さながら

ふと、「さながら」という言葉が気になったので、

> さみだれの日数まされば飛鳥川さながら淵になりにけるかな

> 恨むべき人はさながら昔にて世にも知られぬ身とぞなりゆく

> 秋ぞ変はる月と空とは昔にて世々経しかげさながらぞ見る 為兼

> 思ひ寝の夢にうれしきおもかげのさながらやがてうつつともがな

ほんとうの秀歌

後撰集や拾遺集を読んでいるのだが、
ほんとうの秀歌というのは、三代集、つまり古今・後撰・拾遺集のよみ人知らず、
または人麿の歌にこそあると思うんだな。
しかし現代日本人はまず、小倉百人一首から和歌に入る。
そうすると、とんでもない駄作、まったく無名の歌人などの方が有名になってしまう。
赤染衛門などはまだ良いとして喜撰法師などはまったくどうでもよい人だとしか言いようがない。
このあたりが、
和歌の感覚をいちじるしく混乱させているのは間違いない。

特に、後撰集や拾遺集の雑などに無造作に収録されたよみ人しらずの歌に実に良いものが多い。
拾遺集には「雑春」とか「雑恋」などの巻もあってびっくりする。こんなものは、
他の歌集にはなかろう。
たぶん、集めたことは集めたが編集しきれなかったのだろう。
たとえばだけど、

> ささがにの空に巣がける糸よりも心細しや絶えぬと思へば

蜘蛛の巣の糸よりも心細い、と言っているだけなのだが。
次は、山田法師という、ごく無名の人

> あしひきの山下とよみ鳴く鳥も我がごと絶えずもの思ふらめや

「らめ」とか「らめや」って面白いな。

> 我が恋を人知るらめや敷妙の枕のみこそ知らば知るらめ

> 秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我おとらめやひとり寝る夜は

おもしろい歌だなあ。

> 過ちのあるかなきかを知らぬ身は厭ふに似たる心地こそすれ

久しぶりに訪れた女性がなかなか会おうとしないので、
自分の側に過失があって会ってくれないのか、
嫌われてしまったような気分になる、という意味。

> うつくしと思ひし妹を夢に見て起きて探るになきぞ悲しき

これもよみ人知らず。なんか似たような歌があったようななかったような。
万葉集か。
中務

> 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む

松下ソニー時代

日本がかつて一億総中流社会とか、終身雇用などと言う、産油国かなにかのような、
繁栄を謳歌したのは、松下やソニーや東芝や日立や三菱などの家電会社からの、
膨大な税収があったからだ。
私は、たとえば松下幸之助が、個人的に偉大だったというつもりはまったくない。
もし松下幸之助が偉大ならば今でもパナソニックは日本に膨大な税収をもたらし続けているに違いない。
そうではなく、たまたま戦後日本において、
松下やソニーという会社が、日本を担う役割を与えられたに過ぎない。

いま、地方自治や公務員らが、槍玉に挙げられているのは、
もちろん彼らの怠慢にも、システムの欠陥にも、
問題はあろうが、結局彼らは昔も今もおなじようにのほほんと生きてきただけのことであり、
問題の本質ではない。
今の日本に松下やソニーのような、
どんどん勝手に税金を納めてくれるような企業が存在しなくなった、
ということが問題なのである。

松下やソニーなどの企業からの税収によって、社会的インフラに金が回った。
そこで土建屋や自動車産業などが潤った。
トヨタ日産などが先にあったのではない。松下やソニーのおかけでトヨタや日産、
その他の建設業者が儲けたのだ。
電子立国日本と言っていたのはそのことだ。

いま阿久根市長とかが、公務員や市議会議員の給料を減らそうとか、
あるいは道州制を導入すれば日本は良くなるとか、
そういうことは、理屈としてはもっともそうだが、
そんなことは、あほみたいに税金を納めてくれていた、
電機メーカーが居た時代、
あほみたいに源泉徴収で終身雇用で働いていた昭和のサラリーマンが居た時代には、
ある意味どうでも良いことだったのだ。
そんな電機メーカーが日本に今いなくなり、
税収が望めなくなって、
ではこれからどうするのかという議論がなくて、
どうして道州制や地方自治かと思う。
そんなものは所詮は誤差にすぎないのだから。

政治家や経済学者がなんか偉そうなことを言っているのだが、
彼らがどうこうしても、もう私たちのソニーや松下は戻ってはこない。
今の松下やソニーは1980年代の松下やソニーではない。
そしてそのことがわかってない政治家や経済学者のいうことなんて、
たぶん何の役にも立たないんだろうと思う。
彼らにどうして日本を支えてきた電機メーカーの気持ちがわかろうか。

思うに、ソニーやパナソニックは、昭和の頃のように、日本のために滅私奉公することはないだろうと思う。
それは、日本に対して、
ソニーやパナソニックがこれまで積み上げてきた善徳に、
日本人があまりにも、無理解無関心で報いることが少なかったせいだと思う。
私たち日本人はソニーやパナソニックにあまりにも多くを負っている。
しかしソニーやパナソニックはこれまであまりにも日本に報われなかった。
バブルの日本とは、政治家や土建屋や外資系企業が私腹をこやしただけだったのだ。

示現流

示現流は、一の太刀があって二の太刀がないと言う。
しかし、西部劇ではあるまいし、
一発だけで勝負が決まるというのは実におかしな話だ。
剣道でも残心というものがある。
一の太刀しかいらないのであれば残心も不要だ。

示現流は戦国時代に出来たのではない。
江戸時代になってから生まれた。
つまりは非実用的な剣法だったのではないか。
江戸時代に発達したさまざまな流派が結局は実戦にはなんの関係もないようにだ。
戦国時代にはすでに鉄砲と槍で戦争をするようになっていた。
刀を使った戦闘は屋内の接近戦などのごく限られた状況で想定されていたものだ。
そんなことを薩摩藩が知らぬわけがない。
近代戦闘・集団戦闘で示現流というものが役に立つはずがない。
示現流というのは要するになんかのまやかし、精神論の一種なのではないか。

賭博税

他にもいろいろ考えてみた。
今、法律で禁じられていることを、高額納税者にだけ許可する。
その代わり税金をよけいに払う。
たとえば賭博。
年収が2000万円以上の人は、たとえば年に200万円まで賭博をしてもよい、ということにする。
年収が1億円の人は1千万円まで賭け事に金をかけてもよく、しかし収入には高額の税金をかける。
それでも博打が好きな人はやるのではないか。

公序良俗に反しない限りある程度そういうことを認めてはどうか。