言う所、ことごとくたがへり。
天と仰ぎてのみにもあらず。
天禄・天資・天命・天稟など儒には言うなり。
仏は天帝も下りて我が法を聞くとなり。
キリシタンらの外道の法は、ただ天師と言ひて、天に尊称の君あり。
これを願へり。
この国には天が皇孫の御本国にて、日も月もここに生まれたまふと言ひしなり。
これはよその国には承知すまじきことなり。
さればよその国には君とあがめて崇敬すべきことありと言ひたれど、
このことわりはことわりならず。

とまあ、天と同じ言葉で言っても宗教によってさまざまであり、
我が国の天とか日とか月というものは、よその国では承知されないものだろう、と言ったところで、

> 月も日も、目・鼻・口もあって、人体に説きなしたる古伝なり。

これは何を言っているのか。文脈からしてみると、神道のことのようだ。
天照大神や月読命が擬人化されていることを言うか。

> ゾンガラスという千里鏡で見たれば、日は炎々たり、月は沸々たり。
そんなものではござらしゃらぬ。

ゾンガラスはサングラスの意味で、太陽を観察するためガラスにすすを付けたものと言う。
千里鏡とあるから望遠鏡のようなものだろうか。
沸々とはつまりクレーターだらけという意味か。

> 田舎人のふところおやじの説も、また田舎者の聞いては信ずべし。
京の者の聞くは、王様の不面目なり。

やや難解だが、「ふところおやじ」とは狭い世界に閉じこもった親父という意味のようだ。
田舎の世間知らずの親父の説も、田舎者が聞けば信じるだろう、
京都の人間が聞いたら、恥ずかしくて天使様にも顔向けできない、くらいの意味か。

> やまとだましひということをとかく言うよ。
どこの国でもその国のたましひが国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ

> 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらす山さくら花

> とはいかにいかに。おのが像の上に、尊大の親玉なり。そこで

> 敷島のやまと心のなんのかのうろんなことをまたさくら花

> と答えた。
いまからかと言ひて笑ひしなり。

最期の部分、
[「敷島の歌」その後](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishima_sonogo.html)
では、「喧嘩っ早いねと言って笑った。」となっているが、はて。

宿坊

司馬遼太郎は、祇園という町が挙げて長州を贔屓にしていたというのだが、ちょっと妄想入ってるんじゃないか。
長州征伐で京都から排除されてもかまわず匿い続け、鳥羽伏見の戦いで長州の紋の入った旗を見て涙を流して喜んだとか。
まあ、そんな人も居たかもしれないが、京都人全体がそうというのは余りにこじつけが過ぎないか。

確かに、幾松・君尾などの芸妓が居たがそれらが有名なのはたまたま維新が成功して、
政府要人の正妻や妾となり、
明治・大正の頃までそれらの芸妓が生き残っていて、講談などにおもしろおかしく採られたからだろう。
負けた側の記録はその反対にほとんど残らないだけのことだろう。
長州以外の連中も祇園で遊んでいたに違いないし、
長州だけが贔屓にされていたはずもないのではないか。

[勤王芸者](http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886104)
近代デジタルライブラリーで読める。
このjpeg2000のデジタル文書だが、
1920×1200のモニターで、ブラウザ全画面表示で拡大率50%で読むとそこそこ読める、
しかしもっと楽な読み方がありそうなもんだ。

> 侍に勤王佐幕あれば芸妓にもその客種によって勤王佐幕あったもので、長州の侍に馴染があれば、
長州だけで座敷が忙しく、薩藩ならば薩藩の座敷だけで良い加減に忙しいものであったから、
自然客贔屓により、勤王党の芸妓と幕府方の芸妓が出来ていました。

まあ普通はそうだろう。
佐幕派では徳川一橋、会津などが綺麗に遊んでいたという。

> 長州の縄手魚品、薩摩は末吉町の丸住、土州が富永町の鶴屋、新撰組は祇園の一力、

などが馴染みの店、つまり「お宿坊」であったという。