秋の夕暮

題しらず

さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮 1139-1202)

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (西行 1118-1190)

西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに

見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮 (定家 1162-1241)

この『新古今』に並んで収められた三つの歌の成立をどうとらえるのか。
詞書によれば、西行の歌があって、それに対して定家が返歌を求められた形になっている。
従って、西行より定家が後なのはわかる。

では西行は寂蓮の歌を本歌として詠んだのだろうか。
さて、そうだろうか。

年の順で言えば、寂蓮は西行の21歳の年下、定家はさらに23歳年下。
定家は西行よりも44歳も年下である。

西行の歌は1187年に成立した『御裳濯河歌合』に入っており、
定家の歌は1186年にできた『二見浦百首』に、
寂蓮の歌は1191年成立『左大臣(良経)家十題百首』入っているという。
『御裳濯河歌合』は西行の自選集だから、詠んだのはもっと昔かもしれない。

定家は西行を本歌として、寂蓮は定家と西行を本歌として詠んだのだが、それがわかるとすっきり理解できる。

寂蓮はしかも定家という実子が生まれるまで俊成の養子であった。
やや複雑だが、いずれも歌道の家の人間であるのに、その間に挟むように、西行の歌があるのはなにやら悪意すら感じる。
寂蓮と定家は二人とも『新古今』編纂の寄人で、西行はとっくに死んでおり、
寂蓮は選考の途中で死んでしまった。
残された定家としては、このような順序にせざるを得なかったのかもしれない。

「心なき身にもあはれは知られけり」は、俗世を捨てて人の心も捨てたはずの私にも、どうしても、もののあはれというものが感じられる、
という意味だろう。
世の中では、「心無き身」を「情趣を解さぬ粗野な自分」とか「煩悩を捨て悟りを開いた自分」などと解釈するらしいが、
それはおかしい。実にfunnyだ。西行の

惑ひきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

我ばかり 物思ふ人や またもあると もろこしまでも 尋ねてしがな

などの歌を見ればわかるが、西行は、煩悩を捨てきれずに苦しんだ人であり、
煩悩を捨てきれずに苦しむ者こそが真の世捨て人であって、
世捨て人のふりをして何の悩みもないやつは世捨て人ではない、とまで言っている。
また、当然のことながら、風流や情愛のわからぬ朴念仁だと自分を卑下してもいない。謙遜もしてない。
自分こそは、人の心がわかると、もののあはれを知っていると自負しているのだ。
自分くらいわかっている人がいるか、世界の果てまで探してみたいものだ、などと言っているくらいだからなー。
西行ファンで西行を誤読している人が多い。

従って、大意としては、普通の叙景の歌であって、ひねりはない。
素直な歌だ。

しかし、定家のは、実にひねくれた歌だ。
何にも無い、殺風景な、殺伐とした、ただの秋の夕暮れだ、と言っているだけなのだが、こういうものに情趣を感じる人がいるのが不可解である。
この歌はただひねり過ぎてひねくれた歌とだけ解釈すればそれで済むと思うのだが。
もっと言えばこれは西行への当てつけの歌だ。
西行的な、浪漫的で印象絵画風な歌への嫌悪を歌ったものだ。
それ以上のものではあるまい。

寂蓮のはさらに、定家の虚無感を仏教的な無常観につなげようとした、いやらしさを感じる。
しかしこういうものに、世の中の人は、ことさらに幽玄とかなんとかの価値を見いだそうとする。
本歌取りの歌というものは、だんだんにひねくれていくものだ。
最初の歌は素直な、見たままの歌であるのに、二次創作、三次創作となるにつれて、
いやらしさがまとわりついてくる。
特に定家は本歌取りの名人などと言われたわけだが、実にうっとうしいやつだ。

定家は『新勅撰和歌集』というものを一人で選んだのだが、
その前の『新古今』が後鳥羽院の親選だったのを考えると、実に皮肉な題名だ。
『新勅撰集』は定家の私撰集というような内容だからだ。
これはつまり、『新古今』から、
後鳥羽院や西行のような、
主観的で耽美的なものをそぎ落として、なにやらよくわからん虚無的・無味無情なものだけを抽出したようなものだ。
肉食を禁じて精進料理にしたようなものだ。
たとえば、『新勅撰集』にも西行の歌はいくつも採られているが、どれもなんか、気が抜けたような、
西行らしくない歌ばかりなのだ。

定家がたまたま『新勅撰集』でそんな実験をしたというだけなら、大して害はなかったのだけど、
後の人は『新勅撰集』みたいなものを和歌であると、勅撰集であると思い込んでしまった。
これは和歌にとってあまり良いことではなかった。
おそらく為兼はそれをいくらかなりと矯正したかったのだと思う。

たぶん、後鳥羽院は西行を愛してはいたが、
定家のことは、才能はあるがひねくれたやつくらいにしか思ってなかっただろう。
父の俊成とはかけ離れた、よくわからん変なやつ。
しかし世の中は何かよくわからんモノの方をありがたがるものだ。
『新勅撰集』以後、わかりやすい歌というものは急速に減っていった。
為兼がその流れを変えようと孤軍奮闘したが、大勢に抗することはできなかった。

字余り

以前書いたことの繰り返しになるが、
「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、
「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。
そういう論法に従えば「なぜ宣長は和歌を理解できたのか」「なぜ宣長は古事記を読めたのか」という問いに対しても、
「若き日の大恋愛と失恋があったからだ」などというへんてこりんな答えを導き出さねばならぬ。
やはり、宣長は天才であったから、和歌の本質を理解し、『古事記』も『源氏物語』も読めた、といった方がすんなりくる。

字余りについて最初に明確に指摘をしたのは、やはり宣長であった。
彼は千載・新古今から破格の字余りが用いられるようになり、特に西行に顕著であるとみているが、非常に鋭い観察だ。

千載和歌集の選者は藤原俊成、新古今は後鳥羽院である。
特に後鳥羽院は西行の天才を愛しており、そのため西行の歌を積極的に採り、かつ自分も「まねてみた」のであろう。

たとえば千載集では、西行の歌で露骨に字余りなのは

もの思へども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身のちぎりかな

くらいしか見当たらないのが、これはまた変な歌だ。「もの思へども」でなく「もの思へど」でも同じだし、
その方が字余りにならない(「ものおもへど」でも六字のようだが、母音が連続する部分は一音とみなすから、五字相当である)。
わざと字余りにしている。京極為兼の歌のようだ。

俊成は勅撰集の選者として一つの先例を残した、という意味でのちの後鳥羽院を勇気づけるには十分だった。
新古今では

岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下見ず みち求むらむ

あはれいかに 草葉の露の こほるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原

小倉山 ふもとの里に 木の葉散れば 梢にはるる 月を見るかな

君去なば 月待つとても 眺めやらむ あづまのかたの 夕暮れの空

世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりをも をしむ君かな

思ひおく 人の心に したはれて 露分くる袖の かへりぬるかな

棄つとならば うきよをいとふ しるしあらむ 我が身は雲る 秋の夜の月

風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が心かな

月の行く 山に心を 送り入れて 闇なるあとの 身をいかにせむ

いかがすべき 世にあらばやは 世をも捨てて あな憂の世やと さらに思はむ

と、数多くある。
思うにこれは、後鳥羽院が自ら選んだからこんな大胆なことができたのである。
普通、字余りの歌というのは、臣下の身では遠慮があってなかなか採りにくいだろう。
しかし、好き嫌いのはっきりした後鳥羽院はじゃんじゃん採った。
そして自らも詠んだ。

秋の露や たもとにいたく むすぶらむ 長き夜あかす 宿る月かな

つゆはそでに ものおもふころは さぞな置く かならず秋の ならひならねど

そでのつゆも あらぬ色にぞ 消えかへる 移ればかはる 嘆きせしまに

などがある。いわば自薦の歌だ。後鳥羽院自身は、西行のような歌を、世の中にはやらせたかったのに違いない。

新古今には、まだ多様性があった。
万葉時代の古歌や、古今時代の歌人の歌などもふんだんに採られ、
題のない、題詠ではない歌が大半であり、歌物語ほどの長さの詞書もある。後世の勅撰集や私家集にはあまり見られない特徴だ。
歌物語の書き手がこの時代にようやく枯渇してきたしるしだ。

同時に定家や式子内親王などの同時代の歌も混ざる。
西行と後鳥羽院は新古今の代表的歌人ではあるが、代表的な歌とはいいがたい。
一方定家・式子内親王の方は後の二条派に直結する正当派である。
おそらく新古今的という形容は、定家や式子内親王やそれに類する歌に対するものであり、
西行・後鳥羽院の破格の歌をいうものではない。

時代が下ると、二条派の歌が主流となって、それ以外の「雑多」な歌は排除されるようになった。
西行・後鳥羽院的な歌風は忘れ去られようとしていたのだが、
それをむりやり復活させようとしたのが京極為兼であったろう。
つまり、為兼は、西行が始めたスタイルの方向へ和歌を急旋回させようとしたのだ。
それは為兼自身が二条派の本流に反発したためでもあったかもしれない。
和歌を政治の道具にしたとも言えるかもしれない。
同時に二条派が西行や後鳥羽院らの歌を積極的に好んではいなかった証拠なのではないか。

以前、字余りは京極派、為兼が最初にオーソライズしたのだと書いたことがあったが、それは誤りだった。
最初にオーソライズしたのは俊成で(だが、よく考えると、俊成が西行を好きだった可能性は低く、どこかから強い入選の圧力があったのかもしれない)、
それを後鳥羽院が発展させた。
しかし、定家はそちらへふくらませることを拒んだ。逆にしぼりこもうとした。
そこから後世の二条派の形というものが作られていったのであろう。
定家のやったことは一種の矮小化であったから、そこからはみ出そうという動きはいくらでもあった。
為兼はそれをわざとむきになってやったのに過ぎない。

江戸時代に入ると、もう人々は自分の創意工夫で和歌を詠む能力を失った。
ルールと作法が完全に確立してしまったのである。
だれもが定家以後のしっかりした二条派歌論に基づく歌を詠むようになった。
西行・後鳥羽院・為兼の歌は、歌論になじまない。
逸脱したものを愛好するからだ。
宣長が嫌った理由もそこではなかろうか。
宣長はしかし西行や後鳥羽院の歌をどう感じたのであろうか。

エルトゥールル

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。
エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。

英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬とともに移動した。
そこでルームセルジュークの王によって武将に取り立てられて、東ローマ帝国との国境を任地として与えられたという。
1230年ということは、フビライが死んでオゴデイがモンゴルのハーンになったばかり。
バトゥによる西征が始まるよりも前である。
あるいは、1230年というのは概数であって、
エルトゥールルはバトゥのヨーロッパ遠征軍の中にいたのかもしれない。

なんか面白いなあ。

だいたいこんな具合ではないか。
エルトゥールルはバトゥとともに西へ向かった。
1241年にオゴデイが死ぬと、エルトゥールルも故郷のメルヴに帰ろうと思った。
しかし、バトゥがカスピ海沿岸のサライを都としてキプチャクハン国を建てると、
エルトゥールルも帰国を諦めてアナトリアで同族のルームセルジュークに仕えることにした。
まあ、曖昧な伝承しかないそうだから、このくらい脚色してもよかろう。

1157年にサンジャルは死去する。
彼には女子しかいなかったことになっているが、
その娘の中の一人がエルトゥールルを産んだ、とかいう話にすると面白そうだな。
『セルジューク戦記』の続編で『オスマン戦記』でも書くかね。
たいへんだなあ。

ある意味、チムールみたいな人だな。
エルトゥールルとチムールを対比させながら書いてみると面白いかもな。
あ、時代がまったく違ってた。
チムールの方が百年後だわ。

セルジュークの系譜

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。
このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、
Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジュークの子孫といわれている。

アナトリア定住はセルジューク朝のスルターンであるアルプ・アルスラーンが東ローマ帝国をマラズギルトで破って以来進んだということになっている。

しかし、ほんとだろうか。
一番気になるのは、Israel、Yunus、Musa、Mikailなどの名前が、
セルジュークの家系の中で浮いているということだ。
Yunus はアラブ語で、日本語訳聖書的に言えば「ヨナ」のこと。
英語では Jonas など。
Musa はモーセのこと。
スレイマーンはソロモンのことだが、スレイマーンという名前は、
おそらくは中東のキリスト教からイスラム教に入ってアラブ語化したものであり、
ユダヤ人に限らず、アラブ人にも多く見られる名前である。
ユヌスもそうだろう。
セルジューク王族の名前が、トルコ語由来ではなく、
アラブ語由来のユダヤ系の名前であってもおかしくはない。
他にはダーヴード (David、ダビデのこと)などがある。
しかし、それはアラブ世界に侵入して、
首長がスルターンと呼ばれるようになった後のことのはずだ。
もし彼らがトゥルクメニスタンやキプチャクから来たのであれば、当時はトルコ語由来の名前でなくてはおかしいのではないか。

セルジュークは伝説の人であるし、その四人の息子も名前しか伝わってない。
しかし、Mikailの子のチャグリー・ベクやトゥグリル・ベクなどはかなり詳しい伝承が残っている。

思うにルームセルジュークの始祖はセルジュークの家系とは直接関係ないのではないか。
トルコ民族はすでにキプチャク平原に広く移住してきていた。
あの辺りは当時は人口密度はほぼゼロに近く、定住する都市というものもなく、
あったとしても千人を超えることはまれだっただろう。
だから、遊牧民族が侵入してきて、ここは俺の国だと宣言するだけで国が作れたのに違いない。
アナトリアに侵入してきたのもルームセルジュークが最初ではなかっただろう。

たまたまモスルやアレッポなどのシリアの都市を征服したアルプ・アルスラーンが、
義侠心によって、アナトリアに居た同族(母語を同じくする人々)の加勢をした。
それがたまたまローマに圧勝した。
それでトルコ人のアナトリアへの入植が加速した。

クタルミシュなどの、ルームセルジュークの祖が、セルジュークの子孫である必然性が何もないのである。
一方、アルプ・アルスラーンはおそらく本当にセルジュークの子孫であり、
ホラサーンからわざわざシリアまで遠征したのに違いない。
バグダードでアッバース朝カリフからスルターンの称号をもらったというのも、まずほんとうのことだろう。
史実の濃密さが違う。
一方クタルミシュの家系はただ名前が羅列されているのに過ぎず、
伝説以上のものではなかろう。
アルプ・アルスラーンを参戦させるためにセルジュークの子孫である、と主張するくらいのことはしたのかもしれない。

オスマンは、セルジューク朝の成立以後もキプチャク平原に残っていたオグズの出身で、
彼らの一族はモンゴル族に圧迫されて西へ移動したらしい。
後にアナトリアに侵入し、ここで他のトルコ民族を糾合したのだろう。

ユニバーサルスクロールではまった。

左手でトラックボールを操作して上下左右にスクロールして、右手でペンタブのペンを持って、
あと、intuos4のホイールでズームしようと思ったのだが、なかなかうまくいかない。

まず、ロジテックの setpoint 6.32 というのが、何度やってもインストールに失敗する。
仕方ないので、4.80という古いやつを拾ってきたのだが、新しいのがすでにインストールされているから、
インストールを終了しますと言って、インストーラーが動いてくれない。
windows の普通の方法でアンインストールしてもダメ。

で、ネットで検索してみると、同じことで悩んでいる人は割といるようで、
regedit で logitech で検索かけて全部消せとか言ってるのでやってみたら、
なんとか4.80をインストールできた。
6.xx というのは要するにオンラインインストールができるというだけで、
4.xx と大して違わないらしい、と思われる。

で、いろんなアプリケーションでためしてみたのだが、
ブラウザや表計算ソフトなどでは割とまともにこのユニバーサルスクロールってやつが機能するのだけど、
肝心のグラフィックソフトでは、スクロールして欲しいときに領域を移動してしまったり、
マウスホイールではズームしてくれるのにintuosのホイールではしてくれなかったり、
と、なかなかうまくいかない。
こういう操作の複雑なやつの場合きちんとチューニングできないと結局使えないということになってしまう。
でも、それなりに便利なのでトラックボールとペンタブの両刀遣いでこれからやっていこうとは思う。
ちゅうかね、ワコムがトラックボールごと開発して、統合的にチューニングできるようにしてくれんかね。

なるほどなあ。
ユニバーサルスクロールは矢印キーにバインドされているんだな。
だからexcelやfirefoxなどでは思ったように動作するが、
photoshop なんかだと、矢印キーは「移動」に割り当てられていて、
「スクロール」には割り当てられてないんだなあ。
なんかやっかいだな。

scroll lock キーを押してもだめ。

うーん、どうやら、ズームとパンは、
トラックボールを使うよりは、左手でショートカットキーを使う方がましな気がしてきた。
ズームは Ctrl + と Ctrl – で、
パンは H。
トラックボールは純粋に矢印キーの代わりに使うのが良さそうだ。
でもそれなら最初から矢印キー使ってればいいじゃん、という話になりそうだなあ。