中国人の名前

眼鏡が割れて超ショック。
昔作った眼鏡では、近くと遠くで度が合わなくて困る。
遠くが見える眼鏡では近くは眼鏡を外さないと疲れて読めない。
近くが見える眼鏡では遠くが見えないので、他人の顔がわからない。
さて、どうするか。遠近両用眼鏡とか高そうだし爺臭いし。
いやだなあ。

ううーん。やっぱ読書と執筆用に度の低い眼鏡が一つないと不便だよなあ。

相変わらず、『儒林外史』を読んでいるのだが、
蘧公孫と言う人には、
蘧駪夫という名前もあり、
蘧来旬という名もある。
翻訳者の註などを読むとこの三人が同一人物だと知れる。
来旬が諱(いみな)で、駪夫が字(あざな)、
公孫というのは、蘧太守という人の孫なので、そう呼ばれるらしい。
子供の頃はだから、「蘧さんの孫」というような通称で呼ばれ、
結婚してからは「蘧駪夫先生」などと呼ばれる。
蘧来旬というのは、会話文には出てこないで、人名一覧のようなところに出てくる。
はああ。ややこしいねえ。
しかも、本文にはどこにも説明がない。

蘧公孫は結婚するのだが、妻の名がまた、「魯のお嬢さん」
としか書いてなくて、なんという名前なのだかさっぱりわからない。
また、杜少卿という人が、作者がモデルらしくて、主人公らしいのだが、
彼の妻の名前もよくわからない。
こんな具合に男には名前が三つもあるのに女には名前が一つもない、
というあたりがはげしくいらいらする。

蘧公孫は魯家に婿入りしたので、その子供は魯姓になるらしいのだが、
その子供の名前も出てこない。
やはりいらいらする。
まあ、そういう小説なのだから仕方ないといえばそれまでだが。

杜少卿という人だが、天長県の杜家の25番目の息子で、仕官もせず、ただ親にもらった財産を使い尽くすというだけの人で、
きまえがよくて豪傑という設定。ただのニートではないか。

行政区分は「省」の下が「府」、「府」の下が「県」で、
蘧公孫の爺さん、杜少卿の父が「府」の知事らしい。
府知事の子孫が金持ちでしたとか、金持ちの家に婿入りしましたとか、
そんなことがただ書いてあるだけのような気がして仕方がない。
こりゃどうも日本で流行らないはずだわ。

儒林外史

[儒林外史/第01回](http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%84%92%E6%9E%97%E5%A4%96%E5%8F%B2/%E7%AC%AC01%E5%9B%9E)冒頭。

> 人生南北多歧路,將相神仙,也要凡人做。百代興亡朝復暮,江風吹倒前朝樹。
功名富貴無憑據,費盡心情,總把流光誤。濁酒三杯沉醉去,水流花謝知何處。

いきなり読めない漢字が。
「沉」は「沈」と同じか。
もはや wiktionary くらいしか、調べる辞書がない。
ああ、中日辞典を引けば良いか。

> 濁酒三杯沈酔去

しかし、わからん。

金券

ふと思ったのたが、失業者や生活保護とか母子家庭などに支給するのに特別な金券を作る。
税制上の優遇はしない。
ただ金券を配る。
この金券は決して換金できない。
憲法に保障された基本的人権を保証する範囲に使うことはできるが、
それ以外の、たとえばパチンコや酒や煙草を買うことはできない。
つまり、その金券だけでは刑務所の受刑者以上の生活はできない。

そんな金券ができたら、どうなるのかな。
たぶん米を酒に交換するとか、物々交換の市場が生まれるだろうな。
わくわくするな。

定家母

定家の父は俊成、母の実名は不詳だが、『新勅撰集』には定家母として出てくる。
『新勅撰集』は定家が一人で編纂した勅撰集だが、それに実の母の歌が一つだけ出てくる。

> 定家、少将になり侍りて、月明き夜、喜び申し侍りけるを見侍りて、明日につかはしける 権中納言定家母

> 三笠山道踏み初めし月影に今ぞ心の闇は晴れぬる

なんとも言いようのない、陳腐な歌だなあ。
それを載せる定家も定家だわ。息子が出世して喜ぶ母の歌。
なんだかなあ。
孝行息子だな。
どうしても載せたかったんだな。
でもそれ以上は、載せるに載せられなかったんだな。ものがものだけに。
『新古今集』には、母と父とがやりとりした歌が載っている。

> 女につかはしける    皇太后宮大夫俊成

> よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ

> 返し 藤原定家朝臣母

> たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ

うーん。まあ、普通かな。
『新古今集』定家が母の死に際して詠んだ歌

> 母身まかりにける秋、野分けしける日、もと住み侍りける所にまかりて 藤原定家朝臣

> たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふるやどの秋風

同じく俊成の歌

> 定家朝臣の母身まかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊まりて詠める 皇太后宮大夫俊成

> 稀にくる夜半もかなしき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ

うーむ。

定家母は美福門院に仕えて、女房名が加賀だったから、
美福門院加賀とも呼ばれるという。
待賢門院堀河とか上西門院兵衛とかそんな感じの呼び名だわな。
五条局とも呼ばれたというがなぜか。
ともかくも勅撰集には「定家母」という名で出てくるわけだ、たった二首、しかも、身内ネタばっか(笑)。

待賢門院は後白河天皇の母、上西門院は後白河天皇の実姉。
上西門院は待賢門院からその華やかなサロンを引き継いだ。
どちらも女流歌人がたくさんいる。
ところが待賢門院のライバルである美福門院には歌人は、皆無ではないが、
ほとんどまったく居ないと思っていたが、定家の母がいたので意外だったのだ。
しかし定家母は、やはり大した歌人ではなさそうだな。
勅撰集などに残っている歌が少なすぎる。

[マザコン定家](http://d.hatena.ne.jp/tmk141/20080530/p2)。
なるほど。