大いなる助走

久しぶりに読み直してみたのだが

> あなたも小説を一度書いて見られたらおわかりになろうかと思いますが、
小説を書いている間というものは小説の世界へのめりこんでしまって現実がどうなろうと知ったことじゃなくなるんです。
小説をよくする為には利用可能な現実の出来事をすべてぶちこんでしまって、
それが日常生活に及ぼす結果や我が身にはねかえってくる報いなど、
たとえ馘首になろうがどうなろうがどうでもよくなってしまうんです。

いやー。無理無理(笑)。絶対無理だからそれ。書けないものは書けないよ。
同人誌書いてる学生じゃあるまいし。
ビデオ公開しちゃった海上保安官じゃあるまいし。

はっ。まんまと釣られた。

しかし、今でも、20代の、しかも女性作家に、私小説というか暴露小説まがいのものを書かせて、
それを持ち上げる傾向はあるよねえ。いかがなものかと思うが。
つまり、それ以外に話題性というか、インパクトのある小説が無いのがいけないんでしょうけど。

小谷野敦『私小説のすすめ』も、

> 多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説

などと言っているということは、
作家は一生に一度しか書けないような私小説を(まだろくに人生経験もない若い頃に)書いてデビューして良い、
と言っているわけだから、『大いなる助走』に出てくる主人公の市谷みたいな暴露小説を書いてよいと、
そそのかしているようなものだ。
うーん。
どうなのかねそれは。

暴力装置

国家というものが、「暴力」を独占する唯一の存在だと言ったのはたぶんマックス・ウェーバーで、
『職業としての政治』だと思う。

と思ったら、それをすでに記事に書いている人がいた。
ウェーバーは、
「近代主権国家を合法的な暴力行使を独占する組織と位置付けた」
のである。
どういう場で言ったかはわからないが、文脈的には失言だったのかもしれない。
しかし、ここまで話がでかくなったら仕方ない。
堂々と、反論すれば良いのに。

いちいち、補足する必要もないと思うが、マックス・ウェーバーと共産主義、もしくは共産党とは何の関係もない。
というか、『職業としての政治』のもとになった演説は、第一次世界大戦でドイツが敗北して、
共産主義にかぶれた学生たちに向けて警句として放たれたものだ。
ウェーバーはばりばりの反マルキスト、右翼、帝国主義者、国粋主義者、大ドイツ主義者だった。
ビスマルクの信奉者だったと思う。たぶん。
共産党の議員たちは、純粋に、政治学を専攻した人間として、擁護してくれたのだと思う。
でも多くの代議士には、そのくらいの常識もない。
そういう意味では、一番まともな政治家は共産党員なのかもしれん。

ていうか、国会議員やジャーナリストは『職業としての政治』くらい読まんのか。
岩波文庫で、簡単に手に入るのだぞ。

暴力を飼い慣らすために国家というものができて、国家よりも上位の政治システムはまだ出来てないのだから、
国家が暴力を行使する権利を独占するのは当たり前であり、
そのために、文民統制というシステムがある。
その最高司令官が内閣総理大臣だ。
良くできたシステムだ。
それを、否定したいのか、なんなのだろうか。
たとえば頼朝は暴力を独占した。幕府というものだ。なんの正統性もない。しかしうまく機能したのは、
頼朝が、政治の本質を把握してたからだろう。違うかな。

まあしかし、菅直人が、自衛隊の最高司令官だという自覚がなかったのには、苦笑した。

与党

菅内閣の支持率が、自民党並に落ちてきたことで、やっと民主党も与党になれたなと、
私は思うよ。
マスコミにぼろくそにけなされてこその与党ですよ。
あなたは今、ほんとうの首相ですよ。
民主党初のほんとうの首相ですよ。
菅さん、まあもうしばらくがんばってください。

今批判されていることはほとんど感情論であって、政治の本質ではない。
太陽の牙ダグラムで、歴史は理性ではなく感情で動くものだ、と言った。それは良い。
しかし、それは逆説だ。本来、歴史や政治は、打算尽くの、理性で動くものだ。そうだろう。
感情を理性でコントロールできなければ獣と同じだ。

ジャンル

現代の小説は極めて細分化されている。
それぞれの分野にそれぞれのファンが居て、それを専門とする作家がいる。
さらにそこからファンが二次創作を作っていく。
そうするとさらに細分化が進む。
こういう現状だ。

しかし、そんな小説は書きたくもない。
たとえば前半部分は政治小説だが後半から恋愛小説になるとか、
現代小説の中に歴史小説がいくつも埋め込まれているとか、
とにかくジャンルをかるがると超えてわたりあるくようなそんな小説が書きたいわな。
人にも書けるような小説を自分がわざわざ書く必然性があろうか。

たぶん自分の中にそういう「ジャンル」というものに対する嫌悪感、
否定したい衝動があるのだな。
これはどうしようもない。