司書夢譚

[司書夢譚](http://p.booklog.jp/book/34682)を公開した。
これも蘊蓄が長くて読みにくいけど、それは試し読みから除外したので、
試し読みするだけならさくっと読めるだろう(笑)。
なんとなく試し読みの本来の趣旨からは逸脱しているようにも思えるが。

押韻に絶望する

十載夢飛巴里城
城中今日試閑行
画楼涵影淪綺水
士女如花簇晩晴

これは、成島柳北がパリを訪れたときに作った漢詩だが、行と晴が、一見押韻してないように見えるが、
いずれも韻字は庚であり、`ing と発音する。
まったく見当もつかない。
しかし、調べてみると柳北の漢詩で押韻がいい加減なものは、滅多にないようだ。

韻はしかも、現代中国語の発音とは違っていることもあるようだ。
従って、機械的に、ともかく一字一字韻を暗記しなくてはならないということになる。

[日本語と日本文化 成島柳北](http://japanese.hix05.com/Literature/Ryuhoku/ryuhoku.index.html)。
少し詳しい。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。
他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。
柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。
主筆自ら社説を書いておかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。
今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

[ここ](http://home.b-star.jp/~foresta/1/narushima/)にもややまとまった文章が置いてある。
『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。
楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。
頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。
というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。
或いは永井荷風の影響か。
『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

カフェイン絶ち

ここ三日ほどカフェインを完全に摂らずにいてわかったことは、
確かに、
カフェインのきついガムを一度に十個とか、まとめて食うと、急激にカフェインが回って、めまいがしたり、心拍が強くなったりする。
しかし、カフェインを摂らなくても、同様の症状、特に心拍がときどき強くなるという症状は出る。

目眩は、おそらく、内臓脂肪が少なくなったせいもあるだろうと思う。
朝起きたときに、もう少し食べないと行けないのだと思う。
しかし寝起きが一番、食欲がない。
一時的に血糖値が下がりすぎないように気をつけねばならない。
或いはこれも、薬によって、血圧が下がり気味なせいかもしれない。
心臓が治って薬をやめてから、ダイエットは再開せねばならないだろう。

心拍が強いというのは、たとえば食事をした後にもそうなる。
腹一杯食って胃で消化が始まると、血流を増やそうとするかのようだ。
たぶん心臓の力が回復して来ているのにいまだに強心剤(ジゴキシンとか)を飲み続けているせいだと思うのだけど。
私としては早く強心剤を飲むのをやめてしまいたいのだが、医者がなんというか。
一日中ずっと心拍が強いわけではないようなので、たぶん、それほど心臓に負担になってはいないのではないか。
医者に言って、やめてもらうまでもう少し辛抱しよう。

で、カフェインを無理して飲まない必要はない気がする。
がしかし、24日にまた24時間ホルターをつけて心電図取るので、それまでは万全の体勢で臨もうと思う。
また、カフェインを好んで摂取する必要もない気がする。
以前はコーヒー中毒のように飲んでいたが、今はなくても平気だ。

メディアとビジネスモデル

二、三年前から、死に物狂いでビジネスモデルを考えて、ついに収益が出るようになったメディアと、
二、三十年前からの収益モデルで今日までやってきたが、技術革新についていけず、手詰まりになりつつあるメディアの差が、
顕著になりつつあるよなあ。
地デジ化というのは大いなる目眩ましだった。あれは技術革新でもなんでもなかった。
地デジ化しさえすれば、NHK も民放も技術革新についていけるんだと思い込もうとしただけ罪が深かった。

NHK はネット同時配信を望み、民放は嫌がっているというが、
まず民放は、番組の合間にむりやり広告を見せることによって収益を得ているが、
ネットの VOD なぞが主流になれば広告をすっとばせることになるから、
要するに、インタラクティブなものはすべて収益の敵であって、
切れ目なく(ユーザにとっては不便を強いられる)ブロードキャストできるメディアでなくてはならない。
NHK は受信料もらうタイプだから、ブロードキャストでもインタラクティブでもどちらでもよい。
ついでに、PCや携帯端末もってるだけでも受信料をとろう、というように、放送法を改正しようとしてくるだろう。

となると、我々としては、NHK も民放もどちらも迷惑なだけであり、Youtube やニコ動でなぜいけない、
という話になろう。
うちの場合はケーブルテレビも契約しているが多チャンネルの専門チャンネルにしてくれればそれで十分だ。
放送局がネットに進出しようとすれば、結局は、既存のビジネスモデルを何らかの形で参考にし、取り入れざるを得ず、
そんなら Youtube やニコ動とどこが違うのか、後追い参入してきているだけじゃないか、などという話になる。

というか、テレビ放送だけでなく、だいたい、昭和の頃からあるメディアのビジネスモデルの多くは破綻しつつあるのだ。
我々はでは今どちらのメディアに乗っかるのか、古いメディアはどうせ沈みゆく泥船だから見捨てるとして、
新しいメディアに乗っかるとして、どこに乗っかるのか、
いや古いメディアにもまだ底力が残っているのか。

無論電波利権とネットを組み合わせ得る、既存のテレビ局の方がまだ有利だと思うが、
新しいビジネスモデルを必死で思いつこうという切羽詰まった雰囲気が見られないよなあ。
そういうことに頭を働かす常駐スタッフなどいないのだろう。
経営者の考えは旧態依然だろうし、
プロデューサーやディレクターなどは既存のビジネスモデルに自らを最適化してしまっているのだから。

今のビジネスモデルを変更するということは、やはり多かれ少なかれ現在の利権の一部を手放すこと、
他人の参入を許すこと、市場を自由化すること、
自分の仕事を増やすこと、になるのだろうなあ。

よく聞く話に、映像作品は、インタラクティブであってはならない、というものがある。
つまり、映像を鑑賞するには、映画館のような大画面大音量の施設で、最初から最後まで、
途切れなく見続けなくてはならないというものだ。
しかし私は、仮にそれが、感動を最大化する方法だったとしても、できるだけ拒否したい。
自分が途中で見るのをやめる、もしくは続きを後から見たり、最初からもう一度みたり、
BGV としてだらだら何度もみたりする権利の方がはるかに重要だと思う。

映像作品は最初から最後まで黙ってみろというのは、ヒトラーのプロパガンダの理論であり、
小中高の一斉授業の論理であり、
放送業者の理論であり、作り手、送り手の理論に過ぎない。
そんなものに拘束されるいわれはない。

念のために言っておくと、映像作品が、Flashアニメやゲームのようなインタラクティブコンテンツであるべきだ、
と言っているのではない。
必要もないインタラクティブ要素を入れられるのは迷惑なだけだ。