草加

出張で草加まで行く。広々としている。綾瀬川。ほとんど起伏無く真っ平らな、典型的な武蔵野。武蔵野の広さを実感するには、浅草から日光までじっくり東武に乗ってみるとわかるだろう。これが神奈川だと、だいたい川沿いには深い谷ができる。崖にすらなっているが、神奈川の風景とはだいたいが山から川が出てくる谷地ばかりだからだ。草加の綾瀬川などは、周りの土地に何の渓谷も形成していない。つまりここは氾濫原であって、川筋が固定されたのはつい最近のことなわけだ。これだけまったいらで広々したところに首都を作ればどれほど便利だっただろうか。軽くロサンゼルスくらいの規模の街を作れるだろう。だが、江戸時代にはそんなに広大な都市を造ろうという発想はなかったに違いない。

龍馬の手紙・新葉集

[慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E5%85%83%E5%B9%B49%E6%9C%889%E6%97%A5%E4%BB%98%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%B9%E5%AE%9B)。
たしかに龍馬の手紙の中に新葉集についての言及がある。

> 是よりおやべどんに申す。
近頃御面倒おん願いに候。どうぞ御聞きこみねんじいり候。

おやべとは龍馬の乳母らしい。乳母に面倒な願いが二つあるという。

> そもそも、わたしがお国におりし頃には、
吉村三太と申すもの、頭のはげた若い衆これあり候。
これが持ち候歌本、新葉集とて南朝 (楠木正成公などの頃、吉野にて出来し歌の本也)
にて出来し本あり。これがほしくて京都にて色々求め候へども、一向手にいらず候間、
かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがいなされ、
なにとぞ急におこしくださるべく候。

吉村という若くてはげた男が新葉集という南朝の歌集を持っているのだが、
京都で求めようとしてもなかなか手に入らないので、
吉村から借りて、おまえの夫に筆写するようお願いして、至急送ってくれという、確かにややこしいお願いだ罠。

これに関連して、
2009年6月10日に、日本政策研究センター岡田幹彦主任研究員による
「元気のでる歴史人物講座(23) 坂本龍馬」という記事が産経新聞に掲載されたようだ。
だが、上記手紙の文面から

> 和歌を愛し自ら詠んだ龍馬は新葉和歌集を愛誦した。

とまで言い切れるのか。
そうとう飛躍があるような気がするのだが。

龍馬の歌

けっこうたくさんあるんだな。
歴史的仮名遣いに直したりした。

春夜の心にて

> 世と共にうつれば曇る春の夜を朧月とも人は言ふなれ

> 月と日のむかしをしのぶみなと川流れて清き菊の下水

湊川で詠んだものらしい。「月と日の」は謎。日月旗(錦の御旗)の意味か。
菊の下水とは楠木正成の菊水紋を言うか。

> 憂きことを独り明しの旅枕磯うつ浪もあはれとぞ聞く

明石で詠んだもの。

> 嵐山夕べ淋しく鳴る鐘にこぼれそめてし木々の紅葉

嵐山。

> 梅の花みやこの霜にしぼみけり伏見の雪はしのぎしものを

伏見で江戸へ出立の時に

> 又あふと思ふ心をしるべにて道なき世にも出づる旅かな

先日申てあげたかしらん、世の中の事をよめる

> さてもよに似つつもあるか大井川くだすいかだのはやき年月

いずれも淀川。

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

> ゆく春も心やすげに見ゆるかな花なき里の夕暮の空

> 心からのどけくもあるか野辺はなほ雪げながらの春風ぞ吹く

> 丸くとも一かどあれや人心あまりまろきはころびやすきぞ

これはちょっと面白い。

奈良崎将作に逢ひし夢見て

> 面影の見えつる君が言の葉をかしくに祭る今日の尊さ

「かしくに」は「かしこに」か??

父母の霊を祭りて

> かぞいろの魂や来ませと古里の雲井の空を仰ぐ今日哉

> 蝦夷らが艦寄するとも何かあらむ大和島根の動くべきかは

> 常磐山松の葉もりの春の月秋はあはれと何思ひけむ

> 世に共にうつれば曇る春の夜を朧月とも人は言ふなれ

土佐で詠む

> さよふけて月をもめでし賤の男の庭の小萩の露を知りけり

泉州名産挽臼

> 挽き臼の如くかみしもたがはずばかかる憂き目に逢ふまじきもの

これは何か。
結構面白い歌だな。
単なる月並みでも人まねでもない。
上司と部下がうまく噛み合って連動すればこのようなつらい目にあうことはないのに、という意味。
いろいろ解釈はあるようだが、土佐や長州というよりは、勝海舟の立場を詠んだものではなかろうか。
ははあ。[ただしくは吉村虎太郎の作](http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRpoem/saryo_poem02-05.html)という説もあるようだ。
なかなか簡単には信用できないね。

> 藤の花今をさかりと咲きつれど船いそがれて見返りもせず

これも吉村虎太郎作らしい。

> 文開く衣の袖はぬれにけり海より深き君がまごころ

> 世の人はわれをなにとも言はば言へわがなすことはわれのみぞ知る

> 春くれて五月まつ間のほとどぎす初音をしのべ深山べの里

> 人心けふやきのふとかわる世に独り歎きのます鏡かな

> 消えやらぬ思ひのさらにうぢ川の川瀬にすだく螢のみかは

> みじか夜をあかずも啼きてあかしつる心かたるなやまほととぎす

> かくすればかくなるものと我もしるなほやむべきかやまとたましひ

> 君が為捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行末

> もみぢ葉も今はとまらぬ山河にうかぶ錦やおしの毛衣

> 山里のかけ樋の氷とけそめて声打ちかすむ庭の鶯

> 道おもふただ一筋にますらをが世をしすくふといのりつつゐし

> くれ竹のむなしと説ることのはは三世のほとけの母とこそきけ

うーむ。謎は深まった。
もっとサンプルがたくさんあるとわかりやすいのだが。

[居酒屋ばくまつ (過去ログ置き場です)](http://cgi12.plala.or.jp/bakumats/cbbs/cbbs.cgi?mode=al2&namber=383&rev=&no=0&P=R)

> 龍馬の和歌ですが、龍馬が詠んだと伝えられている和歌の数はそれほど多くはありません。
現存する短冊や書簡、あるいは関係文書に収録されているもので殆どですが20首前後です。
ただ、坂本家は実は歌人一家で代々、玄祖父直益、曽祖父直海、祖母久、父直足、兄直方、姉栄、外曽祖父井上好春、義兄高松順三などなど、詠んだ和歌が遺されており、歌会もしばしば営まれていたようです。
この歌人一家の環境の中で龍馬は幼少期より姉乙女の薫陶を受け和歌も学びますが、大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです。

なるほどなあ。

駿府城

たまたま静岡出張で、初めて行くところだったのであちこちぶらぶらした。
なんか典型的な県庁所在地という感じ。
しかし雰囲気は城下町というよりは、門前町の長野に似てる。
一応東海道の宿場町だったはずだが、
旧街道と、浅間神社の表参道が交わるあたりが一番の繁華街だったろうと思われるが、
風俗店はパチンコ屋が二軒くらいしかない。かなりストイックな感じ。
すぐそばに徳川慶喜の隠居跡もあるくらいだし。
慶喜は水戸か江戸に住んでいたはずだが、老後は静岡というのは、
やはり駿府城下が一番徳川家にとって人情的には居心地よかったのだろうか。
旧旗本ごと越してきたからか。
ははあ。なるほど晩年は巣鴨に住んだんだな。
明治天皇に謁見したり勝海舟と会ったのもこの頃だわな。
するとまあやはり静岡に暮らしたのは謹慎・蟄居とかそんな感じだったのだろう。
正室美賀子の歌:

> かくばかりうたて別れをするが路につきぬ名残は富士の白雪

「別れをする」と「駿河」をかけている面白い歌。慶喜が美賀子の三回忌に詠んだ歌:

> なき人を思ひぞ出づるもろともに聞きし昔の山ほととぎす

慶喜の歌を一通り調べてみたい気もするよね。

駿府城はお堀がなんとも立派だった。
三重の堀のうち、内堀はほとんど埋め立てられ、外堀も部分的に埋め立てられていたが、
なんかすごい城だ。
だが家康が晩年住んだ他はあまりメンテナンスもされなかったようだ。

駿府というのは駿河国の国府という意味なのか。
甲府と同じだわな。

浅間神社にも行く。
このような、甲斐を甲府といったり、駿河を駿府と言ったり、浅間をせんげんと読んだりする趣味はあまりすかん。

静岡鉄道にも乗る。

海産物が安いようだ。駿河湾と相模湾はお隣どうしだから、江ノ島や小田原あたりと魚も近いようだが、
こちらの方がずっと安いようだ。金目とかしらすとか。