プロイセン王国

[プロイセン](File:Prussiamap.gif)。
[プロイセンの領土拡張2](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap2.gif)。
[プロイセンの領土拡張3](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap3.gif)。
[ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国](http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Brandenburg-preussen-1701-1806.png)。
[ライン川](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rhein-Karte.png)。

昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。
東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。
プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、
プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。

神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、
ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。
ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、
ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、
フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。
プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。
一躍大国となる。
1862年にはビスマルクが宰相となる。
イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。
イタリアに続けという気持ちはあっただろう。

1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。
つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。
ビスマルクすげえ。

[プロイセン部族](http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Prussians)。

[Königreich Preußen](http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nigreich_Preu%C3%9Fen)。

宋の改革

安史の乱が755年、
王仙芝・黄巣の乱が874年、
907年唐滅亡。
53年間の五胡十六国時代を経て、
960年には趙匡胤による宋王朝の成立。

唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。

一方で日本は1068年に後三条天皇即位。
おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、
世界最強の帝国となったのを見て、
日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、
と思ったに違いない。
或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、
大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。

後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には
(院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、
ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。
後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。
公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。
国家の体をなしていない。
これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、
当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。

後白河法皇による長すぎる院生時代には、
悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。
しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、
結局日本は長い長い封建時代へ突入する。
中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。

頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。
実にかわいそうな人たちだ。
もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。
しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。
その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。
そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。
保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、
南北朝、
戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、
やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。

案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。
神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。
今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。
なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。
同じことは日本にも言える。

生ビール

最近生ビールをよく飲むようになったのだが、最近はどの店もどの銘柄もほとんど外れなくうまい。
以前生ビールは店によって当たり外れが大きくて、
うまい店はうまいのだが、
まずい店は、すえているというか、酸化しているというか、いたんでいるというか、
すっぱすぎたり炭酸がきつすぎたりとか、水っぽかったりとか、
とにかく、何と表現したらいいかわからんのだが、まずいのである。
それに比べれば、瓶ビールはほぼいつも同じ味で、安心して飲めるから、
瓶ビールばかり飲んでいたことがある。

そういうことを店の人と話していたが、最近ビールサーバーを交換したという。
九年くらい使っていたが、変えてからあきらかにおいしくなったという。
なるほど、するとまんざら私の味覚もおかしくないのかなと思った。

ビールサーバーというものにも技術革新があるのだろう。
昔は毎日ちゃんと洗浄しないとすぐ味が落ちたりした、
要するに店の人がずぼらだったりいい加減だったりすると生ビールはどんどんまずくなってしまう。
逆に生ビール注ぎの達人が注いだビールはとてつもなくうまかったり。
今はたまに業者の人が来てメンテナンスするだけで誰でもそれなりにうまいビールが出るのではなかろうか。
まあ、文明というのはなんでもそんなもんだわな。

反原発デモ

国民の一人として無関心ではいられないのだが(笑)、
坂本龍一とか大江健三郎など引っ張り出してくるところからしてもう自分的には参加する気がうせる。
坂本龍一の発言は普段の彼の言動と大差ないものであり、
はっきり言ってどうでもよい。
彼の問題発言は今に始まったことではない。大江健三郎も。
あのへんを担ぎ出してくれば左翼的には広報的にも集客的にも効果覿面というわけだろう。

津波で死んだ人はたくさんいる。
熱中症で死ぬ人もたくさんいる。
医療機関など電気を止められないところもたくさんある。
しかし今のところ被爆で死んだ人はいない。
これから出るとか長期的には影響があるなどと言っているが、
当面電力確保のための原発稼働というのは、まあいろいろあるかしれんが、妥当な判断だと思う。

原発廃止は代替エネルギーなどの問題と絡めて長期的に解決すべきことだ。

お祭り騒ぎしたいやつらは好きにすればよい。
むしろ野田総理がこんな中でいちいち的確な政治判断が出来ているのはすごいと思う。
日本の首相がいつもこんな具合に腰が座っていれば我々も落ち着いていられるのだが。

楚辞の屈原の詩を読むと、「朕皇考」という単語が出てきてこれが死んだ自分の父親を意味するという。
また「皇」一字でも死んだ父を表すようだ。
「朕」がかつて一般的な一人称だったのはまあよいとして、「皇考」がなぜ死んだ父となるのか。

角川新字源によれば「皇」は燭台の上で火が輝くさまを表すそうで、要するに輝かしい(煌かしい、煌は皇と同根)、
というのが原義であるらしい。
「考」はもともと長寿の老人という意味であると言う。
また礼記に「父を皇考と曰う」とか「曾祖の廟を皇考廟と曰う」などという記述があるという。
つまり「皇考」とは立派な長老とか祖先のことをもとは言っていたらしい。

また「皇辟」は礼記によれば死んだ夫の敬称であるという。

「皇祖」「皇宗」なども一般人が自分の祖先のことを言っていたのだけど、
後世に皇族だけが用いるようになった、ということではなかろうか。