地味な中高年齢者向け中編恋愛歴史小説

最初BLの短編歴史小説を書こうとしたのだが、それからだんだん中編の仏徒列伝のようになってきて、
しかしその中の一人が勝手にどんどん動き出したので、
途中から予定を変更して短編の(普通の男女の)恋愛歴史小説を書き始めたのだが、
これが次第にぶよぶよとふくらんできたので、
結果的に極めて地味でまったりとした恋愛小説風の中編歴史小説になってしまった。
たぶん年齢層的には四十代以上、おじいさんやおばあさん向けなのではなかろうか。
また途中からかなりフィクションが混じったり実名だと差し障りもあるので、
純粋な歴史小説というよりは時代小説に近いものになった気がする。

こういう「地味な中高年齢者向け中編恋愛歴史小説」というものがだ、
もちろん書いていて自分は楽しいし、読んでも面白いのだが、
一般受けしなければ意味がないのではなかろうか。
そもそも五十代、六十代の人たちの心境というものは、体験したことがないからわからないわけだよなあ。

短編だと、一気に書けて、しかもクライマックスだけを書くわけだから、締まってて面白いとは思う。
最初は短編の方が書きやすいと思っていたが、案外書けないものだということがわかった。
というか、最初書き始めはいつも短編なわけだが、どんどんいろいろ肉を付けてしまうので、
そうはならないのだ。
そうだなあ。
いろいろとディテイルを書いた方が小説らしくなるんだが、ディテイルを書き出すと短編というより中編に近くなる。
ディテイルのない生の短編というのはやはり自分の内面が激しく露呈するから怖い。
自然といろいろ目くらましをしたような中編ぐらいの方がおさまりがよい。
もう一つの理由としてはやはり蘊蓄を語りたくなるというのがある。
蘊蓄話をすると自然に話が冗長になる。まあそれはそれで仕方あるまい。

ところで今更だが、芥川龍之介というのは、今昔物語のリメイクみたいな短編ものが多くて人気もあるが、
なぜあれがそんなに良いのだろうか。不思議だ。
やはり単なるリメイクにしか見えない。芋がゆ、鼻、羅生門。

歴史小説

歴史小説は書きやすい。ネタがいっぱい転がっているから。
その代わり登場人物が200とか300とかどんどん増える。
まあ、オーケストラの作曲または指揮みたいなもんだな。
キャラは勝手に動き出す。
今まで日本の歴史小説しか書いてないが、海外だと康有為あたりを主人公にしてみると面白いかも。
いや、康有為の学友あたりを主人公にして康有為の周囲を描くとか。
あんまりそんな例はないよな。
こういう学者とか儒者を主人公にしたものというのは、案外無いのだよね。
そうまだ誰も書いてないネタの方がずっと面白い。
でもみんなが書いてるネタをまったく違う切り方で書くのも面白い。

逆に、現代小説っていうのかな。
これは難しい。
それでも私の場合、歴史小説の癖で登場人物をどんどん出してしまう。
歴史小説的な書き方になるのな。
こないだ試しに書いてみて、数えたら登場人物だけで25人、その他の歴史上の人物など入れると50人くらいになる。
まあこんなものか。
それでネタがあっという間に尽きる。

私小説みたいのは登場人物が一人というのはさすがにないのかもしれんが、
短編なら二人や三人というのもざらだろう。
たぶんそういうのは書きにくい。
たとえば作者が自分自身を投影するときにおおぜいに分散させればごまかしやすい。
一人に投影すると煮詰まりすぎる。
それは避けたい。
そういうコントロールができないから書けなかったのではなかろうか。

その点、歴史小説はネタに困りにくい。
すべての歴史上の人物を主人公に書けと言われてかけなくもない。
面白いかどうかは別として。無尽蔵だな。

誤読

思うに、宣長自身は誤読されないように、きちんと論理立てて記述しているのだが、宣長ほど誤読され拡大解釈されている人はいない。
同様なことは小林秀雄にも言えないか。
つまり、誤読や拡大解釈によって、真に個人の作品は国民全体のものになるということか。
平家物語が不特定多数の作者によって改編されたように。
ガンダムやマクロスが原型を留めないまでに続編が作られたように。
これらはみな同じ現象なのではないか。

小林秀雄の場合、難解でそもそもわけのわからん言い回しが多いから、誤解や拡大解釈の余地が多い。
宣長は誤解の余地はほとんどないが、理論自体がわかりにくい、
いやわかりにくいというより一般人には素直に入っていかない理論で構築されている、
というよりも、自分でぐいぐい違う方向へ勝手に解釈してしまいたくなるような理論であるために、
やはり誤読されてしまう。
この二つは全く違うパターンだ。
ガンダムやマクロスは宣長に近い。
小林秀雄に近いパターンというのはいわゆる哲学や美学の評論の世界には非常に多くみられるだろう。
マックス・ウェーバーなどは小林秀雄よりは宣長に近い。
平家物語は第三のパターンで、まあ匿名掲示板的なものだ。

来宮秀雄

今日のイブニングの『おせん』にいかにも小林秀雄風な「来宮秀雄」という人物が出てきて、
「へぇへぇたしか高等部の国語の教科書で読まされたでやんす。なんか難しいっていうか、全然遊びも無駄もない文章で、まるで一切つなぎを使わねぇそば職人のような」
「ほほうまさに言い得て妙」
などというセリフがあるのだが。
まあ確かになんというか、志賀直哉や芥川龍之介の短編小説などは「遊びも無駄もない」と言えるかもしれんが、
小林秀雄の文章はときにかなり饒舌、冗長に感じる時があるのだが、気のせいだろうか。
まれにただ単に原稿料を前借りしているだけではないか思われるときもあるのだが。

「一切つなぎを使わない蕎麦」が「全然遊びも無駄もない文章」に似ているかどうかも微妙だ。
そういう文章は省略や余韻というものを多用している。
つまり技巧として、本来あるべき語句をそぎ落としているのであり、和歌や俳句などの短い詩形などにもよく使われる。
単につなぎを使わないだけではない。
逆に短い詩形だからこそ、遊びを使うこともある。
遊びを使うために省略もする。

ははあ。国語の教科書で小林秀雄というと「無常という事」なのか。
読んだことないな。

「無常といふ事」だが、ごく短い文章なので、さらっと読んでみた。
どうということもない文章だが、なぜこのように有名なのか。
そしてやはりだらだらとした随想風だ。
森鴎外が晩年考証家に堕したというのはとるに足らぬ説であり、
同じことを宣長の「古事記伝」にも感じ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」
「これが宣長の抱いた一番強い思想だ」などと書いている。
難解な言い回しだがこれは単に「いろいろと想像で解釈をいじくり回すよりもたくさんの文献に当たって考証学的に意味を推量すべきだ」
と言ってるに過ぎないのではないか。
それと「常」と「無常」ということや、平安人と現代人の対比となっているのだが、
やはり何が言いたいのかよくわからない。

果たして、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とは宣長の何を言っているのだろうか、と思うのだが、
この「無常といふ事」は戦争中の昭和十七年に書かれたものであり、
戦争中に読まれた「古事記伝」には特殊な意味があったに違いない。
「本居宣長」は昭和四十年から書かれたものであって、
当然昭和四十年に執筆を始めるときには宣長全集か何かを読み直した後のことであろう。
だから、「無常といふ事」に書かれている宣長感は、後のものとはだいぶ違っているのに違いない。

ははあ。なるほど。これは、日本が戦争に負けてから出版されたので、
「敗戦国民へ向けたメッセージ」として読まれたわけだ。
そういう読み方もできなくもないが、それは明らかに誤読だろう。
小林秀雄の宣長解釈もこの時点では何かあやふやであるし(そもそも小林秀雄の古事記伝解釈はちんぷんかんぷんだ)、
それをまた読者は誤読しているわけだから、
小林秀雄の人気というのも実に怪しい。そしてそれを高校の国語の教科書に載せて、
いったい何を読解しろというのだろうか。不思議だ。