夢金

船宿が出てくる落語に、夢金と言うのがあるのだが、
吉原の山谷堀にある船宿で、隅田川に出て深川まで行くと言う話。
三遊亭円生の話を聞いていると亭主と女将は一階にいて、船頭の熊五郎は二階で寝ている。
古い柳橋辺りの写真を見るに、この頃の町屋はほとんどが二階建て。
柳橋新誌の記述とも符合する。
深川でも妓楼とは言わずに船宿と言っていたらしい。

> 家に必ず楼あり。楼に内外あり。小なるものは外楼あるのみ。家人皆下に棲止して、客を楼に迎ふ。
その舟子を畜ふ、上は四五人を食ふ。下は一二人を食ふ。

思うに、船宿というのは、普通の二階建ての町屋のようなものだったろう。
多くの商店のように、間口は狭く、奥に長い。
表に面した二階が客に貸す客間、奥の二階には、船頭が待機・休憩していたのではなかろうか。
一階は通りに面して玄関と帳場があって、その奥に亭主と女将一家のすまいがあったのだろう。

思うに柳橋というところは、戦後日本の駅前商店街のように、船宿は船宿、料理屋は料理屋、
酒楼は酒楼、などというように個別の専門店が立ち並んでいて、相互に補完していた。
町全体でいろいろまかなった。
船宿の座敷は個別のこじんまりしたレンタルルームのたぐい、酒楼は広間をシェアするようなものであり、
密会には船宿の方が都合良いのであろう。
一方、吉原などでは、「張り見世」などで大勢の遊女が集められていたのように、
妓楼一つ一つが独立したスーパーマーケットのようなものだったに違いない。
その建物も巨大で、三階建て、四階建ては当たり前。
従って同じ芸者と言っても吉原と柳橋では全くシステムが違っていたのだ。

落語の中ではまた「屋根舟」という言葉が出てくる。
これも古い写真などで確認すると、普通の川船に簡易な屋根を設けた程度のものであり、
五、六人も乗れば満員、船頭も一人きりで、竿をさして移動するもののようだ。
船宿が所有する舟のメインはこれ。
これに対して屋形船というのは何十人も乗れて中には畳の座敷のようなものまであるもので、
幕府の免許(株)が必要で、柳橋新誌の頃には七隻に減っていたという。
つまり、屋形船は大きすぎのろすぎて、洒落と便利を尊ぶ「遊び」には向いておらず、
皆屋根船を使うようになったということだろう。

屋根船よりも簡易で船足の速いのはチョキと言い、
急に山谷堀まで遊びに行きたくなったときなどに早駕籠代わりに使ったという。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。
少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。
「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、
表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。
だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。
もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。
なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、
つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。
母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。
吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。
一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、
実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

江戸繁盛記

深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ

船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ

まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里

身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里

柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。

吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。

柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。

柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。

柳橋新誌

> イモリよりもっと効くのは佐渡の土

イモリ黒焼きは精力剤・媚薬、佐渡の土とは金のこと。

> 浮き草や今朝は向こうの岸に咲く

> 転妓の具、三あり。曰く才、曰く貌、曰く金。而して金を重しとなす。

才は才能だわな。
貌は男っぷり。
金は金。
転妓とは芸者を転ばすこと。

> 妓に大小の別あり。
大妓は即ち芸者にして、大妓は俗に呼んで御酌(おしゃく)と言う。
その三絃(しゃみせん)を弾ぜず、
ただ杯杓(さかづきとひしゃく)に侍御するをもってなり。
大妓の定価、昼夜八朱(二分)、辰(朝八時)から子(深夜十二時)に及ぶがごときは、
即ち或いは四朱(一分)を加ふ。
少しの間、これを招くも、また四朱。
小妓は即ちその半ばなり。これを半妓というもまた可なり。
客、定価の外において投ずるある、これを花と言ふ。

なるほど。1両=4分=16朱。
1両が今だとどのくらいの価値かというのは難しいのだが、
おおざっぱに江戸後期だと、庶民の一家が一ヶ月暮らしていけるくらい、でだいたいあってるかな。
芸者を呼ぶとなると定価で、大妓、小妓、肴などかかるわけだから、
やはり一度に一両くらいの金はかかるというわけだ。

> 蓋し酒席上、大妓弾じて、小妓舞ふ。

甲子太郎

前田愛『成島柳北』には、

> 甲子太郎は、柳北の本名で彼が誕生した天保八年(一八三七)二月十六日の干支が、甲子であったことから命名されたという。

と書かれているのだが、これは紛らわしい記述だ。
1837年は大塩平八郎の乱があった年だが、この年の干支は丁酉。
柳北の生きていた時代で、甲子は1864年、元治元年に当たる。
たとえば伊東甲子太郎は、上洛の年が1864年だったので、それを記念して甲子太郎と名乗ったとされる。

『濹上隠士伝』冒頭

> 濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。

「天保丁酉の年」は天保八年という意味。
「二月甲子」の「甲子」は、干支紀日法というもので、60日を周期とした日にちの表記法によるものと思われる。
和暦で1937年2月の甲子は確かに16日で、西暦に換算すると3月22日になる。
ふむ。やっと納得が行った。